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Langlebigkeit Manie会話/ 投稿記録 [履歴] 2022年8月31日 (水) 13:05 (UTC)

自由ドンバスロシア語版


そこでソ連側は、1938年4月より、NKVD職員で在ヘルシンキ大使館員のボリス・ヤルツェフを通じ、フィンランド政府と非公式な交渉を始めた。交渉を始めたのは、フィンランドを通ってドイツがソ連北部や、レニングラードに侵攻することを恐れたためである。ソ連はバルト海の防衛強化のため、オーランド諸島の再要塞化を求めたが[1]、この時の最終的なソ連側の要求は、

というものであった。しかし、フィンランド側は応ぜず、この交渉は、1939年春には行き詰まってしまった。

1939年5月には、ソ連では比較的西側と協調路線であったマクシム・リトヴィノフが外務人民委員(外相相当)を更迭され、スターリンは、後任にヴャチェスラフ・モロトフを起用した。

外交交渉(1939年秋)[編集]

1939年8月23日、ソ連とナチス・ドイツの間に相互不可侵条約が調印されたが、この協定には、東欧を独ソの勢力圏に分割する秘密議定書が含まれており、この中でドイツはフィンランドがソ連の勢力圏に属することを認めた。

ソ連のポーランド侵攻から、まもなくバルト三国の外相は、モスクワに呼ばれ、9月29日にエストニア、10月5日ラトビア10月10日にはリトアニアが、領土内にソ連軍基地の設置を認める自動延長の相互援助条約を強制的に結ばされた。

バルト三国との交渉より、やや遅れて、ソ連からフィンランドに二国間の懸案の問題について協議したい申し入れがあり、直接交渉が10月11日からモスクワで始まった。このときソ連と交渉にあたったのは、フィンランド内戦終結後に首相経験をもち、駐ソ特命大使であったパーシキヴィである[2]。翌12日にスターリンが出席した会談で提示されたソ連側の要求は、さらに厳しくなっており、おおよそ以下の条件であった。

  • レニングラード湾(フィンランド湾)の4つの島嶼の割譲
  • カレリア地峡のフィンランド国境(レニングラードから32 km)を、ヴィープリの東30 kmまで西へ移動
  • カレリア地峡の防衛線(マンネルへイム線)の撤去
  • ハンコ半島の30年間の租借および海軍基地の設置と約5,000人のソ連軍の駐留
  • 上記、駐留赤軍の交代の為のフィンランド領内の鉄道による通行権
  • 以上の代償として、ソ連は、東カレリのレポラ、ポラヤルヴィを割譲する。

ちなみに割譲要求地域は2,200 km2、交換条件の東カレリアの面積は5,000 km2である[3]。このソ連側の要求については、フィンランド側では、2つの考えがあった。

ユホ・エルッコ外相らは、この要求が最後という保証はなく、マンネルヘイム線を撤去してしまえば、次の要求に対して軍事的に抵抗するすべもなくなる。よって、ソ連側の要求には、応じられないと結論づけた。

一方、パーシキヴィ(モスクワ派遣交渉団代表)、ベイノ・タンネル(蔵相、フィンランド社会民主党党首)、マンネルヘイムらは、フィンランド国防軍の現状や欧州の情勢からして、ソ連の要求を峻拒することは出来ないので、ソ連の要求を受け入れよ、という意見であった。

結局、フィンランド政府は、レニングラード湾口の島嶼の割譲とカレリア地峡の国境線を若干西へ移動させる、譲歩案を示したが、ソ連側はそれには応ぜず、10月14日には第二会談が行われたが、議論はまとまらず交渉団はソ連の提案を直接協議するため一旦帰国する[4]。10月23日にソ連との会談は再開されたが、交渉は難航した。フィンランドはフィンランド湾東部に位置する諸島の割譲は認めたものの、ハンコ半島の要求は拒絶した[4]。これに対しソ連はソ連自身が介入しない形でのオーランド諸島のフィンランドによる武装化を提案した。ハンコ半島についても、駐留する兵力は4000人に限り、期間もドイツとイギリスの戦争状態が終結するまでとし、カレリア地峡の国境も、以前のソ連案よりもわずかに南にずらすとした[4]。この提案はフィンランド政府にとって予想外であり、交渉団は再び帰国する。この際ソ連の要求に対してフィンランドが強く反対できたのは、ソ連との戦争が始まってもスウェーデンや、西ヨーロッパ諸国が自国を支援してくれるという思惑があるためである。実際、北欧各国への支援を求めるため、スウェーデンで北欧首脳会談が開かれているが、この会談では北欧の団結力を確認しただけで支援の決定などは無かった[4]。またこの時マンネルヘイムや、パーシキヴィはソ連の要求をある程度呑むことを主張したが、フィンランド政府はさらなる要求がくると考え、二人の主張を拒絶した[5]。11月3日にモスクワで交渉が再開された会談でも、平行線を辿った。フィンランドはハンコ半島の要求については終始拒否したが、ソ連はこれの代わりにその東に位置するヘンマンソー、コー、ハスト、ブソの島々の割譲あるいは租借を求めた。これに対し交渉団はフィンランド政府の回答を待ったが、11月8日に届いた回答は、ソ連案の全面的拒絶だった。これにより交渉は決裂し、11月13日に交渉団は帰国した[6]


参考文献[編集]

    • 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年10月19日。ISBN 978-4-12-102456-5 




















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T-64BV
性能諸元
全長 9.2 m
車体長 6.54 m
全幅 3.5 m
全高 2.2 m
重量 45 t
懸架方式 トーションバー方式
速度 65 km/h
行動距離 500 km
700 km(外部タンク搭載時)
主砲 2A46 125mm滑腔砲
副武装 PKT車載7.62mm機関銃NSV重機関銃
装甲 複合装甲 爆発反応装甲
乗員 3 名
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[[en:Johannes Jacob Wecker]] 12:50, 30 November 2022‎ 1AmNobody24 より翻訳
フィンランド国防軍
Suomen puolustusvoimat
フィンランド国防軍のシンボル「塔と獅子」
軍旗
創設 1918年1月25日
指揮官
最高司令官 サウリ・ニーニスト
国防大臣 Antti Kaikkonen
総人員
徴兵制度 18–29
適用年齢 16–49
-適齢総数 男性 955,151 人、年齢 16–49
女性 912,983 人、年齢 16–49
現総人員 22000人
財政
予算 58億ユーロ
軍費/GDP 1.96%
産業
年間輸出 1億3,300万ユーロ
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  1. ^ 石野裕子 2017, p. 147.
  2. ^ 石野裕子 2017, p. 148.
  3. ^ 冬戦争 何故、小国の人々は大国の横暴に屈しなかったのか”. 2022年8月6日閲覧。
  4. ^ a b c d 石野裕子 2017, p. 150.
  5. ^ 石野裕子 2017, p. 151.
  6. ^ 石野裕子 2017, p. 151-152.