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利用者:Law soma/資料

和暦 西暦 月日
旧暦
内容 出典
建保5年 1217年 12月12日 北条義時陸奥守を兼任。 吾妻鏡
この間     安藤五郎ト云者、東夷ノ堅メニ義時ガ代官トシテ津軽ニ置タリケル 保暦間記
この間     根本は酋長も無かりしを、武家その濫吹を鎮護せんために安藤太と云ふものを蝦夷管領とす。これは上古に安倍氏悪事の高丸と云ける勇士の後胤なり。 諏訪大明神絵詞
貞応元年 1222年 8月16日 義時陸奥守辞任。
建治元年 1275年 安藤五郎は因果の道理を弁て堂塔多く造りし善人也。いかにとして頚をばゑぞにとられぬるぞ。 日蓮聖人遺文
元応2年 1320 出羽の蝦夷蜂起し、度々合戦に及ぶ。去る元応二年より蜂起すと云々。 鎌倉年代記裏書
元亨 1321年 元亨・正中のころより嘉暦年中に至るまで、東夷蜂起して奥州騒乱することありき。(中略)五郎三郎季久・又太郎季長と云ふは、従父兄弟也。嫡庶相論の事ありて合戦数年に及ぶ間、両人を関東に召して理非を裁決之処、彼等が留守の士卒数千の夷賊を催し集て、外が浜末部、西の浜折曽関等に城郭を構て相争ふ。両城険岨によりて洪河を隔て、雌雄さらに決し難し。 諏訪大明神絵詞
元亨2年 1322年 奥州ニ安藤五郎三郎同又太郎ト云者アリ、彼等ガ先祖安藤五郎ト云者、東夷ノ堅メニ義時ガ代官トシテ津軽ニ置タリケルガ末也、此両人相論スル事アリ、高資数々賄賂ヲ両方ヨリ取リテ、両方ヘ下知ヲナス、彼等ガ方人ノ夷等合戦ヲス、是ニ依テ関東ヨリ打手ヲ度々下ス、多クノ軍勢亡ヒケレドモ、年ヲ重テ事行ヌ、承久三年ヨリ以来、関東ノ下知スル事少モ人背ク事ナカリキ、賤キ者マデモ御教書ナドヲ対スル事ヲ軽シムル事憚リシニ、高資政道不道ヲ行フニヨリ、武威モ軽ク成、世モ乱レソメテ、人モ背キ始シ基成ケリ、爰ニ懸ル折ヲ得テ、内裏ノ近習月卿雲客、依々主上ヲ勧申ス事アリ、 保暦間記
出羽の蝦夷蜂起し、度々合戦に及ぶ。去る元応二年より蜂起すと云々。 鎌倉年代記裏書
正中2年 1325年 6月6日 蝦夷蜂起の事に依って、安藤又太郎を改めらる。五郎三郎を以て代官職に補しをはんぬ。 鎌倉年代記裏書
9月11日 ゆつりわたす、つかるはなハのこほり、けんかしま、しりひきのかう、かたのへんのかう、ならひにゑそのさた、ぬかのふ、うそりのかう、なかはまのミまき、みなと、いけのちとう御たいくわんしきの事、みきのところハ、宗季せんれいにまかせてさたをいたすへきよし、御くたしふミを給ハるものなり、しかるをしそくいぬほうし一したるによて、御くたしふミをあいそゑて、ゑいたいこれをゆつりあたうるところなり、宗季いかなる事もあらんときハ、このゆつりしやうにまかせてちきやうすへきなり、たたし、うそりのかうのうち、たや、たなふ、あんとのうらをハ、によしとらこせん、いちこゆつりしやうをあたうるところなり、よてゆつりしやうくたんのことし 安藤宗季譲状(新渡戸文書
正中3年 1326年 3月29日 工藤右衛門の尉祐貞蝦夷征罰の為に進発す。 鎌倉年代記裏書
嘉暦元年 1326年 7月26日 祐貞季長を虜え帰参す。 鎌倉年代記裏書
嘉暦2年 1327年 6月 宇都宮の五郎高貞、小田尾張権の守高知、蝦夷の追討使として下向す。 鎌倉年代記裏書
奥津軽の住人安藤秀長郎従季兼逆心、小田尾張の守大将として合戦す。安藤誅さる。 鎌倉大日記
因茲武将大軍を遣て征伐すと云へども、凶徒彌盛にして、討手宇津宮が家人紀清両党の輩多以命を堕。漸深雪の比に及ぬ。(中略)ここに季長が従人、忽に城郭を破却して、甲をぬぎ、弓の弦をはづして官軍の陣に降す。三軍万才を称して則関東に帰りける。 諏訪大明神絵詞
嘉暦3年 1328年 10月 奥州合戦の事、和談の儀を以て高貞、高知等帰参す。 鎌倉年代記裏書
元徳2年 1330年 6月14日 ゆつりわたす、五郎太郎たかすゑニ、みちのくに、つかる、にしのはま、せき、あつまゑをのそく事、右くたんのところハ、むねすゑはいりやうのあいたかの御くたしふミをあいそへて、しそくたかすゑニゆつりあたふるところ也、たのさまたけなく、ちきやうすへし、又いぬ二郎丸か事、ふちをくわへて、いとをしくあたるへし、ゆめゆめこのしやうをそむく事あるへからす、よてゆつりしやうくたんのことし 安藤宗季譲状(新渡戸文書)
建武元年 1334年 3月12日 下 津軽平賀郡

 可令早安藤五郎高季領知 当郡上柏木郷事 右為勲功賞所被宛行也 任先例 可致其沙汰状 所仰如件

北畠顕家国宣(新渡戸文書)
建武2年 1335年 10月29日       花押(北畠顕家)

陸奥国津軽鼻和郡絹家島、尻引郷、行野辺郷、糠部 郡宇曾利郷、中浜御牧、湊以下、同西浜 除安藤次郎太郎後家賢戒知行分関阿曾米等村 地頭代職事   右、安藤五郎太郎高季、守先例可令領掌之状、所仰如件

安藤高季に所領安堵状
応仁2年 1468年 2月28日 熊野那智山願書之事

右意趣者 奥州下國弓矢仁達 本意如津軽外濱宇楚里鶴子 遍地悉安堵仕候者重而寄進可申 處実也怨敵退散武運長久 息災延命子孫繁盛殿中安穏 心中所願皆令奉祈申所之願書 之状如件