利用者:Eugene Ormandy/sandbox98 カール・バーグマン

カール・バーグマン
基本情報
生誕 (1821-04-11) 1821年4月11日
出身地 ザクセン王国エーバースバッハ
死没 (1876-08-16) 1876年8月16日(55歳没)
ジャンル クラシック音楽
職業 チェリスト
担当楽器 チェロ

カール・バーグマン (Carl Bergmann,1821年4月11日-1876年8月16日) はドイツのチェリスト、指揮者、作曲家である。ヨーロッパ各地で活躍したのち1848年革命を機にアメリカへと渡り、ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティなどを指揮した。アメリカでは、リヒャルト・ワーグナーなど同時代の作曲家たちの作品の普及に努めたほか、チェリストとしてもセオドア・トマスらと室内楽を演奏し、ヨハネス・ブラームスの『ピアノ三重奏曲第1番』の世界初演を行なった。晩年は心身ともに不調となり、ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティを辞したのちニューヨークで没した。

生涯[編集]

ヨーロッパ時代[編集]

師のアドルフ・フリードリヒ・ヘッセ (1831年)

1821年4月11日、ザクセン王国のエーバースバッハにて、中流階級の家庭に生まれる[1]。幼少期より音楽の才能を示し、1827年にはツィッタウでアドルフ・ツィンマーマンに師事するようになり、のちにヴロツワフで作曲家・オルガニストのアドルフ・フリードリヒ・ヘッセに師事した[1][2]

周囲からは学校の校長になることを期待されていたが、結局バーグマンはプロの音楽家の道を選び[3][4]、1842年からツィッタウ、ウィーンペシュトワルシャワヴェネツィアブダペストなどのオーケストラでチェロを弾いたり、指揮をしたりした[1][2][5]。また、各地での活動を通して、バーグマンはオーケストラのほとんどの楽器の演奏法を習得したとされる[4]。しかし1848年革命が起こるとドイツを離れ、1849年の秋にニューヨークへと渡った[1][注 1]

アメリカ時代初期[編集]

ニューヨークではまず、ドイツからの移民たちからなるジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ英語版に第1チェリストとして参加したが、1850年からは同団を指揮するようになり、1854年のオーケストラ解散まで指揮者として活躍した[2][6][7][8]。バーグマン時代のジャーマニア・ミュージカル・ソサエティの運営は順調だったが、メンバーのソロ活動が活発化したことにより1854年に解散したとされる[9]。また、1852年から1854年にかけては、ボストン・ヘンデル・アンド・ハイドン・ソサエティ英語版も指揮した[2][10]。なお、1854年にボストン・ヘンデル・アンド・ハイドン・ソサエティを辞任する際には、ピアニストのオットー・ドレーゼル英語版らから慰留されている[1]

1854年にジャーマニア・ミュージカル・ソサエティが解散すると、バーグマンはシカゴ・フィルハーモニック・ソサエティに客演するようになった[11][12]。シカゴ・フィルハーモニック・ソサエティはバーグマンに指揮者として継続的に登壇するよう要請し、バーグマンもシカゴの音楽文化を盛り上げるつもりでそれを引き受けたが、結局は地元の音楽家たちの嫉妬にあい、2回のコンサートを指揮するだけで終わった[11][13][14]

シカゴを去ったバーグマンはその後ニューヨークへと戻り[5]、1855年に開始したセオドア・トマスウィリアム・メイソン英語版による「メイソン・アンド・バーグマン」と題された室内楽演奏会シリーズに、チェリストとして1年ほど参加したりした[15][16][17]。なお、バーグマン脱退後も、「メイソン・アンド・トマス」の名前でこのコンサートシリーズは開催されており、バーグマンも時折参加した[18]。これらのコンサートでは、ハイドンモーツァルトベートーヴェンといった伝統的な作曲家の作品ではなく、ロベルト・シューマンヨハネス・ブラームスヨアヒム・ラフといった同時代の作曲家の作品が取り上げられた[16]

ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ時代[編集]

指揮者、ヴァイオリニストのセオドア・トマス (1850年ごろ)。バーグマンとは室内楽で共演した。

1855年、バーグマンは病気のセオドア・アイスフェルトに代わりニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティを指揮し、大成功を収めた[11][19]。特にそのコンサートで指揮したワーグナーの『タンホイザー』序曲は好評を博し、同団の歴史の中で最も成功した演奏とまで言われた[1]。その後1855年から1865年にかけては、アイスフェルトと交互にニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティの指揮者を務めた[1][注 2]。オーケストラ団員出身であるため、バーグマンはニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティの団員たちから好まれたとされる[1]。また、1866年にアイスフェルトが退任すると、バーグマンは1876年まで単独で指揮者を務めた[3][注 3][注 4]。なお、バーグマンはニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ以外にもブルックリン・フィルハーモニック・ソサエティや、男声合唱団アリオンなどを指揮することもあった[1][21][22]。なお、1859年にバーグマンが指揮した『タンホイザー』のアメリカ初演(オペラ全体としてのアメリカ初演)では、アリオンが起用されている[22]

ただ、1864年からはセオドア・トマスが立ち上げたオーケストラと集客争いをするようになり、ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティの興行収入は落ち込み、定期会員の数も減少した[1]。また、1873年恐慌が起こるとニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティの財政状況も厳しくなり、楽団員の士気やモラルも下がったほか、バーグマン自身も心身ともに落ち込むようになった[1][注 5]。なお、1870年ごろからバーグマンは躁鬱気味になっており、アルコールに依存するようになっていった[1]。その結果、ヴァイオリニストのジョージ・マツカがバーグマンの代理でニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティを指揮する機会も増えた[1]。怠惰な行動が散見されるようになったバーグマンに対する団員の不満は募り、ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティは1876年4月24日にバーグマンとの契約を解消した[1][注 6]

晩年[編集]

1875年に妻を亡くし[注 7]、1876年にニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティの指揮者を辞任すると、バーグマンはさらに気落ちしてしまった[1][2]。次第に昔の知人たちを遠ざけて孤独に過ごすようになり、1876年8月10日にニューヨークのドイツ人病院で亡くなった[1]

人物[編集]

作曲家のフレデリック・ルイス・リッター英語版は、バーグマンは才能があったぶん、継続的な努力をすることはなかったと記している[25]。また、作家のジョージ・パットナム・アップトン英語版も「バーグマンは勉強家ではなく、自らの義務に忠実というわけでもなかった」と述べている[26]。さらに、セオドア・トマスはバーグマンについて「自身の過去をあまり語ろうとしない人だった。また『一生懸命働いたことなどないし、そんな風に思ったことすらもない』という印象を与える人物だった」と述べている[19]

なお、トマスは他にも「バーグマンは伴奏ができるほどピアノが上手くはなかったし、教師になろうともしなかったので、収入は少なかった」「私がオーケストラを立ち上げて以降もバーグマンとは良い友人で、互いのオーケストラを指揮したりしていたが、次第に私が成功を収めるようになると、バーグマンの周りの連中は彼が私に嫉妬するよう仕向けた」と記している[20]

作曲活動[編集]

ドイツを離れる1848年以前には、交響曲やオペラ作品をそれぞれ1曲ずつ作った[1]。また、渡米後はヨハン・シュトラウスヨーゼフ・グングルヨーゼフ・ランナーやその他の軽音楽の作曲家たちによる舞曲のオーケストラ編曲版を数多く出版したほか、バーグマン自身もワルツポルカマーチなどを作曲した[1]。バーグマンの作品のほとんどはオーケストラ用の楽曲であった[2]。これらの作品は主にブレイナード社から出版されたが[1]、後世に演奏されることはほとんどなかった[2]

レパートリー[編集]

作曲家のリヒャルト・ワーグナー (1870年)。バーグマンはワーグナー作品の紹介に尽力した。

バーグマンはニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティにてリヒャルト・ワーグナーフランツ・リストエクトル・ベルリオーズジャコモ・マイアベーアヨハネス・ブラームスピョートル・チャイコフスキーといった同時代の作曲家の作品を取り上げた[1]。また、バーグマンは1855年から1856年にかけて、自ら立ち上げたオーケストラとも同時代の音楽を演奏しており、ロベルト・シューマンの『交響曲第4番 』『序曲、スケルツォと終曲』『マンフレッド』序曲や、ベルリオーズの『ローマの謝肉祭』序曲や『ウェイヴァリー』序曲のアメリカ初演を指揮した[1][5][27]。なおバーグマンは他にも、1865年にマイアベーアのオペラ『アフリカの女』のアメリカ初演を行っている[2][1]

また、1855年にバーグマンはチェリストとして、ピアニストのウィリアム・メイソン、ヴァイオリニストのセオドア・トマスとともにブラームスの『ピアノ三重奏曲第1番』の世界初演を行った[28]

同時代の作曲家の中でも、バーグマンは特にワーグナー作品の演奏に力を入れていた[5]。1852年にはアメリカで初めてワーグナーの作品を演奏したほか、1853年にはワーグナーの作品のみからなる、アメリカ初のオール・ワーグナー・コンサートを指揮した[5]。また、バーグマンは『ローエングリン』前奏曲と『リエンツィ』序曲のアメリカ初演も果たしている[2]。さらには、1859年4月4日のニューヨーク国立劇場における『タンホイザー』上演は、アメリカで初めてワーグナーのオペラ作品が完全な形で演奏された上演であった[1]

同時代の作品の演奏が賞賛される一方で伝統的なレパートリーの演奏については批判もあり、バーグマンと室内楽で共演したセオドア・トマスは、バーグマンのベートーヴェン解釈について「伝統を全く身に付けていないし、勉強に基づいた解釈ではなかった」と述べている[19][29]。ただしバーグマンは、1853年にベートーヴェンの『交響曲第9番』のボストン初演を行なったり[30]、1856年に原語(ドイツ語)版『フィデリオ』のアメリカ初演を行ったりしている[2][1]。また、1853年にはジャーマニア・ミュージカル・ソサエティを指揮して、ベートーヴェンの『交響曲第2番』のシカゴ初演を行なった[9]。なお、この演奏会がシカゴで初めて交響曲が演奏された機会であった[9]

なお、バーグマンがドイツ系の作品を数多く取り上げた一方でアメリカの作品をあまり取り上げなかったことにより、アメリカにおいて「真面目なクラシック音楽」はドイツ系の作品を意味するようになってしまい、ウィリアム・ヘンリー・フライ英語版ジョージ・フレデリック・ブリストウといった、アメリカ独自の音楽を樹立しようとする作曲家たちの活動は周縁化されてしまったという指摘もある[1]

バーグマンがアメリカ初演やニューヨーク初演を行なった作品は以下の表のとおりである(下記の「表示」ボタンを押すと表を閲覧可能)。

バーグマンがアメリカ初演やニューヨーク初演などを行なった作品
作曲家 作品名 オーケストラ その他
1850年10月16日[31][32] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン エグモント序曲 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ バルティモア初演。アメリカ初演は1825年に行われた
1851年1月29日[33] フリードリッヒ・フォン・フロトー マルタ序曲 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ アメリカ初演。場所はバルティモア。
1851年2月6日[34][35] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第4番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ バルティモア初演。アメリカ初演は1849年にセオドア・アイスフェルトが行なった。
1851年2月22日[31] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン フィデリオ序曲 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ バルティモア初演。アメリカ初演は1839年に行われた。その時のオーケストラと指揮者は不明。
1851年12月13日[36] エクトル・ベルリオーズ ウェイヴァリー序曲 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ アメリカ初演。場所はボストン。
1851年12月19日[37] ヨーゼフ・ハイドン 交響曲第101番「時計」 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ アメリカ初演。場所はボストン。
1852年12月11日[38] フレデリック・ショパン ピアノ協奏曲第1番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ボストン初演。ピアニストはアルフレッド・ジャエル英語版。なお、プログラムには「アメリカ初演」と記されていたが、実際の初演は1846年にジョージ・ローダーとヘンリー・ティム英語版が行なっている。
1853年1月11日[39] アンリ・リトルフ 交響的協奏曲第3番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ アメリカ初演。場所はボストン。ピアニストはアルフレッド・ジャエル
1853年2月5日[40][41] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第9番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティとヘンデル・アンド・ハイドン・ソサエティ ボストン初演。アメリカ初演は1846年にジョージ・ローダー英語版が行なった。
1853年4月7日[42] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン レオノーレ序曲第3番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ フィラデルフィア初演。アメリカ初演は1850年にジョージ・ジェームズ・ウェブ英語版が行なった。
1853年4月11日[38] フレデリック・ショパン ピアノ協奏曲第1番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ フィラデルフィア初演。ピアニストはアルフレッド・ジャエル英語版。アメリカ初演は1846年にジョージ・ローダーとヘンリー・ティム英語版が行なっている。
1853年4月11日[40][41] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第9番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ボストン初演。アメリカ初演は1846年にジョージ・ローダーが行なった。
1853年4月15日[42] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン レオノーレ序曲第3番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ バルティモア初演。アメリカ初演は1850年にジョージ・ジェームズ・ウェブが行なった。
1853年4月20日[43] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第8番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ピッツバーグ初演。第2楽章のみの演奏であった。アメリカ初演は1844年にジョージ・ローダー英語版が行なった。
1853年4月20日[44][45] フェリックス・メンデルスゾーン 演奏会用序曲「夏の夜の夢 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ピッツバーグ初演。アメリカ初演は1843年に行われた。
1853年4月23日[46][47] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第6番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ピッツバーグ初演。アメリカ初演は1850年にチャールズ・フップフェルドが行なった。
1853年4月26日[44][45] フェリックス・メンデルスゾーン 演奏会用序曲「夏の夜の夢」 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ シンシナティ初演。アメリカ初演は1843年に行われた。
1853年4月28日[43] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第8番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ シンシナティ初演。第2楽章のみの演奏であった。アメリカ初演は1844年にジョージ・ローダーが行なった。
1853年5月2日[46][47] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第6番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ シンシナティ初演。シンシナティで初めて交響曲が演奏されたコンサートであった。アメリカ初演は1829年にチャールズ・フップフェルドが行なった。
1853年5月9日[43] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第8番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ルイビル初演。第2楽章のみの演奏であった。アメリカ初演は1844年にジョージ・ローダーが行なった。
1853年5月9日[44][45][48] フェリックス・メンデルスゾーン 演奏会用序曲「夏の夜の夢」 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ルイスヴィル初演。アメリカ初演は1843年に行われた。
1853年5月14日[35][49] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第5番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ルイビル初演。アメリカ初演は1841年にウレリ・コレッリ・ヒル英語版が行なった。
1853年5月17日[35][49][50] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第5番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ セントルイス初演。第2楽章のみの演奏であった。アメリカ初演は1841年にウレリ・コレッリ・ヒルが行なった。
1853年5月21日[43] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第8番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ セントルイス初演。第2楽章と第3楽章のみの演奏であった。アメリカ初演は1844年にジョージ・ローダーが行なった。
1853年5月21日[44][45][48] フェリックス・メンデルスゾーン 演奏会用序曲「夏の夜の夢」 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ セントルイス初演。アメリカ初演は1843年に行われた。
1853年5月31日[51][52] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第2番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ セントルイス初演。アメリカ初演は1821年にチャールズ・フップフェルドが行なった。
1853年6月4日[43] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第8番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ シカゴ初演。第2楽章と第3楽章のみの演奏であった。アメリカ初演は1844年にジョージ・ローダーが行なった。
1853年6月4日[44][45][48] フェリックス・メンデルスゾーン 演奏会用序曲「夏の夜の夢」 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ シカゴ初演。アメリカ初演は1843年に行われた。
1853年6月7日[43][40] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第8番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ミルウォーキー初演。第2楽章と第3楽章のみの演奏であった。アメリカ初演は1844年にジョージ・ローダーが行なった。
1853年6月7日[44][45][48] フェリックス・メンデルスゾーン 演奏会用序曲「夏の夜の夢」 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ミルウォーキー初演。アメリカ初演は1843年に行われた。
1853年6月8日[51][52] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第2番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ミルウォーキー初演。アメリカ初演は1821年にチャールズ・フップフェルドが行なった。
1853年6月10日[51][52] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第2番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ シカゴ初演。シカゴで初めて交響曲が演奏されたコンサートであった。アメリカ初演は1821年にチャールズ・フップフェルドが行なった。
1853年6月13日[44][45][48] フェリックス・メンデルスゾーン 演奏会用序曲「夏の夜の夢」 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ デトロイト初演。アメリカ初演は1843年に行われた。
1853年6月14日[43][40] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第8番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ デトロイト初演。アメリカ初演は1844年にジョージ・ローダーが行なった。
1853年6月18日[43][40] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第8番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ クリーヴランド初演。第3楽章のみの演奏であった。アメリカ初演は1844年にジョージ・ローダーが行なった。
1853年6月18日[44][45][48] フェリックス・メンデルスゾーン 演奏会用序曲「夏の夜の夢」 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ フィラデルフィア初演。アメリカ初演は1843年に行われた。
1853年6月14日[43][40] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第8番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ フィラデルフィア初演。アメリカ初演は1844年にジョージ・ローダーが行なった。
1853年9月24日[33] フリードリッヒ・フォン・フロトー アレッサンドロ・ストラデッラ序曲 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ フィラデルフィア初演。アメリカ初演は1845年にジョージ・ジェームズ・ウェブが行なった。
1853年9月28日[34][35] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第4番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ フィラデルフィア初演。アメリカ初演は1849年にセオドア・アイスフェルトが行なった。
1853年10月11日[34][35] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第4番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ワシントンD.C.初演。客席にはアメリカ大統領のフランクリン・ピアースがいた。アメリカ初演は1849年にセオドア・アイスフェルトが行なった。
1854年2月4日[53] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ アメリカ初演(場所はボストン)。ピアノはロバート・ヘラー。
1854年4月28日[51][54] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第2番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ ピッツバーグ初演。アメリカ初演は1821年にチャールズ・フップフェルドが行なった。
1854年5月4日[55] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ アメリカ初演(場所はボストン)。ピアノはロバート・ヘラー。
1854年5月20日[46][47] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第6番 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ セントルイス初演。アメリカ初演は1829年にチャールズ・フップフェルドが行なった。
1854年5月22日[56] ヨーゼフ・ハイドン オラトリオ「四季」 シカゴ・フィルハーモニック・ソサエティ シカゴ初演。
1854年12月27日[33] フリードリッヒ・フォン・フロトー アレッサンドロ・ストラデッラ序曲 ジャーマニア・ミュージカル・ソサエティ シカゴ初演。アメリカ初演は1845年にジョージ・ジェームズ・ウェブが行なった。
1856年4月13日[57] エクトル・ベルリオーズ ローマの謝肉祭 オーケストラの名前はなし アメリカ初演(場所はニューヨーク)。
1856年4月20日[58] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン コリオラン序曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ ニューヨーク初演。アメリカ初演は1851年にチャールズ・キャラハン・パーキンズ英語版が行なった。
1856年5月1日[59] ジョージ・フレデリック・ブリストウ 交響曲第2番 グランド・コンサート アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1856年5月18日[36] エクトル・ベルリオーズ ウェイヴァリー序曲 グランド・コンサート ニューヨーク初演。アメリカ初演は1851年にバーグマン自身が行なった。
1858年5月5日[60] フランツ・リスト 前奏曲 オーケストラの名前は不明 アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1858年11月20日[61] ニルス・ゲーゼ 交響曲第5番 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ 世界初演。場所はニューヨーク。
1858年12月11日[47] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第6番 ブルックリン・フィルハーモニック ブルックリン初演。アメリカ初演は1829年にチャールズ・フップフェルドが行なった。
1859年2月12日[37] ヨーゼフ・ハイドン 交響曲第93番 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1859年5月24日[62] フランツ・リスト タッソー、悲劇と勝利 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1860年5月26日[59] ジョージ・フレデリック・ブリストウ 交響曲第3番 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ 世界初演。場所はニューヨーク。
1860年12月22日[63] フランツ・リスト 祭典の響き ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ ニューヨーク初演。アメリカ初演は1860年に行われた。
1861年11月9日[64] フレデリック・ショパン ピアノ協奏曲第2番 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。ピアニストはセバスチャン・バック・ミルズ英語版
1861年12月14日[65][36] エクトル・ベルリオーズ 宗教裁判官 ブルックリン・フィルハーモニック ブルックリン初演。アメリカ初演は1846年にアルフレッド・ブーシェが行なった。
1862年2月1日[66] ヨハネス・ブラームス セレナード第2番イ長調 ニューヨーク・フィルハーモニック アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1862年2月19日[57] エクトル・ベルリオーズ ローマの謝肉祭 ブルックリン・フィルハーモニック ブルックリン初演。アメリカ初演は1856年にバーグマン自身が行なった。
1862年5月20日[63] フランツ・リスト オルフェウス オーケストラの名前は不明。 アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1863年11月7日[67] フェルディナント・ヒラー ピアノ協奏曲嬰ヘ長調 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。ピアノはセバスティアン・バッハ・ミルズ。
1864年1月30日[62] フランツ・リスト ファウスト交響曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1865年3月11日[68][69] ヴォルデマール・バルギール メデア序曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。
1865年10月28日[68] ヴォルデマール・バルギール プロメテウス序曲 ブルックリン・フィルハーモニック アメリカ初演。場所はブルックリン。
1865年10月28日[68] ジョージ・フレデリック・ブリストウ コロンバス序曲 ブルックリン・フィルハーモニック アメリカ初演。場所はブルックリン。
1865年11月4日[70] フランツ・リスト マゼッパ ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1866年1月27日[36] エクトル・ベルリオーズ 幻想交響曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1866年4月21日[71] ノルベルト・ブルグミュラー ピアノ協奏曲嬰ヘ短調作品1 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。ピアノはウィリアム・メイソン。
1866年11月17日[72] フランツ・リスト レーナウの「ファウスト」による2つのエピソード ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1867年12月21日[73] フランツ・リスト ベートーヴェンの「アテネの廃墟」のモティーフによる幻想曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1868年1月11日[74] フランツ・リスト 理想 ブルックリン・フィルハーモニック アメリカ初演。場所はブルックリン。
1868年11月28日[75] ニルス・ゲーゼ ハムレット序曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1869年1月9日[70] フランツ・リスト 人、山の上で聞きしこと ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1869年8月6日[68][69] ヴォルデマール・バルギール 3つのアルマンド ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。
1869年12月18日[36][76] エクトル・ベルリオーズ 幻想交響曲 ブルックリン・フィルハーモニック ブルックリン初演。アメリカ初演は1866年にバーグマン自身が行なった。
1870年4月2日[77] フランツ・リスト ダンテ交響曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1870年4月5日[78] カール・ゴルトマルク シャクンタラー序曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。ヴァイオリンはパブロ・サラサーテ
1870年11月10日[79][73] フランツ・リスト ピアノ協奏曲第2番 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ ニューヨーク初演。ピアノはセバスティアン・バッハ・ミルズ。アメリカ初演は1870年に行われた。
1871年1月7日[80] ウィリアム・スタンデール・ベネット ピアノ協奏曲第4番 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演(場所はニューヨーク)。ピアノはリチャード・ホフマン
1872年2月3日[81] マックス・ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1873年1月11日[37] ヨーゼフ・ハイドン 交響曲第100番「軍隊」 ブルックリン・フィルハーモニック ブルックリン初演。アメリカ初演は1825年に行われた。
1873年2月15日[61] ニルス・ゲーゼ 交響曲第8番 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ 世界初演。場所はニューヨーク。
1873年5月15日[82] ヨーゼフ・ハイドン 交響曲第92番「オックスフォード」 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1873年11月15日[83] マックス・ブルッフ ローレライ序曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1874年2月14日[75] ニルス・ゲーゼ マイケル・アンジェロ序曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1874年4月18日[84] ユリウス・オットー・グリム英語版 キャノン・フォーム組曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1874年6月23日[85] ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 静かな海と楽しい航海 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ クリーヴランド初演。アメリカ初演は1858年にハンス・バラトカ英語版が行なった。
1874年6月24日[70] フランツ・リスト マゼッパ ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ クリーヴランド初演。アメリカ初演は1865年にバーグマン自身が行なった。
1874年12月12日[85] ヨハン・セバスティアン・バッハ

ヨアヒム・ラフ編曲)

シャコンヌ ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。原曲『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番』のアメリカ初演はセオドア・トマスが1858年に行なった。
1875年1月23日[37] ヨーゼフ・ハイドン 交響曲第99番 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ ニューヨーク初演。アメリカ初演は1870年にカール・ゼラーンが行った。
1875年2月20日[86] エドゥアルド・ラッセン 祝典序曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ ニューヨーク初演。アメリカ初演は1874年に行われた。
1875年3月20日[87] レオポルド・ダムロッシュ英語版 ヴァイオリン協奏曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演(場所はニューヨーク)。ヴァイオリンはレオポルド・ダムロッシュ。
1875年4月24日[80] ウィリアム・スタンデール・ベネット 幻想序曲「楽園とペリ」 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演(場所はニューヨーク)。
1875年11月14日[71] ハンス・フォン・ビューロー ジュリアス・シーザー序曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ アメリカ初演。場所はニューヨーク。
1876年2月19日[88] ルイジ・ケルビーニ ファニスカ英語版序曲 ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ ニューヨーク初演。アメリカ初演は1870年にカール・ゼラーン英語版がボストンで行なった。

評価[編集]

キャリアの絶頂期には、バーグマンはアメリカで最も尊敬・賞賛された指揮者であったと言われており[4]、「アメリカという国が最初に出会った『指揮者』」とも評されている[1]。作曲家フレデリック・ルイス・リッター英語版はバーグマンについて「経験豊かな指揮者であり、オーケストラの指導に秀でていた」「優雅かつ簡素で動きで、正確で迷いのない指揮をした」と記した[4]

一方、ヴァイオリニストとしてバーグマンと室内楽を演奏することもあった指揮者のセオドア・トマスは、バーグマンについて「才能のある音楽家であり、まあまあのチェリスト」「第一級の指揮者というわけではなかった」「全く練習をしなかったのでチェロ演奏のテクニックは限られたものだった」と述べている[11][19][89]。ただしトマスは、ウィリアム・メイソンやバーグマンらとともに結成した室内楽団の活動はメンバー各々に影響を与えたとも語っており、特にニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティにおけるバーグマンのプログラムや演奏には、トマスらとの室内楽活動における「ウルトラモダン」の精神が影響を与えたと記している[90][注 8]。なお、トマスはバーグマンを手本としたという噂があったが、トマス自身がこれを否定している[19]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1848年革命において、バーグマン自身は革命派であったとされる[1]
  2. ^ バーグマンは1855-1856年シーズンと1858-1859年シーズンにニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティを指揮した[5]
  3. ^ アイスフェルトと共同で指揮者を務めていた際には、シーズンの都度オーケストラのメンバーから選ばれたうえで指揮をしていたが、単独の指揮者になってからは固定給をもらって指揮をするようになった[1]
  4. ^ 指揮者のセオドア・トマスは、ブルックリン・フィルハーモニック・ソサエティを指揮した際はセオドア・アイスフェルトやバーグマンと同額のギャラを受け取ったが、その額はオーケストラメンバーのギャラよりも低かったと記している[20]。なお、ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティについてもギャラは低かったと記している[20]
  5. ^ バーグマンとトマスはお互いの才能を認める中ではあったが、次第にトマスが活躍するようになると、バーグマンはトマスに嫉妬するようになった[23]
  6. ^ 晩年のバーグマンは心身の不調から予定を無断でキャンセルすることもあった。死去の数年前にセオドア・トマスのオーケストラから招かれた際は、事前にギャラを受け取ってリハーサルを無断で欠席した[24]
  7. ^ 『アメリカ人名事典』では「バーグマンの妻の名前は不明」と記している[2]
  8. ^ セオドア・トマスらとロベルト・シューマンの弦楽四重奏を演奏して、バーグマンは「目の前にかかっていたヴェールが取れた」と語り、それ以降シューマンの比較的無名な管弦楽曲をオーケストラで取り上げるようになった[19][20]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab Urrows 1999.
  2. ^ a b c d e f g h i j k Dictionary of American Biography 1936.
  3. ^ a b Ritter 1883, p. 348.
  4. ^ a b c d Ritter 1883, p. 349.
  5. ^ a b c d e f Hitchcock&Horowitz 2001.
  6. ^ Ritter 1883, p. 317.
  7. ^ Upton 1908, p. 52.
  8. ^ Wittke 1952, p. 295.
  9. ^ a b c Upton 1908, p. 53.
  10. ^ Ritter 1883, p. 365.
  11. ^ a b c d Thomas 1905, p. 35.
  12. ^ Ritter 1883, p. 380.
  13. ^ Upton 1908, p. 258.
  14. ^ Upton 1908, p. 259.
  15. ^ Ritter 1883, p. 276.
  16. ^ a b Ritter 1883, p. 277.
  17. ^ Thomas 1905, p. 38.
  18. ^ Thomas 1905, p. 39.
  19. ^ a b c d e f Thomas 1905, p. 36.
  20. ^ a b c d Thomas 1905, p. 37.
  21. ^ Ritter 1883, p. 355.
  22. ^ a b Ritter 1883, p. 356.
  23. ^ Upton 1908, p. 184.
  24. ^ Thomas 1905, p. 349.
  25. ^ Ritter 1883, p. 350.
  26. ^ Upton 1908, p. 55.
  27. ^ Thomas 1905, p. 48.
  28. ^ ダムロッシュ 1997, p. 32.
  29. ^ Thomas 1905, p. 42.
  30. ^ Wittke 1952, p. 296.
  31. ^ a b Johnson 1979, p. 25.
  32. ^ Johnson 1979, p. 26.
  33. ^ a b c Johnson 1979, p. 136.
  34. ^ a b c Johnson 1979, p. 34.
  35. ^ a b c d e Johnson 1979, p. 35.
  36. ^ a b c d e Johnson 1979, p. 62.
  37. ^ a b c d Johnson 1979, p. 182.
  38. ^ a b Johnson 1979, p. 112.
  39. ^ Johnson 1979, p. 220.
  40. ^ a b c d e f Johnson 1979, p. 42.
  41. ^ a b Johnson 1979, p. 43.
  42. ^ a b Johnson 1979, p. 23.
  43. ^ a b c d e f g h i Johnson 1979, p. 41.
  44. ^ a b c d e f g h Johnson 1979, p. 231.
  45. ^ a b c d e f g h Johnson 1979, p. 232.
  46. ^ a b c Johnson 1979, p. 38.
  47. ^ a b c d Johnson 1979, p. 39.
  48. ^ a b c d e f Johnson 1979, p. 233.
  49. ^ a b Johnson 1979, p. 36.
  50. ^ Johnson 1979, p. 37.
  51. ^ a b c d Johnson 1979, p. 31.
  52. ^ a b c Johnson 1979, p. 32.
  53. ^ Johnson 1979, p. 47.
  54. ^ Johnson 1979, p. 33.
  55. ^ Johnson 1979, p. 48.
  56. ^ Johnson 1979, p. 190.
  57. ^ a b Johnson 1979, p. 60.
  58. ^ Johnson 1979, p. 22.
  59. ^ a b Johnson 1979, p. 92.
  60. ^ Johnson 1979, p. 211.
  61. ^ a b Johnson 1979, p. 143.
  62. ^ a b Johnson 1979, p. 210.
  63. ^ a b Johnson 1979, p. 213.
  64. ^ Johnson 1979, p. 113.
  65. ^ Johnson 1979, p. 61.
  66. ^ Johnson 1979, p. 81.
  67. ^ Johnson 1979, p. 194.
  68. ^ a b c d Johnson 1979, p. 19.
  69. ^ a b Johnson 1979, p. 20.
  70. ^ a b c Johnson 1979, p. 212.
  71. ^ a b Johnson 1979, p. 103.
  72. ^ Johnson 1979, p. 215.
  73. ^ a b Johnson 1979, p. 217.
  74. ^ Johnson 1979, p. 214.
  75. ^ a b Johnson 1979, p. 142.
  76. ^ Johnson 1979, p. 63.
  77. ^ Johnson 1979, p. 209.
  78. ^ Johnson 1979, p. 151.
  79. ^ Johnson 1979, p. 216.
  80. ^ a b Johnson 1979, p. 58.
  81. ^ Johnson 1979, p. 94.
  82. ^ Johnson 1979, p. 181.
  83. ^ Johnson 1979, p. 93.
  84. ^ Johnson 1979, p. 163.
  85. ^ a b Johnson 1979, p. 11.
  86. ^ Johnson 1979, p. 208.
  87. ^ Johnson 1979, p. 117.
  88. ^ Johnson 1979, p. 111.
  89. ^ Thomas 1905, p. 41.
  90. ^ Thomas 1905, p. 43.

参考文献[編集]

英語文献[編集]

日本語文献[編集]

  • ウォルター・ダムロッシュ(著)、日本ブラームス協会(編)「2人のアメリカ人指揮者、トーマスとダムロッシュ」『ブラームスの「実像」 回想録、交遊録、探訪記にみる作曲家の素顔』、音楽之友社、1997年、29-32頁、ISBN 9784276201316 

外部リンク[編集]