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DD-515 アンソニー
DD-515 アンソニー
DD-515 アンソニー
基本情報
建造所 バス鉄工所
運用者  アメリカ海軍
艦種 駆逐艦
級名 フレッチャー級駆逐艦
愛称 マッドアンソニー
艦歴
起工 1942年8月17日
進水 1942年12月20日
就役 1943年2月26日
退役 1946年4月17日
除籍 1972年4月15日
その後 1958年1月17日西ドイツ海軍へ引き渡し、「Zerstörer-1」に改名
要目
兵装 38口径5インチ単装砲5門
40mm機関砲10門
20mm機関砲7門
爆雷軌条2基
爆雷投射機6基
21インチ(533mm)魚雷発射管10門
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D-170 Zerstörer-1
基本情報
運用者  西ドイツ海軍
艦種 駆逐艦
級名 フレッチャー級駆逐艦
母港 キール軍港
艦歴
就役 1958年1月17日
除籍 1972年4月15日
その後 1979年5月16日標的艦として沈没
要目
兵装 38口径5インチ単装砲5門
76mm機関砲6門
40mm機関砲8門
21インチ魚雷発射管10門
21インチ(533㎜)対潜魚雷発射管2門
ヘッジホッグ対潜迫撃砲2基
爆雷軌条2基
テンプレートを表示

アンソニーUSS Anthony, DD-515)は、アメリカ海軍駆逐艦フレッチャー級駆逐艦の1隻。艦名は、ウィリアム・アンソニー海兵隊曹長に因む。愛称はマッドアンソニーMad Anthony)。


概要

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アメリカ海軍のフレッチャー級駆逐艦である。同級のテリー(DD-513)、ワズワース(DD-516)、ブレイン(DD-630)と共に第90駆逐隊を編成し、主に太平洋で活動した。担当した任務は対地砲撃や船団護衛、レーダーピケット任務等である。1946年に退役した後、1958年に西ドイツの最初の駆逐艦Z-1(D-170)として就役し、1972年まで活動した。

艦歴

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1942年

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1942年8月17日、バスアイロンワークコープはバスとマインにて起工。1942年12月20日に進水。スポンサーはMiss Alice Anthony とMiss Frances Anthony、そしてSergeant Major William Anthony の孫娘であった。1943年2月26日にボストン海軍工廠で就役し、Blinn Van Mater中尉の指揮下に入る。

1943年

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1943年3月26日、アンソニーはキューバのグアンタナモ湾沖にて慣熟訓練を行い、4月27日にボストンへ帰投した。その後バージニア州のノーフォークへ寄港し、5月10日にハンプトン・ローズを出港して太平洋へ向かった。パナマ運河通過後の5月31日、アンソニーは太平洋艦隊に加わり真珠湾に到着した。

続いて二か月間の集中訓練が行われた。アンソニーは船団護衛のため8月10日にハワイ海を離れ、パゴパゴとサモアを経由し、共同統治領ニューヘブリディーズのエファテ島へ向かった。そして8月27日にエファテ島に投錨した。

その次の数週間は更なる訓練に費やされた。10月末、アンソニーはソロモン諸島からブーゲンビルへの輸送部隊の護衛駆逐隊に加わった。11月1日、アンソニーはエンプレス・オーガスタ湾の浜辺への海兵隊の上陸前砲撃を担当し、上陸を支援した。11月3日、フロリダ諸島のパーヴィス湾に寄港した。しかし、ブーゲンビル島を離れる水上部隊の増強のため11月8日に再びブーゲンビル島へ向かう。度重なる空襲にも関わらずアンソニーは輸送部隊を護衛し、無傷での陸揚げを成功させた。11月15日にツラギ島に寄港し、すぐも兵員輸送船の護衛とソロモン諸島各地への補給を開始した。

1944年

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中断された常職は1944年12月20日にブーゲンビル海峡進行の指令により再開した。護衛任務の再開前、アンソニーは同海峡において日本軍の小型艦数隻と遭遇し砲艦1隻と艀数隻を撃沈した。

2月15日、アンソニーはグリーン島の上陸地点へ向かうLST部隊を護衛した。当初は火力支援任務を行う予定であったが、部隊が浜辺に上陸した際日本軍の抵抗があまりに小さかったためアンソニーが仕事をする必要は無かった。

パーヴィス湾で束の間の休息を過ごした後、アンソニーはニューブリテン島のラバウルにある日本軍の本拠地に対する砲撃に参加するため2月23日に出港した。3月中、ガダルカナル・エミロウ間での輸送の援護を行う前段階として、アンソニーはエミロウ島への進撃を援護した。

4月24日、アンソニーは戦艦部隊に随伴する任務に配属され、ニューメキシコやアイダボ、ペンシルベニアをオーストラリアまで護衛した。29日にシドニーに到着し半減上陸する。その一週間後の5月6日にパーヴィスベイに戻るため出港した。

休息明けの訓練の後、アンソニーらは6月2日にマリアナへの進撃のため出港した。6月8日、燃料補給のためクェゼリン環礁に到着し、その後マリアナへ向け西に舵を切った。6月14日、アンソニーはサイパンで砲撃を行い、その翌日はサイパンへ上陸する他の船を護衛した。6月16日、グアム島に砲撃した。その後アンソニーは第一空母部隊第58任務部隊への参加のため分遣された。彼女の任務には空母の護衛と不時着したパイロットの救助が含まれていた。

7月8日、アンソニーはグアム島への砲撃の準備を開始し、数日間に渡り対地砲撃を続けた。任務を交代する際はエニウェトク環礁で補給して任務を再開した。グアム島沖での活動のため7月21日に戻り、対潜哨戒任務に従事した。

8月10日、ハワイに向かうよう指令が下る。8月20日の真珠湾到着前、アンソニーはエニウェトク環礁で停泊した。そこで簡易的な乾ドックに入渠し、その後マウイ島沖での訓練に参加した。9月15日にウルシー環礁へ向け出航し、10月3日にウルシー環礁のラグーンに無事に到着した。その後アメリカ本土西岸に戻るため直ちに出航した。

10月25日にカリフォルニア州サンフランシスコに到着してまもなく、アンソニーはオーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所に入渠した。12月13日、造船所を出航し一週間の慣熟訓練のためサンディエゴへ向かった。12月20日、ハワイへ向かう船団と共に西海岸を出航し12月30日に真珠湾に到着した。

1945年

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真珠湾にてアンソニーは来るべき硫黄島侵攻作戦に向けての準備を開始した。攻略部隊に所属するアンソニーらは1945年1月27日に出航し、エニウェトク環礁とグアム島の途上で停泊した。アンソニーには予備部隊を乗せた輸送船の護衛が割り当てられた。3月6日まで行われた沿岸への砲撃や硫黄島への夜間砲撃を指揮し、その後フィリピンに向け出航した。

3月13日、アンソニーはサンペドロ湾に投錨し、沖縄侵攻作戦に向け準備を開始した。3月27日、フィリピン海を出航し、4月1日に沖縄沖に到着した。ウルシー環礁への航路のためアンソニーは敵だらけの危険な海域に留まり、火力支援や護衛任務、そしてレーダーピケット任務を6月末まで行った。その間アンソニーは日本軍の空襲を何度も受け、5機の撃墜を報告した。5月27日、特攻機がアンソニーと僚艦のブレイン(DD-630)を襲い、2機がブレインに衝突した。アンソニーはブレインの生存者を全員救助し、被害を受けた彼女を慶良間諸島まで曳航した。


6月7日、アンソニー自身も災難に遭った。レーダーピケット任務中、再び日本軍の特攻機の攻撃を受けたのだ。一機の特攻機は左舷前方に墜落してアンソニーの船体に大穴を残し、側面の救難索や支柱を25フィート(7.6m)に渡って奪い去った。5人の乗組員が海にジャンプしたり投げ出されたりしたが、全員が無事救助された。アンソニーは6月24日まで任務を継続し、その後フィリピンのレイテ島に帰投した。

7月13日、アンソニーは福洲市と温州市の間の中国沿岸沖で対潜掃海任務を行った。補給のため沖縄に戻った後、7月26日にアンソニーは長江河口沖で別の掃海を開始した。8月1日に沖縄に戻り、その2週間後に日本軍が戦意を喪失するまで活動した。

9月7日、アンソニーは日本占領の支援任務のため出航した。アンオニーは長崎と佐世保の沖合で機雷掃海を行い、その後9月29日に佐世保に投錨した。11月17日に出航してミッドウェイ島と真珠湾に寄港し、最終的にサンディエゴに到着した。それから間もなくして、アンソニーは東海岸に向けて出航し、パナマ運河を経由し、サウスカロライナ州チャールストンに向かった。

チャールストンに到着してまもなくモスボール化のための準備が始まった。1946年4月17日、アンソニーは退役し予備役に編入された。

第二次世界大戦における活動についての7つの勲章と、沖縄攻略作戦の英雄的行為を称えるNUC(Navy Unit Commendation)がアンソニーに授与された。


戦後

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1958年1月17日、アンソニーはドイツ連邦共和国に貸与され、西ドイツの最初の駆逐艦Zerstörer-1(D-170)となった。1972年4月15日、アメリカへの帰投と同時に除籍。1972年7月27日に西ドイツに売却され、共食いの対象とスクラップになった。1976年に解体され、1979年5月16日に潜水艦U-29の魚雷の標的として地中海に沈んだ。

脚注

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参考文献

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関連項目

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