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白石喜和(しらいし よしかず、1942年11月25日 - )は、日本のジャーナリスト、元読売新聞記者。中央大学法学部卒。1967年読売新聞大阪本社入社。社会部記者をへて、地方部長、社会部長、編集局次長、総務局長、取締役事業局長、読売ゴルフ代表取締役社長などを歴任。
来歴
[編集]1967年、読売新聞大阪本社入社、初任地は岡山支局。山陽新幹線の開通前であった。[1]
1968年、岡山支局勤務時、取材を通じて岡山市のアマチュア無線家で医師の菊井昭雄氏の知遇を得る。ワルシャワ条約機構軍がプラハを侵略した際、情報統制されていたプラハが戦車に蹂躙されている状況をアマチュア無線で知り、記事化。大スクープとなる。[2]
1971年、警察記者クラブで知り合った産経新聞記者の上村洋行を通じて、その義兄司馬遼太郎とその実姉福田みどりの知遇を得、司馬の自宅(現・司馬遼太郎記念館)を訪問するようになる。司馬初の戯曲「花の館」初演に招待され、司馬遼太郎、福田みどり、上村洋行、洋画家須田剋太らと観劇。以降、さらに親交を深める。[3]
1977年、実家に保管してあった亡父の日記を目にする。父白石喜太郎は、東京商高(現・一橋大学)卒業後、第一銀行を経て、渋沢栄一の秘書役となり渋沢同族専務取締役を務めた財界人であった。これを機に、太平洋戦争について、積極的に取材するようになる。[4]
1981年、5年ぶりに「ソロモン諸島ベララベラ島に日本兵が生存している」というニュースがあり、厚生省と全国ソロモン会が合同の捜索隊を出すことになった。読売新聞は捜索隊に先行して、記者2名を派遣することになり、同僚とベララベラ島へ。日本兵は発見できず、2か月後に帰国。マラリアに感染し、帰国後1か月の入院生活を送る。[5]
1983年、読売新聞がアウシュビッツ強制収容所の遺品展を企画し、その交渉のため、同僚と戒厳令下のポーランドへ。アウシュビッツ強制収容所跡地にあるアウシュビッツ国立博物館の館長と遺品貸与交渉を行う。同年8月、大阪心斎橋の大丸百貨店でアウシュビッツ展が開催され、80万5千人が来場。[6]遺品展終了後、ポーランドへ返却に向かうと、博物館の上級官庁である文化芸術省局長から、ヒロシマ・ナガサキの遺品展をポーランドで開催すること提案される。広島市の荒木武市長、長崎市の本島等市長から全面協力を得る。[7]
1984年、ヒロシマ・ナガサキ展がポーランドのブロツワフで開催されるため、ポーランドへ。その後、ワルシャワ、グダニスクで開催された。[8]
1987年、父の書き遺した第二次世界大戦時の日記とアウシュビッツ強制収容所を訪問した経験から小説『鉄条網を越えてきた女』をペンネーム浦山翔として執筆。同年、横溝正史賞佳作賞を受賞。[9]
1995年に発生した阪神・淡路大震災への対応として、被災者支援、義援金の募集と大規模なチャリティー企画による支援を文化事業部長として主導。特筆すべきは、新聞読者から寄託された義援金が38億円に達した。また、海外の美術家200人、国内1,500人が協力したチャリティー展覧会となった。[10]
1996年、司馬遼太郎が亡くなると、読売新聞文化面に追悼文を書き、それが英字紙 THE DAIRY YOMIURIに掲載された。[11]その記事が高等学校外国語科用の文部科学省検定済教科書(数研出版 Revised POLESTAR English Course Ⅱ)に収録された。[12]
2005年、イタリア・ミラノ市の全面協力を得て、大阪市立美術館にて『ミラノ展』を開催。取締役事業局長として開催に尽力。記者会見では関淳一大阪市長とともに主催者挨拶を行った。[13]
2006年、スペイン大使館の協力を得て、大阪市立美術館にて『プラド美術館展』の開催に尽力。記者会見では関淳一大阪市長とともに主催者挨拶を行った。[14]
2006年、読売ゴルフ代表取締役社長に就任。[15]日本パブリックゴルフ場事業協会の常任理事総務委員長に就任。2007年から同社ゴルフ場で開催された日本ゴルフツアー機構(JGTO)公認の男子プロゴルフトーナメントである全英への道ミズノオープンよみうりクラシックの成功に尽力した。
著書
[編集]- 『普段着の平和と社会科―アウシュビッツと原爆のあいだで』情報センター出版局 1984年 黒田清・河内鏡太郎と共著。
- 『鉄条網を越えてきた女』 角川書店、ペンネーム浦山翔で横溝正史賞佳作賞。1987年
- 『振りむけば戦争があった』東京図書出版 2013年
- 『振りむけば明日が見える 事件記者の現場半世紀の日本』ブイツーソリューション 2015年
そのほか共著多数
親族
[編集]- 白石喜太郎 父 渋沢栄一の秘書、渋沢同族株式会社専務取締役。
- 神田孝 義兄 名古屋大学農学部教授
- 中川忠次郎 伯父 医学博士[16]
- 川上義弘 伯父 工学博士、陸軍中将陸軍科学研究所第二部長、神戸製鋼所取締役製鋼部長兼研究部長[16]
- 川上清康 従兄 陸軍少佐陸軍技術本部、陸軍中将永持源次の娘婿[16]
- 羽賀準一 義伯父 日本の剣道家、中山博道の道場有信館の高弟。
- 羽賀忠利 義叔父 日本の剣道家、静岡県警察本部剣道師範。
脚注
[編集]- ^ 『振りむけば戦争があった』東京図書出版、2013年、5頁。
- ^ 『振りむけば戦争があった』東京図書出版、2013年、21-32頁。
- ^ 『振りむけば明日が見える』ブイツーソリューション、2015年、49-51頁。
- ^ 『戦争5』読売新聞大阪本社、1977年、239頁。
- ^ 『振りむけば戦争があった』東京図書出版、2013年、68-84頁。
- ^ 『振りむけば戦争があった』東京図書出版、2013年、85-105頁。
- ^ 『振りむけば戦争があった』東京図書出版、2013年、106-109頁。
- ^ 『振りむけば戦争があった』東京図書出版、2013年、110-112頁。
- ^ 『鉄条網を越えてきた女』角川書店、1987年。
- ^ 『振りむけば明日が見える』ブイツーソリューション、2015年、179-184頁。
- ^ 『THE DAILY YOMIURI Shiba - an 'ordinary guy' type of genius』読売新聞、1996年2月28日、7頁。
- ^ 『Revised POLESTAR English Course Ⅱ』数研出版、2001年、55-60頁。
- ^ “ダ・ヴィンチがやってくる「ミラノ展」”. 2021年3月20日閲覧。
- ^ “プラド美術館展-スペインの誇り、巨匠たちの殿堂-〈記者発表会〉”. 2021年3月20日閲覧。
- ^ 『読売新聞朝刊14版 読売ゴルフ役員人事』読売新聞東京本社、2006年6月23日、2頁。
- ^ a b c 『人事興信録第13版(上)』人事興信所、1941年、カ157頁。