利用者:胡馬/sandbox

評価[編集]

  • 清末盧弼中国語版は、「馬超は戦闘に秀で、羌胡を手懐けていたが、隴右の軍衆を兼有し、さらに張魯の援助も得ていたとあっては、向かうところ敵なしというべきだ」と、その強勢を認めると同時に、「〔韋康は絶望的な情況の中で〕無辜の吏民が死んでいくに忍びず、心苦しくも和睦を求めたわけで、その情況は諒解できる。〔しかし〕馬超は残忍だとはいえ、約に背いて韋康を殺害し、また楊昂の手を借りて、殺戮をほしいままにしてしまった。だから韋康の死後、吏民は怨恨を抱き、姜敘の母や趙昂の妻は両者とも忠義の心を奮い、皆が故君のために復讐したのだ」と失策も指摘している[1]

伝承[編集]

古蹟[編集]

中国各地には、馬超にまつわる様々な遺跡の記録が残されている。所在地名は『古今図書集成』および各地方志の記述に則る。

  • 三馬祠(扶風県):飛鳳山にあり、馬援・馬融・馬超を祀る。本来は馬援を祀る祠だったが、康熙57年(1718年)、知県の丁腹松による修築を経て馬融・馬超も共に祀るようになり、「三馬祠」と称されるようになった[2]
  • 馬超坡(扶風県):湋水(古称は沮水。渭水の支流)の南にある坂道。俗称は馬超衚衕(胡同に同じ。小路のこと)。元末明初の高僧である宗泐中国語版の詩『発扶風』に、馬超祠と併せて言及がある[3][注釈 1]
  • 茂陵山(宝鶏県中国語版):馬超が住んでいたといわれる。かつては馬超祠も存在した[5]
  • 馬超岭(楊陵区):咸陽市楊陵区五泉鎮にある。馬超が駐屯し馬を育てたという伝説が伝わる[6]
  • 青州城(安塞県):馬超が築いたものといわれる[7]。藩延堡はその城址だという[8]
  • 馬超洞(甘泉県):青州城の対岸にあり、馬超が兵を駐屯させた地と伝わる[9]洛水北部にあり、現在も遺跡が残っている[10]
  • 野馬圪塔(平陸県):馬超が馬を放牧していたと伝わる[11]
  • 馬超窰(平順県):馬超がこの窰洞で敵軍を避けたという[12]
  • 渭源古城(渭源県):「馬超城」の跡地が存在する[13]
  • 馬超坪(灌県):馬超が駐兵した地点と伝わる[14]

出手法[編集]

馬超が編み出したといわれる剣術。抜刀術の一種と思しい。明の地理学者鄭若曽による『筹海図編』や『江南経略』、嘉靖年代の兵法書である何良臣中国語版『陣紀』に記載がある。各書には複数の剣術が紹介されており、その中には虎殺しで有名な春秋時代大夫卞荘子中国語版や、劉備の名も見える[15][16]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 詩中の「阪」(坂道の意)は馬超坡を指す[4]

出典[編集]

  1. ^ 『三国志集解』巻25楊阜伝「馬超勇力善戰,撫有羌、胡,既兼隴右之眾,又得張魯之助,宜其所向無敵。魏武軍還倉卒,為備不周,韋康孤城無援,堅守八月,閻溫潛出,又死賊手,東軍之來,殆已絕望,不忍吏民無辜死亡,委屈求和,其情可原。超雖殘暴,背約害康,亦假手楊昂,肆其屠戮。故韋康死後,吏民忿恨,姜敘之母、趙昂之妻皆忠義奮發,咸為故君復讎。」
  2. ^ 『扶風県志』巻8. 中国哲学書電子化計画, 2024年2月25日閲覧, "三馬祠,在飛鳳山。舊專祀馬援。國朝康熙五十七年,知縣丁腹松重修,增馬融馬超,稱󠄁三馬云。"
  3. ^ 『扶風県志』巻8. 中国哲学書電子化計画. 2024年2月25日閲覧, "明初,僧宗泐《發扶風》詩曰:「曉發扶風縣,雲低欲雪時;長河王莽寺,獨樹馬超祠。營窟炊烟早,牛車度阪遲,非熊無復夢,渭水自逶迤。」"
  4. ^ 発扶風--大佛寺”. 陝西景観数拠庫. 陝西省図書館. 2024年3月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月1日閲覧。
  5. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『古今図書集成』方輿彙編職方典第523巻, ウィキソースより閲覧, "茂陵山 在縣東北三十里,林壑秀美。漢末馬超居此,有廟,今毀。" ;『扶風県志』巻8. 中国哲学書電子化計画, 2024年2月25日閲覧, "馬孟起祠 在縣東三十里茂陵山,今廢。"
  6. ^ 楊陵区地方志編纂委員会編『楊陵区志』第13編文教衛生 §3文物。西安地図出版社、2004年。陝西省地方志弁公室公式サイトより閲覧(2024年5月29日)。
  7. ^ 『延安府志』巻8. 中国哲学書電子化計画. 2024年5月12日閲覧, "在縣 百餘里,馬超筑遺址尚存。
  8. ^ 郭超群 著、馮生剛 校注『民国十四年安塞県志』『安塞県志校注』上海古籍出版社〈安塞県地方志叢書〉、2010年、p. 74。陝西省地方志弁公室公式サイトより閲覧(2024年5月29日)。"藩延堡 在県西南一百里,相伝馬超所筑青州城故址。"
  9. ^ 『延安府志』巻8; 『延安府志』巻9. 中国哲学書電子化計画. 2024年5月12日閲覧, "與安塞接界,崇山峻嶺,上有十餘石洞。洛水逕其下,與青州城對峙。道通邊塞,相傳為馬超屯兵處。"
  10. ^ 姫乃軍. “民族融合的縄結区域”. 省情文献庫. 陝西省図書館. 2024年5月11日閲覧。
  11. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『古今図書集成』方輿彙編職方典第324巻, ウィキソースより閲覧, "埜馬圪塔 縣東四十里。世傳漢馬超牧馬于此。" 
  12. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『古今図書集成』方輿彙編職方典第335巻, ウィキソースより閲覧, "馬超窰 在石灰里東北隅。昔馬超避兵于此,因山鑿窯,下臨漳水,勢依險阻。" 
  13. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『古今図書集成』方輿彙編職方典第569巻, ウィキソースより閲覧, "渭源古城 在縣東北,與今城相連,址存《馬超城》。" 
  14. ^ 『灌県志』巻1. 2024年5月12日閲覧, "馬超坪,在縣西十里。相傳馬孟起駐兵於此。"
  15. ^ 『筹海図編』巻13, "[剱式]有五家,一曰馬明王、一曰先主、一曰卞莊、一曰王聚、一曰馬超。";『江南経略』巻8上, "使劍之家凡六,曰馬明王、曰劉先主、曰卞莊、曰王聚、曰馬超、曰邊掣厚眷短身。";『陣紀』巻2, "劍用則有術也。法有劍經,術有劍俠,故不可測。識者數十氏焉,惟卞莊之紛絞法、王聚之起落法、劉先主之顧應法、馬明王之閃電法、馬超之出手法,其五家之劍庸或有傳。此在學者悉心求之,自得其秘也。" 中国哲学書電子化計画. 2024年5月29日閲覧。
  16. ^ 馮宏鵬「中国明代の武術書に関する史的考察 : 中国武術史研究の一環として」日本体育大学紀要、第2号、2006年、131-146、p. 144。NCID AN00194152