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利用者:Eugene Ormandy/sandbox56 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
フレデリック・R・マン・オーディトリウム(イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団のホーム)
基本情報
出身地 イスラエルの旗 イスラエル
ジャンル クラシック音楽
活動期間 1936年~
公式サイト http://www.ipo.co.il/

イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団 (: Israel Philharmonic Orchestra、略称:IPO、ヘブライ語:התזמורת הפילהרמונית הישראלית, ラテン文字転写:ha-Tizmoret ha-Filharmonit ha-Yisre'elit)とは、イスラエルオーケストラである。1936年に設立されたパレスチナ交響楽団を前身として、1948年に改名した[1]

前身・パレスチナ交響楽団の設立[編集]

パレスチナ交響楽団前史[編集]

創設者のヴァイオリニスト
ブロニスラフ・フーベルマン (時期不明)
オープニング・コンサートを指揮したアルトゥーロ・トスカニーニ (1936年)
パレスチナ交響楽団への協力を申し出るも断られたドイツの指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1912頃)

シオニズムの理念に共感して移住した人々の中にはアマチュア音楽家も数多くおり、室内楽リサイタルを自分たちで開催したり、中東を訪れた有名な音楽家をテルアビブに招いたりしていたが、オーケストラは存在していなかった[2]。そんな中、1933年に移住したチェリストのワイスゲルバーは、テルアビブ市長のディーゼンゴフ、医師のモーシェ・シェルマン、指揮者のヴォルフガング・フリートランターらの協力を得て、ロスチャイルド通り6番地に「有限会社パレスチナ・フィルハーモニック・ソサエティ」を設立し、オーケストラ設立のための基盤を築いた[2]。経営陣にはスロチスティ博士、ハンキン、サビールらが加わった[2]

1933年11月、ワイスゲルバーは世界中の音楽家に手紙を書き、オーケストラ設立への協力、援助を求めたが、直ちにこれに応じたのがポーランド生まれのユダヤ系ヴァイオリニスト、ブロニスラフ・フーベルマンであった[1][2][3]。フーベルマンは1934年にイスラエルに渡ってコンサートを開き、その売り上げをソサエティに渡すとともに、パレスチナに定住してユダヤ人のオーケストラを作ることに尽力することにした[3]

なお、その頃パレスチナでは、いくつかの音楽家グループの組合である「ユニオン・オブ・シンフォニア=フィルハーモニア・イン・パレスチナ」が結成され、パレスチナ・フィルハーモニック・ソサエティもそこに加入していたが、フーベルマンはこの組織を発展させてオーケストラを作るのではなく、高い能力を有した音楽家をオーディションで採用することを決めた[3][4]。なお、パレスチナ・フィルハーモニック・ソサエティの創設者ワイスゲルバーもオーディションを受けており、創設から死去までの18年間、パレスチナ交響楽団およびイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団のチェリストとして活躍した[4]

1934年の暮れには、ロンドンのイスラエル・ツィエフの協力により、エルサレム司法長官シュロモ・ホロヴィッツの執務室にて、フーベルマンと要人たちによる会議が行われた[5][6]。会議には何人かの委任統治政府ユダヤ人高官、ジュリアス・ヤコブ、国務省元長官 H.P.キッシュ大佐、法律の専門家でエルサレム副市長を務めた P.J.ジャコビーらが出席した[6]。フーベルマンは「ナチスに対抗するには、もはや言論や文書ではなく、それ以上のことが必要」「『ユダヤ人は劣等人種である』というナチスの主張が誤りであることをオーケストラは証明する」「オーケストラ設立はユダヤ人芸術家の救済となり、パレスチナの地にユダヤ人の独立した未来を築くことにも繋がる」と語り、全出席者がその理念に賛成した[6][7]。その結果、会議ではイデオロギー的な討論は行われず、具体的な方法が模索された[6][7]。折しも国際金融危機の最中で、さらにナチスによるユダヤ人財産の没収も行われていたが、ドイツからの新しい移民たちはナチスの目を逃れて現金や財産を持ち出せていたので、それがオーケストラの基金として役立つだろうと期待された[7]。また、各人も財政基盤の安定のために行動を起こすことになり、キッシュ大佐はユダヤ機関への援助の打診を、ヤコブは政府と経済団体に働きかけを約束した[7]。また、ホロヴィッツは組織運営を担うこととなり、のちにはエルサレム・IPO・アソシエーションの会長を務めた[5][7]

フーベルマンは海外からの資金援助と音楽家の採用を担当することとなり、テクニカル・コーディネーターに任命された[7]。安定した定期サポーターはなかなか集まらず、ユダヤ機関の経済支援は期待できないという状態であったが、準備資金は「相当額」集まった[8]。また、財政面以外の支援も多くなされ、上述のユダヤ機関は、英国委任統治政府がごく少数の人にしか発行しなかったユダヤ人入国許可証を、オーケストラに入団する音楽家に優先的に流用した[9]。また、デビット・レメツ率いる労働同盟(ヒスタドルート)は、その施設の一部にパレスチナ交響楽団の事務局を設置させ、定期会員への割引定期予約券の発行や、特別コンサートの企画に便宜を図った[9][10]。また、1935年から開始されるラジオ放送への出演打診もあったが、フーベルマンは「ラジオはコンサートホールの敵」という考えであったので、これを拒否した[10]

また、メンバー募集については、せっかく採用した音楽家に辞退されたり、同時期にアメリカで結成されたNBC交響楽団に人員が流れたり、「グループでの参加」を求める海外の音楽家集団に助けられたり邪魔されたりしながらも、結局はオーケストラを組織するだけのメンバーを集めることができた[8]。メンバーのほとんどはロシアポーランド出身者で、いずれも1920年代にドイツで学び亡命してきたユダヤ人ばかりであった[11]。特に弦楽器セクションには、ベルリンライプツィヒドレスデンなど、ドイツ各地のオーケストラでコンサートマスターを務めていた奏者が多かった[11]

パレスチナ交響楽団誕生[編集]

トスカニーニとフーベルマン (1936年)
パレスチナ交響楽団首席クラリネット奏者ジュス・カルテン (1940年)

こうしてパレスチナ交響楽団の基礎が固まり、オーケストラはオープニング・コンサートに向けて準備を進めることとなった[10]

コンサートの指揮は、イタリアの指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが務めることになった[10]。トスカニーニはファシズムに抵抗してアメリカに亡命しており、ファシズムに苦しむ音楽家を助けることは自らの義務だと思っていたため、これを快諾した[10][12]。なお、「ユダヤ人によるオーケストラ」の話を聞いた、ドイツの指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーも指揮を申し出ていたが、トスカニーニとの対立関係もあり、フーベルマンはこれを断っている[12]。なお、フルトヴェングラーは「音楽と政治は別」という理念のもと、ナチスの方針に反して優秀なユダヤ人音楽家たちと共演しており、フーベルマンとも互いに尊敬しあっていたが、のちにフーベルマンはマンチェスター・ガーディアン紙に、ナチスを黙認するドイツ知識人への批判文を寄稿した[13]

オープニング・コンサートにむけて、数ヶ月にわたるトレーニングが行われた[10]。トスカニーニは助手のウィリアム・スタインバーグに準備を任せ、スタインバーグは8週間前にパレスチナ入りした[12]

1936年12月26日、テルアビブ郊外のレヴァント・フェアの展示会場で、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮によるオープニング・コンサートが行われた[1][14]。この演奏会は、12月30日にテルアビブで、12月31にはハイファでも行われた[15]。なお、その時の曲目は以下のとおりである[11]

創立演奏会時のプログラム
作曲家 曲名
ジョアキーノ・ロッシーニ オペラ「絹のはしご」序曲
ヨハネス・ブラームス 交響曲第2番
フランツ・シューベルト 交響曲第7番「未完成」
フェリックス・メンデルスゾーン 組曲「真夏の夜の夢
カール・マリア・フォン・ウェーバー オペラ「オベロン」序曲

オーケストラは市民たちから熱狂的に迎えられた[16]。12月30日ぶんのコンサートについては、当日の新聞で告知されるや否や、暴風雨だったにもかかわらず数百人がチケットを求めにきたとされる[16]。また、チケットも最低価格が60ピアストル (100ピアストルは1ポンド) であったにもかかわらず、1時間で完売した[16]。また、次の日の夕刊が、ドレス・リハーサルのチケットが販売されると告知するとまたもや争奪戦が生じ、3時間で3000席が完売した[16]

なお、著名なヴァイオリニストであり、オーケストラの設立に大きく貢献したフーベルマンは、オープニング・コンサートには出演しなかった[17]。自身の登場により、オーケストラが脚光を浴びなくなるという事態が生じないよう配慮したからである[17]。その代わり、以下のようなメッセージをプログラムに寄稿した[18][19][20][21][22]

パレスチナ交響楽団は、いま幻想が現実に変わる瞬間を迎えようとしている。そのときわれわれは、音楽においてユダヤ人が世界で果たす役割について考えなければならない[18]
芸術は単なる芸術家個人の創造活動というだけでなく、芸術家一人ひとりが、それぞれの社会に潜在する感情、思考、喜びや悲しみ、希望や絶望を、統合し象徴しながら、社会と積極的にかかわり合ったことを表現するものである[19][20]
このパレスチナのオーケストラの団員は、古くからいる人も新しい人もすべての人が、パレスチナの人たちの生活の文化水準を高めながら、この地に祖国建設を夢見て移住してきた人々の国造りを手助けするべきである。また優れた音楽文化にふさわしい国に育てていくことを、オーケストラの目的にするべきだと思う。このオーケストラは、いつの日か幸運に恵まれ、現代の人類にとって無敵の音楽の創造者になるだろう[21][22]

発展[編集]

指揮者レナード・バーンスタイン (1945年)
野外でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を弾き振りするバーンスタイン (1948年)

オーケストラの発展のために、フーベルマンは時間厳守やきちんとした服装など、様々なことを要求した[23]。また、リハーサルにも立ち合い、「テンポが遅すぎる」「速すぎる」などの指示を出していた[24]。中シクでといれ

1947年には、創立10周年を記念したコンサートが、アメリカ出身のユダヤ人指揮者レナード・バーンスタインの指揮のもと行われたが、このコンサートは創設時のトスカニーニのコンサート以来の大成功を収めたとされる[1]。この時バーンスタインはパレスチナ交響楽団を「世界でも第一級のオーケストラになる可能性を秘めている」と評しつつも、そのためには常任指揮者と、リハーサルができる音響の良いホールが必要だと述べた[1]。これ以降、バーンスタインとの関係は40年以上続き、毎年のように客演したほか、世界旅行やレコーディングも行なった[1]。また、1947年から死去する1990年まで、バーンスタインは名誉音楽監督を務めた[1]

イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団へ[編集]

野外で演奏するイスラエル・フィル (1948年頃)

1948年、イスラエル共和国の建国とともに、パレスチナ交響楽団はイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団へと改称した[1]。1951年には初の国外ツアーとしてアメリカ、カナダへの公演を行い、1960年には指揮者カルロ・マリア・ジュリーニ、ガリー・ベルティーニとともに来日した[1]

1950年代[編集]

また、50年代から録音も行うようになった[25]

1953年にイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団と初めて共演したピアニスト・指揮者のダニエル・バレンボイム曰く、当時はドイツ系・ポーランド系の団員がまだ多く残っている「中部ヨーロッパ的なオーケストラ」であった[26]。ただし、1960年代にメンバー構成に変化が生じ、若い奏者が入団するとともに、ソビエト出身のユダヤ人の奏者も入団するようになり、様々なスタイルが共存するオーケストラとなった[27]

オーケストラは楽団員が管理する協同組合として組織され、常任指揮者は置かないという方針が創設時より策定された[1]

1957年、本拠地となる音楽ホール F. R. マン・オーデトリアが完成した[1]

様々な戦争の影響[編集]

指揮者陣[編集]

ジャン・マルティノン (1953年)
歴代指揮者たち
期間 称号 名前
1947年 - 1990年 名誉音楽監督 レナード・バーンスタイン[1]
1958年 - 1959年 音楽監督 ジャン・マルティノン[1]
1968年 - 1977年 音楽顧問 ズービン・メータ[1]
1977年 - 2019年 音楽監督 ズービン・メータ[1]
1992年 - 名誉客演指揮者 クルト・マズア[1]
2019年 - 音楽監督 ラハフ・シャニ[28]

常任指揮者等を置いた方がいいというバーンスタインの助言に基づき、1958年にジャン・マルティノンが音楽監督に就任するも1シーズンだけで終了し、ズービン・メータが就任するまでの間、音楽監督は不在だった[1]

指揮者ズービン・メータとの出会い[編集]

1969年にメータが音楽顧問に就任し、1977年には「音楽監督」という名称になった[1]

ズービン・メータは2019年に音楽監督を退任し、ラハフ・シャニが次代の音楽監督となった[28]。テルアビブ育ちのシャニは、メータが指揮するオーケストラの演奏に何度も接していた[28]。また、ピアノから指揮に転向したのもメータの勧めがきっかけだった[28]

タブーとされる作曲家[編集]

評価[編集]

  • 指揮者のズービン・メータはイスラエル・フィルについて「ただ指揮してもらうだけでなく、しょっちゅう奮い立たせてもらいたいと思っている」と語っている[25]
  • ユダヤ人は多くの優れた弦楽器奏者を輩出しているとされているため「弦のイスラエル・フィル」と評されることもある[25]
  • 音楽評論家の浅里公三はイスラエル・フィルについて以下のように評している[25]
    初来日の頃は弦は超一流だが、管楽器などはやや水準が低く、そのためにアンバランスな面もあった。しかし、そうした弱点も60年代以降は次第に改善され、現在は世界でも一流の水準にあることは確かである[25]

参考文献[編集]

  • 淺香純編『ONTOMO MOOK THE ORCHESTRA 世界のオーケストラ123』音楽之友社、1994年。
  • 牛山剛著、深沢聡子協力『イスラエル・フィル誕生物語』ミルトス、2000年。
  • ヘルムート・シュルテン著、真鍋圭子訳『ベルリンへの長い旅 戦乱の極東を生き延びたユダヤ人音楽家の記録』朝日新聞社、1999年。
  • ディーター・ダーヴィット・ショルツ『指揮者が語る! 現代のマエストロ、29人との対話』アルファベータ、2008年。
  • 中川右介『世界の10大オーケストラ』幻冬舎、2009年。
  • 中曽根松衛『世界のオーケストラ辞典』芸術現代社、1984年。
  • ダニエル・バレンボイム『音楽に生きる ダニエル・バレンボイム自伝』蓑田洋子訳、音楽之友社、1994年。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 淺香、102頁。
  2. ^ a b c d 牛山 p13
  3. ^ a b c 牛山 p14
  4. ^ a b 牛山 p16
  5. ^ a b 牛山 p17
  6. ^ a b c d 牛山 p18
  7. ^ a b c d e f 牛山 p19
  8. ^ a b 牛山 p20
  9. ^ a b 牛山 p21
  10. ^ a b c d e f 牛山 p22
  11. ^ a b c 牛山 p10
  12. ^ a b c 牛山 p24
  13. ^ 牛山 p42
  14. ^ 牛山 p8
  15. ^ 牛山 p9
  16. ^ a b c d 牛山 p28
  17. ^ a b 牛山 p45
  18. ^ a b 牛山 p30
  19. ^ a b 牛山 p31
  20. ^ a b 牛山 p32
  21. ^ a b 牛山 p35
  22. ^ a b 牛山 p36
  23. ^ 牛山 p44
  24. ^ 牛山 p46
  25. ^ a b c d e 淺香 p103
  26. ^ バレンボイム、42頁。
  27. ^ バレンボイム、43頁。
  28. ^ a b c d メータがイスラエルフィル退任公演、テルアビブ育ちのシャニにバトン」『Reuters』、2019年10月25日。2020年8月17日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]