利用者:胡馬/sandbox
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将軍の姓は馬、名は超、字は孟起、陝西省扶風県の人であり、将軍として漢に仕え、四川の西境を鎮守し、蜀を全く守り抜いて、「征西将軍」と号した。47歳にして亡くなり、その功績をもって「威侯」と諡され、我が都邑〔新都〕の南郊一里の地点に葬られた。記録や爵位は考証できるものである。ゆえに明の按察使の楊瞻は、その古さから湮滅を恐れ、傍に碑を立てたのだった。大尹の王九徳、司馬の銭紹謙、前任の県令である邵年斉もまた墓前に碑を立て、功徳を明らかにし、保護していることを示した。しかし思いがけず、里民の李氏という者が、ひそかに自分の父親を将軍の墓のすぐ右側に葬っており、〔葬った当時の〕丙寅(1686年)から今に至るまで48年にもなるという。しかもその前の空いた土地で耕作なぞしている。さらに劉氏も、その婿を将軍の墓の左側に葬ったという。予(わたし)は当地を担当するにあたって、名臣たちの遺跡を訪った折、その実情を知った。民衆の不義を厭うにとどまらず、将軍の功績や恩徳も知らぬと判ったので、彼らを引っ立てて懲戒し、さらにこう告諭した。「お前たちは征西将軍の勲功を承知しているのか? 蜀の西部というのは、やれ羌だの西番だの蛮夷だのが西境に近接しているのだが、〔奴らは〕凶暴で懐きもせず、文をもって令を発することもできなければ、武をもって争うこともかなわぬ。ただ将軍の威光はもとより著大であったから、西方の夷狄は〔馬超を〕神将と呼びあらわして、皆穏やかに恭順し、終ぞ領地を侵そうとしなかった。将軍が亡くなるや、後代には西方に患いを抱き、時には蜀都も震撼するに至った。なればこそ将軍に想いを寄せるのだ。輝かしい功績がなくてこそ、〔かつての〕将軍の功はいや増し〔て感じられ〕、恵み深い恩徳がなくてこそ、将軍の徳はより深い〔ものだとわかる〕。蜀の人間は、世世にわたり将軍を祀るべきなのだ。将軍は我が都邑に葬られているのだから、なかんずく欣喜して愛護することで、崇徳の御心に報い、将軍の霊を慰めるのはなおさら当然のことである。だのに墓地を踏み荒らし占拠しているとあって、天下の人々に我が都邑はかねてよりかくも不義を働いていると言われては、何をもって人間たり得ようか? 墳墓には忠烈を尽くすように、また採樵はこれを禁ずる。罪からは逃れられぬぞ!」
かくして、李氏兄弟および劉氏は皆恥じて恐縮し、〔自分たちの〕愚昧ぶりは将軍に対して罪があると申して、覚悟するに及んだ今、その土地から退いて葬地を移すことにした。予は人心の中で美徳が滅び得ぬこと、また将軍が蜀の民の功を安んじられるのが、千古の時を経てもなお新たであることを喜ばしく思った。しばらくして李氏が陳じるには、父親はすでに葬られて久しく、棺や遺体もおそらく朽ちているとのことで、移動については勘弁してほしいと請うた。予はまた考えるに、将軍の御霊は蜀の民を深く愛し許容なさること早48年、もしくは神意に能ったのかもしれぬとあらば、〔李氏の父は黄泉で〕お付きの者として使役するということで、ご容赦いただいた。そして里の住民と取り決めをなし、墓の四隅それぞれに石を立てた。墓から18歩の距離までを将軍の墓域と定めたが、後世の人間で、その領域内であえて採樵や耕作、埋葬を行おうとする者は、法が赦すまい! この恵愛が記録せらるべく、これを石碑に刻む[1][2]。 — 陳銛『故征西将軍馬公墓碑記』
新都の参議である楊廷儀[注釈 1]が、父親の埋葬地にふさわしい場所を探していると[注釈 2]、ある土地から「漢左将軍馬超之墓」と彫られた石碑を発掘した。楊廷儀は吉兆の験ありと見なして、その地を選んだ。程なくして見た夢で、錦袍をまとい玉帯を締めた馬超が「私は漢の将軍である。わが墓を荒らさぬように」と言った。楊廷儀が意に介さないでいると、またもや見た夢で、武装した馬超は弓を引き、楊廷儀の左目を射当てた。そして今度は右目を射当てると、〔現実においても〕相次いで盲目になってしまったが、〔楊廷儀は〕ますます意思を固めた。そして再び見た夢では、馬超は大いに怒った様子で「お前に禍いをもたらしてくれよう!」と告げた。その後、楊廷儀の家族数名が、金品のために道連れの商人たちを皆殺しにした。事が露見し、彼らは凌遅刑を科された。それに連座した楊廷儀は、棄市[注釈 3]の刑に処せられてしまった[9]。
伝承
[編集]古蹟
[編集]陝西省
[編集]- 三馬祠(扶風県):飛鳳山にあり、馬援・馬融・馬超を祀っていた。本来は馬援を祀る祠だったが、康熙57年(1718年)、知県の丁腹松による修築を経て馬融・馬超も共に祀るようになったため、「三馬祠」と称された[10][11]。
- 茂陵山(扶風県):元代に馬超祠が建てられた(清代初期には破損[10])。風光明媚で、馬超が住んでいたという[12][13]。『古今図書集成』での所在は宝鶏県[14]。
- 馬超坡(扶風県):湋水(渭水の支流)の南にある坂道。元末明初の高僧である宗泐の詩『発扶風』に、馬超祠と併せて言及がある[10][15][注釈 4]。俗称は馬超衚衕(胡同。小路[16])[10][17]。
- 馬超嶺(楊陵区):馬超が駐屯し馬を育てた地と伝わる[18]。
- 青州城(安塞県):馬超が築いたものといわれる[19]。藩延堡はその城址だという[20]。
- 馬超洞(甘泉県):青州城の対岸にあり、馬超が兵を駐屯させた地と伝わる[21]。洛水北部にあり、現在も遺跡が残っている[22][23]。
山西省
[編集]甘粛省
[編集]四川省
[編集]出手法
[編集]馬超が発祥とされる剣術。明の地理学者鄭若曾による『籌海図編』や『江南経略』、嘉靖年代の兵法書である何良臣『陣紀』に記載がある。各書には複数の剣術が紹介されており、その中には虎殺しで有名な春秋時代の大夫卞荘子や、劉備の名も見える[28][29][30][31]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 楊廷和の弟。朝廷で専横を極めた宦官の劉瑾との交流や、兄を誹謗したという風評により悪名を得た[3]。また兄の政敵である王瓊との関係を理由に、実家からも汚点とされ、記録がほとんど残されなかった[4]。
- ^ 風水思想では、父方の祖先を風水的に良い土地に葬れば、その子孫全体に幸福がもたらされるとされた。科挙制の導入によって世襲が成立し得ず、社会的地位を維持するのがより困難な時代にある中で、将来的な氏族繁栄を保証すべく、知識階級の人々が陰宅(風水における墓地の呼称)のための土地選びに労力を費やすという事態が、宋代ですでに生じていた[5][6]。明清時代は風水が隆盛を極めた時期であり、風水に関する訴訟や揉め事は枚挙にいとまがなかった[7]。
- ^ 公開処刑の後、死体を市中に晒すこと[8]。
- ^ 詩中の「阪」(坂道)は馬超坡を指す[10]。
出典
[編集]- ^ “馬超墓調査報告”. 成都武侯祠博物館. 2024年1月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月29日閲覧。
- ^ 『新都県志』巻13. Hathitrust, 2024年9月4日閲覧。
- ^ 檀徳瑶「新都楊氏兄弟関係考證及楊廷儀其人研究」『陰山学刊』第3期、2017年、73-77頁。pp. 73-75。
- ^ 檀 2017, p. 76.
- ^ 廖咸恵「墓葬と風水——宋代における地理師の社会的位置」上内健司訳、『都市文化研究』第10号、2008年、96-115、p. 102。
- ^ 水口拓寿「名墓の風水に「便乗」する者たち——中国寧波・東銭湖墓群の事例から」『お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター研究年報』第7号、2011年、45-56、pp. 49-50。
- ^ 樊建瑩「民間風水信仰与伝統司法——基於「刁訟陳仲垣、陳傑二杖」案的考察」『許昌学院学報』第3期、2012年、113-116、p. 114。
- ^ 「棄市」『精選版 日本国語大辞典』 。コトバンクより2024年10月5日閲覧。
- ^ (中国語) 『耳談』巻8「漢左将軍馬超墓」, ウィキソースより閲覧, "蜀新都縣少參楊公廷儀,為親侍郎公某卜墓地,掘土見崇碑題曰:「漢左將軍馬超之墓」,以為吉有驗,遂就之。忽夢超錦袍玉帶,言曰:「我漢將軍,勿奪我墓。」公不為動,復夢超戎裝彎弓,射中公左目。已,又夢射中公右目,相次目皆瞽而意逾堅。又夢超瞋目大怒,曰:「吾有以禍汝矣!」亡何,其家數幹人與數賈為偶匿賈金盡殺之。事覺,罪淩遲而蔓及公,罪棄市。"
- ^ a b c d e “発扶風--大佛寺”. 陝西景観数拠庫. 陝西省図書館. 2024年3月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月1日閲覧。
- ^ 『扶風県志』巻8. 中国哲学書電子化計画, 2024年2月25日閲覧, "三馬祠,在飛鳳山。舊專祀馬援。國朝康熙五十七年,知縣丁腹松重修,增馬融馬超,稱󠄁三馬云。"
- ^ “『大明一統志』”. DocuSky. 国立台湾大学数位人文研究中心. 2024年7月27日閲覧。 “馬超祠 在扶風縣東三十里,元建。超蜀漢將軍。"; "茂陵山 在扶風縣東北三十里,林壑秀美。漢末馬超居此。”
- ^ 『扶風県志』巻8. 中国哲学書電子化計画, 2024年2月25日閲覧, "馬孟起祠 在縣東三十里茂陵山,今廢。"
- ^ (中国語) 『古今図書集成』方輿彙編職方典第523巻, ウィキソースより閲覧, "茂陵山 在縣東北三十里,林壑秀美。漢末馬超居此,有廟,今毀。"
- ^ 『扶風県志』巻8. 中国哲学書電子化計画. 2024年2月25日閲覧, "明初僧宗泐《發扶風》詩曰:「曉發扶風縣,雲低欲雪時;長河王莽寺,獨樹馬超祠。營窟炊烟早,牛車度阪遲,非熊無復夢,渭水自逶迤。」"
- ^ “胡同” (中国語). 漢典. 2024年10月5日閲覧。
- ^ 『扶風県志』巻8. 中国哲学書電子化計画. 2024年6月30日閲覧, "馬超坡,在縣東門外湋水南三里。〈俗称馬超衚衕。〉相傳威侯故蹟。"
- ^ 楊陵区地方志編纂委員会編『楊陵区志』第13編文教衛生 §3文物。西安地図出版社、2004年。陝西省地方志弁公室公式サイトより閲覧(2024年5月29日)。
- ^ 『延安府志』巻8. 中国哲学書電子化計画. 2024年5月12日閲覧, "在縣 百餘里,馬超筑遺址尚存。
- ^ 郭超群 著、馮生剛 校注『民国十四年安塞県志』『安塞県志校注』上海古籍出版社〈安塞県地方志叢書〉、2010年、p. 74。陝西省地方志弁公室公式サイトより閲覧(2024年5月29日)。"藩延堡 在県西南一百里,相伝馬超所筑青州城故址。"
- ^ 『延安府志』巻8; 『延安府志』巻9. 中国哲学書電子化計画. 2024年5月12日閲覧, "與安塞接界,崇山峻嶺,上有十餘石洞。洛水逕其下,與青州城對峙。道通邊塞,相傳為馬超屯兵處。"
- ^ 李娜、劉蓉「略論魏晋南北朝時期陝北地区的少数民族活動」『延安職業技術学院学報』第2期、2015年、32-34、p. 34。
- ^ 姫乃軍. “民族融合的縄結区域”. 省情文献庫. 陝西省図書館. 2024年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月11日閲覧。
- ^ (中国語) 『古今図書集成』方輿彙編職方典第324巻, ウィキソースより閲覧, "埜馬圪塔 縣東四十里。世傳漢馬超牧馬于此。"
- ^ (中国語) 『古今図書集成』方輿彙編職方典第335巻, ウィキソースより閲覧, "馬超窰 在石灰里東北隅。昔馬超避兵于此,因山鑿窯,下臨漳水,勢依險阻。"
- ^ (中国語) 『古今図書集成』方輿彙編職方典第569巻, ウィキソースより閲覧, "渭源古城 在縣東北,與今城相連,址存《馬超城》。"
- ^ 『灌県志』巻1. 2024年5月12日閲覧, "馬超坪,在縣西十里。相傳馬孟起駐兵於此。"
- ^ 『籌海図編』巻13, "[剱式]有五家,一曰馬明王、一曰先主、一曰卞莊、一曰王聚、一曰馬超。"
- ^ 『江南経略』巻8上, "使劍之家凡六,曰馬明王、曰劉先主、曰卞莊、曰王聚、曰馬超、曰邊掣厚眷短身。"
- ^ 『陣紀』巻2, "劍用則有術也。法有劍經,術有劍俠,故不可測。識者數十氏焉,惟卞莊之紛絞法、王聚之起落法、劉先主之顧應法、馬明王之閃電法、馬超之出手法,其五家之劍庸或有傳。此在學者悉心求之,自得其秘也。" 中国哲学書電子化計画. 2024年5月29日閲覧。
- ^ 馮宏鵬「中国明代の武術書に関する史的考察 : 中国武術史研究の一環として」『日本体育大学紀要』第2号、2006年、131-146、p. 144。NCID AN00194152