利用者:Keeezawa/sandbox
酔胡王(N-231) | |
製作年 | 7世紀 – 8世紀 飛鳥時代 – 奈良時代 |
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素材 | 木製もしくは乾漆製 |
所蔵 | 日本,東京国立博物館、東京都台東区上野公園 |
登録 | 国指定重要文化財 法隆寺献納宝物(N-208 – N-238) |
ウェブサイト | 東京国立博物館 - 展示・催し物 展示 法隆寺宝物館(法隆寺献納宝物) 伎楽面 作品リスト |
法隆寺献納宝物の伎楽面(ぎがくめん)は、法隆寺に伝来し現在は東京国立博物館に所蔵されている31の伎楽面である。伎楽面は東大寺および正倉院に伝来したものを中心に8世紀の作例が数多く残っているが、本品は7世紀作のものが多いことから、現存最古の伎楽面として伎楽の歴史を明かすうえで重要な遺品とされている。
伎楽面とは
[編集]伎楽面とは伎楽で用いられる面である[1]。伎楽は仮面音楽劇の一種で[2]、『聖徳太子伝暦』によれば聖徳太子の活躍した600年頃から日本でみられるようになる[3]。『日本書紀』には推古朝の612年に百済から伎楽の歌舞が伝えられた旨の記述があり、『延喜式』には法隆寺、大安寺、東大寺、西大寺に伎楽を置く旨の記述がある[3]。ただし伎楽の伝来過程については日本国内のみならず大陸にも決定的な史料は存在せず、いまだ定説をみない[4]。奈良時代の天平の頃にもっとも盛んに行われ、鎌倉時代初期までに廃れた[2]。演舞のようすを記録したほとんど唯一の史料は『教訓抄』のみであるが、同書は伎楽の伝来から数百年が経過した鎌倉時代の史料であり、伝来した頃のものとは大きく違うと考えられているため、現代では当時の姿を再現するのは困難である[2][3]。『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』『西大寺資財流記帳』『教訓抄』などの史料の記述から伎楽面の1セットは下記の14種23面から成っていたことがわかっている[5]。
- 伎楽面の構成
古代の伎楽面は主に正倉院、東大寺、法隆寺の3箇所に伝来しており、正倉院に171面、東大寺に30面、法隆寺に32面が伝来している[5]。法隆寺伝来の32面は東京国立博物館に31面、法隆寺に1面が所蔵されている[6]。本項では東京国立博物館が法隆寺献納宝物として所蔵している31面について詳述する。
来歴
[編集]法隆寺伎楽面の伝来が明確になっているのは1985年時点では江戸時代以降である[7]。
奈良時代において法隆寺伎楽面の存在を推定させる史料に747年(天平19年)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』があり、「伎楽壹拾壹具」との記述から伎楽面11種、計24面が存在していたことが明らかになっている[8]。これら24面が現存する31面との対応には議論があるが[8]、未完成の2面を除くクスノキ製の面の一部がそれ対応している可能性が高いとされている[8]。ただし、クスノキ製の呉女(N-211)が資財帳には記載されていない点[8]、資財帳に記載のある獅子、師子児、治道、波羅門、酔胡従の数に対して現存数には不足がある点から、クスノキ製面が対応すると断定することはできない[9]。しかしながら保存上の問題で現存しない面がある可能性も考えられるため、クスノキ製面と資財帳記載の面との対応を必ずしも否定することもまたできない[9]。資財帳には獅子および治道が2面、師子児が4面存在する旨の記述があることから、当時の法隆寺には一部を欠失した状態で伎楽面2セットが存在したと考えられている[10]。この点について木内はクスノキ製面は当時すでに使用に耐える状態ではなく、747年以降にキリ製面が製作されたのだろうと推測している[10]。資財帳に記載のない面は法隆寺資財帳の成立以降に収められた可能性が高く、法隆寺東院(739年創建)のものが後世に西院に移された可能性や、中宮寺伎楽面が移された可能性などが考えられている[9]。ただし761年(天平宝字5年)の『東院資財帳』に伎楽面の記載がない点から、東院に伎楽面が所蔵されていた可能性は低い[9]。一方で法隆寺伝来の上代の裂に「中寺師子子」の銘文があることから中宮寺で伎楽が催されていたことは明らかであり[注釈 1]、裂が後に法隆寺に移動していることを合わせて考えると、中宮寺伎楽面が法隆寺に移動された可能性は高いと浅井は述べている[12]。
平安時代に法隆寺で伎楽が執り行われていたことを示す史料に『東大寺要録』があり、平安時代前期861年(貞観3年)の大仏御頭供養会の時点で伎楽が法隆寺を代表する楽であったことがわかっている[8]。この記述と法隆寺伎楽面とに直接の関連はないものの、法隆寺伎楽面はいずれも使い込まれた痕跡があることから、平安時代当時に実際に伎楽に用いられていた可能性を示唆する史料である[8]。しかしながらこの大仏御頭供養会では東大寺の高麗楽と大安寺の林邑楽が舞台の左右に配され大々的に演じられた一方で法隆寺の伎楽はこの体制から外されており、雅楽の日本化が進められていく平安前期において、伎楽が次第に傍流の楽として扱われ始めている証左ではないかと浅井は推測している[8]。平安時代後期における法隆寺の伎楽に関する史料としては『法隆寺別当次第』があり、1121年(保安2年)の開眼供養に際して「件聖霊堂前調伎楽并百種供養」との記述がある[13]。ただし、仮にこの時点で伎楽が演じられていたとするならば鎌倉時代までに伎楽が失伝してしまうのは不自然だと浅井は述べている[13]。また、1069年(延久元年)の聖徳太子絵伝にあらわされた伎楽伝来図の内容が『教訓抄』の記述とほとんど一致しないことから、これは当時の舞楽一般の概念を描いたものに過ぎず、平安時代後期には法隆寺における伎楽は既に廃れていたのではないかと浅井は述べている[13]。それゆえ『法隆寺別当次第』でいう「伎楽」が文字通り伎楽を意味するものかは定かではない[13]。
鎌倉時代の『古今目録抄』には「面二唐樻 仏生会料也」の記述がある[14]。これが伎楽面であるかは定かでないが、この面は仏生会に用いられる面として言及されており、仏生会で伎楽が催されていたことは『延喜式』『東大寺要録』の記述から明らかであるため、当該面が伎楽面であった可能性は存在する[14]。ただし、法隆寺の仏生会において伎楽が催されていたとする史料が存在しない点や、この頃すでに伎楽が廃れていたことを勘案すると、この記述が伎楽面を指していたかどうかは定かではない[15]。
江戸時代には複数の出開帳で法隆寺伎楽面31面が出品されており、1800年(寛政12年)および1842年(天保13年)の出開帳でその存在が確認されている[14]。1800年の出開帳と同時期に編纂された『集古十種』に法隆寺伎楽面31面が「味摩之将来伎楽面」として掲載されていることから、この頃には既に味摩之将来の伝承のもとで31面がセットとして扱われていたことがわかっている[14]。これらの史料には法隆寺に現存する伎楽面1面について言及がない一方で1925年(大正14年)の『法隆寺大鏡』に言及があることから、この1面は残欠として31面とは区別して所蔵されており、1878年の献納から大正時代の間に「発見」されたものだと考えられている[14][16]。
法隆寺は再建資金捻出のため1876年に皇室に宝物の献上を申し出、1878年に法隆寺伎楽面を含む複数の宝物を献上した[14]。これらの宝物は法隆寺献納宝物と呼ばれ、第二次世界大戦後の皇室財産の整理に伴って1947年に国有化され、東京国立博物館の所蔵となった[14][17]。
1979年にはX線撮影、蛍光X線分析、赤外線撮影、顔料・漆等の実体顕微鏡写真の撮影が行われ、その研究成果は『法隆寺献納宝物特別調査概報I 伎楽面』(東京国立博物館、1980年刊)および『法隆寺献納宝物 伎楽面』(便利堂、1984年刊)に収録されている[18]。2023年にはX線断層撮影が行われ、その研究成果はPDFファイルとして公式ホームページにて公開されている[19]。
伎楽面は保存状態が危険なものもあるため、法隆寺宝物館の展示スペースには人感センサー照明が導入されており、公開日も2024年現在では金曜日と土曜日のみに限られているほか職員でも触ることは稀である[18]。
構成
[編集]法隆寺伎楽面はいくつかの種類に分けることができる。材質では3種類に分類され、クスノキ製、キリ製、乾漆製に大別される[20]。また、製作技法および作風によって大まかに下記の5種類に分類することができる[21]。
第1類
[編集]第2類
[編集]第3類
[編集]第4類
[編集]第5類
[編集]製法
[編集]製作時期
[編集]乾漆伎楽面は麻布2枚重ねで表面の盛り上げも薄くつくられている[19]。東大寺伎楽面 酔胡従(C-1818)は麻布3枚重ねで表面の盛り上げも厚い[19]。浅見はこれらのことから、法隆寺伎楽面に乾漆面が少ないのは強度が弱く破損したためであり、東大寺伎楽面はこれらの反省を踏まえて製作されたのだろうと推測しており、それゆえ法隆寺伎楽面が東大寺伎楽面より時代が先行する8世紀前半までにつくられたとする通説を追認している[19]
議論
[編集]評価
[編集]東京国立博物館は法隆寺伎楽面を正倉院および東大寺伝来の伎楽面と比較して「造形的にみてもより古様である上、その半数近くが上代彫刻に多くみられる樟材を用いていることを考えても、現存最古の面であり、その価値はきわめて高い」と評している[22]。
法隆寺献納宝物の伎楽面の一覧
[編集]師子児(N-208)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長26.8cm、最大幅19.1cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
治道(N-209)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長30.5cm、最大幅22.3cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
呉公(N-210)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長29.9cm、最大幅25.6cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
呉女(N-211)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長37.7cm、最大幅32.8cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
2023年に行われたX線断層撮影によって、髻(稚児輪)の左側が一材でできていることが判明した[24]。浅見は「このような形のものを一材から作るのは手間がかかり材料にも無駄が出るので後補とはいいきれないだろう」と述べ、右側との形状の違いから両者の製作年代が異なる可能性を指摘している[19]。
金剛(N-212)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長33.9cm、最大幅22.8cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
金剛(N-213)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長37.7cm、最大幅21.7cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代である[23]。
崑崙(N-214)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長33.9cm、最大幅26.7cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
2023年に行われたX線断層撮影によって虫喰孔の被害が大きいことが明らかにされており[18]、浅見は「取り扱いに慎重を期す必要がある」と述べている[19][注釈 2]
迦楼羅(N-215)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長28.6cm、最大幅22.0cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
太孤父(N-216)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長29.8cm、最大幅22.3cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
太孤児(N-217)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長25.7cm、最大幅19.0cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
太孤児(N-218)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長26.0cm、最大幅18.0cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
酔胡王(N-219)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長32.6cm、最大幅19.8cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
酔胡従(N-220)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長31.5cm、最大幅21.7cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
酔胡従(N-221)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長29.6cm、最大幅22.8cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
酔胡従(N-222)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長28.4cm、最大幅22.1cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
酔胡従(N-223)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長30.0cm、最大幅23.0cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
師子児(N-224)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長22.5cm、最大幅17.0cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[23]。
呉女(N-225)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長33.9cm、最大幅20.5cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[23]。
迦楼羅(N-226)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長32.0cm、最大幅18.0cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[23]。
力士(N-227)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長36.7cm、最大幅24.5cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
力士(N-228)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長26.6cm、最大幅22.0cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[23]。
金剛(N-229)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長25.9cm、最大幅21.4cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[23]。
波羅門(N-230)
[編集]国指定重要文化財。大きさは現存長27.7cm、最大幅22.6cm。クスノキ製、製作年は7世紀・飛鳥時代である[23]。
酔胡王(N-231)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長42.5cm、最大幅24.5cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[23]。
酔胡従(N-232)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長29.6cm、最大幅22.8cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[23]。
酔胡従(N-233)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長27.7cm、現存最大幅20.2cm。キリ製、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[23]。
力士(N-234)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長26.0cm、最大幅26.5cm。乾漆造、製作年は8世紀・奈良時代である[23]。
酔胡従(N-235)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長25.8cm、最大幅20.0cm。乾漆造、製作年は8世紀・飛鳥時代 – 奈良時代である[23]。
波羅門(N-236)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長25.9cm、最大幅18.4cm。乾漆造、製作年は8世紀・奈良時代である[23]。
酔胡従(未完成)(N-237)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長30.7cm、最大幅21.2cm。クスノキ製、製作年は7 – 8世紀・飛鳥時代である[23]。
酔胡従(未完成)(N-238)
[編集]国指定重要文化財。大きさは全長29.2cm、最大幅22.3cm。クスノキ製、製作年は7 – 8世紀・飛鳥時代である[23]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ここでいう「中寺」は中宮寺を指す可能性が高いとされている[11]。
- ^ N-214 崑崙 前後方向 - YouTubeも参照。
出典
[編集]- ^ 田辺 1984, p. 29.
- ^ a b c 岸辺 1984, p. 28.
- ^ a b c 今岡 2008, p. 17.
- ^ 木内 1984, p. 200.
- ^ a b 成瀬 2013, p. 254.
- ^ 浅見 2021, p. 296.
- ^ 浅井 1985, p. 24.
- ^ a b c d e f g 浅井 1985, p. 27.
- ^ a b c d 浅井 1985, p. 28.
- ^ a b 木内 1984, p. 206.
- ^ 木内 1984, p. 210.
- ^ 浅井 1985, pp. 28–29.
- ^ a b c d 浅井 1985, p. 26.
- ^ a b c d e f g 浅井 1985, p. 25.
- ^ 浅井 1985, pp. 25–26.
- ^ 浅井 1985, p. 42.
- ^ 木内 1984, p. 209.
- ^ a b c 浅見 2024, p. 169.
- ^ a b c d e f 浅見 2024, p. 170.
- ^ 浅井 1985, p. 30.
- ^ 毛利 1984, p. 211.
- ^ 東京国立博物館 1984, p. 2.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 東京国立博物館 2024, p. 181.
- ^ 浅見 2024, pp. 169–170.
参考文献
[編集]- 東京国立博物館『伎楽面 (法隆寺献納宝物特別調査概報 ; 43)』東京国立博物館、2024年 。
- 浅見龍介 著「作品解説 伎楽面」、奈良国立博物館、東京国立博物館、読売新聞社、NHK、NHKプロモーション 編『聖徳太子と法隆寺 : 聖徳太子1400年遠忌記念特別展』読売新聞社、2021年、296-297頁。全国書誌番号:23587567。
- 成瀬正和「作品解説 伎楽面」『日本美術全集』第3巻、小学館、2013年、254-255頁、ISBN 978-4-09-601103-4。
- 今岡謙太郎『日本古典芸能史』武蔵野美術大学出版局、2008年。ISBN 978-4-901631-81-5。
- 田辺三郎助「伎楽面」『国史大辞典 第4巻(き – く)』吉川弘文館、1989年、29-30頁。ISBN 4-642-00504-8。
- 岸辺成雄「伎楽」『国史大辞典 第4巻(き – く)』吉川弘文館、1989年、28頁。ISBN 4-642-00504-8。
- 浅井和春「法隆寺伎楽面小考」『佛敎藝術』第161巻、毎日新聞出版、1985年、23-44頁、全国書誌番号:00020957。
- 東京国立博物館 編『伎楽面 : 法隆寺献納宝物』東京国立博物館、1984年。全国書誌番号:85011195 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 伎楽面 - e國寶
- 木造伎楽面 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 乾漆伎楽面 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 木造伎楽面 - 文化遺産オンライン
- 乾漆伎楽面 - 文化遺産オンライン
- 『法隆寺献納宝物特別調査概報 43 伎楽面X 線断層(CT)調査報告』関連動画 - YouTubeプレイリスト
Category:法隆寺献納宝物]]
Category:東京都区部の重要文化財]]
Category:東京国立博物館の収蔵品]]