利用者:Eugene Ormandy/sandbox76 パブロ・カザルス
パブロ・カザルス Pau Casals | |
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基本情報 | |
生誕 |
1876年12月29日![]() |
死没 |
1973年10月22日(96歳没)![]() ![]() |
職業 | チェリスト、指揮者、作曲家 |
担当楽器 | チェロ |
パブロ・カザルスはスペインのチェリスト、指揮者、作曲家である。
生涯[編集]
幼少期[編集]
1876年12月29日、アル・バンドレイに生まれる[1]。父カルロスは、アル・バンドレイの教会のオルガニストおよび音楽教師であり、母ピラールはその生徒だった[1]。なお、2人の間には11人の子どもが生まれたが、無事に成長したのは3人のみであった[1]。
パブロ・カザルスは幼少期から音楽に関心を示しており、4歳の時にはピアノを演奏することができた[1]。5歳で聖歌隊の第2ソプラノを務め、7歳でキリストの降誕をテーマにした『ロス・パストルシーリョス』を作曲し、8歳にしてコンサートでヴァイオリンソロを披露した[1][2][3]。また、ペダルに足が届くようになるとオルガンも演奏するようになった[3]。
チェロとの出会い[編集]
バルセロナ市立音楽学校の教師をしていたチェリストのジュゼップ・ガルシーア率いるトリオがアル・バンドレイで開いた演奏会で、初めてチェロを聴いた11歳のカザルスは感銘を受け、自分もチェロを学びたいと両親に懇願した[3]。パブロの才能を認めてはいたものの、生活のために大工にしたかった父カルロスは反対したが、母ピラールは生活がもっと厳しくなったとしても、パブロをバルセロナで勉強させるべきだと主張し、結局母の主張が通った[3]。
バルセロナでの学生時代[編集]
独自の演奏法の開発[編集]
1888年に万国博覧会を開催したバルセロナは国際色が豊かで、城壁の跡地につくられたランブラス通りには上流階級が多く集ったが、対照的に労働者地区も存在した[4]。カザルスはこのような労働者地区に住んでいた、ピラールの親戚である大工のバネット・ブイシャドスの家に居候しながらバルセロナの音楽学校に通い、チェロをジュゼップ・ガルシーアに、音楽理論と作曲をロドレダに学んだ[4][5]。
当初はガルシーアの指導に忠実に従っていたが、カザルスは次第に新しい演奏法を開発した[6]。それまでは、肘を体につけたままチェロを演奏するべきだとされていたが、カザルスは肘を体から離し、弓を自由に動かして演奏したのである[4]。師のガルシーアは呆れていたが、次第にカザルスの才能に注目するようになり、作曲も教えるようになった[6]。
演奏活動[編集]
バッハ『無伴奏チェロ組曲』との出会い[編集]
マドリードでの学生時代[編集]
ブリュッセルでの短い学生時代[編集]
パリ時代[編集]
スペインへの帰郷[編集]
プラドへの亡命[編集]
プエルトリコ時代[編集]
晩年[編集]
革新的なチェリスト[編集]
演奏方法の改革[編集]
バッハ『無伴奏チェロ組曲』の発見[編集]
プラド音楽祭[編集]
平和活動[編集]
教育活動[編集]
親族[編集]
評価[編集]
指揮者からの評価[編集]
指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラーは「カザルスの音を耳にしたことのない人は、弦楽器というものがどのように響き得るかを知らない」と述べている[5]。
参考文献[編集]
- ブデュ, ジャン=ジャック 著、遠藤ゆかり 訳『パブロ・カザルス 奇跡の旋律』創元社、2014年。ISBN 978-4422212241。
- ベッキ, ユリウス 著、三木敬之、芹沢ユリア 訳『世界の名チェリストたち』音楽之友社、1982年。ISBN 4276216184。