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利用者:熊野宗治

ウィキペディア とは

ある記事を初めて執筆しようとしている。右も左も分からぬ、まったくの初心者である。ウィキペディアに「参加する」という意味が何のことか、すぐにはピンと来なかった。戸口を潜ってみて、ウィキペディアはその先輩参加者たちの労によって保たれ、信頼されることが分かってきた。

このシステム内をさまよっているとき、ウィキペディアに関する批判文も読んだ。それで私はウィキペディアに信頼を失ったかといえば、そんなことはない。次のような文に出会った。


以下『ウィキペディアへの批判』から転記

――立教大学教授の細井尚子は2011年の他教授・学生との座談会「学習ツールいまむかし」の中で“ウィキは文責もとらない。教員としては、やっぱりそういうのが問題だと思いますね”と批判。なお同座談会では学生からも一様に手厳しい評価が下っている。曰く“書籍とかを見ると、全然違う内容のことが書いてあったり、逆のことが書いてあったりする場合も多々ある”、“内容が浅いと感じています。今から調べるものの概要をとらえるというぐらいでしか使わないと思います。本当に論文を書くというレベルになると、ウィキペディアは使いものにならない”、“ウィキペディアを使うときは、芸能人のことを調べるときだけ”

――成城大学教授の指宿信は2012年、出版社サイト上の連載コラムにおいて“Wikipediaそのものの構想は素晴らしく、「知の共同体、知の集積庫」であり、誰もが利用できるオープンアクセスの見本”と高い評価を下しつつも、官公庁からの編集が相次いだことを引き合いに出し“Wikipediaのような匿名サイトの場合には、あたかも中立的な立場を装いながら一定の見解のみが伝えられてしまうという危険性がある”と指摘。さらに“実はオープンであればあるほど情報の信頼性が損なわれていくという相関関係にあることも見逃せない”というジレンマも指摘している。

――森林総合研究所の明間民央は2008年の雑誌記事の中で“結論から言えば、「ウィキペディアの情報は信頼できる」というのは間違いである”とし、出典なき記事の信頼性や間違い、古い情報がそのまま放置されている問題を指摘。一方で“ウィキペディアの考え方自体は悪くない”とも評価している。――


ウィキペディアを私はこう見る

投稿記事に論文に見られるような“査読”のないことは、締め出されるべきではない広い知識が網羅される、という利益がある。 私がウィキペディアを利用するのは、自身が著述する論拠として使用するためではない。ウィキペディアに記載されている多くの記述から、自らの考慮を確かめ、視点を変えてみて修正し、より適正と考えられる筋を探すためである。したがって、ウィキペディアに同一テーマで相反する記事が書かれていても、そして、仮にどちらかが誤っているとしても、どちらも参考にすることができる。最終的に自分で判断する。

このようにウィキペディアには他の事典にはない素晴らしい特質をもつ。査読には良い効果と悪い効果があるが、ウィキペディアでは悪い効果が取り除かれている。査読がないからといって、信頼に値しない野放図なことになっているかといえば、そんなことはない。厳格な倫理を守ろうとしているし、真剣に執筆されたものが載せられているからである。むしろ、自浄能力を持っていると思う。

私は別の私的な記述文の中に、ウィキペディアから参照することがよくある。その場合にはウィキペディアが出典であることを明示するようにしている。 ウィキペディアに限らず、百科事典で調べたことを頭から信用しない。百科事典は研究論文集とはちがう。古い時代の継承であるために、現在では誤りと見るべきこともある。しかし、古い時代の記事を外してゆけば、百科事典ではなくなる。現在では新しい解釈がされていることを注記すればよいだろう。絶対的に正しいことしか書かれていないなら、新しい事実は載せられないし、見直されるべき事柄なのにそのまま放置されることがある。たとえ現在正しくないとされても、真剣に調べた結果によればそうではないとき、この新しい事実を付け加えることは価値あることだと思う。

記述されていることが正しいとするのか、あるいは正しくない気がするためにそれとはちがう解釈にして記憶するのかにしても、それはその本人(私自身)の解釈に任じることにしている。事典にそういう接し方をする限り、役立てられると私は信じている。  2016.11.30

略歴と自己紹介(利用者:会話から移記)

略歴

長崎県五島、福江市 にて1941年6月生

長崎大学 土肥重政先生の下、物理学を学び
広島大学 佐藤重夫先生の下、建築学を学ぶ
著書:『幻子論』2007新思索社、『アインシュタインの嘘とマイケルソンの謎』2008新思索社
未刊原稿:『光速の背景』約300ページは未刊で、手を挙げてくださる出版社をお待ちしているところです

自己紹介を兼ねて

私は親しい数名の友人たちあて、気まぐれに『筑波からの不定期便』というのを発送しています。今年最初の『不定期便』には、ウィキペディアのことに触れており、私のおおよその経歴も、そこに書いたのでそれをここに書き写し、私の自己紹介に代えさせてください。

不定期便第123号(再開12号)

――新年 おめでとうございます 2017年

物理学の壁

ウィキペディアに載る
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2016年、『光速の法則性とマイケルソン実験』をウィキペディアへ上げることに、前便で間に合いました。百科事典の一項目として上げたものであって、論文ではありません。

学会誌への論文発表の試みは「特殊相対論により完全に解決されている」として2011年5月、拒否されました。相対論には一切触れない内容であったにもかかわらず、「重要なことは時間の進み方は動いている座標系によって異なる」と添えられていて、あなたの論文は基準に達していないとされました。その基準とは、①内容が新しく、②物理学に対して重要な貢献をするもの、と記されています。まさしく両方とも満たしていると本人は思うのですが。 そして、ジャーナル誌では、先便6、7号で詳しく述べましたように、「当誌にふさわしくない」「積極的になれない」として拒否されました。どこに誤りがあるという指摘はありません。 そして、論文という形ではこの発表は達成しえないことを10号で私なりに証明しました。

もし私がこれきり諦めれば、この人類にとって重要な自然法則は永遠に闇へ葬られることになります。かと言って、小生の私的なホームページでは、見に来てくれる人に限界があります。

大多数の、そして、どんな分野のどなたも、容易に見ることのできるウィキペディア。世界中で公開されているウィキペディア。まるでコンビニやスーパーマーケットのように、手軽に手にとってみられます。私に残された最も幸いなメディアへ導かれることになったのです。

ここでは私の名こそ伏せられますが、あらゆるかたが偏見なくご覧になるでありましょう。ここで発表するのは自然法則であって、私の独自理論ではありません。元々、自分の名を売るために、これほどの年月をかけて頑張って来られるものではありますまい。神からの使徒としてこの役を果たさなければなりませんでした。 そしてそれは、ほとんど誰も読まない学会誌やジャーナル紙を凌ぐ、最良の形で実を結びました。たぶん、神の導きであって、諸君の励ましによって完遂することができたのだと思います。諸君、ありがとう。これで私の荷が下ります。

私はウィキペディアを最初に開始した首脳であるジミー・ウェールズ氏とラリー・サンガー氏、またそれへの協力者たちの勇気と行動力を心底尊敬します。そして我々の発表が立派な形となって、ここに掲載されたことを何よりも名誉に思います。

幸いしたのは私の特別な境遇でした。高校物理の教員を経て進路を変えました。当時、特殊相対性理論という、極めて難しい“最高の物理学”がアインシュタインによって完成されたと聞いたとき、自分にはもう物理学でやることはないと考え、理学と芸術の中間にある建築へ進んだものです。このおかげで、軌道の敷かれた大学を通らずに済みました。

後年になって、ビッグバンという、これも眉つばな説が放送大学などから盛んに流されているのを見るにつけ、再び相対論不審に火が着きます。こんな出鱈目があるものか。 わたしは『幻子論』と『アインシュタインの嘘とマイケルソンの謎』を著し、これに興味を示された新思索社の小泉孝一社長が発刊してくださいました(表題は草稿時から変わっています)。その原稿を書くうちに、さらなる謎、光はどこを通るのか?にぶつかり、考え続けることになります。MGP実験に出逢い、エリック・J・ターナー著『ビッグバンはなかった 上』(林 一 訳、河出書房新社) や フィリップ・M・カナレフ著『それでもアインシュタインは間違っている』(徳間書房) に出逢いました。MGP実験がわたしに稀運の示唆をくれました。 ある空間での重力場運動速度は、この場をつくる全ての星たちの運動速度の和であろうと思いつきながら、なぜ現実には無限大に発散しないのか?について疑問が残っていました。小生の二著のあとの方にも、それが解かれていません。今や、それは解かれました。第二法則の完成ですべてが解けました。小生は第二著にこれを入れたいと願っています。(2016.12.27)

その救いの主である小泉氏は、まことに残念ながら昨年(2016.2)、天に召されました。今はご冥福を祈るばかりです。心を通じてこのことをあの方にご報告したいものです。

けれども、これが終わりではありません。今やっと物理学が見直されるべきスタートラインについたばかりです。 (2016.1.7)