利用者:Booska/戯言
もうね、どうしたらいいんでしょうね。
しばらく見てなかったんで、今のJAWPの惨状にビックリしてしまいました。管理者の解任関連を中心に全て目を通したんですが、浮かぶ感想はこの一文だけでした。
「皆さん、こんなことしてる場合じゃないんじゃないですか」
JAWPが危機的状況であるのは火を見るより明らかでしょう。際限なく続く荒し行為や破壊行為、メディア露出に伴った大量の初心者の増加と、それに全くといってよいほど手を打てていない現状、そして、日に日に増えていくフレーミングの数々。Tietewさんが被った草案段階での解任動議の時点で半ばあきらめていましたが…。
今件の解任やCUなどで行われているのは、紛れもない、足の引っ張り合いでしょう。くだらない。じつにくだらない。
もちろん、そんなカオスの中で懸命に軌道を修正しようとされている方はたくさんいらっしゃいます。特に猫が好き♪さんの行動には感銘を覚えるほどでした。しかし…その声も、今ではむなしく虚空に響くばかりです。
削除主義? 包摂主義? 私にしてみればそんなものはくだらないとしか思えません。コミュニケーションをとりながら百科事典を作り上げていくプロジェクトに、そんなイデオロギーなど必要ないのです。ましてや、何も法的効力のない、一介のネットワーカーが作っている事典にしか過ぎないこのJAWPで、何をそう怒り狂い、慌てふためき、そして拳を振り上げ続けるのか。その先にあるべき姿は、ますますかすんでいくばかりではありませんか。
もう、愛想がつきました。ある種の後悔を持ってウィキブレイクを宣言する価値すらない。もはや、管理系に首を突っ込むには手遅れの状況でしょう。今はただ、自分のペースを持って粛々と加筆を行うのみです。
残念です。ただひたすら残念という他ありません。--ブースカ(talk) 2007年5月17日 (木) 07:37 (UTC)
気がついたら編集回数が50回を超えていたので、勉強の意味も兼ねて管理系の名前空間を読んできました。その過程でブロック依頼へコメントしてみたんですが…。なんか、引っ込みがつかなくなっちゃいましたね。
とにかく残った大きな疑問。なぜ、そんなに瑣末な理由で直ぐにブロック依頼をしてしまうんでしょう。全く持って理解が出来ず、該当のノートなども読んでみて納得しました。ああ、熱くなってしまってるんですね。
渡鹿野島での経緯も改めて読みました。渡鹿野島については、私自身がそういった関連の職業に比較的近い位置にいるので、当時ログインするのも忘れて拝見していました。ただ、今回の件はステハンがどうのこうのは置いておいて、渡鹿野島とは全く関係のないところで起きているわけでして…。
特に気になるのは、ソックパペットに関する言及が多いことです。よくそれだけの論拠からステハンだと言い切れるなあ、と正直思います。いや、当事者の皆さんにしてみたら当たり前のことなのかもしれませんし、独特の特徴などがあるのかもしれません。でも、少なくとも私には全く説得力が伝わってきませんでした。あ、Peace氏とか、大学教授系とかは次元が違うと思うので(明らかに不自然な発言履歴など)、一緒にされても困るのですが…。
とにかく、そういった面からも私の目には「ケンカ」にしか写りませんでした。ならば、やる場所が明らかに違いますよね。ブロック依頼へ至るまで踏むべきステップがあり、そのステップを踏んだ上で、どうしても投稿ブロックに値するとしか判断できない場合にのみ、ブロック依頼はされるべきです。ですが…、少なくとも、今行われている一連のブロック依頼合戦が、そういったステップを踏んで行われたとは到底思えません。
私の言葉にとげがあるのでしたら、それは謝罪します。
でも、当事者の皆さんにはぜひともクールダウンをお願いしたいです。ブロック依頼が、もし持論を通すための道具としてまかり通ってしまうのなら、このウィキペディアは一気に崩壊してしまうでしょう。それほどブロック依頼という手続きは、あなた方が考える以上にリスキーなものだと思うのです。ぜひ、ご一考いただけないでしょうか。
私の手が空くようであればですが…、状況によっては該当記事の仲裁について、お手伝いができればとも考えています。しかし…、まだ編集回数が70回程度しかありませんし…。もっと、このウィキペディアについて勉強を続けていく必要がありそうです。
ブースカ(talk) 2006年4月10日 (月) 13:27 (UTC)
徐々にウィキペディアのノリにも慣れてきたみたいです。先日からは、新規記事の作成にもチャレンジしてみました。記事の内容がヒジョーにアレでソレですが(笑)。
いろいろとページを見てきたのですが、幾度とない変遷を経てこのプロジェクトは成り立ってるのだな、と強く感じました。その一方で、時折散見されるような、経験の豊富な参加者の方と、まだ慣れていない参加者(私も含みます)とのボタンの掛け違いと言いますか、すれ違いと言いますか、そんなものを感じたのも事実です。
確かに、ウィキペディアにはウィキペディアのルールがあります。「郷に入り手は郷に従え」の言葉どおり、参加するのであれば、その場所の流儀に則るのが当然の礼儀であり、ウィキペディアに限らずそういった基本的な姿勢こそが、場所と言うものの発展に寄与すると私は考えます。ですが、その流儀を堅持しようとするあまり、一方的な面だけから判断を下し、「問題のある、と思われる」新規の参加者に対し、強くあたろうとする場面も多々見えてきました。
私は、この光景を前に見たことがあります。それも、何度も。
私が参加した頃のネットニュース、特にfj.はまさにそういった場所でした。確かにfjはインターネット黎明期において重要な役割を果たした「場所」です。しかし、その排他的な雰囲気は後発層の受け入れを阻害し、次第に敷居を高くしていきました。その結果は、今のインターネットを見れば一目瞭然でしょう。fjのカウンタープレイスとして登場したjapan.でさえ、同じ道をたどっていきました。
場所というものを防衛しようとするもの。その動き自体について、責めたり、批判したりする気はありません。
むしろ、それは場所と言うものを守ろうとするが故の本能みたいなものであり、必要な物であるからです。ウィキペディアの管理者の皆さんはさぞかし日々大変な思いで向かっていらっしゃると思います。心中、お察しします。
しかし、だからこそ、もう一度私は考えるべきなのだと思うのです。敷居を高くすることは、場所の死を招きます。場所を守りたいがあまり、防衛活動を高めれば、それは敷居の上昇を意味します。一言で言ってしまえば、それはまさに「視野狭窄」に過ぎません。
視野狭窄を発生させ、消えていったコミュニティ、プロジェクト、ウェブサイト。一体何度見てきたことか…。
もう二度と、そんな寂しい光景を見たくありません。ましてや、こんなにまで成長したウィキペディアが、崩れ去るさまをだなんて。
そんな思いを抱きながら、私は今日もパソコンに向かいます。
ウィキペディアは、私を受け入れてくれるでしょうか。