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利用者:Haydar/下書き3-1

ノート:モンゴル帝国用下書き

Haydarです。議論の参加に甚だ遅れてしまいましたが(汗、遅まきながらいくつか自分の意見を述べさせて頂きたいと思います。以下は個人的な理解を含んでいですのでその点ご容赦下さい。
モンゴル君主の称号を表記する場合ひとつとっても、「ハン」「ハーン」「カン」「カアン」などいくつもあって、人名だけとっても「フビライ」じゃなくて「クビライ」だとか「カイドゥ」が「ハイドゥ」だったりと、端から見ていますとごちゃごちゃと甚だややこしく思えます。一応、これらの表記の揺れには理由がありまして、特に近年のモンゴル帝国史関連の進展と従来のモンゴル学や東洋史などの分野とのある種の「段差」が原因していると思われます。
 ○近年の研究動向について
まず、ここ2、30年ほどで日本でもイスラーム関係をはじめ中央アジアイラン西アジアなどの地域での文献研究などが大きく進展し、実際の現地や歴史的な情報を直に精査する機会が増加し、従来の名称の表記について修正すべき点が多くなりました(とはいえ中央アジア研究は特に不明な点がまだまだあまりにも多すぎますが)。
モンゴル時代史関連で言いますと、近年、特に中国本土で発見されたモンゴル帝国大元朝時代に建立されたモンゴル皇帝聖旨碑文はじめ碑刻資料や明朝初期に編纂された多言語辞書『華夷訳語』など、13、14世紀のモンゴル帝国やその周辺で作成された同時代性の高い多言語資料の研究が本格化し、これらの研究から従来の歴史的な名称も修正が加えられて表記もされるようになりました。特に従来のモンゴル語の音韻については近現代のモンゴル語に基づくモンゴル時代のモンゴル文字資料の利用と同じく漢字音韻研究しか扱えませんでしたが、同時代性の高いペルシア語資料やパスパ文字モンゴル語碑文、『華夷訳語』などの辞書を総合的に使えるようになったことは言語史的な解明の上でも意味は大きい。これらの文字体系であれば、モンゴル時代に使用されたウイグル文字式モンゴル文字では表記しきれないモンゴル語やテュルク語本来の音素を多く表記できるからです。(これらアラビア文字によるペルシア語資料やパスパ文字資料は大元朝時代の漢字音韻の研究でも重要な位置を占めています)
この同時代性の高い資料というのは、イラン地域におけるモンゴル政権であるイルハン朝で製作されたペルシア語に拠る年代記資料である『集史』やモンゴル王族や諸部族の系譜資料である『五族譜(Shu'ab-i Panjgāna)』、続くティムール朝やシャイバーニー朝などで作成された諸資料も含まれます(勿論、モンゴル帝国より後の作品であるため、作成された時代や意図、状況固有の問題を抱えてはいますが)。特にモンゴル時代にモンゴル君主の意向のもと編纂されたイルハン朝の『集史』は、明代になってから編纂された『元史』や『元朝秘史』などに比べると本来別格的な位置付けにあったりしますが、言語史的な資料としても碑刻資料などと比較しても劣らぬ重要性を持っています。
近年のモンゴル時代史研究を言語の点でまとめると、
 1) アラビア語・ペルシア語資料の利用(同時代的な政権側資料であることと当時のモンゴル語などの音韻の基本資料のひとつになっていること)
 2) パスパ文字モンゴル語碑刻資料の積極的な利用(パスパ文字はモンゴル語や漢字音韻などの他言語ツールとして開発された文字なので、同時代の中期モンゴル語の音韻についても具体的な事例を採取できる基本資料として重要性をもつ)
 3) モンゴル時代また、そのため、より実際の発音や文字表記に近い日本語での表記にしようという方向性が出てきました。いわゆる「現地原音主義」の地盤はこれら近年の日本の人文学における各種分野の発展の結果と言えますが、「チンギス・カン」や「クビライ」、「カアン」という表記もこれら近年の研究動向と密接に関係しています。
 ○「カアン」と「ハーン」の違い
上述のように、90年代から特に中国本土で発掘された、モンゴル帝国・大元朝時代建立のモンゴル皇帝聖旨碑文はじめ碑刻資料が注目されるようになりました。近年のモンゴル時代史研究の大きな転機としては、本田實信先生によるペルシア語・漢語両資料を用いた研究に続き、碑刻資料と他の多言語併記資料を積極的に使用できるようになったのが大きいです。
さて、モンゴルの君主の称号について、「カアン」、「カン」、「ハーン」、「ハン」と様々に表記されますが、これらの違いの原因としては、
 1)モンゴル帝国の首長である(チンギスおよびグユクをのぞく)モンゴル皇帝が名乗った「カアン」(Q'Q'N / qa'an)と他のモンゴル王家の当主たちが名乗った「カン」(qan)の二種類あったことが第一点。
 2)また、この中期モンゴル語での「カン」(Q'N / qan )はテュルク語の君主号「ハン」(χan)と同義語であり、モンゴル時代前後の西方での主要典拠であるアラビア語・ペルシア語の文献では、「ハーン」( خان khān )と表記していたことが第二点。
そして、中期モンゴル語の 「カアン」はウイグル文字の綴りQ'Q'Nに表れているように本来古代のカガンのそれであり、文字の綴りの通りに書けば Q'Q'N / qaγan と書いて「カガン」と読まなければなりませんが、上述のパスパ文字モンゴル語文の綴り qa・anや『集史』のペルシア語の表記 قاآن qā'ān / قآنqa'ān などからモンゴル時代当時すでに一部の口蓋垂摩擦音(主に有声軟口蓋摩擦音) γ が弱化、無声化(有声口蓋垂破裂音など)、母音化し、実際の中期モンゴル語では「カアン」(Qa'an)と発音されていたようです。(言語学的な音韻変化の問題は詳しく無いので説明が間違っているかもしれません(汗)
これと似た現象としては、現代のテュルク諸語において、ユムシャック・ゲー Ğ が他のタタール語アゼルバイジャン語などが有声を保っているのに対してトルコ共和国トルコ語では弱化してしまいます。例えば「山」をdaγ/dağ などが前者では dağ 「ダグ」と発音されますが、トルコ語ではdağ : ダ となってしまいます。これらを踏まえて、
 3)近現代のモンゴル語では、中期モンゴル語でのq 音が q 〜 χという音変化と、母音連続が長母音化するため、中期モンゴル語の「カアン」Q'Q'N / qaγan > qa'an は近現代のモンゴル語において「ハーン」χa'an > χaːŋ/ хаанと発音、表記されるという第三点。
これら主に三点の問題がそれぞれ交錯し、論者の資料的に拠るべき立場によって「カアン」、「カン」、「ハーン」、「ハン」というばらつきが生じてしまいます。特に、第二点のアラビア語・ペルシア語による「カン」(qan)の表記 خان khān と、第三点の「カアン」の近現代のモンゴル語の発音 хаан は、カタカナで表記すると同じ「ハーン」になってしまい、モンゴル帝国のことを述べる時、実際には資料上でモンゴル皇帝である「カアン」と一般のモンゴル王家の当主たちが名乗った「カン」が区別されているのに、両者の称号が「ハーン」などで一緒にされるという弊害が出てしまいます。
近年の(主に日本の)モンゴル時代史研究では、当時の資料上で両者は基本的に厳然と区別されていたことを鑑みて、前者を「カアン」、後者を「カン」やペルシア語資料に表れる خان khān をもとのテュルク語形 χan に基づいて「ハン」などと表すようにしています。これら煩雑な事情のため、モンゴル皇帝を表す時に マルコ・ポーロなどヨーロッパからやって来た人々が呼んだ Grand Can に基づいて、一部では「大ハーン」や「大カアン」という表記もされています。
長くなりましたが、「カアン」、「カン」、「ハーン」、「ハン」の違いの原因についておおまかな概観を述べると以上のような感じになります。
また上記でらりたさん、aranshuさんが問題として取り上げておられた、「フビライ・クビライ(ハイドゥ・カイドゥ、ハイシャン・カイシャン)」も、「クビライ」「カイドゥ」「カイシャン」はモンゴル帝国や大元朝の時代の中期モンゴル語の表記および発音に基づく物であり、「フビライ」「ハイド(ゥ)」「ハイシャン」はどちらかというと近現代のモンゴル語の発音によるものと思われます。ちなみにそれぞれのパスパ文字モンゴル語による表記と『集史』などのペルシア語による表記は、
 クビライ(パスパ文字:Qubilai、ペルシア語: قوبيلاى قاآنQūbīlāī qā'ān / Qūbīlāy qā'ān , قبلاي قان Qubilāy qānなど)
 カイドゥ(パスパ文字:不明、ペルシア語: قايدو Qāīdū / Qāydū )
 カイシャンパスパ文字:(パスパ文字:Hay-šan、ペルシア語: خايشانك Khāīshānk (『集史』)/ خيشنك Khayshank 『バナーカティー史』/ خيشان Khayshān『選史』 など)(モンゴル文字:Q'YYS'N/Qayišan(『アルタン・ハーン伝』)、
「クビライ」、「カイドゥ」などは間違い無くモンゴル語ですのでこの通りで良いと思います。(チンギス・カンの祖先のカイドゥ・カンと同じ綴り)ただ、「カイシャン」についてはペルシア語文献の読みからするとそのままだと「ハイシャング」〜「ハイシャン」となりそうですが、おそらくこれは、『集史』単語末の -nk の表記から考えて、『元史』「武宗本紀」の「諱海山」とあるようにモンゴル語では無く「海山」という漢語の発音を音写したものと思われます。同じモンゴル時代の人名で漢語で「海」を使われている例としてチンカイ Činqai (鎮海)が居ますが、彼はインノケンティウス4世から派遣されたプラノ・カルピニの旅行記では Chingay 、『世界征服者史』や『集史』では چينقاى Chīnqāī と表記されているようですのでチンハイよりもチンカイで良いと思います。カイシャンが皇子時代に発令したパスパ文字による命令文書に Hay-šan と書いている例があるようでして(G.Tucci, Tibetan Painted Scrolls収録のP.Pelliotの論文)、クビライやカイドゥとは事情が異なり、「ハイシャン」でも許容されるのではないかとも思われます。しかし、フレグ Hülegü がモンゴル文字で掛れる場合、モンゴル文字では h が書く事が出来ず "WL'KW と綴られる例(『五族譜』)があるとの話から考えますと、 カイシャンの場合、Q'YYS'N/Qayišan とあるように語頭は q で書かれ、 Hay-šan〜Ay-šan といった、用例は見られないため、中期モンゴル語では「カイシャン」qayišan〜χayišan と言っていた可能性も捨て切れないように思います。そのため、現行の「カイシャン」の項目を「ハイシャン」に移動したり、大元朝関係の記事で一律「ハイシャン」に改める必要もないかと個人的には思われます。

また、「チンギス・ハーン」と「チンギス・カン」という表記の違いには、実はこれらの問題に加えさらにもう一つの原因があるのですが、それについてはまた後日述べさせて頂きたいと思います。


「チンギス・カン」と「チンギス・ハーン」という表記[編集]

「チンギス・ハーン」の表記は、実は歴史的に二通りありまして、「チンギス・カン(CYNNKYS Q'N)系と「チンギス・カアン」(CYNNKYS Q'Q'N)系に大別出来ます。
13、14世紀、モンゴル時代当時の碑刻資料については有名なものもいくつかありますが、代表的な物としては、チンギスの甥(ジョチ・カサルの息子)イェスンゲの遠矢の記録を賞揚したイェスンゲ紀功碑や、モンケ、クビライなど歴代のモンゴル皇帝たちが名刹少林寺に下した聖旨を刻した「蒙漢合璧聖旨碑」など、モンゴル帝国〜大元朝時代にウイグル文字モンゴル語やパスパ文字モンゴル語による文書が多く作成されました。特にモンゴル政権側で作成された文書で発令者であるモンゴル皇帝の名乗りなどでチンギスについて言及される場合(皇帝の勅である聖旨など)、彼は「チンギス・カン」(CYNNKYS Q'N)で呼ばれていました。
1220年代にモンゴル帝国はチンギス自ら中央アジア遠征を行い、この時期のアラビア語文献(イブン・アル=アスィール Ibn al-Athīr の『完史』 al-Kāmil fī al-Ta'rīkh など)やペルシア語文献(ジューズジャーニーの『ナースィル史話』 Tabaqāt-i Nāsirī 、ジュワイニーの『世界征服者史』 Tārīkh-i Jahāngushā )では、 جنكيز خان Jinkīz Khān とか جنكز خان Jinkiz Khān などと書かれました。14世紀初頭にイルハン朝の君主ガザンオルジェイトゥの特命によって編纂された『集史』では、 چينككيز خانChīnkkīz Khān と書かれており、以降のアラビア語ペルシア語史料では表記の揺れがあるものの چنكيز خان Chikīz Khān 、 چنكز خان Chinkiz Khān 、 جنكز خان Jinkiz Khān という形で表れ、こちらでもやはり「チンギス・カン」系になります。
一方、次代のオゴデイについては、