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第100歩兵大隊 | |
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創設 | 1942年6月12日 |
廃止 | 1946年8月16日 |
再編成 | 1947年7月31日 |
所属政体 | アメリカ合衆国 |
所属組織 | アメリカ陸軍 |
部隊編制単位 | 大隊(増強) |
兵科 | 歩兵 |
人員 | 1400名 |
所在地 | ハワイ フォートシャフター |
編成地 | ウィスコンシン州 キャンプ・マッコイ |
愛称 |
名誉戦傷戦闘団 Purple Heart Battalion |
標語 |
真珠湾を忘れるな! Remember Pearl Harbor |
上級単位 | 第34師団第133連隊 第442連隊戦闘団 等 |
最終上級単位 | 第29旅団 |
担当地域 | ハワイ 太平洋 |
最終位置 | イタリア |
主な戦歴 | 第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線) |
概要 [編集]
第100歩兵大隊は、第二次世界大戦中にハワイ日系移民の2世で編成された部隊。 当初は敵対国である日本人を祖先に持つ事から前線には送られずにアメリカ本土にて半ば隔離的に訓練をしていたが、後にイタリア戦線に送られ第34師団(レッド・ブル)に配属。
イタリア戦線においてはカッシーノの戦い等での活躍が当時の新聞などでも紹介された。 また34師団所属中の2世兵士は、この頃ヘルメットの前面に師団シンボルである「レッドブル・赤牛」をペイントしていたが、まさに師団の一員として認められていた証だろう。 更に本土移民の日系2世を加えて編成された第442連隊戦闘団がイタリア戦線に到着し、100大隊はその第1大隊として戦い続ける(名称は栄誉をして第100歩兵大隊のまま)
当初は「ジャップ」と呼ばれ、上級指揮官から「必要ない」と言われた日系部隊だったが、戦闘を重ねるうちにその評価は逆転し、各方面の指揮官から2世部隊を増援で欲しいと言われるように。
その後戦線の推移に伴い、第34師団から第36師団へと転属した第442連隊(第100歩兵大隊含む)は南フランスでもアメリカ陸軍史に残る戦いを見せ、数々の大統領部隊感状を始めとする表彰を受けた。
概史 [編集]
第100歩兵大隊(だいひゃくほへいだいたい 英: 100th Infantry Battalion)は、第二次世界大戦中のアメリカ合衆国陸軍においてハワイで戦前から徴兵によって軍務についていた兵士達を中心に編成された部隊。ただし士官はその限りではない。ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が示している。
前史 [編集]
・1940年10月29日 第1回選抜徴兵(Selective Service Act)開始。 ハワイにおいて1543名の日系人が徴兵され、ハワイ州兵、第298及び第299歩兵連隊に配属される。
・1941年12月7日 真珠湾攻撃。 298,299連隊は海岸線防衛等にあたる。
・1942年6月5日 298、299連隊の1432名の日系兵士によるハワイ臨時歩兵大隊(Hawaiian Provisional Infantry Battalion)が編成。 マウイ号にてアメリカ本土へ移動。
この時期の被服は戦闘時はサマー・カーキユニフォームが多く、同時に訓練時はブルー・デニムの作業服が一般的である。 また、主要なライフルはM1903ライフルであったが、パールハーバー後にはM1ライフル(初期型)を装備している写真も多くみられる。 なお、「マウイ号」乗船時にハワイの伝統であるレイを貰えなかった事が、彼らの不安をあおったようである。
第100歩兵大隊 訓練期[編集]
・1942年6月12日 マウイ号はオークランドへと入港し、ハワイ臨時歩兵大隊は第100歩兵大隊(独立)となる。 その後3本の列車に別れて移動。
・1942年6月16日 第100大隊はウィスコンシン州キャンプ・マッコイに到着、編成と訓練を開始する。
マッコイでは、ウールシャツ、トラウザーズの上下(これはハワイ以外の戦争全期間を通して使用している)に、ODフィールドジャケット(初期型が多い)といういでたちが多く、また訓練や作業ではHBT作業服(初期型)とデニム作業服を混用している。
・1943年1月6日 マッコイでの訓練を終えた第100大隊はミシシッピー州のキャンプ・シェルビーへと移動。 訓練を継続。
・1943年4月初頭 第85師団に配属され、ルイジアナでの2ヶ月に渡る演習に参加。
・1943年7月20日 大隊旗受領。部隊モットー「Remember Pearl Harbor」制定。
・1943年8月11日 キャンプ・シェルビーを出発。 キャンプ・キムラーを経て、20日にブルックリンにて「ジェームス・パーカー号」に乗船。
第100歩兵大隊 出征[編集]
・1943年9月2日 北アフリカ オランに到着。 北アフリカでは鉄道警備にあたる予定だったが、実際に警備を行ったのかは不明。 また一部、遺体処理の作業に当たったと言う証言がある。
・1943年9月19日 第34師団第133歩兵連隊に第2大隊として配属。 オランから「フレデリック・ファンストン号」に乗船。
イタリア戦線 カッシーノからローマへの道[編集]
・1943年9月22日 イタリア戦線サレルノに上陸。
・1943年9月28日~30日 サン・アンジェロ-モンテ・マラーノの街道において初の戦闘。 3:KIA
・1943年9月28日 Sgt.Shigeo Joe Takata 戦死(初の戦死者)
・1943年10月10日 師団長の命令により、ヘルメット前面に師団章(RedBull)をペイント。 師団の1員(ひいてはアメリカ軍兵士として)に認められた証であるこの措置は、多くの兵士を喜ばせたようである。 第100大隊は様々な部隊に配属されて戦闘を経験しているが、戦時中に彼らが付けた部隊章を確認できるのは、この34師団だけである。 また、戦後も多くの第100大隊ベテランが第34師団章をモチーフにしたバッヂや帽子、シャツ等を愛用している事からも、この第34師団への思い入れは非常に大きいものと思われる。
被服はウールの上下にODフィールドジャケットが一般的で、キャンバス製のレギンスを使用している。
・1943年10月18日~24日 ヴォルトルノ川渡河、サンタンジェロ攻撃 23:KIA
・1943年10月22日 副大隊長 ジェームス・ラベル少佐負傷。
・1943年10月29日 大隊長ファーレント・ターナー中佐は療養を命ぜられ、ジェームス・ギレスピー中佐に交代。
・1943年10月30日~11月4日 ヴォルトルノ川渡河(第3回) 21:KIA
・1943年11月5日~12日 590,600,610高地の戦闘 33:KIA
・1943年11月28日~12月15日 ルート掃討戦 1017、920、841高地の戦闘 39:KIA
・1943年12月5日 大隊長はキャスパー・クロー少佐に交代。
・1944年1月7日~10日 マジョ高地群 1190,1270,692高地の戦闘 13:KIA
これらの高地を巡る戦闘は犠牲も多かったが、第100大隊に戦闘部隊としての経験と自信を植え付ける事にもなったようである。 以後の第100大隊は戦闘時にも大きな混乱をする事もなく、アメリカ陸軍史に残る精強部隊として戦って行った。
・1944年1月23日~26日 モンテカッシーノの戦い。 23:KIA
第100大隊が参加した最初の大きな戦闘で、その作戦の困難さから連合軍の汚点としても残る戦いだった。 第100大隊は遮蔽物の無い平原と氾濫した泥の川を渡り善戦するも、攻略にはいたらず後退する。 多くの第100大隊兵士は戦後に最も辛かった戦場を聞かれると「やっぱりカッシーノだね」と答えている。
また、この時期の第100大隊では通称”タンカース”とも呼ばれる冬季戦闘衣の使用が多い。 イタリアの冬は寒く、冬季戦のユニフォームとして支給されていたようである。 一部写真に革製のバックルタイプのレギンスを使用しているのが確認できる。
・1944年1月24日 新大隊長 ジョージ・デューイ少佐負傷。 副大隊長 ジャック・ジョンソン少佐戦死。
・1944年1月29日 新大隊長として、ジェームス・ラベル少佐が復帰。
・1943年2月4日~12日 キャッスルヒル、165高地の戦闘 12:KIA
・1944年2月8日 大隊長ジェームス・ラベル少佐負傷 大隊長代理 キャスパー・クロウ少佐負傷 ヤング・オーク・キム中尉 臨時に大隊の指揮を執る。
・1944年2月15日 モンテ・カッシーノより後退。休養と再編成を行う。 大隊の多くが負傷し、パープルハート勲章を大量に受章した事からパープルハート大隊の異名を授かる(原典は不明)
・1944年3月24日 LST(戦車揚陸艦)により、アンツィオに上陸。
・1944年4月2日 新大隊長ゴードン・シングルス中佐着任。
・1944年4月6日~6月1日 アンツィオ橋頭堡の戦闘 13:KIA
・1944年5月16日 キム大尉とアカホシ上等兵は志願し、偵察にてドイツ軍の捕虜を確保。 DSC叙勲
・1944年5月23日 シーザーラインへの攻撃開始。
・1944年6月2日~5日 サン・ガレーノ高地の戦闘 ローマ進撃路 27:KIA
暖かくなってくると、第100大隊の写真ではウールの上下のみで居る写真が非常に多い。 また、シャツにも多くの兵士が34師団章を着用しているのが確認できる。
・1944年6月3日 ゴードン・シングルス中佐が第100大隊長を兼務したまま、び5つの砲兵隊を含む機動部隊(シングルス・タスクフォース)の指揮を執る。
・1944年6月4日 ローマ解放 (第100大隊はローマへ入れず ※理由は諸説あり)
日系人(有色人種)にローマへの第1陣をさせなかったと言う説(兵士に多い)もあるが、純粋に交替時期だったという説(将校の多くはそう語っていたと言う)、なおローマへの第1陣は第1特殊任務部隊であり、イタリアでの活躍は第100大隊より当時は顕著に扱われていたのではないかと考える。
第442連隊戦闘団 イタリアでの戦闘[編集]
・1944年6月11日 チビタベッキアにおいて第442連隊戦闘団に編入。 第1大隊となるも、名称は第100歩兵大隊のままとされる。 (442連隊の多くはこの措置に不満だったようである。また第100大隊も第442連隊への編入は喜ばなかったよう) ※以降 KIAは442連隊全体の人数を表記。
・1944年6月26日 ベルベデーレの戦闘 13:KIA(内 100は3:KIA)
第442連隊の第2、第3大隊の苦境を第100大隊が迅速な行動と戦闘で突破する事となり、以降連隊と大隊間のやり取りは比較的スムーズになったようである。 またこの時の第100大隊の戦闘は目覚しいものがあり、最初の大統領部隊感状を受章している。
・1944年6月27日~28日 サセッタの戦闘 11:KIA
・1944年7月1日~18日 ルチアナ・リヴォルノ攻撃 127:KIA
・1944年7月19日 ~21日 8月20日~9月 1日 アルノ川の戦闘 26:KIA
・1944年7月~8月 休養と再編成、訓練が行われる中、再編成等のため、所属や編成が数度にわたり変更される。 (この間、442連隊と100大隊は別の部隊として行動。) また、この間にイタリアのピサを始め、多くの観光や休養を行っていたようで多くのプライベート写真が撮影されている。
・1944年8月25日 ”YANK”誌にベルベデーレ戦と第100大隊が大きく掲載される。 この頃にはメディアでも日系部隊の扱いが増えたようで、映像や写真が多く残っている。
・1944年9月11日 対戦車中隊(ドラクーン作戦従事中)を除く第442連隊戦闘団は第7軍に編入。
・1944年9月27日 ナポリより「サミュエル・チェイス」号に乗艦。 イタリアを離れる。
第442連隊戦闘団 ブリエアの解放~失われた大隊救出[編集]
・1944年9月29日 「サミュエル・チェイス」号にてフランス マルセイユに上陸。 10日間、補充兵の訓練等が行われる。
この時期に被服の更新があったようで、以後M1943型ジャケットの使用例が存在する。 ただし、多くはODフィールドジャケットを使用している。 またカッシーノ戦の頃と比較して、冬季戦闘ジャケットも多くは確認できない。
前述したが、以後終戦まで日系部隊において戦闘衣への部隊章の着用は確認できない。 兵士達も「交換があるので付けない」と証言している。 またバックル一体型のブーツが多く使用されるようになる。
・1944年10月9日~13日 トラックを使用して北上を開始。 ブリエア近郊の宿営地に着。 第36師団に配属される。
・1944年10月15日~10月18日 ブリエアの戦闘 37:KIA
442連隊はブリエアを解放し、町のドイツ軍を掃討。 しかし町に滞在できたのは僅か1夜で、すぐに移動を命ぜられる。 それでも、この解放はブリエアの人々にとって忘れられない出来事となったようである。
・1944年10月19日~24日 ベルモントの戦闘 28:KIA
・1944年10月20日~24日 ビフォンテンの戦闘 8:KIA
第100大隊と第2、第3大隊はそれぞれブリエア付近の丘を攻撃。 第100大隊は命令によってビフォンテン村へ下り、包囲されるも敵を撃退する。
・1944年10月26日~31日 617高地”BanzaiHill”の戦闘及び失われた大隊救出 54:KIA
第141連隊第1大隊がドイツ軍によって包囲され、第442連隊はその救出の為の攻撃を命ぜられる。 (証言によれば、日系兵達が”任務”を知ったのは後の事らしい) 第36師団長みずから前線に乗り出しての、急速な前進命令に連隊の受けた損害は大きな物となった。
・1944年10月28日 大隊長 シングルス中佐 負傷
それでも連隊は攻撃を続け、10月30日に第141連隊第1大隊に到達、これの救出に成功する。 なお、この戦闘は後にアメリカ陸軍十大戦闘の1つとして記録された。
・1944年10月31日~11月9日 ラ・ウシエールの戦闘 41:KIA
・1944年11月13日~11月17日 サン・ダイの戦闘 4:KIA
失われた大隊救出後も戦闘は続き、第442連隊は多くの犠牲を払っている。 戦死以外にも多くの兵士が負傷し、僅か数名にまで減る中隊もあった。 (I中隊残存8名、K中隊残存15名)
シャンパン・キャンペーン[編集]
・1944年11月17日 第36師団を離れ、第45師団に配属。 南下し、休養と再編成を行う。
・1944年11月22日~1945年3月23日 シャンパン・キャンペーン 26:KIA
シャンパン・キャンペーンとは正確には戦線の名称ではなく、南フランスでこの時期に後方に下がって過ごした日々を兵士達はそう呼んでいる。 ブリエア付近での一連の戦闘において大損害を受けた第442連隊は、南フランスのイタリア国境付近の警備と休養、再編成を行った。 その間、小競り合い等で若干の損害はあったものの。それまでの激戦に比較すとならば穏やかな日々であったのだろう。 4ヶ月の間に現地の人々と交流したり、クリスマスを祝ったりと様々なエピソードが残されている。 またプライベートな写真も多い。 冬季衣料の不足を書いている本もあるが、この時期に山岳部隊の被服を着用している写真がある。
春が近づくと、イタリアのマーク・クラーク第15軍集団司令官は、再び「彼ら」を欲しがった。 春期攻勢が準備されていたからである。 バルジの戦いの穴埋めで442連隊を使いたかったアイゼンハワーにクラークはわざわざメッセージを送り「彼らを返してくれ」と打診している。
・1945年3月23日
第442連隊戦闘団(522野砲大隊除く)はマルセイユよりLST(戦車揚陸艦)に乗艦。
イタリアへ向けて出港する。
ゴシックライン 最後の戦い[編集]
・1945年3月25日~4月30日 ポー渓谷の戦闘 103:KIA
・1945年3月27日 第442連隊戦闘団 イタリア北部のレグホーンに上陸。 第5軍へと復帰し、第92師団に配属される。 また。上陸時に新しい被服を支給されている。 (以後、43型ジャケット及びバックル型ブーツを使用している写真が顕著に増える)
・1945年4月5日から開始された春季攻勢~ゴシックライン突破作戦において、第442連隊戦闘団(522野砲大隊除く)は、第92師団に配属されて戦った。 第92師団は元々は黒人兵で編成された部隊で、人種からくる問題もあったがここでは触れない。 (黒人兵に対する日系兵士の評価は高くなかったと言われるが、それを証言した兵士の出身、入隊経緯等が不明なため) 第442連隊戦闘団はクラーク中将の信頼に応えるように各地で善戦、5ヶ月間(冬季で攻勢に出なかったとは言え)膠着したままだった戦線を僅か32分で突破したジョージア高地の戦闘などはその顕著な例であろう。
25日までに目標であったアウーラを制圧した第442連隊戦闘団は、更に海岸沿いから追撃を行いジェノバを陥落させ、そのヨーロッパにおける輝かしい戦闘に幕を閉じる。 以後の第442連隊戦闘団の任務は捕虜の受入れ、警備が中心となっていく。
このころから、制服着用時のみ”フリーダムトーチ”第442連隊戦闘団の肩章を着用している写真が見受けられる。
・1945年5月2日 イタリアの全ドイツ軍が降伏。
・1945年5月7日 ドイツ降伏 欧州戦線の終結。
終戦[編集]
多くの100大隊将兵は、この期間にそれぞれ内地へと帰還しており、その分は補充兵によって埋められている。 また、この捕虜の取り扱い等をしている写真からようやく野戦服に”フリーダムトーチ”の第442連隊戦闘団の肩章を着用している写真が見られるようになる。
また、1945年夏までに4名の将校と194名の兵下士官が志願してMISに転属、太平洋戦線へと向かう。(内、何名が実際に太平洋戦線に参加したかは不明)
・1946年7月3日 第442連隊戦闘団主隊は「ウィルソン・ヴィクトリー」号にて、本土に帰還。
・1946年7月15日 ワシントンD.Cにて、トルーマン大統領の特別閲兵を受け、8つ目の大統領部隊感状を授与される。
・1946年8月15日 第442連隊戦闘団は「ウィルソン・ヴィクトリー」号にて、ホノルルに帰還。 熱烈な歓迎を受ける。 なお、この時点で帰還した連隊の兵士は終戦後、もしくは終戦間際に入隊した者が多く、実際に戦闘 の参加した者は少なかったようである。
翌日、部隊は活動を停止。
・1946年8月21日 「ウィルソン・ヴィクトリー」号はハワイにおいて船名を「Private Sadao S. Munernori」に改名
WW2後の第100大隊(第442連隊) [編集]
・1947年 第442連隊 予備役として再編成
・1968年 第442連隊は4000名の兵士で再編され、スコフィールド・バラックにて訓練を行う。 内、役1100名が実際にベトナムへ派遣された。 (派遣先の所属は調査中) 20:KIA
・2004年8月 第442連隊第100大隊は第29旅団に配属され、現役部隊に復帰。
・2005年5月~2006年1月 イラク派遣 4:KIA
・2008年10月~2009年9月 中東派遣 1:KIA
第100歩兵大隊は現在も、第442連隊第100大隊(他の大隊は存在していない)の名で、現役部隊として残っている。 もちろん日系人で編成、というわけではなく様々な人種が混在しているが、主な出身がハワイであるため日系人が多いのも事実である。 部隊章は”フリーダムトーチ”であり、制服にはフルカラー、野戦服にはサブデュードの肩章が着いている。
記録[編集]
・終戦までの第100歩兵大隊の記録 従軍者 : 3147名 戦死者 : 338名 死傷率 : 314% 死傷者 :9,486名
第100歩兵大隊における叙勲 大統領部隊感状 3 議会名誉勲章 1 殊勲十字章 24 銀星章 147 銅星章 3111 殊勲章 9 軍人勲章 8 紫心章 1703 師団表彰 30 フランス戦時勲章2 イタリア戦時勲章5
映像化作品[編集]
- 映画
正確に、第100歩兵大隊を主に扱った映画は存在していない。 映像化された作品は、すべて第100歩兵大隊と第442連隊を同一視している。 唯一、文藝春秋から発売されたドキュメンタリー「ドキュメントアメリカ第442歩兵連隊 : 日系二世たちの第二次世界大戦」は、その原作をドウス昌代氏の「ブリエアの解放者たち」としており、第100歩兵大隊を第442連隊とは分けて描いている。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- ドウス昌代『ブリエアの解放者たち』文藝春秋、1983年。ISBN 4167295032。
- 菊月俊之『二世部隊物語:Japanese Americans in combat Go for broke』グリーンアロー出版社、2002年。ISBN 4766333381。
- Club100. “Remembrance(100th 50thAnniversary)” (英語). 2012年11月22日閲覧。
- Chris・Komai (2012). Proud To Serve JapaneseAmerican WW2 Veterans. RAFU Shimpo
- {{Cite book|和書|author=オヴィル・C・シャーレイ|year=1950|title=四四二部隊|publisher=U.S.ARMY|}