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利用者:Hhst/忘れられた歴史

昔のテニスの年度別記事を書いたり、さまざまな本を読みながら、今では生没年月日さえ分からなくなった往年の名選手たちの名前をいろいろ見つけた。いつの日か、どこかでチャンスを見つけたい人たち。

未知の国から[編集]

ベルギー:ジュスティーヌ・エナン選手とキム・クライシュテルス選手の時代に空前の隆盛を誇った国。2人とも世界トップ10のまま現役を引退した(エナンにいたっては世界1位のままで!!)。そのベルギーに、80年前の偉人がいた。

  • Jean Washer: [1] 「ジャン・ワッシャー」と読むのか。彼のことを知りたくなったのは、全仏選手権が国際化された第1回大会の1925年全仏テニス選手権で「男子シングルス・第2シード」だったから。息子のフィリップも著名なデビスカップ・ベルギー代表選手である。(このサブページを見てくださった方から、情報をいただきました。)

スイス:あのロジャー・フェデラー選手の国にも、忘れられた偉人がいる。せっかくのチャンスなのに、なぜ国の歴史を思い出してくれないのか。

  • Lolette Payot: 「ロレット・パヨー」と読んで間違いないと思う。1935年全仏テニス選手権混合ダブルス優勝者で、スイスのテニス界で最初の4大大会優勝者。1930年代の女子テニス界を代表する選手の1人だったのに、4大大会女子シングルスではベスト8が最高成績だったので、現代の文献には残っておらず、古い本を探すしかない。女子選手だと、男子のデビスカップのようなプロフィールもない時代であり、その点も不利である。今の“ウィキペディア時代”の選手なんか、1度でも4大大会シングルスのベスト8に入ったら、たちまち20言語版以上も記事が立つというのに。

パヨー選手が最初かと思っていたら、もっと前の1920年代半ばに、ウィンブルドンの男子シングルス8強入りした選手が見つかった。この人がスイスで最初の開拓者となり、女子のパヨーに引き継がれたのだろう。

インド:昔から日本の「デビスカップ・インド戦」で立ちはだかってきた強豪選手たちの歴史。1920年代から、彼らもずっと世界の頂点を目指し続けてきた。しかし、現時点で没年月日を確認できるのは1人だけ。ルイス・ディーン選手(1882年3月12日 - 1934年12月18日)で、1923年ウィンブルドン選手権混合ダブルス準優勝者。[3]

中国:Category‐ノート:中華人民共和国の議論において、スポーツ選手のカテゴリを「Category:中国のxx選手」に改名すべしの結論に至ったのは、中華民国時代に活躍した2人の男子テニス選手を見つけたから。[5]

  • 林宝華(Lum Pao-Hua):1927年全豪テニス選手権ベスト8の選手。2008年11月10日に記事立ち上げ。
  • 許承基(Kho Sin Kie): [6] 1938年ウィンブルドン選手権の第8シードだったことから、中国では最も伝説的な存在。最新の簡体字資料(中国人民日報・海外版)により「1947年1月31日、肺炎で死去」とあるのを確認。[7] したがって「1912年9月2日 - 1947年1月31日」となる。最近の中国女子の躍進により、現地で彼の伝記の研究が進んだのは、ベルギー・スイスの両国とは正反対の素晴らしい展開。中国語の分からない私にはお手上げ、なんて言ってられない。

他の選手は、中国語簡体字文献とデビスカップサイト・ITFプロフィールなどの英語表記が結びつかない。

アイルランド:カテゴリ内の7人は豪華な顔触れ。けれど、あと2人知りたい男子選手が残っている。

  • Manliffe Goodbody: 「マンリフ・グッドボディ」と読むのだろう。1894年全米テニス選手権男子シングルス準優勝者で、全米選手権の男子シングルスで最初の外国人決勝進出者。黎明期の全米選手権の場合、優勝者はほとんど国際テニス殿堂入りしてるのに、準優勝者は生没年月日さえ分からなくなる(なんと不公平な!!)。それに、1890年代の男子選手はデビスカップのプロフィールがなく、その点も不利である。アイルランドから全米選手権の女子シングルスに出たマーベル・カーヒル選手の消息が不明になるほどだから、仕方ないのかな。
  • George Lyttleton-Rogers: [8] アイルランド独立後、世界的に活躍した唯一の選手。日本人男子選手との対戦も多かったので、日本語の文献で「ジョージ・リトルトン・ロジャース」と読める。それだけに、没年月日さえ分かれば…。

往年のウィンブルドン優勝者[編集]

私の基本文献の1つであるランス・ティンゲイ著『ウィンブルドンの100年史』(英語、1977年刊)では、すべての歴代優勝者の生没年月日が正確に記録されている。ここで問題なのは、本が発刊された1977年当時はまだ存命であったが、その後に亡くなった人たちの没年月日である。残念ながら、研究者のティンゲイ氏が1990年3月10日に死去された。最近の報道で分かる人なら、出典となる記事を外部リンクとして掲載できるが、それさえできない人はどこへ行ったのか。

男子選手の場合は、国際テニス連盟の選手検索機能でほとんど分かる。ITF SR

女子選手はかなり多い。スイスのロレット・パヨー選手と同じように、プロフィールのない時代だったせいだろうか。

  • Freda James フレダ・ジェームズ:1935年・1936年女子ダブルス優勝者(イギリス、1911年1月13日生)。
  • Josane Sigart ヨサンヌ・シガール:1932年女子ダブルス優勝者(ベルギー、1909年1月7日生)。
  • Sheila Summers シーラ・サマーズ:1949年混合ダブルス優勝者(南アフリカ、1919年3月18日生)。
  • Phoebe Holcroft Watson フィービ・ワトソン:1928年・1929年女子ダブルス優勝者(イギリス、1898年10月7日生)。
  • Billie Yorke ビリー・ヨーク:1937年女子ダブルス優勝者(インド生まれ→イギリス、1910年12月19日生)。

他の女子選手[編集]

公式プロフィールのなかった時代、女子選手では4大大会シングルス準優勝者でも正確なデータが分からない人が多くなる。

  • Julie Vlasto ジュリー・ブラスト(フランス):「ディディ・ブラスト」の愛称で知られる。1924年全仏選手権女子シングルス優勝者で、同年のパリ五輪女子シングルス銀メダルもあるのに、なぜか没年データが「1985年」としか出てこない。[9]
  • Joan Fry ジョーン・フライ(イギリス):1925年ウィンブルドン選手権女子シングルス準優勝者。ナショナル・ポートレート・ギャラリーの所蔵写真から「1906年 - 1985年」のデータが出てくるのみ。[10]