利用者:JonathanSheffield/自戒を込めて
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正義の反対は悪なんかじゃないんだ。正義の反対は「また別の正義」なんだよ。 by 野原ひろし(クレヨンしんちゃん)
正義とは一つの感情です。その感情は最も強い反応を人に引き起こすものですが、やはり感情であることには変わりはありません。
たとえば、公衆の面前で煙草を吸うことは、たかだか20年から30年前までは何の問題もない行為でした。しかし、21世紀初頭の現在では居合わせた他人の許可を得ずに煙草を吸うことは、最も非道徳的な行為の一つと見なされています。またその頃には、婚前交渉は禁忌(とは言わないまでも不道徳な行為である)と考えられていましたが、現在では何の問題もなく受け入れられています。たかだか一世代、つまりここ2、30年の間に道徳的と思われる行為の基準が変化したことは、いかに善悪の基準が時と場所によってうつろいやすいものであるか、いかに善悪の基準が人によって異なるものであるかを示しています。
ここWikipediaにおいてもそれは同様です。ある人が何の問題もないと考える行為が、他人にとっては許しがたい行為であることもあるでしょうし、その逆もあるでしょう。自身の道徳感情に基づいて突っ走った行動を取り、投稿ブロックや管理者解任となった例は枚挙にいとまがありません。さまざまな人が、さまざまに自分の思う「百科事典としてのあるべき姿」を持ち、Wikipediaに参加しています。また、Wikipediaは多言語プロジェクトであり、ある特定の言語ではあたりまえの正しさが、他言語版では全く認められない、お国事情に基づいた我侭とみなされることだってあります。このような場で問題となるのは、「正しさ」ではなく「説得可能性」であり「対話」であると、私は考えます。wikipediaは百科事典を作るプロジェクトであり、それ以上でもそれ以下でもありません。問題は「説得可能性」=「検証可能性」なのです。
もし、あなたがWikipediaで、他者と自身のそれぞれの信じる正義によって対立したら、どうか、このことを思い出してみてください。それが、この私論を書いた私の願いです。