利用者:福太郎/サンドボックス2
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< 利用者:福太郎
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | ナスダック上場 |
本社所在地 |
アメリカ合衆国 ワシントン州, ベルビュー市 |
設立 | 1905年 2月 |
業種 | 輸送用機器 |
事業内容 | 大型貨物自動車の製造・販売 |
代表者 |
マーク・C・ピゴット 会長兼CEO トーマス・E・プリンプトン 社長 |
売上高 | 11,396.3百万USドル(2004年) |
従業員数 | 25,000人 |
外部リンク | PACCAR Inc |
パッカー (PACCAR)はアメリカ北西部に拠点を置く総合トラックメーカー。大型トラックではケンワース、ピータービルト、DAF、フォーデンをブランドに持ち、他に小・中型トラック、バス、パーツ類の開発、製造、また創業以来積極的な技術革新を行う事で知られる。大型トラックとしてはボルボ、ダイムラークライスラーに次ぐ世界第3位の規模を誇る。
歴史
[編集]- 1905年、ワシントン州ベルビュー市にてウィリアム・ピゴット卿により『シアトル・カーマニュファクチャリング(Seattle Car Manufacturing Co.)』が創業、アメリカ北西部で伐採される材木を運搬する大型鉄道車両の製造を行い、当時は政府が鉄道輸送に力を入れていた事もあり急速に成長する。
- 1909年、ワシントン州レントン市に工場新設、大きく業績を伸ばす事に成功。
- 1911年、『シアトル・カーマニュファクチャリング』から『シアトル・カー&ファウンドリー(Seattle Car and Foundry Company)』へ社名変更。
- 1917年7月1日、西海岸唯一のライバル会社、『トゥーヒー・ブラザース(Twohy Brothers)』と合併統合、『パシフィック・カー&ファウンドリー(Pacific Car and Foundry Company)』へ社名変更、トゥーヒー兄弟(John Twohy、James F. Twohy)が経営権を握る。『トゥーヒー・ブラザース』はユニオン・パシフィック鉄道や南パシフィック鉄道など大型顧客を互いに取り合う関係にあったが、合併により競合他社は無くなり、より強固な経営体制になる。
- 第一次世界大戦中は合衆国政府から貨物車両の大量受注を受け、戦後は多角経営に乗り出す。鉄道車両を経営の主軸に残したまま、トラック用トレーラーに開発力を注いで行く。
- 1920年、『パシフィック・カー&ファウンドリー』は材木運搬車両の製造台数が7,000両を超える。木材運搬車両に特化した設計で、エアブレーキの開発や事故時に材木からの乗員への危険を減らすオープンデッキ設計など、特に安全面に重点を置いた発明、また冷蔵車の開発、食品輸送に安全性をもたらした。同社製のトラック用二輪トレーラーはすぐに業界標準となる。以後、車種、品質、顧客共に伸ばして行く。
- 1924年[3月31日]]、『パシフィック・カー&ファウンドリー』はアメリカ全土に工場を展開するが、結果、財政的資金難から『アメリカン・カー&ファウンドリー(American Car and Foundry Company)』によって買収される。政府政策も鉄路から陸路(トラック輸送)へと切り替えられ、同時に『パシフィック・カー&ファウンドリー』の生産ラインもそれに合わせて切り替えられるが成果は思わしくなく、業績を落とし続け、1930年に世界恐慌を迎えるとシアトルで最も弱体化した企業の1つとして数えられるまでに財政的に冷え込んで行く。
- 1930年代、財政状況から従業員の解雇が続くが、その中にあって社内の治金エンジニア、アレックス・フィンレイソン(Alex Finlayson)の手により“Carcometal[1]”と呼ぶ新たな合金を開発、軽量にして高い剛性を持つ鋳鉄製品を造る事を可能にし、トラクター、ウィンチ等に採用され1930年代の同社を支えた。
- 1934年2月、暗い時代を経験した『アメリカン・カー&ファウンドリー』は、創業者ウィリアム・ピゴットの息子、ウィリアム・J、ポール[2]に対し『パシフィック・カー&ファウンドリー』を売り戻す。経営権がピゴット兄弟の手に戻り、1930年代後半にはレイシーマロー橋[3]建設に際し鉄鋼製材の供給、さらにグランドクーリーダム、ロスダム[4]建設など公共事業への実績を残す。以後ボーイング等一般顧客を獲得した期にレントン、シアトルに新工場を建設、大型バスやトロリーバスを製造、シアトル市に納入、ピゴット兄弟は業績回復に成功する。
- 第二次世界大戦に入ると需要が急増し、1940年には売り上げが50%近くまで伸びる。材木運搬、航空機用製鉄、空港、橋、海軍需要、ハイウェイ、冷蔵車を製造、同時にアメリカ国土のインフラ整備に関わり戦争に寄与する。またボーイング社の下請けもこなし、B-17 (爆撃機)のアルミ翼建造を手掛けた。1942年春、アメリカ陸軍に対しシャーマンM4-A1戦車の製造を手掛ける。『パシフィック・カー&ファウンドリー』は戦車のほぼ全てのパーツを自社生産する事が出来、さらには改良を加えた“Carcometal”を戦車の装甲板に使用した。政府は『パシフィック・カー&ファウンドリー』の生産効率を上げるため、ワシントン州レントン工場を最新設備に改築、変電所からは電気溶鉱炉のための電力を与える等の待遇を受ける。
- 1945年、シアトルの『ケンワース(Kenworth Motor Truck Company)』を買収。
- 1958年、『ダートトラック(Dart Truck Company)』、『ピータービルト(Peterbilt Moters Company)』を買収。『ダートトラック』は主に長距離輸送ダンプカー、特殊車両を製造、『ピータービルト』は『ケンワース』と競合し多種のトラック、バスを製造していた。7月24日から1960年にかけて『ピータービルト』は『パシフィックカー&ファウンドリー』の完全傘下に入り、分割、『パシフィック・カー&ファウンドリー』の各部門へ割り当てられて行った。
- 1960年秋、ポールピゴットは脳腫瘍の手術を受けるが翌年死去。チャールズ・ピゴット(Charles Pigott)はロバート・オブライエン(Robert O'Brien)理事に約束を取り付けた。彼は元上級副社長から社長になった。オブライエンは1965年まで社長を務める。
『パシフィックカー&ファウンドリー』の建築用鉄鋼材はスペースニードル(1961年)、シアトル・ファースト・ナショナル銀行に鋼材を供給する。WTCへは供給した計5,668もの鋼鉄パネルは合計58,000トンを供給、鋼材はシアトルからニューヨークへ繋がる鉄路を使い1,600両以上の貨物列車で運ばれた。
- 1972年、社名を『パッカー(PCACCAR Inc)』に変更、『パシフィック・カー&ファウンドリー』名は分割子会社に与えられ、翌年の1973年、パッカーは鉄鋼建材業から撤退する。
- パッカーのトラックは『ピータービルト』、『ケンワース』の両社で製造、深刻な不景気を経験しながらも70年代は順調に売り上げを伸ばした。
子会社
[編集]- ケンワース
- ケンワース・オーストラリア
- ケンワース・メキシカーナ・メキシコ
- ピータービルト
- DAF
- レイランド
- パックリーズ
- パッカー・インターナショナル
- パッカー・フィナンシャル
- パッカー・ITD(IT部門)
- パッカー・ウィンチ
- パッカー・パーツ
- ダイナクラフト
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 炭素・マンガン・銅・シリコン等を混合した鉄合金。
- ^ William J. Pigott、Paul Pigott、少数のシアトル投資グループらに5万ドルで売却。
- ^ :ワシントン湖に掛かる浮き橋で、浮き橋としては世界2位の長さ(2,019m)を誇る。東向き車線でシアトルとベルビューを結ぶ。西向き車線はで浮き橋として世界5位の長さ(1,772m)。
- ^ でGorgeダム、Diabloダムに次いで造られた。Rossダムは3ダム中最大で、高さは165mある。