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毛 宗崗(もう そうこう、Mao Zonggang1632年1709年)は、の編集者、文芸評論家。字は序始。号は子庵。茂苑(現在の江蘇省蘇州市)の人。

毛宗崗本『三国志演義』[編集]

毛宗崗は、金聖嘆が『水滸伝』を改めた手法を手本に、四大奇書の一つである『三国志演義』 に大きな変化をもたらした。毛宗崗とその父である毛綸は、ともに『三国志通俗演義』の回を増やす一方で、計120回の内容や筋を整頓した[1]。毛宗崗は明代羅貫中による版本をもとに、全120回の通行本に修訂を加えた。その際の修正および南宋の学者朱熹の『資治通鑑綱目』に基づく評価は、「尊劉貶曹」の観念を強めているだけでなく、当時の評価をも明らかにしている[2]。經過重新整理後,毛宗崗編成個人評改版本的《三國演義》傳世,現在通行的《三國演義》大部分是根據毛宗崗的版本為基礎。

この改稿作業には、原作者とされる羅貫中の文章や、章回小説に見られるような詩文の改作の修正が含まれていた。後世では、毛宗崗のこの措置は称賛の的となった。一例として、劉備が二度目に諸葛亮草堂を訪れた際、門にかけられていた対聯が挙げられる。

淡泊以明志,寧静而致遠

毛宗崗はこれを諸葛亮の著作『誡子書』から引いたが、羅貫中による原著には見られなかったものである。この補足の目的は、諸葛亮の処世術、質素な生活、そして非凡な抱負を表現することにある。さらに、他在對聯之下再加上評語:「觀此二語,想見其為人。」後世閱覽毛宗崗本『三国志演義』 ,言其精妙之處為給臥龍草堂添上風雅色彩,並簡短地介紹了孔明的為人,使內容佈局起了「未見其面先知其人」之作用。

此外,在書中開篇以及尾篇部分,毛綸・毛宗崗父子分別加入了明代の文学家楊慎本說秦漢的〈臨江仙‧滾滾長江東逝水〉和唐代詩人劉禹錫的〈西塞山懷古〉兩個作品。這未曾見於羅貫中所著的『三国志演義』 。[注 1]

影響[編集]

毛宗崗は歴史小説の創作理論を探究したが、その際に歴史小説と他の創作物との間に区別を設けたのは、歴史小説が持つ問題として、史実との関与およびその尊重があったためである。毛宗崗の認識では、小説家は観察眼に長け、経験豊富であり、また日常生活から得た学びを創作に応用することでこそ、整った構成、鮮やかな人物造形、迫真の筋を備えた芸術作品は創出されうる。これは同時に、毛宗崗が小説において構成を非常に重視していたことも示している。彼の小説理論は後世の創作に深い影響を与え、毛宗崗の『三国志演義』は、彼の中国文学における重要な地位を確立したのである。[注 2]

注釈[編集]

  1. ^ 見高虹《放歌六十年》,2009年四川文藝出版社出版。
  2. ^ 路文喜『鑒賞三國』(元華文創股份有限公司出版、2015年)より。

参考文献[編集]

  1. ^ 王国瓔 (2014). 中国文学史新講(上、下)修訂版(二版). 聯経出版公司. p. 1159 
  2. ^ 朱熹/趙師淵,"資治通鑑綱目-59卷",樊川書院,南宋淳熙元年(1174年).

外部リンク[編集]