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『金銅灌頂幡[1]
全体図
製作年7世紀飛鳥時代[1]
種類[1]
素材製透彫鍍金[1]
所蔵日本の旗 日本,東京国立博物館[1]東京都台東区上野公園[2]
登録N-58[1]

国宝指定名称・金銅灌頂幡(こんどうかんじょうばん)[注釈 1]東京国立博物館所蔵のである。

構造・意匠[編集]

金銅灌頂幡は方形かつ傘状の天蓋であり[3]、大まかに分けて天蓋、幡頭、幡身、幡足、四隅小幡の5部分から構成されている[4]。天蓋の中央から6枚の幡身を、四隅それぞれに3枚の小幡を、天蓋側面の蛇舌からは垂飾を吊るす[3]。幡身の最下部からは布製の幡足が吊るされていたと考えられているが、そのほとんどが欠失しており、金具に挟み込まれた繊維片のみが現存している[5]。同様に四隅小幡下部の金具にも幡足が吊るされていたと考えられており、こちらも金具に挟み込まれた繊維片のみが現存している[6]。現存部分の全長はおよそ5.1メートルであり[7]、現存しない幡足の長さを足すと製作当初は10メートルを越えていたと考えられている[8]

天蓋[編集]

天蓋は大まかに3部分から成っており、懸垂用の輪がある中心部、その周囲に広がる方形部、方形部から吊るされた周縁部に分かれている[4]。形状はほぼ正方形で[9]、各辺の長さは短い辺で62.5センチメートル、長い辺で66.8センチメートルで ある[10]

材質は、天蓋本体が銅製でその上に鍍金を施しており、意匠は透彫であらわされている[4]。懸垂用の輪は鍛造銅製に鍍金を施している[4]。周縁部の蛇舌は銅板に鍍金を施し、意匠は透彫であらわされている[11]。 意匠は、方形部には天人があらわされており、内縁部には区画ごとに楽器を演奏する天人が一人ずつ配されている[12]。外縁部には区画ごとに仏具を持った天人が一人ずつ配されている[13]

幡頭[編集]

天蓋の懸垂装置とつなげる金具と、三角形の幡頭下部、幡身に接続する方形の金具(「乳」と呼ばれる)、幡頭手の4部分から成る[14]。寸法は金具から幡頭下部までが16.7センチメートル、乳が8.8センチメートルから9.8センチメートル、幡頭手は70.4センチメートルである[15]

材質は鍛銅製でその上に鍍金を施しており、幡頭手のみ銅板に透彫で意匠があらわされている[14]。金具、幡頭下部、幡頭手にはパルメット模様の刻線が刻まれている[14]

幡身[編集]

幡身は第1坪[注釈 2]から第6坪までの6枚で構成されており、各坪は上下左右の縁金具と幡身本体の3部分から成っている[16]。寸法は坪によって多少の差があり、縦17.9 – 20.4センチメートル、横11.1 – 12.0センチメートルである[17]

材質は6坪すべて鍛銅製でその上に鍍金が施されている[18]。縁金具には波状の唐草文様が施されており、茎の部分からはパルメット模様が広がっている[16]。幡身本体の意匠は3種類に分かれており、第1坪は如来と2体の菩薩、第2坪、3坪、6坪には滑空する天人と器物[7]、第4坪、5坪は上部と中央部に一人ずつ天人が配され、下部に横笛を吹く天人と踊る天人がそれぞれあらわされている[19][20]

幡足[編集]

幡身の最下部から染織の幡足が吊るされていたと考えられており、6坪目下部の金具に挟み込まれていた[5]。外部に現れている部分はすべて欠失しており[5]、現存しているのは金具に挟まれていた繊維片のみであるため[注釈 3]、判明しているのは布の色と種類のみであり、大きさや当時の取り付け状況などは不明である[21]。保存状態が比較的良好な箇所を顕微鏡で拡大すると赤、黄、緑、紫と4色が繰り返されるように重ねられており、部位によって色の並びが異なることから、複数色の幡足を少しずつずらして重ねていたと考えられている[5]。織り方は平織であり、撚り糸を用いていることから、が用いられていたと考えられている[注釈 4][5]

四隅小幡[編集]


保存状態[編集]

2000年時点で経年劣化が激しく、銅板の切損、銅鋲の外れ、蝶番の損傷などが確認されている[22]


来歴[編集]

金銅灌頂幡は天平19年(747年)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に記載された「金泥銅灌頂壱具/右片岡御祖命納賜不知納時」だとされている[22]。「不知納時」とあるようにいつから法隆寺に存在したか不明とされており、加えて「灌頂幡」の単語は日本の史料以外に見られないことから制作意図についても定説は存在しない[23]。施入者をめぐる議論については研究史節の「#施入したのは誰か」を参照。


1957年に重要文化財に指定され、1964年に国宝に指定された[2]

レプリカの製作[編集]

東京国立博物館に展示されているレプリカ。2024年撮影。

経年劣化が激しく将来的に修理が必要である考えられていたことから、修理方法を検討するため、東京国立博物館は1996年から1998 年にかけて原寸大のレプリカを作成した[22]。施工管理は京都科学、製作者は中村光男である[22]

研究史[編集]

施入したのは誰か[編集]

評価[編集]

奈良国立博物館主任研究員の三田覚之は本品を「その巧みな意匠と透彫技術において、我が国の七世紀を代表する金工品」と評している[23]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 単に灌頂幡(かんじょうばん)とも呼ばれる[1]
  2. ^ 幡身の区切られた1区画を坪と呼ぶ[7]
  3. ^ 一部は粉状になっている[21]
  4. ^ この時代の無地染は平織、綾織、羅があるが、撚りのある糸を用いるのは縬のみである[5]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 東京国立博物館『灌頂幡 (法隆寺献納宝物特別調査概報 ; 11)』東京国立博物館、1991年。全国書誌番号:94004791 
  • 三田覚之「法隆寺献納宝物 金銅灌頂幡の再検討 ――造立典拠を中心として――」『Museum』第625巻、東京国立博物館、2010年、7-37頁、全国書誌番号:00000387 
  • 加島勝法隆寺献納宝物 灌頂幡の模造品製作について」『Museum』第567巻、東京国立博物館、2000年、25-54頁、全国書誌番号:00000387 
  • 沢田むつ代法隆寺献納宝物の金銅灌頂幡と繡仏」『Museum』第554巻、東京国立博物館、1998年、33-47頁、全国書誌番号:00000387 


関連項目[編集]

外部リンク[編集]

Category:法隆寺献納宝物]] Category:日本の国宝 (工芸品)]] Category:東京国立博物館の収蔵品]]