利用者:Eugene Ormandy/sandbox45 ベルンハルト・パウムガルトナー(加筆用)

ベルンハルト・パウムガルトナー
基本情報
生誕 (1887-11-14) 1887年11月14日
出身地 ウィーン
死没 (1971-07-27) 1971年7月27日(83歳没)
学歴 ウィーン国立音楽大学
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者作曲家音楽学者

ベルンハルト・パウムガルトナーBernhard Paumgartner1887年11月14日 - 1971年7月27日)は、ザルツブルクで活躍したオーストリア指揮者作曲家音楽学者教育者である[1]

生い立ち[編集]

アントン・ブルックナー (1854年)
グスタフ・マーラー (1892年)

1887年11月14日、オーストリアウィーン四区ヴィーデンにて、音楽家の両親のもとに生まれる[2]。父ハンスはピアニスト兼評論家であり、母ローザ・パピアーはドイツ皇室オペラ、および1880年代のウィーンで活躍したメゾ・ソプラノ歌手であった[2][3][4]

父ハンス[編集]

父ハンスは、同じく「上部オーストリアの片田舎の出」であった作曲家アントン・ブルックナーと親しかった[5]オーストリアの政府機関紙「ウィーン新聞」の批評家であったハンスは、「ワーグナー派」に敵対する批評家エドゥアルト・ハンスリックに反対してブルックナーの味方をしていた[5]

ブルックナーは手掛けている作品をハンスに聞かせ「特有の弁護するようなやり方で」作品を説明していた[5]。例えばホルンが弦楽器のトレモロに乗って登場する交響曲第4番の前奏について「ここで鐘楼守が、美しい夏の朝に古いドイツ帝国を吹き鳴らすのだ」と語り、スケルツォのトリオの鳥の歌や狩や森の静けさについて話したが、ハンスが「これら全てのことがすでに作曲をする前に心に浮かんできたのか」と尋ねたところ、「もちろん前じゃないよ。後だ」と答えたという[5][6]

母ローザ・パピアー[編集]

母ローザは息子の出産後すぐ舞台に復帰したが喉を痛めたため、1891年からは指導に徹し、ウィーン・アカデミーで教鞭をとった[2][4]。また、ドイツの都市カッセルへの演奏旅行で知り合って以来、作曲家・指揮者のグスタフ・マーラーとも親交があり、1895年には一番弟子のアンナ・フォン・ミルテンブルクを連れてハンブルクへ行き、マーラーのオーディションを受けさせている[4][7]。アンナとマーラーは恋愛関係となり、ローザは自身の恋人であったウィーンの劇場行政官エドゥアルト・フォン・ヴラッサークとともにマーラーを支援した[4]。二人の支援により、マーラーはヴィルヘルム・ヤーンの後を継いでウィーン宮廷歌劇場の監督となったが、就任後はそれまでの知り合いを遠ざけるようになったため、1903年にローザはアンナに対し「」と書いている[4]

その他の親戚[編集]

幼少期[編集]

ヨハン・シュトラウス2世 (1899年)

幼年時代を過ごしたヴィーデンには様々な音楽家が住んでおり、パウムガルトナー一家が住んでいたフランケンベルク通りから「二百歩も離れていないところ」には作曲家のヨハネス・ブラームスが、「そこからほど遠くないところのベルヴェデーレ宮殿側翼」には同じく作曲家のアントン・ブルックナーが住んでいた[2]。また、「そのもう少し近く」のシュヴィント通りにはフーゴー・ヴォルフが、さらにヴィーデンの大通りにはヨハン・シュトラウス2世が住んでいた[2]。さらに「ウィーンではかなり名をなしている小音楽家たち」がヴィーデンには集っており、パウムガルトナー家ではこれらの音楽家たちについて「尊敬の念を込めて」語られていた[2][5]

音楽家たちとの交流[編集]

少年時代のベルンハルトは、ヴィーデンの作曲家たちの姿を見るために「いろいろな探検旅行」をしていた[5]

ヨハネス・ブラームス[編集]

ヨハネス・ブラームス (1887年頃)

カール通りから大きな爽竹桃のある門道を抜けて、ベルンハルトはブラームスの家に近づき、扉にあしらわれている種々の色がついたガラス窓から作曲家の姿を眺めていた[5]

ベルンハルトはブラームスについて、以下のように語っている。

神様のような髭があるので、ヨハネス・ブラームスは、教会にある祭壇の画像の使徒の一人のように見えました。この巨匠は、いやむしろその髭は、強いタバコとコーヒーのにおいがしました。ブラームスは気むずかしい人だったようですが、子供たちといっしょのときはいつもやさしい人でした。暖かい日などには自分の家の庭にあるあずま屋で仕事に熱中していました[5]
このガラス窓を通して私は、神聖な髭をつけた老人が魔法の仕事をしているのを観察することができました。あるときは緑の、あるときは黄色の光の中に、またあるときは青や赤の光の中に彼はいました。この夢のような珍しい印象はその後も私の念頭から去ることはありませんでした[5]

アントン・ブルックナー[編集]

アントン・ブルックナー (1889年)

上述のとおり、ベルンハルトの父ハンスとブルックナーは親しい友人であった[5]。1896年にブルックナーが亡くなった際には、ヴィーデンのカール協会で葬式が執り行われたが、「自分の住んでいた地区のあらゆる隠れ小路をよく知っていた」ベルンハルトは、脇の小門をくぐって聖楽室を通り教会へ入り込んだ[6]。その時ベルンハルトは、自分のすぐ側の暗い柱の影にヨハネス・ブラームスの姿を認め、「涙がすでに死相をおびているほほを伝わって髭の中に流れ」ていく様子を目にした[6]。その様子をベルンハルトは母に伝え、のちに母は何度もその話を語った[6]

ベルンハルトはブルックナーについて以下のように語っている。

この巨匠は儀式ばったかたくるしい面のある人でしたが、若い人にはいつもうちとけていました[5]
確かにブルックナーの音楽は、彼の故郷オーストリアの宗教的な風土の中に深く根差しています。これはブラームスの音楽が、バッハやヘンデルの音楽を育てたのと同じ過去のドイツの新教の世界に根ざしているのとまったく同様なのです[8]

フーゴー・ヴォルフ[編集]

フーゴー・ヴォルフ(1902年)
ハンス・プフィッツナー (1905年)

作曲家フーゴー・ヴォルフとの思い出について、ベルンハルトは「少年時代の思い出の中では非常に強烈なものとして残っています」と語っている[6]。「彼の天才を知った最初の人々の一人」であるベルンハルトの父ハンスは、友人たちとともにヴォルフを支援しようとした[6]。ヴォルフはパウムガルトナー家の常客となり、様々な論争に参加していたが「いつもすさまじい勢いで復讐を誓いながらマントや帽子を残して家から出て行」った[6]。しかし「二、三日経つとまったくなんにもなかったような顔をして、新作のリートを手にしてひょっこり舞いもどって来て、そのリートについて熱心に議論を闘わ」せていた[6]

また、ウィーン社交紙の批評家として、ハンスとともに「ブラームスのあるオーケストラ作品の初演」に立ち会った際、ヴォルフは突如としてうめき始め、顔を歪めたり、痙攣を起こしたそうになったりした[6]。隣の席に座っていたハンスは「ヴォルフの憎悪が爆発するのを恐れて」声をかけたところ、ヴォルフは「いまいましい。俺は気に入っているんだ」と答えた[9]

ベルンハルトはヴォルフについて以下のように述べている。

問題なのは彼になにかを納得させることでした[6]
ヴォルフは狂信的なほど自分の考えを固執する人で、その点ではまったく新しい型の芸術家であったといえましょう。ともかく彼のようなタイプはのちのマーラープフィッツナーに受け継がれています[6]

グスタフ・マーラー[編集]

グスタフ・マーラー (1909年)

上述のとおりグスタフ・マーラーはベルンハルトの母ローザ・パピアーと親交があり、パウムガルトナー家にも顔を出していた[7]。ベルンハルトは「成長期にあった私は彼の偉大な人格に触れることもできましたし、また彼の劇場総監督としての、また作曲家としての模範的な仕事にも触れて、大いにうることがありました」「マーラーの場合、作品のうちで重要な条件となっていると思われることは、すべて舞台やオーケストラで表現されていました」と語り、マーラーの姿を見て音楽界で生きていく決意を固めた[7][10]。 ベルンハルトは他にも、マーラーの芸術について以下のような発言をしている。

マーラーの芸術は、むしろほかの巨匠たちのように栄冠的な完成ではありませんでした。マーラーの芸術は当時の代表的なものではありますがその精神は危機的要素に満たされていて、今日でも解明されていないある時代(訳注には「ドイツロマン主義のことを遠回しに言っている」と記されている)のそれに通じるのです。そしてシェーンベルク、ウェーベルン、アルバン・ベルクなどもおそらくこの精神から出発しているのだろうと思います。しかしマーラーの芸術の真の目的と未来はほかのところにありました。これらの未曾有の開拓は、第一次世界大戦の破局によってうちくだかれてしまいました[8]

その他の芸術家たち[編集]

ハンス・リヒター (1876年)

他にもパウムガルトナー家には多くの人々が訪れた[9]。音楽家では、指揮者のハンス・リヒターフェリックス・モットルジークフリート・ワーグナーらが足を運び、他にも「偉大な性格俳優」で、ベルンハルト・パウムガルトナーの名付け親となったベルンハルト・バウマイスター、著述家で批評家のヘルマン・バール[† 1]マックス・カルベック、史家でありベルンハルトの友人となったルートヴィヒ・カルバート、およびグスタフ・シェーンアイヒらが集った[9]

音楽教育[編集]

ブルーノ・ワルター (1900年頃)

歌手である母ローザ・パピアーは、幼いベルンハルトにモーツァルトのオペラ『魔笛』のストーリーを話して聞かせ、オペラの導入部を暗譜・および身振り付きで歌い聞かせていた[2]。母が特に演じるのは、登場人物タミーノが蛇に追われたところを3人の侍女に助けられる場面で、母の役は3番目の侍女であった[2]。のちにベルンハルトは「私の母は、完璧な聴覚と驚くほどの記憶力とをもった飛び抜けて音楽的な女性で、歌手でしたがピアノも非常にじょうずに弾きました」「『私たちの力で死んでおしまい、恐ろしい蛇よ』と歌うところが、まだ私の耳にそっくりそのまま響いてきます」と回想している[2]

ベルンハルトは音符の読み方を自分で覚え、最初に学校の授業を受けたときにはすでにヴァイオリンを弾くことができ、ピアノで即興演奏をすることもできたと語っている[2][5]

ベルンハルトは母以外にも様々な音楽家に教わっている。母が残した息子の音楽教師の名簿には「19世紀末のウィーン音楽界を代表する顔ぶれ」が並んでおり、ホルン教師としてカール・シュティーグラー、ヴァイオリン教師としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者ヤーコプ・グリュン、音楽史の教師としてグイード・アドラー、およびウィーン楽友協会文書課長であったオイゼービウス・マンディチェフスキー(のちにベルンハルトは、マンディチェフスキーが病気になった際にウィーン音楽院で代理を務めた)指揮の教師としてブルーノ・ワルターの名が記されている[4][12][13]。のちにベルンハルトはワルターについて「彼からはマーラーと同じくらい私は恩恵を受けている」と語り、ワルターのブルックナーに関する発言を紹介している[8]

ブルックナーに近づくためには、初めは音楽家として近づいてはならない。彼を信仰するような気持ちでブルックナーに近づくべきである[8]

また、マーラーの友人でもあったナターリエ・バウアー=レヒナーにもヴァイオリンを学んだ[3]

ギムナジウム時代[編集]

マリア・テレジア (1727年)

ベルンハルトはギムナジウムの学業をマリア・テレジア学院にて修めた[9]。最初の2年は通学生として家から通い、残りの期間は寄宿舎の学生として過ごした[9]。マリア・テリジア学院には、貴族出身の生徒もいれば、中産階級出身の生徒もおり、のちにベルンハルトはこの状況について、ベートーヴェンブラームスといった他国の出身者も「たやすくオーストリア人になれた」という事例を引きながら、「多様性に富む国における団結という立派な贈り物」と語っている[9][14]

テレジア学院には、考古学の陳列室や貨幣を収集した部屋、さらにはテニスコートフットボール場もあった[14]。ベルンハルトは人文学科や現代語を学習しながら、友人たちと文学・音楽・美術にまつわる議論をしたり、フェンシング乗馬を楽しんだりした[14]。のちにモーツァルテウム音楽院の院長となったベルンハルトは、テレジア学院の自由さを音楽院の教師・学生が体現できるよう努力したと語っている[14]

ベルンハルトは、マリア・テレジア学院で「十分に基礎的な音楽の勉強をすることができ」たと語っており、同級生とオーケストラを組織して金管楽器の指導をしたり、ピアノの教師のルードルフ・ディンツルと「当時のもっとも新しい傾向の交響的作品」を連弾したりした[14]。これらの経験を通し、ベルンハルトは指揮者になりたいという意志を抱くようになり、ギムナジウムの7年生、8年生のときにはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の楽団員を指揮できるようになっていた[14][7]。また、楽団員たちの一部は、ベルンハルトが指揮するオーケストラに加わり、ベートーヴェンやモーツァルトヘンデルの作品の演奏を手伝いながら、ベルンハルトに様々なことを教えた[7]

キャリア初期[編集]

バルトーク・ベーラ(1903年)

1911年に、ウィーン大学で法律学の博士号を取得したパウムガルトナー(以下、ベルンハルト・パウムガルトナーの略記を「ベルンハルト」から「パウムガルトナー」に変更する)は、法学史の分野で大学教授の資格を得ることも視野に入れたが、結局は音楽の道を選び、音楽学をグィード・アードラーのもとで学びながら、芸術史と考古学も学んだ[8][15]

1911年から1912年の間は、ブルーノ・ワルターの推薦でウィーン宮廷歌劇場の練習指揮者を務め、独唱者の下稽古のピアノ伴奏をしていた[8][16][17]。また、その後ウィーン音楽院に講師として招かれたが、これがパウムガルトナーの公的な教育活動の始まりであった[8]。なお、その傍らで作曲をしたり、評論を書いたりした[8]。また、1914年から1917年にかけて、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の指揮者を努めた[17]

同じく1914年、パウムガルトナーは参謀長コンラート・フォン・ヘッツェルドルフの援助を得て、陸軍の「音楽史中央本部」に配属された[16][18]。この部署は1905年に「帝国・皇室軍楽措置班」が立ち上げたもので、各地方におけるオーストリア帝国軍の愛唱歌と行進曲の調査が仕事であった[16]。この仕事を通じてパウムガルトナーは作曲家のバルトーク・ベーラコダーイ・ゾルターン、ハーバー、べチェレーク、ヴィルヘルム・グロスらと知り合っており、古い歌や行進曲に対する愛情を深めた[16][18][19]。ただし、その成果は戦火により破壊された[18][19]

また、1914年には詩人ペーター・ローゼッカーの末娘マルタと結婚し、のちに二人の子供を設けた[18]

モーツァルテウム音楽院との関わり[編集]

モーツァルテウム音楽院 (1935年ごろ)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

1917年9月6日、母親の手回しもあり、パウムガルトナーは30歳にして、オーストリアの都市ザルツブルクにあるモーツァルテウム音楽院院長に任命された[3][19]。当時のモーツァルテウムは「国立アカデミーというより私立学校のような感じ」であり、パウムガルトナーは自身の豊富な人脈を駆使して業務に取り組んだ[3]

沿革[編集]

設立・着任[編集]

1803年大僧正の宗教音楽団体が廃止された際、教会音楽団体が設立されたが、モーツァルテウムの由来はその教会音楽団体の音楽学校であるとされる[18]1841年にはモーツァルトの没後50周年を記念して、「大聖堂音楽協会およびもーツァルテウム」が設立され、モーツァルトの『レクイエム』を演奏した[20][† 2]。「1914年には新たなモーツァルテウムの礎石が置かれ、パウムガルトナー就任時には新たな校舎も完成していた[18]

第一次世界大戦後の不安定な政情により、学校を運営していたモーツァルテウム協会は危機に陥ったが、1922年にはパウムガルトナーの助力もあって連邦や州、ザルツブルク当局の支持を得ることに成功した[18]。その後パウムガルトナーが「自分の意のままに集め」た「有能な教師たち」は、モーツァルト管弦楽団(1938年「モーツァルテウム管弦楽団」に改名)を結成し、市の劇場で定期的なオペラ公演をしたり、演奏会を開いたり、外国への演奏旅行を実施したりした[17][18]。また、パウムガルトナーは音楽教師のための養成所を開設し、夏季講習会を実施したため、モーツァルテウムには世界中から学生が集うようになった[18]

第二次世界大戦期の追放[編集]

第二次世界大戦後の復帰[編集]

オーケストラの指導・設立[編集]

モーツァルテウム着任以来、パウムガルトナーはモーツァルトの作品の研究・演奏に務め、上述のモーツァルテウム管弦楽団を「学問的な知識と実際の音楽の問題とを結び合わせるように」指導した[12]。また、第二次世界大戦後の1952年には、教授陣と同窓生からなるカメラータ・アカデミカを設立し、音楽祭の時にはマチネーでモーツァルトのセレナーデなどを紹介した[12][15][21]。パウムガルトナーは「こうして長年の指揮活動をしている間に私はモーツァルトのほとんど全部の作品を楽員たちとともに演奏することができました」と語っている[12]


ザルツブルク音楽祭との関わり[編集]

ザルツブルクとの出会い[編集]

モーツァルテウム改築基金募集委員会の代表メンバーである、ソプラノ歌手のリリー・レーマンによってモーツァルト音楽祭が準備された1906年、パウムガルトナーは初めてオーストリアの都市ザルツブルクを訪れた[16]。この音楽祭ではマーラーが『フィガロの結婚』を、リヒャルト・シュトラウスが『コジ・ファン・トゥッテ』を指揮している。また、ドイツ語圏では「滅多にない」とされるイタリア語版の『ドン・ジョバンニ』が、レイナルド・アーンの指揮で上演されている[16]。その後の1917年、上述のとおりパウムガルトナーはザルツブルクのモーツァルテウム音楽院の院長に就任している[3]

ザルツブルク音楽祭前史 (〜1920年)[編集]

マックス・ラインハルト (1911年)
リヒャルト・シュトラウス (1918年)

19世紀を通して、ザルツブルクの人びとは当地出身の作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの「名を讃える努力」を怠っていると批判されていたが[† 3][† 4]、1887年、ついに委員会が組織され、当時ザルツブルクの劇場が集まっていた場所に近いメンヒスブルクに「芸術の殿堂」を立てようという機運が高まった[19]。座席数を1500とし、モーツァルトのオペラ上演に適した舞台を作り上げるつもりであったが、計画は頓挫した[19]。その後、1916年フリードリヒ・ゲーマッヒャーハインリヒ・ダミッシュが、町の北側のマリア・ブライン巡礼教会の近くにある空き地に劇場を建設する計画を立てた[19]。なお、この二人には以前にも「質の高い音楽祭を開いて金持ちと有名人をこの町に集める」という提案をしており、モーツァルテウムの人々から「鼻であしらわれていた」[19]。1916年の二人の提案は「時間がかかりすぎたあげく」「利害関係の泥沼にどっぷりはまり込ん」でしまい、痺れを切らした二人はオーストリアの首都ウィーンに赴き、新規にザルツブルク音楽祭協会を設立するという「強引な手段」をとった[23]。彼らはそのためにパウムガルトナーの支持を求め、その輪には舞台演出家のマックス・ラインハルト、作曲家・指揮者のリヒャルト・シュトラウス、詩人・劇作家のフーゴー・フォン・ホフマンスタールも加わった[23]1919年、パウムガルトナーは、クリスマスにラインハルトがハーライン(ザルツブルクから南に下った場所)の村の教会で上演する、現代風に書き直した中世劇の音楽の編曲を行う予定であったが、第一次世界大戦後の欠乏状態からこの企画は流れた[24]。しかしこれにより「ザルツブルクで中世の道徳劇『イェーダーマン』の改作(1911年にホフマンスタールがラインハルトのために、ベルリンで書き上げていたもの)を上演する」という企画が持ち上がった[24]。なお、この企画が誕生した経緯としては「粗末なザルツブルクのホテルでまずいコーヒーをすすりながらラインハルトとパウムガルトナーが考えた」とする説(パウムガルトナーの言によるもの)と、「音楽祭協会の優秀な事務官エルヴィン・ケルバーが、ラインハルトと名高いウィーンの後援者ヘルマン・バウアーの2人と一緒にコーヒーを飲んでいるときに提案した」とする説がある[24]。ともあれ、『イェーダーマン』は1920年8月22日にザルツブルクの大聖堂前広場で上演された[24]。この上演は、「ザルツブルク音楽祭の誕生の瞬間とはいえない」が「この舞台が大きな契機になった」とされている[25]

ザルツブルク音楽祭創設後 (1920年〜)[編集]

『イェーダーマン』の上演風景 (1920年)

1920年にはザルツブルク音楽祭の創設に携わり、1960年からは総監督を務めた[3]。晩年には、モーツァルテウムで午前11時から開催されるモーツァルト・マチネーと、初演地の聖ペテロ修道院における、モーツァルトの『ミサ曲ハ長調』のコンサートのみを指揮した[3]

1921年から1924年にかけては不評[26]

1925年には、ブルガリアの作曲家・ピアニストであるパンチョ・ヴラディゲロフとともに、ラインハルトの『奇跡』の音楽と指揮を担当した[27]

1928年から29年にかけては、委員会が設立されて「マックス・ラインハルト事件」と題された匿名の報告書が作成され、「金持ちのアメリカ人やエリート階級など、音楽祭にはふさわしくない客を集めている」「自分の気に入らないアーティストを容赦なく首にする」「ザルツブルク音楽祭の収益を食い物にしている」としてラインハルトが批判されたが、地方長官のフランツ・レールらはこの輪には加わらず、パウムガルトナーも政治家のゲーマッヒャー、大聖堂の合唱指揮者ヨーゼフ・メスナーとともに別の報告書を作成した[28]。なお、メスナーとパウムガルトナーは相性が良いわけではなかったが、互いの仕事には敬意を払っていたとされる[28]。また、パウムガルトナーの弟子ヘルベルト・フォン・カラヤンもメスナーと面識があり、第二次世界大戦後にカラヤンが非ナチ化の審理を受けた際には人物証明を書いているが、1949年にザルツブルク音楽祭の運営者たちがカラヤンを招いてヴェルディの『レクイエム』を指揮させようとしたときには、自身の領域の宗教音楽が侵されるのを嫌い反対した[28]

1930年代には、オーストリアで勢力を強めたナチスのメンバーとも対立した[3]

1960年には、88歳だったピュトン男爵の後を継いで音楽祭総裁の地位に就任した[29][30]

1971年、ザルツブルク音楽祭開幕2日後に死去した[3]

音楽祭に参加した芸術家たちとパウムガルトナーの交流[編集]

リヒャルト・シュトラウス (指揮者・作曲家)[編集]

クレメンス・クラウス(指揮者)[編集]

フリッチャイ・フェレンツ(指揮者)[編集]

オットー・クレンペラー (1947年)
フリッチャイ・フェレンツ (1941年)
フランク・マルタン (1959年)

1947年のザルツブルク音楽祭では、作曲家ゴットフリート・フォン・アイネムの新作オペラ『ダントンの死』が、オットー・クレンペラーの指揮で初演される予定であったが、クレンペラーは最初のリハーサルの際に病に倒れてしまった[31][32]。そこで、同年6月にウィーンでブダペスト交響楽団を指揮したハンガリーの指揮者、フリッチャイ・フェレンツが、クレンペラーの補助指揮者を務めてほしいという依頼を受けた[33]。指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンに才能を保証されていたものの、アイネムはフリッチャイの演奏を聴いたことがなかったので、アイネムの作品を出版しているユニヴァーサル・エディション社にて、自作をフリッチャイに弾いて聴かせた[34]。フリッチャイは「熟考してほどなく承諾した」が、予定されていた7回の演奏会のうち一つは自分が指揮をするという条件を提示し、さらに、クレンペラーの健康状態が悪化すれば自分が初演の指揮を引き受けると語った[35][36]。結局のところクレンペラーの病状は悪化し、フリッチャイが指揮を担当することになった[37]

演奏会は成功を収め、ソプラノ歌手のマリア・シュターダーは「ザルツブルクにおける歌劇『ダントンの死』の初演を(フリッチャイが)急遽引き受けたことは、音楽家たちの間では広く知れわたっていました」と記している[38]。また、のちにアイネムは、1963年に死去したフリッチャイへの追悼文において「ザルツブルクの舞台にユーモアと厳しさを兼ね備えた新人として現れたフリッチャイは、時代を担う大指揮の一人と目されるほどの偉業を成し遂げました。その人間性や芸術性は今日でも語り草となっています。彼は真の芸術を探求し、それを成し遂げることができたのだと私は断言します」と回顧している[39][40]。同様にパウムガルトナーも追悼文において「フリッチャイはまれにみる集中力でリハーサルに臨み、驚くべき指揮テクニックの正確さを披露し、私たちはその最初の瞬間から感嘆したものです。熱狂的で仮借なく、厳格さと情熱的な真剣さを備え、また曲を内面から理解して形成できる音楽性は、かつてのグスタフ・マーラーを思い起こさせます」と記している[41]

その後フリッチャイは何度かザルツブルク音楽祭に登場することとなり、1948年には演出家フリッツ・シューと共にフランク・マルタン作曲のオペラ『魔法の瓶』の初演を、1949年にはカール・オルフ作曲のオペラ『アンティゴネ』の初演を担当した[41]。また、1961年にはモーツァルト作曲のオペラ『イドメネオ』を、新たに完成した祝祭大劇場において新演出のもと指揮したが、パウムガルトナーはこの公演について「ザルツブルク音楽祭の関係者たちは、出演している優れた指揮者の中から、新しい偉大なモーツァルト指揮者が出てきたことを悟」ったと述べている[42][43]。フリッチャイはパウムガルトナーら関係者と、ザルツブルク音楽祭の公演計画についても話すようになったが、パウムガルトナーはフリッチャイについて「幸いなことに、彼はこの音楽祭の理念に賛同し、その理念に沿ってくれ、レパートリー制の硬直したシステムに縛られることを望みませんでした。慎重に仕上げられるリハーサルによって、芸術的な再現をするための自由が生まれてくることが大事であると考えていたのです。モーツァルトの作品に対するまさに予言的なはっきりした見解は、彼との魅力的な会話において深く示唆に富むものでありました」と語っている[43]。その後1962年には『イドメネオ』の再演を、1963年には同じくモーツァルト作曲のオペラ『魔笛』(パウムガルトナー曰く「1963年におけるモーツァルト作品の上演計画の重要な柱」であった)を指揮する予定であったが、病に倒れたフリッチャイの登場は叶わず、パウムガルトナーは、病床のフリッチャイが著したモーツァルトとバルトークに関するエッセイを受け取ることしかできなかった[43]。フリッチャイの死後、コンサートホールの前には半旗が掲げられた[44]

ナチス・ドイツによる妨害[編集]

弟子ヘルベルト・フォン・カラヤン[編集]

ヘルベルト・フォン・カラヤン(1938年)
ヨゼフ・ホフマン (1916年)

1917年の音楽院院長就任以前から、パウムガルトナーはザルツブルクの医師・宮廷顧問官・アマチュアクラリネット奏者であったエルンスト・フォン・カラヤン(州立劇場のオーケストラ・ピットに潜り込み、メンバーを装って演奏することもあった)の家に出入りするようになり、その子どもであったヴォルフガングとヘリベルトの「家庭教師兼大好きなおじさん」となった[3][45][46][47][48]。パウムガルトナーは特に成長期のヘリベルトに「社会的にも音楽的にも」影響を与えたとされており、のちにヘルベルト・フォン・カラヤンと改名したヘリベルトは「」とコメントしている[49]。また、13歳の頃よりカラヤン(以下の記述における「カラヤン」は上述のヘリベルト、すなわちヘルベルト・フォン・カラヤンのことを指す)。はパウムガルトナーのリハーサルに潜り込んでおり、モーツァルテウムのオーケストラや、ホルン奏者のカール・シュティーグラー、ピアニストのエリー・ナイなどの演奏を聴いていた[49]。さらに、上述のシュティーグラーやファゴット奏者のフーゴー・ブルクハウザー、そしてのちにウィーン音楽大学の指揮クラスでカラヤンを教えることになるオーボエ奏者・ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団理事 (1923年〜1932年) のアレクサンダー・ヴンデラーなどのウィーン・フィルの首席奏者たちが、モーツァルトのセレナーデやディヴェルティメントを指揮する一連のコンサートで、カラヤン家の兄弟がモーツァルトの聖歌やモテットを歌ったこともある[49][50][51]

1914年モーツァルテウム音楽院へ入学したカラヤンは、フランツ・レトヴィンカにピアノを、フランツ・ザウアーに和声学を師事すると同時に、パウムガルトナーによる指揮と室内楽の指導を受けた[52]。そして1917年には、パウムガルトナーの指揮でピアノ協奏曲を弾いてデビューした[53]。指揮者として活躍するようになってからもパウムガルトナーとカラヤンの関係は続き、パウムガルトナーがザルツブルクで指揮したオペラの地方公演をカラヤンが担当することもあった[54][55][† 5]。また、指揮者としてデビューして1ヶ月ほどしか経っていない1929年の夏から、パウムガルトナーやブルーノ・ワルター(上述のとおりパウムガルトナーの師である)とならんで、カラヤンはザルツブルクでの夏季講習会に講師として参加するようになった[56][57][† 6]

しかし40年代、50年代はアイネムやフルトヴェングラーとの確執により、ザルツブルクの舞台からは遠ざかった[58][59]。1956年には芸術監督に[60]

パウムガルトナーとカラヤンのやりとりは、カラヤンとナチスの関係を言及する際にも取り上げられている[61]。第二次世界大戦後の1946年、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団へカラヤンが客演することが決定すると、ソ連が介入をはじめた[61]。検閲担当士官エプステインが、カラヤンがナチスの党員であったことを理由に客演を阻止しようとしたが、パセッティはパウムガルトナーからの手紙を擁護材料として用い、カラヤンはナチスの信奉者ではなかったと主張している[61][62]。なお、ロシア語が堪能なウィーンフィルハーモニー管弦楽団コンサートマスターのフリッツ・セドラックの尽力もあり、結局カラヤンの客演は認められた[63][64]

ザルツブルク音楽祭については、両者ともマスコミに感づかれないようにしていたが、パウムガルトナーとカラヤンは意見が合わないことが多かった[29]。その結果、パウムガルトナーがザルツブルク音楽祭の総裁に就任し、新たな祝祭大劇場が完成した1960年に、カラヤンは音楽祭芸術監督を辞任した[29]。ただし以後3年にわたりカラヤンは「指揮者兼舞台制作者」として音楽祭に関わり続け、1964年にウィーン国立歌劇場音楽監督を辞任したのちもパウムガルトナーと交渉を続け、〇〇年に「」に就任した[29]。その後1988年9月1日に、カラヤンはザルツブルク音楽祭執行委員を辞任した[65]


なお、カラヤンはザルツブルク音楽祭とは別に、同地で音楽祭を創設しており、

1973年にはザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を創設している(オズボーン下277)

〇〇年にはザルツブルク復活祭音楽祭を創設している。

なお、カラヤンは自身がピアニストから指揮者に転向した理由の一つとして、パウムガルトナー、ならびにウィーンでピアノを師事したヨーゼフ・ホフマンの両名から、ピアノだけでは物足りなくなるだろうと言われたことを挙げている[27][66][† 7]。また、晩年のパウムガルトナーは、カラヤンの指揮ぶりがマーラーに似ていると口にしていた。指揮の外見ではなく音楽の質が似ていると語り、カラヤンが将来的にマーラーの作品を指揮すると予言していた[3]

音楽面以外でもパウムガルトナーはカラヤンに影響を与えており、イタリアで兄ヴォルフガングを交えて美術館を訪れたりした[68]。また、両者ともにバイクを好んでいた[69]

指揮者として[編集]

ザルツブルク州立歌劇場 (2007年)

モーツァルト[編集]

1920年代のパウムガルトナーはザルツブルクで積極的な指揮活動を展開していたが、レパートリーはモーツァルトセレナーデや合唱曲に限られていた[49]

オペラ[編集]

また、パウムガルトナーは演劇の舞台で伴奏音楽を指揮することも多かったが、オペラはあまり手がけず、自作の『サラマンカの洞窟』も指揮しなかった[50]。ただ、モーツァルテウムのオーケストラが、カール・グロース博士の協力のもと「野心的な」オペラを州立劇場で上演することに関しては大きな誇りとしていた[50]。グロースが手掛けたオペラは、ヴォルフ・フェラーリ作曲『スザンナの秘密』、リヒャルト・ワーグナー作曲『トリスタンとイゾルデ』、ヴィルヘルム・キーンツル作曲『福音書語り』(作曲家自身が指揮をした)、エーリヒ・コルンゴルド作曲『ポリクラテスの指輪』が挙げられる[50]

なお、パウムガルトナーの弟子のヘルベルト・フォン・カラヤンは、ウィーン音楽大学後の1929年6月、モーツァルテウム音楽院におけるグロースの歌劇クラスの期末公演のために、ロルツィング作曲の『刀鍛冶』を指揮している[50][54]。また、1930年6月にもピエトロ・マスカーニ作曲の『カヴァレリア・ルスティカーナ』をグロースの歌劇クラスで指揮している[70]

各種演奏活動[編集]

1958年には初めて来日し、ABC交響楽団などを指揮した[13]。また、1965年には、アメリカダラスで行われたジョン・F・ケネディ大統領の追悼演奏会で、モーツァルト作曲のレクイエムを指揮している[13][71]

作曲家として[編集]

音楽学者として[編集]

師事[編集]

上述のとおり、

モーツァルト『オーボエ協奏曲ハ長調』と『フルート協奏曲第2番ニ長調』について[編集]

オーボエ協奏曲のオーボエパート譜 (1920年)

1920年、モーツァルテウム音楽院にてモーツァルトの息子の遺品を調査するなか、パウムガルトナーは『オーボエ協奏曲ハ長調』のパート譜を発見した[72]。この『オーボエ協奏曲』は、同じくモーツァルト作曲の『フルート協奏曲第2番ニ長調』と調性と独奏部分が違うだけでほぼ同一であり、『オーボエ協奏曲』の方が先に作曲された『原曲』であると判断された[72]。その理由としては、モーツァルトの手紙より『オーボエ協奏曲』の作曲年は、作曲の契機となったベルガモ出身のオーボエ奏者、ジュゼッペ・フェルレンディスがザルツブルクの宮廷オーボエ奏者となった1777年4月1日から、『オーボエ協奏曲』が演目に組み込まれたマンハイム・パリ演奏旅行に出発した1777年9月23日の間に特定できるのに対し、『フルート協奏曲第2番』の作曲年は、同じくモーツァルトの手紙より「おそらく1778年1月か2月」と推測されるからである[72][† 8][† 9]。これにより、「ド・ジャン伯爵に2つのフルート協奏曲と3つの四重奏を作曲したが報酬は2分の1未満だった」とするモーツァルトの手紙と「1つしかフルート協奏曲を作曲できなかった」という、矛盾するように思える手紙が存在する理由は「約束した協奏曲のうち1つしか『新しく作曲』しなかった(もう一つは既存のオーボエ協奏曲の編曲だった)から」であるとされた[72]

パウムガルトナーが発見したパート譜は18世紀にウィーンで書かれたと思われるものであり、パウムガルトナーは1949年にロンドンで総譜を出版し、さらに翌年にはこの協奏曲についての論文を発表した[72]。なお、パウムガルトナーは『オーボエ協奏曲』が先に作曲され、『フルート協奏曲第2番』はそれを一音あげて(ハ長調からニ長調)編曲したと考察しているが、その理由として、『フルート協奏曲第2番』におけるヴァイオリンの最低音が(楽器本体の最低音であるト音より一音高い)イ音に止まっていること、モーツァルトが作曲したもう一方のフルート協奏曲である『フルート協奏曲第1番』では、フルートの最高音が3点ト音であるのに対し、『第2番』の最高音が(その短2度下の音である)3点ホ音を超えていないこと、そしてその3点ニ音は『オーボエ協奏曲』では3点ニ音に相当するがそれは当時のオーボエの(習慣的な)最高音であることなどを挙げている[72]

著作・記事など[編集]

CiNii Booksも参照のこと。

評価[編集]

カラヤンの伝記を著したリチャード・オズボーンは、パウムガルトナーについて「彼は背が高く押し出しが立派で、指揮台に立つとやや前かがみながら堂々たる印象を与えた。指揮ぶりにはこれみよがしなところがなく、率直に言えば、音楽的にはいささか退屈でもあった。だが、彼はつねに万能選手だった」と評している[3]。また、同じくオズボーンによれば、敵対する勢力、例えば1930年代にオーストリアで台頭したナチスのメンバーたちからは「なんでも屋」「策士」「田舎の顔役」と陰口を叩かれたという[3]

また、音楽評論家の那須田務は、カメラータ・アカデミカとのモーツァルトの録音について「スタイルの古さは否めないが、弦の音色は艶やかだし、フレージングには熱が籠もっている」と評している[73]

ベルンハルト・パウムガルトナー・メダル[編集]

国際モーツァルテウム財団により、パウムガルトナーの名を冠した「ベルンハルト・パウムガルトナー・メダル」が創設されている[74]。主な受賞者は以下のとおり。

参考文献[編集]

日本語文献[編集]

英語文献[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ベルンハルトの母ローザ・パピアーの教え子であり、グスタフ・マーラーと一時期恋愛関係にあったアンナ・ミルテンブルクと結婚した[11]
  2. ^ ザルツブルクの支配体制が落ち着きをみせた頃、ナポレオンの占領によって決定的打撃を被った宗教芸術、とりわけ宗教音楽を復興させようという動きが起こった[20]
  3. ^ 大司教領であったザルツブルクは他国から侵略されることもなく繁栄していたが、1800年にはナポレオンの支配下に、ナポレオンの力が弱まった1810年にはバイエルン王国の支配下に、そしてナポレオンが完全にヨーロッパから撤退した1816年にはハプスブルク帝国の支配下に置かれた[22]
  4. ^ ただしパウムガルトナーによれば、1842年のシュヴァンターラーによるモーツァルト記念碑の除幕式以来、小規模なモーツァルト祭は行われてきたとのこと[12]
  5. ^ 1929年9月には、ヴァルター・ホフシュテッターの演出のもとパウムガルトナーがザルツブルクで指揮したプッチーニのオペラ『トスカ』を、カラヤンはベルヒテスガルの映画館で指揮している[54][55]
  6. ^ 1930年には、のちに指揮者となるエーリヒ・ラインスドルフを指導している。
  7. ^ 音楽評論家のフランツ・エンドラー曰く、カラヤンは手紙でパウムガルトナーについて「この人に指揮者の道をすすめてもらった」と書いているが、エンドラーとのインタビューでは、指揮クラスに入るようすすめたのはパウムガルトナーでなくウィーンの教授だったと語っている[67]
  8. ^ 1777年10月15日の父の手紙によれば、モーツァルトはこの協奏曲を携えて9月23日にマンハイム・パリへの演奏旅行に出発している[72]。そして1778年2月14日のマンハイムからのモーツァルトの手紙には「マンハイムのオーボエ奏者フリードリヒ・ラムが『オーボエ協奏曲』の5回目の演奏をして大喝采を博した」と記されている[72]
  9. ^ 1777年12月10日付の父宛の手紙でモーツァルトは「ド・ジャンから200フローリンという好条件で、フルートのための3曲の協奏曲と2, 3の四重奏曲の作曲依頼を引き受けた」と報告しているが、1778年2月14日の手紙では「フルートのための2曲の協奏曲と3曲の四重奏曲を作曲し、その報酬として96グルデン受け取ったが、この額は約束した200フローリンの半額にも満たない」と書いている[72]。ただ、1778年10月3日付の父宛の手紙では「ド・ジャンのために1曲のフルート協奏曲しか書けなかった」と記している[72]

出典[編集]

  1. ^ 音楽大辞典第4巻 p1841
  2. ^ a b c d e f g h i j マライン、ラインハルト p36
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m オズボーン上巻 p38
  4. ^ a b c d e f オズボーン上巻 p39
  5. ^ a b c d e f g h i j k l マライン、ラインハルト p37
  6. ^ a b c d e f g h i j k マライン、ラインハルト p38
  7. ^ a b c d e マライン、ラインハルト p41
  8. ^ a b c d e f g h マライン、ラインハルト p43
  9. ^ a b c d e f マライン、ラインハルト p39
  10. ^ マライン、ラインハルト p42
  11. ^ 小宮 25
  12. ^ a b c d e マライア、ラインハルト p45
  13. ^ a b c 演奏家大事典 第Ⅱ巻 p240
  14. ^ a b c d e f マライン、ラインハルト p40
  15. ^ a b ラルース世界音楽 人名事典 p828
  16. ^ a b c d e f オズボーン上巻 p40
  17. ^ a b c 新訂 標準音楽辞典 p1373
  18. ^ a b c d e f g h i マライン、ラインハルト p44
  19. ^ a b c d e f g オズボーン上巻 p41
  20. ^ a b 小宮 p66
  21. ^ “【この人このごろ】”名伯楽”ヴェーグ死す”. 産経新聞東京夕刊: 文化面. (1997年1月20日) 
  22. ^ 小宮 p60-62
  23. ^ a b オズボーン上巻 p42
  24. ^ a b c d オズボーン上巻 p43
  25. ^ オズボーン上巻 p44
  26. ^ オズボーン上巻 p48
  27. ^ a b オズボーン上巻 p53
  28. ^ a b c オズボーン 上巻 p68
  29. ^ a b c d オズボーン 下巻 p76
  30. ^ エンドラー p266
  31. ^ フリッチャイ「私の幼少期と青年期」 p23
  32. ^ アイネム p154
  33. ^ フリッチャイ「私の幼少期と青年期」 p23
  34. ^ アイネム p154
  35. ^ フリッチャイ「私の幼少期と青年期」 p23
  36. ^ アイネム p154
  37. ^ アイネム p154
  38. ^ シュターダー p162
  39. ^ アイネム p155
  40. ^ フリッチャイ『業書 20世紀の芸術と文学 伝説の指揮者 フェレンツ・フリッチャイ 自伝・音楽論・賛辞・記録・写真』 p282
  41. ^ a b パウムガルトナー「フェレンツ・フリッチャイとザルツブルク音楽祭」 p179
  42. ^ パウムガルトナー「フェレンツ・フリッチャイとザルツブルク音楽祭」 p180
  43. ^ a b c パウムガルトナー「フェレンツ・フリッチャイとザルツブルク音楽祭」 p181
  44. ^ パウムガルトナー「フェレンツ・フリッチャイとザルツブルク音楽祭」 p182
  45. ^ オズボーン 上巻 p24
  46. ^ オズボーン 上巻 p26
  47. ^ オズボーン 上巻 p27
  48. ^ オズボーン 上巻 p69
  49. ^ a b c d オズボーン上巻 p45
  50. ^ a b c d e オズボーン上巻 p46
  51. ^ オズボーン 上巻 p60
  52. ^ オズボーン 上巻 p34
  53. ^ ハフナー p234
  54. ^ a b c オズボーン 上巻 p79
  55. ^ a b オズボーン 上巻 p80
  56. ^ オズボーン 上巻 p89
  57. ^ オズボーン 上巻 p301
  58. ^ オズボーン 上巻 p376
  59. ^ オズボーン 上巻 p377
  60. ^ 小宮 p46
  61. ^ a b c オズボーン 上巻 p283
  62. ^ オズボーン 上巻 p284
  63. ^ オズボーン 上巻 p285
  64. ^ オズボーン 上巻 p286
  65. ^ レーブル p144
  66. ^ レーブル p17
  67. ^ エンドラー p29
  68. ^ オズボーン 上巻 p47
  69. ^ オズボーン 上巻 p70
  70. ^ オズボーン 上巻 p87
  71. ^ 名演奏家事典 p692
  72. ^ a b c d e f g h i j 音楽之友社『作曲家別名曲解説ライブラリー13 モーツァルトⅠ』 p354-355
  73. ^ 那須田 p153
  74. ^ a b Mozarteum - Personen”. www.moz.ac.at. 2020年7月22日閲覧。
  75. ^ Mozarteum - Personen”. www.uni-mozarteum.at. 2020年7月22日閲覧。
  76. ^ Mozarteum - Personen”. www.uni-mozarteum.at. 2020年7月22日閲覧。
  77. ^ Mozarteum - Personen”. www.uni-mozarteum.at. 2020年7月22日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]