コンテンツにスキップ

利用者:田幸/figure/伊藤みどり

1992年アルベールビルオリンピック銀メダリストとなる。1989年世界選手権では初優勝。

ジャンプの伊藤として世界的に名前が知られ、全日本選手権8連覇、女子選手として世界で初めて公式戦で3回転-3回転の連続ジャンプやトリプルアクセル(3回転半)を成功させた。1989年、「もっとも高得点をとったフィギュアスケーター」としてギネスブックに掲載。2004年3月25日、日本人初の世界フィギュアスケート殿堂入り。

人物[編集]

伊藤の両親は伊藤が小学1年の時に離婚し、母親に引き取られている[1]

4~5歳の頃にスケートを始め、6歳から本格的なスケート競技に参加。母親は伊藤にスケートを続けさせるために早朝から深夜まで働きつづけたが次第にそれではまかないきれなくなり、コーチに「スケートを止める」と言ったこともある(みどりと一緒にならっていた実妹はこのときスケートをやめた)。しかし、その才能を惜しんだ山田満知子コーチは当時10歳の伊藤を自宅に引き取ってスケートを続けさせた。

1989年に世界チャンピオンとなった伊藤は、1998年2月に開催された長野オリンピックの実現でも重要な働きをした。1991年6月の国際オリンピック委員会総会に振袖姿で出席して、現役選手の立場でオリンピック招致を訴えるスピーチを英語で行った。

2004年に元劇団四季所属のミュージカル俳優の八巻大と結婚したが、2006年に離婚[2]。2009年9月に一般人男性と再婚した[3]

来歴[編集]

天才少女出現[編集]

4~5歳の頃にスケートを始め、6歳から本格的なスケート競技に参加。中日スケートクラブで山田満知子コーチに師事。1980年に、小学校4年生で全日本ジュニア選手権で優勝し、同じ年にはシニアの大会全日本フィギュアスケート選手権で3位となり、「天才少女スケーター」と呼ばれるようになる。 1981年世界ジュニア選手権では、史上最年少の日本代表選手に選出された。

1984年のサラエボオリンピックは、14歳の伊藤は年齢制限で出場資格が無かったが、日本スケート連盟は伊藤を五輪へ出場させるため、「オリンピック開催年に世界ジュニア選手権で3位以内に入れば資格を与える」という特例を活用し、1983年の世界ジュニア選手権を札幌に招致。伊藤は3位となる。しかし、翌1984年の全日本選手権では、規定(コンパルソリー)で10位と出遅れ、ショートプログラムでは得意のダブルアクセルで転倒するなどのミスで5位、フリースケーティングで1位と追い上げるも加藤雅子に次ぐ総合2位に終わった。日本人女子フィギュアの五輪と世界選手権の出場枠がそれぞれ1名であったことから、加藤は五輪へ、伊藤は世界選手権への派遣が決まり14歳での五輪出場は果たせなかった。1984年オタワの世界選手権に初めて出場し、7位に入賞した。

カルガリー五輪で5位入賞[編集]

1985年、中学校3年生で全日本選手権で初優勝。以後、1992年の神戸大会まで優勝を重ね、渡部絵美と並ぶ史上最高8連覇を達成する(後に1996年の横浜大会においても優勝したため、通算9回優勝)。この年の世界選手権では、規定競技前日に足首を骨折し棄権した。

1988年2月に高校3年生で出場した、カナダで開催のカルガリーオリンピックでは、苦手の規定では10位と出遅れたものの、ショート・フリーともにノーミスの演技を披露。特に女子シングルのフリーでは、フリーでは5種類の3回転ジャンプを7度決め、思い通りの演技にガッツポーズを見せた。自国カナダのエリザベス・マンリーと彼女の二人だけが、カルガリーの観衆からスタンディングオベーションを受けた。技術点では5.8-5.9点と出場選手中最高点をマークし再びスタンディングオベーションを受ける。芸術点は5.5-5.7点(芸術点だけで5位に相当)と低く抑えられたため、観客からはブーイングが起こった[4]ほどである。結果、フリーだけで3位、総合5位入賞を果たした。なお5位入賞は、1964年・インスブルック大会福原美和の5位と並んで、当時冬季五輪のフィギュアスケート日本代表選手では24年ぶりの、最高位タイの成績だった(6位以内の入賞は1980年・レークプラシッド大会の渡部絵美以来8年ぶり)。

世界選手権で初優勝[編集]

1988年、愛知県のフィギュアスケート選手権で、競技会では女子選手として世界で初めてトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を成功させる。 1989年1月の全日本選手権では、規定で初めてトップに立ち(この年から規定の課題が3→2課題になっていた)5連覇達成。 1989年3月、大学1年生として出場した世界選手権パリ)では、規定で自身最高の6位につけ、オリジナル・プログラム(OP)では予定より難度を落としたプログラム内容で首位となり、暫定3位に浮上。そしてフリースケーティングでは、世界選手権で女子史上初のトリプルアクセルの着氷を成功させて、見事に初優勝。日本人初、さらにアジア人としても初のフィギュア世界チャンピオンとなる。この時の技術的要素の評価で、「完全無欠」とする6.0満点を、OP(規定要素)では9人中2人、フリー(テクニカルメリット)では9人中5人がつけて大きな話題となった。

選手名 規定 OP FS 総合
伊藤 6
(2.4)
1
(0.6)
1
(1.0)
1
(4.0)
ライストナー 1
(0.4)
3
(2.4)
2
(2.0)
2
(4.8)
トレナリー 2
(0.8)
2
(1.2)
3
(3.0)
3
(5.0)


1989年NHK杯では、自身初の芸術点6.0を獲得。 1990年の世界選手権(ハリファックス)では、規定で10位と出遅れたのが致命的となり、OP(オリジナルプログラム)とフリー(サルコウがダブルになるミスがあったもののテクニカルメリットで6.0満点を3個獲得)で、ともに1位と追い上げたが総合2位に終わり、惜しくも2年連続の優勝はならなかった。

1991年の世界選手権(ミュンヘン)は、伊藤が不得意としていた規定が廃止となり、2年ぶりの優勝が期待された。しかし大会1ヶ月前に右あご下の唾液を分泌する部分にできた結石を除去する手術のため入院。大会では、OP直前の6分間練習中にレティシア・ユベールと接触して負傷し、さらにOPではコンビネーションジャンプのファーストジャンプのトリプルルッツは成功したものの、続くセカンドジャンプのダブルトゥループの際にリンク外に飛び出すアクシデントがあり3位となり、フリーでは前半の3つのジャンプにミスが生じ、総合4位に終わった。翌シーズンのオリンピック出場枠を3から2に減らしてしまった。

選手名 規定 OP FS 総合
トレナリー 1
(0.4)
5
(3.0)
2
(2.0)
1
(5.4)
伊藤 10
(4.0)
1
(0.6)
1
(1.0)
2
(5.6)
クック 3
(1.8)
3
(1.2)
4
(4.0)
3
(7.0)
ヤマグチ 9
(3.6)
2
(1.2)
3
(3.0)
4
(7.8)
レベデワ 2
(0.8)
4
(2.4)
5
(5.0)
5
(8.2)


7年後の1998年2月に開催された長野オリンピックの実現でも重要な働きをし、 1991年6月の国際オリンピック委員会総会に振袖姿で出席して、英語でオリンピック招致を訴えるスピーチを行った。

アルベールビル五輪で銀メダル[編集]

1991年11月のラリック杯は、翌年のアルベールビルオリンピックで使用するリンクで開催され、オリンピックの前哨戦としてトップクラスの選手が出場した。伊藤のOPでは、コンビネーションジャンプのファーストジャンプのトリプルアクセルの着氷を乱してしまう。しかし、フリーではトリプルルッツ-トリプルトウループとトリプルアクセル-ダブルトウループのコンビネーションジャンプを完璧に決め、途中トリプルフリップとトリプルループにミスはあったものの、最終的には6種類のトリプルジャンプを成功させ、技術点で6.0満点を1つ獲得して1位となり、優勝する。この大会の優勝で、伊藤には翌年のオリンピックの金メダルの期待が高まった。この大会のフリーの直前練習では、トリプルアクセル-トリプルトウループのコンビネーションジャンプを成功させた。

伊藤自身の選手生活の集大成となった1992年のアルベールビルオリンピックでは、オリジナル・プログラムのコンビネーションジャンプのファーストジャンプを、トリプルアクセルからより確実性の高いトリプルルッツに変更して挑むも転倒。結果4位となり、自力での金メダルは絶望的となってしまった。しかしフリー演技で、前半の2つめのコンビネーションジャンプのファーストジャンプであったトリプルアクセルに失敗しながらも、体力的に大技は困難とされる残り1分の後半に再度トリプルアクセルジャンプに挑戦し見事着氷に成功。日本人フィギュアスケート選手では初の銀メダルを獲得した。エキシビションの際、「レイン・ストーリー」と「レ・ミゼラブル」のテープを名古屋に忘れてきていたため、NHKの衛星回線を使ってアルベールビルまで送ってもらった。

金メダルを獲得したクリスティー・ヤマグチに対し、続く世界選手権が雪辱戦となると目されたものの、アルベールベル五輪からの帰国後、風邪の悪化による体調不良により出場を辞退。本大会がアマチュア最後の試合となった。

同年4月25日に引退会見を行い、6月17日にプロ転向を正式に表明した。6月28日に名古屋スポーツセンターでさよなら公演「アイスフェスティバル ミドリイトウ フォーエバー」を行い、アマチュア生活に別れを告げた。

プロ転向後・長野五輪最終聖火ランナーに抜擢[編集]

1992年バルセロナオリンピックではテレビのレポーターとして現地に赴いた。1993年に世界プロフィギュア選手権大会で優勝。1994年同大会で2位。1995年、第10回インターナショナル・プロフィギュア選手権(チャレンジ・オブ・チャンピオン)優勝するなど、プロスケーターとしても世界の第一線で活躍を続けた。プロフィギュア選手権でもトリプルアクセルを幾度と無く披露、これで伊藤はアマチュア(世界選手権とオリンピック)、プロ両方の大会でトリプルアクセルを決めた唯一の女子選手になる。

1995年には長野オリンピック出場を目指して一時アマチュアに復帰。迎えた翌1996年1月の全日本フィギュアスケート選手権では26歳でトリプルアクセルを成功させ、4年ぶり9度目の優勝を果たした。しかし5年ぶり8回目の出場だった同年3月開催の世界選手権は、体調不良もあって7位と不本意な結果に終わった。1996年11月に再びアマチュアを引退し、長野五輪への出場を断念した。1998年2月7日に行われた長野五輪開会式では、最終聖火ランナーに抜擢され、日本には1972年2月の札幌オリンピック以来、26年ぶりの聖火を灯す大役を担った。

現在、グランプリシリーズの解説や、テレビ番組のゲスト出演、新聞・雑誌のコラム等の執筆、フィギュアスケート入門DVDソフトの出演、YAMADAグループのインストラクタ-(アドバイザー)などで活躍している。

技術・演技[編集]

規定[編集]

規定演技が苦手で、プログラムが始まる時には10位~20位の順位から逆転しなければならなかった。


表現力・芸術性[編集]

スケーティング・スピン技術[編集]

女子選手では考えられないほどのスピードに乗った切れ味よいスケーティング。複雑で切れの良いステップシークエンス、軸ブレの無いスピードのあるスピン、スピンの姿勢の美しさ。

ジャンプ技術[編集]

伊藤の特徴としてジャンプ技術の高さが挙げられる。6種類全ての3回転ジャンプを正確なエッジでしかも回転不足になる事無く跳ぶことのできた非常に数少ない女子選手の一人である。

1980年代半ば、伊藤のジャンプを科学的に分析した東京大学体育学研究室の吉岡伸彦(1994年当時)によれば、最高速度(ジャンプ踏み切り時)は秒速8m、ジャンプの高さ約70cm、滞空時間約0.73秒、着氷時に片足に掛かる荷重約250kg。ジャンプ時のある時点での速度は男子をも凌ぐといわれた。[5]また、ジャンプの切れ、高さだけでなく、ジャンプを降りてからのスケーティングの流れ、スピードも一級品であった。

ステップから直ちに行うジャンプ、腰に手を当ててのダブルジャンプ、イーグルからのトリプルループやトリプルジャンプ直後のデスドロップなど、最高難度の技を駆使していた(ウォーレイやトウウォーレイのように主要な6種のジャンプに数えられない種類のジャンプも飛んでいる)。

1992年アルベールビルオリンピックのSPにおいてトリプルルッツ転倒後助走なしでダブルトウループを垂直に跳んだ。

トリプルアクセルへの挑戦[編集]

伊藤がトリプルアクセルを跳ぼうとした当時、女子選手はダブルアクセル(二回転半)が限界で、男子選手でも世界のトップクラスの数名しかトリプルアクセル(三回転半)を競技会で使うことは無かった。1984年春に練習を開始、6月6日の練習で一旦完成するが競技会では成功せず、成長期を迎えたことで怪我のリスクを考えて練習を中断した。カルガリー五輪後の1988年5月に練習を再開。競技会で初めてトリプルアクセルに成功したのは、同年10月に地元名古屋で開催された愛知県選手権だった。 そして、翌年の世界フィギュア選手権で成功させると、伊藤以外の女子選手もトリプルアクセルに挑むようになる。しかし、1992年のアルベールビル五輪までにトリプルアクセルを成功させた女子選手は、トーニャ・ハーディングだけだった。

その後、国際大会でトリプルアクセルを成功させた女子選手は、伊藤から十年後の中野友加里リュドミラ・ネリディナ(2002年、スケートアメリカ)、浅田真央(2004年、ジュニアグランプリファイナル)だけで、伊藤とハーディングを含めて五人しかいない。また2010年現在、伊藤以外にオリンピックでトリプルアクセルを成功させた女子選手は、18年後のバンクーバーオリンピックでの浅田真央のみである。

女子シングルの技術的先駆者[編集]

女子フィギュアスケート界に数々の金字塔を打ち立てた。伊藤の傑出したジャンプ技術は、それまで優雅に氷上を舞う芸術だったフィギュアスケートを、鍛え上げられたアスリートが技を競い合うスポーツへと変革させた。

以下は、女子選手としては初成功となったジャンプコンビネーションである。

  • トリプルトウループ-トリプルトウループ[世界ジュニア選手権では1981年オーベルストドルフ、世界選手権では1984年オタワ、五輪では1988年カルガリー[6]
  • ダブルループ-トリプルループ[世界ジュニア選手権では1983年札幌、世界選手権では1984年オタワ、五輪では1988年カルガリー
  • トリプルルッツ-トリプルトウループ[国際大会では1991年ラリック杯NHK杯

以下は、女子選手としては初めて成功した演技構成要素である。

  • トリプルアクセルを除く5種類のトリプルジャンプ[世界ジュニア選手権では1981年オーベルストドルフ、五輪では1988年カルガリー
  • トリプルアクセル[公式戦では1988年愛知県選手権、国際大会では1988年NHK杯、世界選手権では1989年パリ、五輪では1992年アルベールビル[7]
  • トリプルアクセルを含む6種類のトリプルジャンプ[公式戦では1988年全日本フリースタイル、世界選手権では1989年パリ

成績[編集]

詳細[編集]

主要な国際競技会の結果(順位)を表す。

大会名 規定 SP FS 結果
1981年世界Jr.選手権(ロンドン) 20 7 1 8
1982年世界Jr.選手権(オーベルストドルフ) 19 1 1 6
1983年世界Jr.選手権(サラエヴォ) 欠場
1984年世界Jr.選手権(札幌) 13 1 1 3
1984年世界選手権(オタワ) 16 4 4 7
1985年世界選手権(東京) 欠場
1986年世界選手権(ジュネーブ) 19 8 5 11
1987年世界選手権(シンシナティ) 14 3 4 8
1988年オリンピック(カルガリー) 10 4 3 5
1988年世界選手権(ブダペスト) 14 3 3 6
1989年世界選手権(パリ) 6 1 1 1
1990年世界選手権(ハリファックス) 10 1 1 2
1991年世界選手権(ミュンヘン) - 3 4 4
1992年オリンピック(アルベールビル) - 4 2 2
1992年世界選手権(オークランド) 欠場
大会名 予選 SP FS 結果
1996年世界選手権(エドモントン) 1 6 7 7

プログラム[編集]

シーズン SP FS EX
1995-96 火の鳥
作曲:イーゴリ・ストラヴィンスキー
シンデレラ
作曲:セルゲイ・プロコフィエフ
誰も寝てはならぬ
作曲:ジャコモ・プッチーニ
1991-92 タンゴ・ジェラシー
作曲:ヤコブ・ゲーゼ
エスパーニャ・カーニ
作曲:パスカル・マルキーナ・ナロ
ピアノ協奏曲第1番 第1楽章
作曲:セルゲイ・ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第1番 第1楽章
ピアノ協奏曲第2番 第3楽章
作曲:セルゲイ・ラフマニノフ
悲しき雨音
演奏:ザ・カスケーズ
雨に唄えば
作曲:ナシオ・ハーブ・ブラウン
虹の彼方に
作曲:ハロルド・アーレン
オン・マイ・オウンミュージカル「レ・ミゼラブル 」より)
作曲:クロード・ミシェル・シェーンベルク
1990-91 ワルソー・コンチェルト(映画「戦雲に散る雲」より)
作曲:リチャード・アディンセル
ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 第1楽章
作曲:ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
パガニーニの主題による狂詩曲 第18変奏
作曲:セルゲイ・ラフマニノフ
交響詩フィンランディア
作曲:ジャン・シベリウス
悲しき雨音
演奏:The Cascades
雨に唄えば
作曲:ナシオ・ハーブ・ブラウン
虹の彼方に
作曲:ハロルド・アーレン
衣装:レインコート
小道具:傘

オン・マイ・オウンミュージカル「レ・ミゼラブル 」より)
作曲:クロード・ミシェル・シェーンベルク
1989-90 アンヴィル・コーラス ジャズアレンジver.
作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ
編曲:ジェリー・グレイ
演奏:グレン・ミラー楽団
メモリーズ・オブ・ユー
作曲:ユービー・ブレイク
演奏:ベニー・グッドマン
シェヘラザード
作曲:ニコライ・リムスキー=コルサコフ
羊蹄の祭り[8]
作曲:桜田泰啓
ミッション:インポッシブル
作曲:ラロ・シフリン
衣装:
小道具:シルクハット、スティック

オン・マイ・オウンミュージカル「レ・ミゼラブル 」より)
作曲:クロード・ミシェル・シェーンベルク
1988-89 華麗なるタンゴ[8]
作曲:脇田真司
ア・クラシカル・ロック
作曲:フランク・ミルズ
ピアノ、ロック・バンド、オーケストラのための協奏曲第1番
作曲:フランク・ミルズ
サムホエア・アウト・ゼア(映画「アメリカ物語」より)
作曲:ジェームズ・ホーナー
コンガ
演奏:グロリア・エステファン&マイアミ・サウンド・マシーン

トリプルアクセル
1987-88 羊蹄の祭り[8]
作曲:桜田泰啓
アダージョ(バレエ「海賊」より)
作曲:リッカルド・ドリゴ
コーダ(バレエ「グラン・パ・クラシック」より)
作曲:フランソワ・オーベール
アダージョ、コーダ(バレエ「パキータ」より)
作曲:レオン・ミンクス
時間旅行
作曲:松田聖子
小道具:バラの花束

アプリコット・ブリーズ(アルバム「アラミス'78」より)
作曲:矢野顕子
スイート・ドリーマー[8]
作曲:宝田葉子
1986-87 Violet's Fantasy、Hart Tries to Escape(映画「9時から5時まで」より)
by チャールズ・フォックス
マジカル・シティ[8]
作曲:山下美香
アプリコット・ブリーズ(アルバム「アラミス'78」より)
作曲:矢野顕子
1985-86 チロリアン・フェアリー[8]
作曲:山下美香、山下千尋
マジカル・シティ[8]
作曲:山下美香
1984-85 スイート・ドリーマー[8]
作曲:宝田葉子
アイス・パレス[8]
作曲:角田季子
スイート・ドリーマー[8]
作曲:宝田葉子
1983-84 (ヤマハ提供曲 ?) ライトニング・アタッカー
作曲:宇崎竜童
(ヤマハ提供曲 ?)
小鳥屋の店
作曲:M.L.レイク
アニメ「エースをねらえ!」主題歌
作曲:三沢郷
1982-83 ライトニング・アタッカー
作曲:宇崎竜童
1981-82 Violet's Fantasy、Hart Tries to Escape(映画「9時から5時まで」より)
by チャールズ・フォックス

年表[編集]

出来事 関連事項
1969年 8月 名古屋市で生まれる
1972年 2月 札幌五輪 ベアトリクス・シューバ優勝
7月 ショートプログラム採用 規定4割SP2割FP4割
11月 渡辺絵美(13歳)全日本選手権初出場V1 
1974年
1975年 スケートを始める
1976年 2月 インスブルック五輪 ドロシー・ハミル優勝(3回転を跳ばない最後のスケーター)
1978年 佐野稔 日本初のアイスショー『VIVA! ICE WORLD』を開催
1980年 3月 全日本Jr.選手権優勝
4月 全日本Jr.フリー選手権優勝
10月 全日本フリー選手権 3位
12月 世界Jr.選手権8位
12月 全日本選手権3位
2月 レークプラシッド五輪
6月 渡部絵美 引退
1981年 10月 全日本フリー選手権優勝
11月 右足骨折
1982年
1983年 12月 世界Jr.選手権3位
1984年 1月 全日本選手権2位
3月 世界選手権初出場7位
2月 サラエボ五輪 トービル&ディーン オリンピック初の全員からの芸術点6.0
1985年 1月 全日本選手権初優勝
1986年
1987年
1988年 2月 カルガリー五輪5位 3月 カタリナ・ビット引退。
7月 規定の課題数が3課題から2課題へ
1989年 3月 世界選手権優勝 11月 ベルリンの壁崩壊
1990年
1991年 6月 国際オリンピック委員会総会で長野五輪誘致のスピーチを行う
11月 ラリック杯1位
7月 規定廃止
12月 ソ連崩壊
1992年 1月 全日本選手権8連覇
2月 アルベール五輪銀メダル
4月 引退、プロ転向
1993年 12月 世界プロフィギュア選手権大会 優勝
1994年 2月 リレハンメル五輪
1995年 インターナショナル・プロフィギュア選手権 優勝
6月 長野五輪出場に向け復帰
1996年 1月 全日本選手権9度目の優勝
3月 体調不良のため、世界選手権7位
11月 引退、長野五輪の出場を断念
1997年
1998年 2月 長野五輪で聖火台への点火者となる
2001年 1月 国際オープンフィギュアスケート選手権大会

受賞歴[編集]

出演CM[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 20世紀スポーツ列伝―世界に挑んだ日本人 読売新聞運動部著 伊藤みどりとその時代p.227
  2. ^ 伊藤みどりさん、結婚そして離婚 2006年8月2日更新、2010年9月9日閲覧
  3. ^ 伊藤みどりさんが再婚、相手は一般男性 2009年9月6日更新、2010年9月9日閲覧
  4. ^ 五十嵐文男の華麗なるフィギュアスケート 白石 和己著 新書館 1998年10月 p.129
  5. ^ テレビ朝日驚きももの木20世紀」1994年2月4日より。
  6. ^ 男子選手としての初成功は、トリプルトウループ-トリプルトウループは1980年(ポーランドのグジェゴシュ・フィリポウスキー。なお、この記録は同時に、女子選手として初の3回転3回転のコンビネーションジャンプ成功も意味する
  7. ^ ちなみに、女子選手としてトリプルアクセルのコンビネーションジャンプの初成功はアメリカのトーニャ・ハーディング[1991年スケートアメリカSP(トリプルアクセル-ダブルトウループ)]伊藤は、 国際大会では1991年NHK杯
  8. ^ a b c d e f g h i j ヤマハ提供曲
  9. ^ 映像制作会社ビデオキャドル 作品歴