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利用者:石垣 葉星/sandbox

塩川 雄三 しおかわ ゆうぞう 俳人

生い立ち 昭和六年 1931年 八月二六日  三男 大阪府大阪市住吉区昭和町にて生を受ける。




 

 塩川氏と俳句の出会いは昭和24年 1949年、茨木高校2年生の時担任の津本漁史先生(馬酔木南風所属)に俳句の手ほどきを受けたことからである。

 この時、塩川氏は詩や小説にも興味を持つ文学少年であったが俳句は確かに短い詩形だが、将棋のように奥行の深いものであると知り、生涯の趣味となり仕事となったのである。

 就職後は、大阪税関の俳句部「千舟会」に入会する。この時、「諷詠」の後藤夜半から指導を受ける。この頃から本格的に俳句と取り組むようになる。「ホトトギス」の初入選句に

   柿食うて吾も病みたり獺祭忌

がある。「ホトトギス」はこの時、高浜虚子は息子の高浜年尾に雑詠選を譲っていた。


 夜半、年尾とホトトギス系の俳人になりかかったが、ここで突如山口誓子氏の「天狼」と橋本多佳子女史の「七曜」に入会する。俳句仲間に誘われて山口誓子出席の句会に行ったのがきっかけだ。

 高校時代に同級生から借りた誓子氏の句集「遠星」を物資不足の折、ノートにすべてを書き写した。その際

   土堤を外れ枯野の犬となりゆけり

の句と出会い衝撃を受けた。その後

   紙漉きの水のしたたり地を穿つ

を発表、これまでの花鳥諷詠とは違い、新しい着眼がそこにはある。

 

 「天狼」時代

 アパートに貧しき春日夫婦愛

 昭和33年、橋本弘子と結婚。大阪税関のある築港での新婚生活は貧しかったが楽しかったと目を細める。しかし、土日には必ず句会に参加した。多い時には月に35回も句会を回り、一句会で50~100句を作った。

 昭和34年「天狼」編集長の平畑静塔に依頼されて約100名程の大阪句会の幹事を務める。句稿の清記、披講から会計、会報の作成まで、約16年間、一人で引き受けた。句会は誓子を始め、多佳子、静塔、冬一郎、影夫、暮石など著名な俳人が押し寄せて賑やかだった。

 昭和36年には辻田克己、茨木和生、本村澄夫らと青年句会を結成し、月に一回、誓子から直接指導を仰いだ。しかし、誓子の指導は厳しく塩川氏が[天狼」の初巻頭を飾ったのは昭和40年、石川県七尾市に赴任していた時の

 雪埋まる鉄路は能登の命綱

である。


参考文献 俳句四季 2001年4月号