利用者:K.m.shinya/sandbox

座標: 北緯40度42分18秒 西経74度00分36秒 / 北緯40.70508度 西経74.01007度 / 40.70508; -74.01007

1906年にフランス海軍の提督キャンピオン(Campion)を迎えて行われた晩餐会
2 サウス・ウィリアム・ストリート(56 ビーバー・ストリート)にあるデルモニコスの建物
1903年に5番街と44丁目の角にあったデルモニコス・レストラン

デルモニコス英語: Delmonico's)は、ニューヨーク市にかつてあり、現在も営業を続けるレストランの名称であり、存続期間、質、評価の異なる複数のレストランを指している。

オリジナルかつ最も有名なのは、デルモニコ家によって、19世紀から20世紀初頭にかけてロウアー・マンハッタンの2 サウス・ウィリアム・ストリートで営業されていたレストランであり、この時期には国内で最も素晴らしいレストランの1つという評判を獲得していた[1][2]。 世界中に広まったデルモニコ・ステーキの発祥地であり、定食式ではなく、メニューからアラカルトに注文できる、アメリカ最初のレストランだと考えられている。また、独立したワインリストを採用した初のレストランだと言われている[要出典]。デルモニコ家は、「デルモニコス」の名を冠した別のレストランをオープンしていき、4店舗が同時に営業した時期もあった。 1923年にデルモニコ家がレストラン業から撤退するまでに、延べ10軒の「デルモニコス」が存在した。

1929年になると、新たなオーナーであるオスカー・トゥッチが、2 サウス・ウィリアム・ストリートにデルモニコスを復活させた。この店舗は1977年まで営業を続けていた。この他にも、1981年から1992年までと、1998年から現在まで、それぞれ営業していた(いる)デルモニコスが存在する。

沿革[編集]

創業[編集]

最初のデルモニコスは、1827年に23 ウィリアム・ストリートの菓子店を借りてオープンし、1830年にはレストランのリストに掲載されている。この店舗を開業したのは、スイスティチーノ出身の兄弟、ジョン・デルモニコとピーター・デルモニコである。1831年には、彼らの甥であり、後にメニューとワインリストの責任者となるロレンツォ・デルモニコが経営に加わった。

デルモニコ兄弟は、最終的にサウス・ウィリアム・ストリート2番地に落ち着くまでの間に、店舗を数回移転させた。ニューヨーク大火災の後、1837年8月に建物が大々的に披露されたときには、ニューヨーク市民は入口の柱はポンペイの廃墟から運んできたものだと聞かされた[3]

拡大と廃業[編集]

1850年代から、デルモニコスは、話者として重要人物を招いてニューヨーク・ニューイングランド協会の年次会を主催するようになった。 1860年には、イースト14丁目の音楽学校で、イギリス皇太子(エドワード7世)を迎えて催された舞踏会に食事を提供した。この食事のために造られた部屋が準備され、メニューはフランス語で書かれ、ピエスモンテヴィクトリア女王アルバート王子、蒸気船グレート・イースタンおよびフロラの花瓶を象っていた。 この様子をニューヨーク・タイムズは、「率直に言って、これほど厳粛で、周到で、豪勢な晩餐を未だかつて見たことがない」と評している[4][5]。 1862年には、当時最も偉大なシェフの1人と考えられていたチャールズ・ランフォーファーを雇った。

デルモニコスは1865年から1888年にかけて経営的に非常に成功し、4店舗を同時に営業するまでになった。通算すると、デルモニコスがかつてあった場所は10ヶ所に上る(下表参照)。1899年、デルモニコスは、5番街26丁目のビル6階にあった店舗を空にした。この建物は1901年5月に、マーティン・ホテルの所有者ジョン・B・マーティンに売却された[6]

1919年、エドワード・L・C・ロビンスがデルモニコスを買収した。5番街と44丁目にあった一等地の店舗は、禁酒法による食事習慣の変化もあって、1923年に閉店した。創業から連続して経営されたデルモニコスとしては最後の店舗であった[7]

最後のデルモニコスの閉店直後から、「デルモニコス」の名を借りた数多くのレストランがオープンした。デルモニコス家は、名称の独占権は続くと主張したが、裁判所の判決は、最後の店舗の閉鎖により、名称は公共の財産となったというものであった[8]

デルモニコ家が所有・運営したレストラン[7]
位置 期間 備考
23 ウィリアム・ストリート 1827年12月13日 – 1835年12月16日(火災により閉鎖) 「デルモニコ&ブラザー・コンフェクショナー」小規模なカフェと菓子屋
25 ウィリアム・ストリート 1830年3月 – 1835年12月16日(火災により閉鎖) 「デルモニコ&ブラザー・コンフェクショナー・アンド・レストラン・フランシス」
76 ブロード・ストリート 1836年12月23日 – 1845年7月19日(火災により閉鎖)
2 サウス・ウィリアム・ストリート 1837年8月 – 1890年7月10日
1891年7月7日再開、1917年閉店
「デルモニコス・レストラン」、「シタデル」と呼ばれる
25 ブロードウェイ 1846年6月1日 - 1856年 デルモニコ・ホテル
チャンバーズ・ストリートとブロードウェイ 1856年 – 1876年10月26日
東14丁目と5番街 1862年4月9日 – 1876年9月11日
22 ブロード・ストリート 1865年 - 1893年
5番街と26丁目 1876年9月11日 – 1899年4月18日 1876年に「ロブスター・ニューバーグ」はここで考案された
パイン・ストリート近くの112–114 ブロードウェイ 1876年10月26日 - 1888年
5番街と44丁目 1897年11月15日 – 1923年5月21日 デルモニコ家所有の最後のレストラン

復活[編集]

1929年、オスカー・トゥッチがニューヨーク州、以前にデルモニコスの店舗があった2 サウス・ウィリアム・ストリート(56 ビーバー・ストリートと書かれることもある)に「デルモニコス」(一般には「オスカーズ・デルモニコス」と呼ばれた)をオープンさせた。トゥッチは、オリジナルのメニューとレシピを採用して頭角を現し、著名な政治家や名士を引きつけるまでになった。このレストランは、1977年に閉店するまでの期間、継続して営業された[9]

1981年、同じ場所に、新しいデルモニコスがエド・フーバーによってオープンし、このレストランは1992年まで営業を続けた[10]

この建物はしばらく空家となっていたが、1998年にバイス・グループが所有権を取得し、料理長にギアン・ピエトロ・ブランチを迎えて再度「デルモニコス」をオープンさせた。この店舗は1999年にオシンノムレッド・パートナーに売却され、サウス・ウィリアム・ストリートで現在も営業を続けている。 現在のウェブサイト[11]は、住所の表示は56 ビーバー・ストリートとなっている。

代表的な料理[編集]

ロブスター・ニューバーグ[7]、デルモニコ・ポテトはデルモニコス・レストランで考案され、恐らくチキン・ア・ラ・キングもそうだが[12]、これはデルモニコ・ステーキとしてとても有名であった。エッグス・ベネディクトも、他の店でも同様のメニューがあるが、デルモニコスで考案されたと言われていた[13][14][15]ベークド・アラスカの名前は、デルモニコスでつくられた[要出典]マンハッタン・クラム・チャウダーは、ニューヨークのデルモニコスで最初に登場した[16]

著名な常連客[編集]

多くの著名人らは、デルモニコスの顧客となっていた。ジェリー・リンドは、毎回のショーの後、ここで食事をしており、セオドア・ルーズベルトマーク・トウェインアーサー・サリヴァンダイヤモンド・ジム・ブレディ、ダイヤモンド・ジムの会社のリリアン・ラッセルチャールズ・ディケンズオスカー・ワイルドジョン・モルガンジェイムズ・ゴードン・ベネット・ジュニアニコラ・テスラ、当時の英国皇太子であったエドワード7世ナポレオン3世も客であった。ジャーナリストのジェイコブ・リースも異種の客であると主張した。彼の本、「ザ・メイキング・オブ・アン・アメリカン」では、彼の運がついていなかったとき、親切なデルモニコスのフランス語を話すコックが、下の窓からロールを渡してくれたと書いている。

他のデルモニコス[編集]

1895年に、デルモニコスはルイジアナ州ニューオーリンズにオープンし、1997年にエメリル・ラガッシによって購入された。ラガッシは、店を改装し、エメリルズ・デルモニコとして再オープンさせた。

無関係であるデルモニコス・ホテルは、パーク・アベニューと東59丁目に位置し、1964年8月にビートルズが滞在した際には、ビートルマニアの中心となった[17]

メニュー[編集]

5番街・26丁目のフランス語宴会メニュー。1883年の撤収の日百周年記念
歌手ヨハンナ・ガトスキ音楽家フリッツ・クライスラーを尊敬する1916年のディナーのメニュー

登場する作品[編集]

デルモニコスは、世紀の変わり目のセントルイスの中級家庭の話である、1944年の映画『若草の頃』で、裕福な求婚者が、家族に長距離電話をかける場所として触れられている。ステージショー・映画『ハロー・ドリー!』では、歌『日曜は晴れ着で』で、ニューヨーク市の「必見」の場所としてレストランが挙げられている。F・スコット・フィッツジェラルドの1920年の小説『メーデー』は、デルモニコスでのダンスが特徴である。1947年の映画『ライフ・ウィズ・ファザー』では、家長のクラレンス・デイ・シニア(ウィリアム・パウエル)が妻のヴィニー(アイリーン・ドゥーン)に騙され、市外から訪れたカズン・コラ(ザス・ピッツ)とマリー・スキナー(エリザベス・テイラー)をデルモニコスへ夕食に連れて行く。デルモニコスはまた、1876年が舞台のジョン・フォードの西部劇である、1949年の映画『黄色いリボン』でも触れられる[18]。レストランは、1966年のエルヴィス・プレスリーの映画『フランキー・アンド・ジョニー』の彼の歌でも歌われ、ケイレブ・カーの小説『精神科医』にも登場する。イーディス・ウォートンによる小説『エイジ・オブ・イノセンス』でもレストランが触れられている。デルモニコスは、レストランの名前として、カンザス州ドッジシティで制作されるテレビ番組『ガンスモーク』で使用されている。


出典[編集]

脚注
  1. ^ Aaseng, Nathan (January 2001). Business Builders in Fast Food. The Oliver Press. pp. 8–10. ISBN 1-881508-58-7 
  2. ^ Hooker, Richard J (May 1981). “18 – Eating Out 1865–1900”. Food and Drink in America: A History. Indianapolis: Bobbs-Merrill Co.. ISBN 0-672-52681-6 
  3. ^ History of Delmonico's Restaurant and business operations in New York”. 2013年1月23日閲覧。
  4. ^ Sic: "irreproachable" may have been intended, unless a covert reference to the evening's crush was implied.
  5. ^ Susan Bindig (1989), “New York Welcomes the Prince of Wales (1860)”, Dance Chronicle 12 (.2): pp. 234 
  6. ^ “Delmonico Building Leased”. The New York Times: pp. 3. (1901年5月4日) 
  7. ^ a b c Joe O'Connell (2001年8月25日). “History of Delmonico's Restaurant and business operations in New York”. 2013年1月23日閲覧。
  8. ^ Lately Thomas (1967). Delmonico's – A Century of Splendor. Boston: Houghton Mifflin Co. pp. 333–336. LCCN 67-25686 
  9. ^ Frank J. Prial (1987年11月29日). “Out of the Cellar”. The New York Times. http://www.nytimes.com/1987/11/29/magazine/out-of-the-cellar.html 
  10. ^ Ed Huber. “Not in My Neighborhood: The owner of one of America's most historic restaurants faces a modern problem”. Guideposts. http://www.guideposts.com/story/delmonicos-neighborhood-homeless?page=0,0 
  11. ^ http://www.delmonicosrestaurantgroup.com/restaurant/index.html
  12. ^ What's Cooking America: "History of Poultry Dishes: Chicken A' La King”. 2013年1月23日閲覧。
  13. ^ Butler, Mabel C. (November 26, 1967), “Letters: Benedicts' Eggs”, The New York Times Magazine: SM40, http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F1061FF63D5814728FDDAF0A94D9415B878AF1D3 2007年2月23日閲覧。 
  14. ^ “Talk of the Town”, The New Yorker, (December 19, 1942) 
  15. ^ Claiborne, Craig (September 24, 1967), “American Classic: Eggs Benedict”, The New York Times Magazine: 290, http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F40B13FB3B5F16738DDDAD0A94D1405B878AF1D3 2007年2月19日閲覧。 
  16. ^ http://www.simplyrecipes.com/recipes/manhattan_clam_chowder/
  17. ^ Photograph included in the Museum of Modern Art exhibition, Pictures of the Times: A Century of Photography from the New York Times MoMA, No. 22 (Summer), 1996:10–130 illus. p. 13.
  18. ^ Database of Movie Dialogs
参考文献