コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

渋沢財閥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

渋沢財閥(しぶさわざいばつ)は、渋沢敬三が社長を務める渋沢同族株式会社を中心とする企業群[1]

渋沢同族社長(栄一の後継者)・渋沢敬三
渋沢財閥創立者・渋沢栄一。

概要

[編集]

渋沢財閥と呼び慣わされるが、『國史大辭典』で経済史学者の山口和雄が「渋沢財閥は財閥とよぶのがどうかと思われる」としているように[1]、この企業群を「財閥」とすべきかは意見が分かれている。

渋沢財閥は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)が占領政策として財閥解体を実施するにあたり、1946年(昭和21年)12月に持株会社指定委員会から指定を受けた十五大財閥の一つ。渋沢栄一により設立された渋沢同族株式会社を持株会社とする財閥と位置付けられた。しかしながら、GHQより再調査の結果、その規模と株式所有企業への支配力の点からも渋沢同族株式会社は財閥の持株会社には相当せず、指定解除を願い出る様に通知してきた[2]


渋沢家当主で渋沢同族株式会社社長(第一銀行元副頭取、澁澤倉庫元取締役)の渋沢敬三は、戦中戦後にかけて日本銀行総裁、大蔵大臣として日本の金融財政等の経済政策運営に係わってきた当事者としての立場から、財閥指定解除の願いについて、「それは世間が承知せんだろう」と言ってこれを実施せず、財閥には当たらない持株会社ながら財閥指定を受けることとなった[2]

持株会社の成立経緯

[編集]

渋沢栄一は、1873年(明治6年)に第一銀行(後に第一勧業銀行を経てみずほ銀行に)を創設。以後500にのぼる企業の創設、育成に携わった。栄一は日本の近代化のために社会に必要な産業を担う新たな企業を起こして、軌道に乗せることに情熱を傾けた。自ら設立した企業であっても株式を大量に保有する事によって、いわゆる経営支配を行う事には関心は無かった。家族や縁者が長く経営の責任ある立場に関与し続けたのは、第一銀行や澁澤倉庫などの限られた企業しかなかった。

このように渋沢財閥が微弱な小財閥になったのは、渋沢栄一が経済と道徳の合一を掲げて実践したからである。渋沢栄一は井上馨など政治家との繋がりがあったので、望めば利権を得ることが出来たが、そうしなかった。また、浅野総一郎大川平三郎古河市兵衛山下亀三郎福沢桃介大倉喜七郎植村澄三郎門野重九郎などの財界の大物たちは渋沢に恩義があり、渋沢が望めば喜んで部下として活躍したであろうが、渋沢は見返りを求めなかった。例えば、古川は恩返しのために、足尾銅山の共同経営を渋沢に申し込んだが、断られた。渋沢は関係した多数の会社を、望めば自分のものに出来たのであるが、そうしなかった。しかも、渋沢が生きたのは日本経済の発展成長期であり、自身の経営能力や自身の名声や、第一銀行の資本力を用いて、容易に大財閥を築くことが出来たのに、自分だけの利益を追求しないで社会全体の利益を追い求めたのである。[3]

一方で栄一の多方面での活躍から、その資産も結果的に膨らむことになり、栄一は死後にそれを巡って一族内で争いが起こることも懸念し、娘婿で東京帝国大学法学部長も務めた民法家族法の権威である穂積陳重をして、1891年(明治24年)に渋沢家家法を定めさせ、澁澤同族会を組織して一族の財産管理等を行わせた。その延長で1915年(大正4年)には資産管理会社として嫡孫・敬三を社長とした澁澤同族株式会社(資本金330万円)を設立し、保有していた各社株式はじめ一族の資産を同社所有とし、澁澤同族会メンバーには澁澤同族株式会社の株式を持たせた。

株主(設立時)

[編集]

株式総数 3,300株[4]

持株会社の実態と解散

[編集]

澁澤同族株式会社の保有株式の各社ごとの保有比率は非常に低く、栄一の死から5年後の1936年(昭和11年)の資料によれば、第一銀行で2.9%[5]石川島造船所で1.9%[6]東京貯蓄銀行(第一銀行系貯蓄銀行)で16.5%、最も比率の高い澁澤倉庫でも26.2%に過ぎず、他の財閥のように発行済株式の過半数を保有することによって、財閥家族が傘下企業の経営に影響力を及ぼすという支配構造ではなかった事が確認できる。また、1943年(昭和18年)には第一銀行は三井財閥の三井銀行と合併し帝国銀行となっていた。

こうした実態ではあったものの、財閥解体政策が進められるなかで1946年(昭和21年)12月7日に持株会社指定を受け、指定解除の議論もある中であえて抗わず粛々と資産処分を実施し、昭和22年(1947年)10月に解散した。

持株会社の解散後

[編集]

1948年(昭和23年)帝国銀行から旧第一銀行は分離独立し、行名も合併前の旧名である第一銀行に復した。第一銀行及びその後身である第一勧業銀行と取引があり、渋沢栄一が設立時等に関わりをもった幾つかの企業は第一勧業銀行の取引先グループの三金会のメンバーとなっている[7]

ただ渋沢栄一が創設等に関わったものの、いわゆる「渋沢系」と周知あるいは自認している企業は少なく、第一銀行(現みずほ銀行)、澁澤倉庫、東京石川島造船所(現:IHIいすゞ自動車)くらいであるとの研究者指摘もある[8]。一方で渋沢栄一が、相談役として黎明期より深く長く経営に関わりをもった清水建設や、渋沢栄一がグループ創業者の古河市兵衛と深い信頼関係を築き終始助力を惜しまなかった古河グループなど、自社やグループの歴史の中で渋沢栄一との繋がりを今日に至るまでしっかりと伝える企業も多い。

渋沢栄一が経営に関わった企業

[編集]

三金会(旧第一勧銀グループ)のメンバー

[編集]

その他の企業

[編集]

病院

[編集]

学校など

[編集]
  • 商法講習所 (一橋大学)[14][15]
  • 日本民俗学会(アチック・ミュージアムを改組したもの)[16]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ みずほコーポレート銀行はみずほ銀行と合併した。但し存続会社はみずほコーポレート銀行で、合併後「みずほ銀行」に行名を変更した。
  2. ^ 前身の秩父セメントの設立に栄一が関わっている[10]。また、旧秩父小野田の合併相手となった日本セメントにも渋沢も経営支援していた。
  3. ^ 第一原子力グループのメンバー。
  4. ^ 渋沢の関与した汽車製造事業を神戸川崎財閥の祖業である川崎造船所が救済合併。
  5. ^ 形式上では第一勧銀グループの一員に入るが、融資的には旧勧銀側にあったため関係は異なる。
  6. ^ 母体会社のうち、存続会社に栄一の関与した損害保険会社がある(旧帝国火災保険)。
  7. ^ 渋沢の総合保険会社・明教保険会社の生保事業を継承した明教生命保険が旧帝国生命保険(後の旧朝日生命保険)に救済合併された。
  8. ^ 渋沢は旧社の設立に当初から関与。三菱資本の傘下に入るのは大正以降(厳密にはその5年前の1907年頃に日本国籍として後身の旧麒麟麦酒が新設)。またキリングループ傘下の協和発酵キリンは第一勧銀グループの社長会・三金会に加盟[9]
  9. ^ 直近の史実では日本曹達旧財閥に帰属。但し、母体としては東京製綱の資本からが源流と記念財団公式所管の史料等にある。
  10. ^ 前身の東京海上火災保険の設立に栄一が関わっている[10]
  11. ^ 前身の住友海上火災保険は栄一の関与した損害保険会社の一社、扶桑海上火災保険が母体。
  12. ^ 前身の同和火災海上保険は栄一が母体会社の設立に関わった。
  13. ^ 前身の十條製紙は栄一が設立に関わった初代王子製紙の後継会社として設立された。
  14. ^ 設立の母体は福岡の地で渋沢が設立に関与した戸畑鋳物で、日産自動車の前身企業である「自動車製造株式会社」(ダットサン)を設立したことで知られる。
  15. ^ 渋沢の資本参加した「国際通信会社」が別の国策会社と合併して国際電気通信として設立、戦後に一旦解散し半官半民で設立した国際電信電話(旧KDD)が実質的な継承会社となる。
  16. ^ 片倉製糸紡績(後の片倉工業)より旧岩代事業所を現在の日東紡に継承された。
  17. ^ 財閥の母体となった官営時代の富岡製糸場に渋沢栄一らが関与していた。片倉家による買収以降については同項を参照。
  18. ^ 旧大和紡績の設立母体の一社に渋沢が関与していた「日出紡織」がある。
  19. ^ 旧三井製糖の合併相手が渋沢が旧大日本製糖とは別に関与した台糖(旧台湾製糖)である。
  20. ^ 三菱の会社であった横浜船渠に渋沢が関与した。
  21. ^ 理化学研究所と旧山之内製薬(現アステラス製薬)の合弁で製造販売事業を継承。
  22. ^ 渋沢らが設立した日本染料製造を旧住友化学が救済合併。また、関連の住友ベークライトも化学系の発明家である高峰譲吉が創業した、旧三共を母体企業として設立されていた企業を住友が買収。
  23. ^ 同社の母体となる日本初の商社・先収会社に渋沢も設立関与。
  24. ^ 留学先のイギリスで化学肥料を知り後に世界的化学者となる高峰譲吉からも提言を受け、「農業の盛衰は国家の盛衰に関わる。国家のために実に有益な事業である」と賛同、益田孝(三井物産初代社長)らとともに発起人となり、日産化学の前身となる会社を設立した。

出典

[編集]
  1. ^ a b 國史大辭典 1986, p. 67.
  2. ^ a b 『渋沢家三代』、249頁。
  3. ^ a b c d e f g 大阪毎日新聞東京日日新聞エコノミスト『財閥盛衰記-地方中堅財閥の巻-』明星書院、1930年、264-274頁。
  4. ^ 『帝国銀行会社要録 附職員録 大正4年(第4版)』帝国興信所、1915年、東京府226頁。 
  5. ^ 『渋沢家三代』、248頁。
  6. ^ 『渋沢家三代』、248-249頁。
  7. ^ a b c d e f g 田中彰、「六大企業集団の無機能化: ポストバブル期における企業間ネットワークのオーガナイジング」『同志社商学』 2013年 64巻 5号 p.330-351, doi:10.14988/pa.2017.0000013201
  8. ^ 『日本の15大財閥―現代企業のルーツをひもとく』168頁。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「六大社長会の加盟企業 秘2017年版バージョン」『週刊ダイヤモンド』2017年7月29日号、32-33頁
  10. ^ a b c d e f g 『渋沢家三代』、10-11頁。
  11. ^ https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/yukarinochi/album/13-J-0016-B0053-ph01.html
  12. ^ 病院の歴史|病院について|地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センター”. www.tmghig.jp. 2019年7月15日閲覧。
  13. ^ 西野入愛一『浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本』春秋社、1937年、125頁。
  14. ^ 発祥の地コレクション/一橋大学”. www.hamadayori.com. 2019年7月15日閲覧。
  15. ^ 西野入愛一『浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本』春秋社、1937年、117頁。
  16. ^ 樋口弘『計画経済と日本財閥』味灯書屋、1941年、311頁。

参考文献

[編集]

関連文献

[編集]

関連項目

[編集]
  • 渋沢敬三(栄一の嫡孫・渋沢同族社長、渋沢子爵家当主)
  • 渋沢雅英(敬三の嫡男・終戦時、渋沢同族次期社長・渋沢子爵家次期当主)
  • 穂積陳重(栄一の娘婿・渋沢同族株主)
  • 阪谷芳郎(栄一の娘婿・渋沢同族監査役)
  • 渋沢信雄(栄一の孫、渋沢同族役員)
  • 渋沢智雄(栄一の孫、渋沢同族役員)