利用者:Lovesouleyes/はっぴいえんど年表

はっぴいえんど年表は、はっぴいえんどの結成以前から解散以降までの動きを、メンバーと関係者の証言をもとにまとめた年表。

1966年[編集]

  • 3月、細野晴臣、私立立教高等学校を卒業。
  • 4月、細野、私立立教大学社会学部産業関係学科に入学。細野によれば「立教ってのはのんびりしたところで、大学紛争なんかも最後の頃にちょっぴりあったくらい。学生運動に関してはノンポリシーで、音楽三昧だったんです」という。
  • 春、細野、友人の阿蘇喬の紹介で、後に写真家となる野上眞宏と知り合う(池袋:立教大学)。野上によれば「キャンパス内の通称“4丁目”の近く、うつぶせで芝生の上に寝ころんでいると隣に座っていた友人の阿蘇喬が『細野だ』とつぶやいた。スレンダーで整った体型で足より細いリーバイスのストレッチ・ブラックジーンズを履いている細野を見て『うーん、カッコイイな』と僕も阿蘇の向いている先を見ながら思った。阿蘇は彼がいかに素晴らしいミュージシャンで音楽のセンスが良いかを僕に何度も話していたので、紹介されるのを楽しみにしていた。『ホソノー!』と阿蘇が呼ぶと、こっちを向いて『よー』と低い声で言ったみたいだ」[1]という。
  • 春頃、細野、高校時代の仲間が結成したフォーク・ロック・グループ“トリップ”に参加。メンバーは細野(g, vo)、関勝(vo)、山田恵之助(vo, banjo)、土屋敏行(b)のほか、女性のボーカリスト。茅ヶ崎の大学のキャンプ・ストアなどによく出演していたが、細野によれば、レパートリーはキングストン・トリオの曲ばかりだったという。
  • 春、細野、立教大学のコンサートやダンス・パーティーの企画集団“SCAP”のリーダーだった柳田優(柳田博義の兄)と岡野正に誘われ、バンド“ドクターズ”に加入[注 1]。柳田優はジョン・レノンに傾倒していた岡野と一緒に、ビートルズのコピー・バンドをやろうと思いメンバーを集めてみたが、なかなかベースとドラムが見つからなかった。柳田の音楽仲間の間では細野の評価が既に高かったが、フォークをやっているようで、既に他のバンドに入っていた。当時、フォークとロックのバンドを掛け持ちしている者はいなかったが、思い切って細野に話を持ちかけると、快くOKしてくれたという。細野はビートルズを無視していたからイヤだったが、いちおう経験してみようと思い参加したという。ポール・マッカートニーのベースは比較的オーソドックスで、ギターの延長線上のような感じだったので、ピックで弾いたりした。後に細野は「突然ベースを弾いてくれと言われてね。なんでかって言うとまぁ、欠員ができたんで、ベースが必要なんでやってくれ、と言われてね。あのね、ベースを弾く人がほんとにいなかったんですよ。みんな、リード・ギター、エレキ・ギターに目が行って。地味に、サイドに回るっていう人があんまりいなくて。結局、うーん、なんだろうなぁ、誰もやんない、けど、大事なパートなんで。僕みたいなタイプが、やる羽目になるわけですね。気の弱いタイプが」と語っている。メンバーは柳田優(lead g)、岡野正(vo & side g)、細野(b)。ドラマーは特定のメンバーが決まらず、そのつど誰かに頼むことになり、金子という当時、よく使っていた御苑スタジオで働いていたスタッフが参加したこともあったという。ドクターズは、柳田 • 岡野 • 細野プラスαで活動することになった。
  • 春頃、細野、飯島という小学校の同級生からの紹介で、彼の友達の遠藤賢司と知り合う。遠藤は当時、明治学院大学に通う学生で、白金の細野の家の近所にあるアパートに下宿していた。遠藤は「高校の時にナルシソ・イエペスの<禁じられた遊び>が好きで、親にギターを買ってくれと言ったら、勉強しないからダメだと言われた。店にナイロン弦の“古賀ギター”がぶら下がってるのがカッコよくてね。ホールの中に古賀政男の写真があって、ニッコリこちらを見てるギターだったんだ。大学に入って、白金の飯島君という友だちの家に遊びに行ったら、そいつが古賀ギターを持ってるんだよ。それを借りて。飯島君のおかげで細野氏にも会った。古賀ギターとドノヴァンの『おとぎ話』のレコードとスーパーで買った大根を持って高校の学生服を着て歩いてたら、細野氏を紹介してくれた。そのとき彼がレコードを見て、『オッ、ドノヴァン好きなんだ。家に来いよ』って」と話している。以後、時々、道端でふっと会って話すうちに、趣味が合う感じだったという。
  • 夏、ドクターズ、立教大学広告研究会キャンプストアに出演(千葉県館山)。ある日、柳田優が海岸で、金を使い果たし泊まる所もない慶應義塾高等学校の小山高志(後にバーンズのボーカルになり、松本隆に細野の存在を告げる。バーンズは『PEEP』に出演していない)と杉山喜一(後にGSグループ“フローラル”のベーシスト)に出会い、面白い連中だから泊めてやろうということになった。その夜、みんなでバンドの話などをしているうちに柳田優は、自分の周りにたくさんいるグループを集めてコンサートができないかと思いつき、それが自分たちのドクターズがトリを務めるコンサート『PEEP』を企画するきっかけとなった。野上によれば、「優は刹那的な性格だったが、根は誠実なので誰にでも信頼され、顔の広さと行動力は立教内でもピカイチだった」「優は、自分の刹那的な性格と行動力は、以前に肺の手術を受け、死と向かい合わせになったためだと僕によく言っていた」[2]という。
  • 12月26日、ドクターズ、SCAP主催による学生企画コンサート『PEEP』(第1回)に出演(銀座:ヤマハホール)[注 2]。PEEPについて、細野は「当時はね、主流がね、それまでの学生の動きっていうのはフォークコンサートだったの。スチューデント・フェスティバルとかジュニア・ジャンボリーとか。ですからそれのロック版ですよ。それが魅力的でしたから、それが面白かったから、僕は出たんですけど。フォークもいました。柳田ヒロがそうでしたから。PPMスタイルで」と話している。

1967年[編集]

  • 1~3月、SCAP主催『PEEP』出演バンドのオーディション。林立夫小原礼らによる“MOVERS”(ムーヴァーズ)、鈴木茂の“CIA”が参加(新宿・御苑スタジオ)。CIAは、当時高校生だった鈴木の兄が柳田博義と友達だったことからオーディションに参加。ムーヴァーズは、どこかから聞きつけて参加した青山学院の音楽クラブのグループのひとつ(当時、小原はギター担当)。CIAはベンチャーズ・スタイルのバンドで、ムーヴァーズはキンクスやゾンビーズ、ビートルズといった、イギリスのボーカル・バンドをコピーしていたサイケデリック・ロック・バンド。オーディションする側だった細野は、当時中学生だったCIAとムーヴァーズはテクニック的にも音楽的志向でも、とても子供とは思えないほどレベルが高く、よく覚えているという。しかし、「会ったというか、ただ同じ場所に居たという事ですよね、話しはしなかったから」と話している。
  • 3月19日、ドクターズ、SCAP主催『PEEP』(第2回)に出演(銀座・ヤマハホール)。
  • 3月、大瀧栄一、大学受験に失敗。上京し、小岩の製鉄会社に就職。3か月間在籍したが出社は20日ほど。船橋ヘルスセンターを貸切にした会社の慰安会のような席で、大瀧はビートルズの<ガール>を歌った。数日後、課長に「辞めます」といったところ、「うん、君はこういうところにいるべき人間ではない」と言われたという。その後、笹塚に転居。
  • 春、大瀧、既に上京していた友人、千葉信行と再会。千葉は大瀧が岩手県内を転々としていた頃、何度目かの転校の時に知り合い、気が合って友達になっていた。千葉の誘いで、専修大学の学生だった彼の先輩が組んでいるGSバンドの練習に遊びに行く。そこで同じ専修大学に通っていたボーカルの布谷文夫を紹介される。大瀧はその練習を見ていただけだったが急に「ドラムやるんだって?」と言われ、正式メンバーになったわけではなかったが、布谷との交友関係が生まれ、それがバンド“タブー”に発展した。
  • 3~6月、SCAP主催『PEEP』出演バンドのオーディション(新宿・御苑スタジオ)。
  • 6月25日、ドクターズ、SCAP主催『PEEP』(第3回)に出演(銀座・ガスホール)。
  • 6~9月、SCAP主催『PEEP』出演バンドのオーディション(新宿・御苑スタジオ)。
  • 9月16日、ドクターズ、SCAP主催『PEEP』(第4回)に出演(東商ホール)。
  • 9月24日、細野、第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト関東甲信越大会で審査員を務める。出演バンドには、松本隆がドラムで参加していた慶應義塾高等学校のバンド“バーンズ”がいた。当時のバーンズはシャドウズのコピー・バンドで、細野によれば「すごくうまいバンドだった」という。バーンズはロック部門で第3位を獲得。その時、同大会のフォーク部門で第2位だったのがジャックスだった。ステージで早川義夫が歌う「からっぽの世界」を聴いた松本は、日本語で自分たちの世界を創り出していることに感銘を受け、これからのロックは日本語でなければならないという思いを抱く。
  • 秋、ドクターズ、解散。
  • 秋、細野、友人の紹介で中田佳彦と知り合う(池袋・立教大学)。中田は作曲家中田喜直の甥で、細野と同じ社会学部で同級生だった。ある友達に「おまえみたいなやつがいるから、会わせる」と言われ、大学内の“4丁目”のベンチで待っていると、中田がやってきた。中田によれば「ちょっと弾いてみれば」みたいな感じで、サイモン&ガーファンクルかなにかを弾いたという。細野は「会ったとたんに一目惚れ」し、その場で中田と意気投合した。
  • 秋、細野、中田とフォーク・デュオを結成。音感が良く、歌心もある中田は、ギター・コードも細野とは違う押えかたをしたり、細野が知らない分野の曲も知っていて、細野にとってはライバルとして刺激をくれる存在だったという。「じゃあ、2人で何かやろうか」ということになり、レコードを聴いたり、二人でサイモン&ガーファンクルなどをデュエットしていた。
  • 秋、中田、トリップに参加。
  • 秋、細野、FENでバッファロー・スプリングフィールドのアルバム『バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン』全曲特集を聴く。音楽自体が残ってるわけではなかったが“なんか新しいものを聞いちゃったんじゃないか”という気持ちが残り、最後に英語のアナウンスでバッファロー・スプリングフィールドという名前が飛び込んできて、その晩、衝動的にレコード屋に行って探したものの売っておらず、それでもいつも探していたという。
  • 秋、細野、中田と、ムーヴァーズの練習を見学。モビー・グレープやゾンビーズ、ストロベリー・アラーム・クロックなどを歌っていた彼らのリハーサルを観て「こいつらはたいへんな奴らだ」と思い、細野はすっかり打ちのめされてしまったという。その理由を細野は、自分は別に特殊な環境にいるわけではなかったが、モビー・グレープを知っているということは当時、アメリカと直接つながりを持っている特殊な環境の人でなければあり得ないはずだと思ったからだという。
  • 9~11月、SCAP主催『PEEP』出演バンドのオーディション(新宿・御苑スタジオ)。
  • 11月12日、細野、SCAP主催『PEEP』(第5回)に出演(勤労福祉会館)。中心となるドクターズが解散したため、この日のコンサートをもって、PEEPは5回で終了した。
  • 12月、タブー解散。大瀧は布谷から「お前はやっぱり自分の好きなのをやるべきだ」と言われたという。そして「お前の趣味にピッタリの奴がいるから紹介してやるよ」と、中田の電話番号を教えてもらう。大瀧は、実際に会って話をしたら本当にピッタリだったという。
  • 12月、大瀧、中田 • 布谷とレコード店に立ち寄ったところ、店の入口で偶然出会った細野と中田が挨拶しているところを遠くから眺める(新宿・フォノ)。大瀧いわく“髭の生えたぬぼっとした男”が入口に立っていて、中田が「何だ、細野じゃないか」と言ったという。その後、中田から「一緒にサイモンとガーファンクルのような、グループを組んでいる細野という人間がいるんだから、今度会わない?」という風に言われたのが、細野と知り合うきっかけになったという。

1968年[編集]

  • 1月、細野、中田の紹介で大瀧と知り合う(白金・細野自宅)。中田が「もうひとり面白い男がいるから呼ぼう」と、細野に会わせたい人がいるということで細野曰く“マッシュルーム・ヘアーを赤く染めたビージーズみたいな奴だった”という大瀧を連れてきた。大瀧は細野の家に入るなり、リリース間もないヤングブラッズの日本盤シングル<GET TOGHTER>を見つけ、挨拶するより先に「おっ、『ゲット・トゥゲザー』!」と言った。この出来事は細野にとって大きなポイントだったという。
  • 2月、GSグループ“フローラル”結成。メンバーは小坂忠(vo)、菊地英二(g)、柳田博義(柳田ヒロ)(key)、杉山喜一(b)、義村康市(ds)。結成のいきさつについて、野上は「PEEPが終わってしまった1967年暮ごろ、柳田家の地元、芝大門の近所に、小坂忠ら3人が柳田優にギターをやってくれと頼みに来たことがあり、その時、優は弟のヒロを紹介した。そうこうするうちに、小坂の仲間の1人がピクチャー・ディスク製造の専門会社“ミュージカラー・レコード”のディレクターの田村さんを知っていて、プロにならないかと持ちかけられたのである。ミュージカラーは当時、モンキーズのファン・クラブも運営していた。実は後で分かったことだが、ミュージカラーは、そのモンキーズ・ファンクラブの中から生まれたという演出で、バンドを作りたがっていたのだ。リハーサルをしてみると、小坂以外の2人はプロとしては無理ということが分かった。そこでヒロは高校時代の友達の吉村をドラムに、ベースにはPEEPで知り合った杉山を選ぶ。ギターを弾いていたヒロは、その頃ドアーズを聴いてキーボードをやりたくなっていたので、スティール・ギタリストの菊地にリード・ギターを頼むことになった。ヒロも菊地もあっという間に楽器をマスターしてしまった」「彼らは初めからロック・バンドという意識が強く、自分たちのデビュー曲として与えられた<涙は花びら>等は、コマーシャリズムで押し付けられた歌謡曲だと割り切っていたので、ステージでは一切やらなかった。ステージで演奏したのは主にドアーズで、アイアン・バタフライの曲もやった。小坂のジム・モリソンは完璧で、まるでそのカリスマまでも受け継いでいるようであった」[3]という。
  • 3月、松本、慶應義塾高等学校卒業。
  • 4月、大瀧、早稲田大学第二文学部入学。松本、慶応義塾大学商学部入学。
  • 4月、細野、日曜日ごとに中田 • 大瀧とポップスの勉強会をはじめる(白金・細野自宅)。内容はレコード聴いた後、ギターを一人ずつ持ってコードの採取。最後にそれぞれが1曲ずつオリジナルを発表するというもの。それまで、プレーヤーとして肉体的なロックの演奏をしていた細野にとって初めて、作曲やハーモニーといった音楽の構造や作家性を探求する場となった。
  • 春、細野、布谷が当時在籍していた洪栄龍のバンド“ビッキーズ”のライブを観覧、大瀧がステージに飛び入り出演(渋谷・グルービー)。大瀧によれば、洪栄龍が『グルービー』の入り口でもぎりをしていたので、そこをビッキーズが根城にしていた。そして、ビッキーズが頻繁にライブをやっていたので、よく行ったのだという。大瀧は「それで、彼がいる間に俺が遊びに行くと1曲やれってことになるんだよね。そうするとそのバンドが何もできないわけ。つまり、僕の好きなものが何ひとつできないわけ。そうすると洪君が、何のはずみでこうなったのかなぁ<500マイル>をエルヴィス・スタイルでって。だから、いや俺はプレスリーのものまねうまいんだみたいな事で、プレスリーの歌って何も知らなかったんだよね。たまたま、たまたまだと思うんだけど<500マイル>を弾いたんじゃないの。それをエルヴィス・スタイルで<ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー>調っていうか、ツイストなんだけど、要するに歌い方をビブラート効かせてやったんだけど、もう全員ノッてきちゃってさ、それがたまたま遊びに行ったときにそうなったのかなぁ。そうすると、行くといつも飛び入りをやらせるんだよ。それを、細野さんが観ているんだな。大滝詠一で一番印象に残ることっていったら、プレスリー・スタイルの<500マイル>だってどこかに書いてあった。あれをみた人は非常に貴重な人なんだ」という。
  • 春、細野、松本から呼び出され、バーンズ加入の誘いを受ける(原宿駅前地下の喫茶店『コンコルド』)。松本は大学入学後、コンサートを企画する大学のクラブ“風林火山”に所属。ようやく夜のバイトができるようになり、青山のディスコ『コッチ』で一晩中演奏するアルバイトをはじめようとしたが、“公認会計士の試験を受けたいから塾へ通う”との理由でベーシストが抜けてしまった。ヴォーカリストに小山高志を入れ、それまでインストゥルメンタル・バンドだったバーンズを歌ものに方向転換しようとした矢先だったのでアルバイトも含め、今後の活動においてベーシストがいないと困るからどうしようと話した松本に、1966年夏、千葉県館山で行われた『立教大学広告研究会キャンプストア』にバンド“ドクターズ”のメンバーで出演していた細野と知り合っていた小山から「すごいうまい人がいる」と、細野の名前を教えてもらう。柳田優と松本が電話で話し、優から細野に話してもらった後、松本が直接電話して『コンコルド』で会った。細野によれば、松本の印象は“チョーク・ストライプのスーツなんか着て、レイバンのサングラスをかけたキザな男”だったという。一方、“肩まで髪があり、アイビー崩れのヒッピーの格好だった”細野を松本は“二十歳なのに、おじいさんみたいな風格だった”という。細野より遅れて到着した松本は初対面の細野に、バーンズがライト・ミュージック・コンテストで3位に入賞したことや、自身もドラム部門で優勝し、TBSテレビ『ヤング720』に出演してドラム・ソロを披露したエピソードを得意気に語り、細野を辟易させた。対する細野も、まだ髪が耳に届くぐらいの長さだった松本に「そんなに髪短いと音楽はできない」と言い、松本は“この人、すごい自信ありげにものを言う人だな”との第一印象を持ったという。そして松本からの「とにかくいい仕事だ、金になる」との言葉に、お金が欲しいと思った細野は新しくバンドを始めるというよりも、あくまでバイトのつもりで誘いに乗った。その後、細野がベースを弾いてみせることになり、原宿から渋谷のヤマハまで歩いて移動。店内の楽器売り場のベースで<デイ・トリッパー>のイントロを弾いてみたものの、どうしても途中でつっかえてしまい、松本は「この人、大丈夫かなぁ」と不安になったという。
  • 春、細野、バーンズのオーディションのためベースを持って、青山にあるメンバーの伊藤剛光の自宅に行く。課題曲はジミ・ヘンドリックスの<パープル・ヘイズ>と<ファイアー>の2曲だったが、無理矢理オーディションを受けさせられた細野は、「この野郎!」と思ったという。セッションでOKが出て、細野はバーンズのメンバーとなる。バーンズのメンバーは松本と細野のほか、小山高志(vo)、伊藤剛光(g)。
  • 4月、野上眞宏が細野、大瀧、中田佳彦の会合中に来訪(白金・細野自宅)。野上によれば「僕はローリング・ストーンズの最新アルバム『サタニック・マジェスティーズ』を渋谷のヤマハで、つい買ってしまった。“そうだ、細野んちに寄っていこう”。帰りにそう思い立った僕は、白金へと向かうことにした。細野宅に入っていくと、立教大学のキャンパスで細野と一緒のところを会ったことがある中田佳彦と、初対面である中田の友達がいた。細野が『野上は初めてだっけ』と大瀧を紹介してくれ、『今度一緒にバンドを作るんだ』と言ったのだ。『どんなバンドなの』と聞くと、細野は『えーと、フォーク・ロックかな。サイモン&ガーファンクルみたいなの』と言った。もちろんストーンズが彼らの趣味でないことは知っていたので、遠慮がちにヤマハの袋からLPを出すと、『ローリング・ストーンズの最新盤か、ふぅーん』『ストーンズがビートルズの影響を受けているんだって』と、一応の興味は示し、さっそくアルバムを聴くことになった。すると大瀧は、ビートルズやストーンズについてのすさまじいばかりの博学ぶりを披露してくれた」[4]という。
  • 春、バーンズ、青山のクラブ『コッチ』や赤坂のディスコなどでハコバンのアルバイトを開始。コッチは青山通りと表参道の交差点、交番の斜め向かいにあったディスコ。時間は夜9時ぐらいから朝4時ぐらいまでで、4、5ステージ。レパートリーはオーティス・レディング<トライ・ア・リトル・テンダネス>や<ドック・オブ・ザ・ベイ>、サム&デイヴ<ホールド・オン・アイム・カミング>、ヴァニラ・ファッジ<キープ・ミー・ハンギング・オン>、ゼム<グローリア>、ローリング・ストーンズ<アンダー・マイ・サム>。さらに細野からの提案でバッファロー・スプリングフィールド<ブルーバード>もすでに演奏、後のはっぴいえんどでのリズムのコンビネーションはこの頃に培われた。後に松本は「あそこで培われたR&Bが後々のはっぴいえんどの土台になっている。あのR&Bのノリがないとただのフォーク・バンドだったような気がする」[5]と語っていた。
  • 春、細野と松本、六本木のソウルバー、『ジョージ』に通い、ジュークボックスでヒット曲を聴きまくる。細野によれば3曲100円ぐらいだったという。さらに「あの頃、インプレッションズが流行ってて。アトランティックも流行ってた。アレサ・フランクリンとかね。もちろんモータウンも全盛期だけど。ママが本当にアレサ・フランクリンみたいなんだ、日本人なのに。後にフィリピン・バンドがいっぱいたむろするようになってからは、なんとなく行かなくなっちゃったけど」[注 3]という。そして松本も「ジュークボックスがあって、最新のヒット曲が入ってるから、なけなしのお金を入れて、それを順番に聴いて。コーヒーで5、6時間粘って、いろんな音楽を聴いた。最初はよくレクチャーしてもらってたよね」とし、「ジューク・ボックスの前の席に座って、細野さんがいろんな曲をかけては、『こういうベースがいいんだ』とか『お前もこういうドラムを叩け』って。それで僕は勉強になった」という。
  • 夏、細野、SCAP主催『PEEP』に参加したいくつかのバンドの中から巧い人達をピック・アップして、当時高校生だった鈴木 • 林とセッション・バンドを結成。アル・クーパーが、マイク・ブルームフィールドスティーヴン・スティルスと作ったアルバム『スーパー・セッション』が話題になっていたのに刺激を受けた細野が、自分たちもやろうと思い立ったことがきっかけだった。そして細野はこの頃から、ベーシストとしての自覚がだんだん出てきたという。
  • 夏、細野、鈴木 • 林と共に、柳田優が請け負っていたダンス・パーティーの仕事でライブ活動を開始。パーティに出るようになって、チラシに印刷しなければならなくなったため、その頃からバンドに名前を付けることに凝っていた細野により、“スージー・クリームチーズ”、“ドライアイス・センセーション”、“ジェット・エイジ・トリッパー”。他に“ナポレオン・ボナパルト”など、出演する度に名前が変えられた。野上によれば「何故か分からなくなってしまったが、聖路加病院の看護婦さんたちのダンス・パーティの仕事も柳田は請け負っていた。バンドはもちろん細野、鈴木、林で、ヴォーカルは岡野正、もう1人誰かいたと思う」[6]という。
  • 夏、細野、逗子に海の家を借りる。
  • 夏、バーンズ、風林火山主催『キャンドル・ライト・パーティ』に毎週土曜日出演(軽井沢・三笠ホテル)。ホテル内の広いダイニングを借り切り、そこでパーティを行うというもの。毎晩2バンドが出演し、ギャラは1バンドにつき2、3万円。そのため細野は、毎週末ごとに逗子と軽井沢を往復することになった。
  • 夏、細野、『キャンドル・ライト・パーティ』でバーンズと共演した高校生バンド“ブッダズ・ナルシーシィ”の高橋幸宏 • 東郷昌和 • 松村克己らと知り合う。細野曰く、高橋は“おしゃれだったけれどすごく生意気だった”というが、「その時に、やってた曲がスライの<ダンス・トゥ・ザ・ミュージック>。かっこいい曲を、いいリズムでやるじゃないかと思ってね。でもそういう曲は、僕たちもよくやってたし。やってたと言うか、好きだった。だからちょっと引っ掛かっちゃったんですよね。こいつが幸宏か、と」と、思ったという。また、当時16歳だった高橋も、バーンズのベースがすごくいいという噂は知っていたが、「対バンが大学生だと聞いても、何ら恐るるに足らず。まわりのメンバーも、ガキのくせして百戦錬磨のツワモノばかりだったから、僕同様『じゃあ、聴いてやろうじゃん』と半分ナメてかかっていた。相手のバンドは、ザ・バーンズといった。慶応大学の1、2年生のバンドで、一人だけ立教の3年生がベースのトラで入っているという。演奏が終わると、おもむろにそのベーシストが話しかけてきた。名を細野晴臣といった。『キミたちにそっくりなバンドを知ってるんだ。実は僕、そのバンドともやってるんだけど、今度一緒にその連中とセッションしない?』」「いきなりの誘いに返答に窮している僕たちに、彼は続けた。『じゃあさ、今晩キミたちのところに行くよ。その話ももう少ししたいし』」「僕らの別荘の場所を聞き出すと、彼は去っていった。低い声でゴソゴソッといった感じの口調で、ちょっとヘンな人だな、と僕は思った」という。その夜、高橋らが泊まっていた別荘に、細野は自転車で一人でやってきた。どんなグループを聴いているかという話になったとき、出てきた名前がバッファロー・スプリングフィールドとかカントリー・ジョー&フィッシュ、ドアーズやサイモン&ガーファンクルなど、同じだったという。そして細野が高橋にジェット・エイジ・トリッパーの林や鈴木、小原を紹介した。細野は「林たちと同世代だから、面白そうだと思って紹介したんだよね、確か。そしたら彼ら同士、気が合ってね」という。高橋も「細野さんにその時紹介されたメンバーがいて、細野さん別のバンドやってたんですよ。それは高校生たちだったんですよ、他のメンバーが。それが小原礼とか、林立夫とか鈴木茂で。で、それはそれで会うようになったんですよ。それで小原と僕はミカ・バンドに入ったんですから、言うなれば紹介してもらったわけです」という。
  • 夏、バーンズ、船上パーティ・ツアーに出演(神津島)。
  • 夏、大瀧、夏休みに帰郷した際に岩手の海岸で作った初の自作曲を細野と中田佳彦との会合で発表、2人から称賛される。大瀧によれば「ギター持って1曲ずつやって、こうぐるぐる回るんだよ何かお酒ぐーっと回すみたいに。2人をいかに納得させることができるかっていうような、2人にどういう評価を得るのかっていうようなことがもう3人の課題みたいなことだったんだよね。俺は始めたのも遅かったし、だから始まった当時は真似ごとみたいなことだったけど。とにかく良くない曲でやっぱり今一つよくないなあ、と思う時は2人の顔も曇るからね。良くないとか、つまらないとかさ目の前じゃ言いにくいものなんだけども、だいたい曇ったりすると、あ、これは良くないんだな、とかさ。それで『あ、いいな』とか本当に言われるとやっぱり良いんだあ、みたいな。夏休みに海にギターを持ってって、1曲できたんだよね。その時にあの自分でもこれは初めて、何かあの2人の前で胸を張って歌える曲ができたなあ、なんかインチキな英語だったけども。そのコード進行はあの<スピーチ・バルーン>ていう曲のコード進行と同じで、だいたいメロディもよく似てる。それが出来て、まあ、さすがに誉められたね。一番最初に2人に認められたのはその曲だったと思う。だからそれを2人の前で歌えば、2人は記憶の彼方、かすかに残っているんじゃないかと思う」という。
  • 8月15日、フローラル、日本コロムビアよりシングル「涙は花びら / 水平線のバラ」でデビュー。当時のフローラルは、イラストレーターの宇野亜紀良がデザインしたコスチュームを着たグループ・サウンズのバンドだった。
  • 9月、細野 • 大瀧 • 中田、“ランプポスト”の名で西新宿のフォーク喫茶“フォークビレッジ”のオーディションを受ける。演奏曲はサイモン&ガーファンクル<サウンド・オブ・サイレンス>とビートルズ<イエス・イット・イズ。結果は不合格。
  • 秋、松本と野上眞宏が来訪(白金・細野自宅)。松本はジャックスのアルバム『ジャックスの世界』を持参、松本は当時、その詩の世界を気に入っていたものの、音楽面での不満を述べた。曲や演奏が面白くないと受けつけない細野は、否定的なことを決して直ぐには言わず、ただ「いいね」とだけ言った。
  • 細野と鈴木、林と共に野上眞宏宅での、後に“ザ・ジャムセッション・1”と呼ばれるセッション・パーティに参加(文京区関口町・野上自宅)。野上によれば、「細野、鈴木、林が練習がてらに、モビー・グレイプ風の曲をジャムしたり、マザーズ・オブ・インヴェンションの<トラブル・カミン・エヴリ・デイ>にバッファロー・スプリングフィールドの<ミスター・ソウル>が入る信じられないようなジャムをして遊んでいるところに、浜口茂外也が加わってホセ・フェリシアーノ風<ライト・マイ・ファイアー>などをやった。ほかに数人程度の友達が聴衆であった」[7]という。
  • 10月、フローラル、セカンド・シングル「さまよう船 / 愛のメモリー」発売。同月、来日したモンキーズのバッキングをフローラルが担当。この頃から柳田はプロ・ミュージシャンとしての自信をつけていたが、同時にベースとドラムの演奏能力に不満を持つようになっていた。そこで、PEEPでよく知っていた細野にベースをやってもらうように動いていったという[3]
  • 10月25日、バーンズ、ライブ(青山・コッチ)。
  • 10月26日、細野 • 松本 • 野上、『コッチ』閉店後、未明から早朝にかけて目白~銀座を散歩。野上による写真撮影が行われた[8]
  • 10月27日、バーンズ、『ヤマハ・ナチュラル・サウンド・フェスタ』出演(日本橋・東急百貨店2階 ヤマハ特設会場)[9]。以前、コンテストで3位に入賞した関係で出演したヤマハ主催のイベント。前日の朝に銀座での撮影がきっかけになって、「演奏している写真も撮ってあげよう、きっと彼らの青春のよい思い出になるに違いない」と思った野上は、この日の演奏を写真撮影した。その後、バーンズ、青山・コッチに出演[10]
  • 秋、細野と松本、風林火山主催の学園祭にバーンズの出演が決まり、ライブ用のオリジナル曲を書くため高輪付近の高級マンションの一室を一晩借りて制作。後にエイプリル・フールのアルバム『April Fool』収録の<めざめ>と<暗い日曜日>を含む5曲を完成させた。その時松本が「そんな曲よくないよ」と細野の曲にケチをつけたところ、普段はめったに怒らない細野が烈火のごとく怒り「音楽に関しては俺は、世界中で誰にも負けない」と言ったという。それに対して松本も「詞では僕は負けないからさ」と言い返したものの、「音楽をやっている限りは、この人にずっと付き合うんだなぁ」と思ったという。
  • 秋、バーンズ、中田を加え、“アンティック・マジシャンズ・アンノウン・バンド”の名で風林火山主催のコンサートに出演(イイノホール)。<めざめ>と<暗い日曜日>を初演。
  • 12月、バーンズ、柳田優主催の恒例クリスマス・パーティ『ラ・フェテ・ド・ノエル』に出演(原宿・地産ビル地階の喫茶店)。出演はドライアイス・センセーション、バーンズ、二谷英二のバンド。細野はドライアイス・センセーションとバーンズ両方のベースを掛け持ちした。観客には鈴木、林、小原のほか、はっぴいえんどのマネージャーになる石浦信三や、その後弁護士から政治家になり、民主党議員となる小川敏夫もいた[6]
  • 12月31日、松本と細野、林と共に後に“ザ・ジャムセッション・2”と呼ばれるようになる、野上眞宏宅でのセッション・パーティに参加(文京区関口町・野上自宅)。野上によれば、「集まったミュージシャンは細野、鈴木、林を中心に、フローラルから柳田ヒロ、小坂、バーンズから松本、小山高志。聴衆は彼らの友達3、4人と、演奏していないミュージシャン。初めは細野、鈴木、林でバッファローのコピーを数曲演奏し、フローラルのレパートリーだったジミ・ヘンドリックス<レッド・ハウス>を小坂のボーカルと柳田のピアノに鈴木のギター、林のドラム、細野のベースが即席で入ったメンバーで演奏した。この演奏は、フローラルの演奏能力に不満を持っていた柳田が望んでいた新しいバンドの組み合わせだったようだ」[7]という。この日は松本と細野のコンビによる初めての日本語詞曲<暗い日曜日>も演奏。メンバーは細野、松本、鈴木、柳田、小坂。他に、細野、鈴木、林、小山高志(vo)による<ブルーバード>も演奏された[注 4]

1969年[編集]

  • 1月、バーンズ、風林火山主催のコンサート・パンフレット用の写真撮影を行う(撮影:野上眞宏)[11]
  • 初頭、細野、フローラルのライブを観覧。終演後、細野がベーシストとして加入を要請される(霞町マリーズ・プレイス)。フローラルはこれまでにシングルを2枚リリースしたもののうまくいかず、この頃にはサイケデリックのバンドに路線を変更していた。バンドは更に小坂、菊地、柳田を残して、新たに自分たちが一緒に演奏したいメンバーを探して続けることが3人の間で決まっていた。ステージが終った後、小坂は給料袋を手に持ってブラブラさせて細野に「やんない?」「入れば、月に5万円もらえるよ」と話しかけた。細野にとっては5万円も大きな魅力だったが、一番の理由はフローラルを新しいバンドにしてレコーディングすることがもう決まっているという話だった。細野は「アルバムを1枚レコーディングしたい。そのためには新しいメンバーが必要だ」と、柳田に言われたという。小坂によれば「結局は事務所の思惑に僕らが乗れなかったんです。元々バンドの中でも、いわゆるポップ・サウンズが好きなメンバーと、それが居心地悪いと感じるメンバーがいたし。それで、僕とヒロとギタリストの菊地が残って、新たに自分たちがやりたいメンバーを探してやろうってことになって」という。
  • 初頭、細野、松本をフローラルに誘う。細野はドラムスには松本か林のどちらかにしようと思っていたが、林はちょうど、鈴木 • 小原とトリオ編成のバンド“スカイ”を結成した直後だったので高校生同士で意気投合して熱中していたから、かわいそうだと思って声をかけなかった。そして松本にバーンズを解散してプロにならないかと話したところ、松本の母親から「うちの息子を悪の道に引きずり込まないでください」と言われたという。当初、松本も大学は卒業したいと思って返事を引き延ばしていたが、2年に進級したとき友達が10数名落第して友だちがいなくなってしまい、学校に行っても面白くないと思い始めていたので、次第にその気になった。
  • 初頭、細野、柳田とともに松本のフローラル加入オーディションに立ち会う。かつて細野がバーンズのオーディションを受けたときと逆の状態になった。オーディションではドアーズの何曲かを課題曲のようにセッションし、「これなら使える」などと言われて加入が決まる。
  • 初頭、ランプポストのミーティングで解散が決定(新宿)。その頃まで続けていたバーンズやドライアイス・センセーションはこのまま続けていても先が見えないのがイヤになっていた細野は、プロになるためそれらのバンドを全て辞めることにした。ただし、大瀧 • 中田との日曜のお茶会はその後も定期的に続くことになった。
  • 3月、フローラルを母体とした新バンドのリハーサル開始。メンバーは松本(松本零)(ds)、細野(b)、小坂忠(vo)、菊地英二(g)、柳田ヒロ(key)。フローラルという名前がいやだったことから皆で思いつく英語の名前を挙げた中、細野が「“エイプリル・フール”はどうだ?」と言ったところ、松本が「それでいこう」と言い、バンド名は“エイプリル・フール”と決まった。
  • 春、ビッキーズ、バンド名を“ブルース・クリエイション”に改名。大瀧、布谷や竹田和夫と付き合う日が多くなる。
  • 4月1日、エイプリル・フール、レコーディング(0:30-4:30、虎ノ門・テイチク・スタジオ8階)。野上によれば、鈴木のほか、林や小原がスタジオに遊びに来て、遊びに来た全員が加わって、ホンキートンク・ジャムのバックグラウンドでワイワイ騒ぐ部分のレコーディングが行われた[12]
  • 4月2日、エイプリル・フール、レコーディング(0:30-4:30、虎ノ門・テイチク・スタジオ8階)[12]
  • 4月3日、エイプリル・フール、レコーディング(0:30-4:30、虎ノ門・テイチク・スタジオ8階)[12]
  • 4月4日、エイプリル・フール、レコーディング(0:30-4:30、虎ノ門・テイチク・スタジオ8階)[12]
  • 4月17日、細野、自宅に来訪した大瀧に、エイプリル・フールのレコーディング・テープを聴かせる(白金・細野自宅)。 大瀧は、自分たちが今までバンドでしっかりしたデモ・テープを作ったことがなかったということもあり、「やったあ!」みたいな感じで、ものすごく興奮したのを覚えているという。
  • 4月20日、エイプリル・フール、野上眞宏主催“ザ・ジャム・セッション3”に出演(13:00-17:00、虎ノ門・第11森ビル地下 東京音楽文化センター虎ノ門スタジオ)。野上によれば「ジャム3回目の出演は、LPの録音を終えたばかりのエイプリル・フールを中心に鈴木茂(g)、林立夫(ds)、小原礼(b)、高橋幸宏(ds)、東郷昌和(vo)、松村克己(g)、吾妻ジョージ(g)、伊藤剛光(g)、中田佳彦(vo)、小宮としゆき(g & b)、浜口茂外也(fl)、飛び入りでブルース・クリエイション(竹田和夫(g)、布谷文夫(vo)、田代信一(ds)、野地義行(b))の連中が参加してくれた」「このメンバーで11通りの組合わせを作った。休憩を2回挟んだ3部構成で、1~2部がジャム・セッション、3部のはじめがブルース・クリエイション、トリにエイプリル・フールという具合だった。見学には中田佳彦の友人でブルース・クリエイションを連れてきた大瀧詠一、景山民夫をはじめ風林火山の連中、そのガールフレンドなどなど18名くらい。総勢40人ほどだった。皆さんから会費を400円ずついただいて、会場のレンタル料を払った」「ここまで盛り上がったジャム・セッションも、これが最後となった。理由は、音楽仲間がエイプリル・フールとして一応まとまり箱で入っていた新宿『パニック』でそれぞれの交流ができたことと、彼らももうこの頃にはすっかりインプロヴィゼーションに飽きていたということだ」[7]という。また、セッションを見学していた大瀧は「その時に集まったメンツが、そのあと日本の音楽作っていくんだけど、そんとき何かそういう予感がしたよ」という。
  • 4月21日、大瀧と中田、デュオ“アイズ”の自宅録音のデモテープを東芝音楽工業のディレクター(当時)橋場正敏に聴いてもらう。その場で橋場に「これじゃ、プロは無理だね」と言われる。
  • 4月27日、アイズ、野沢那智司会のラジオ番組のオーディションを受ける(TBSラジオ第1スタジオ)。エヴァリー・ブラザース<テイク・ア・メッセージ・トゥ・マリー>など2曲を歌うが落選。
  • 5月、エイプリル・フール、新宿『パニック』、六本木『THE SPEED』、渋谷『ハッピー・バレー』などのディスコやダンス・ホールでライブ活動を開始。ライブで演奏するときは全部カヴァーで、ドアーズをメインに、レッド・ツェッペリンやアイアン・バタフライ。スリー・ドッグ・ナイトやプロコル・ハルム、クリームといった、いわゆるサイケの頃に登場したグループの曲を広く演奏していたという。細野は、そういう意味ではコピー・バンドだったとし、「コピーっていうのは、リーダーがいなくてもいいわけです」という。ハコバンの仕事は細野にとって、ベースを弾きまくっていたから、プレーヤーとしての自信もついたという。「毎日、同じスタイルで同じ曲をやってるわけだから、もう腕だけが動いてるわけ。ちょうど自動車を運転するみたいに感覚だけでやってるの。そうすると、それだけじゃつまらないから、何かが入ってきちゃう。一種、神がかってきちゃうわけ。そうすると、もうレコードよりすごい演奏になっちゃうの。そういう意味では、エイプリル・フールっていうのは、ライブのほうがレコードより良かったバンドなんだよ。噂を聞きつけて、いろんな人が見に来たの。大瀧も来たし、茂や林も来たしね。そういう連中とセッションになっちゃうこともよくあったよ」という。ライブでは<暗い日曜日>のほかに柳田の曲など、オリジナル曲も何曲かやっていたというが、細野は「ライブでは自分たちのオリジナルがなかなかできなかった。気持ちもノらなかった。そこにギャップがあった」という。「そんなふうに夜中を過ごして、終わると六本木の『ハンバーガー・イン』で食事をして、家に帰って寝るっていう毎日だった」「あのころの生活っていったら、ほんとうに退廃してたね。やることは全部行きあたりばったりで、それでいてなんにも考えていなかったし。もっとも、そうでもしていなかったら、一日2ステージで連日同じ店に出っ放しみたいな仕事には耐えられなかったんだろうね。もう、典型的なバンド・マンの生活だったもの。ただ、自分たちが、今までになかったスゴイことをやってるんだっていうプライドみたいなものはあったんだよ」という。松本は「エイプリル・フールになって。これが人生の中で一番楽しかった時期かもしれない。新宿のパニックで毎晩集まって。当時給料が5万。サラリーマンの給料3万の時代です。毎晩演奏できてとても楽しかった。ドラマーとしてのスキルがものすごくあがった。当時、右足が機関銃のように動いたのね」[5]とし、「うまいバンドだっていわれてたしね。横浜のパワー・ハウス、東京のエイプリル・フールと言われてたんだ。誇りもあったし、プライドもあったしね」という。ただ、カヴァー曲ばかり演奏していたことについては「せっかくアルバムをレコーディングしたのに、なんでオリジナルを演奏しないんだろうっていうのは疑問としてあった」という。アメリカの雑誌『ローリング・ストーン』の記者が彼らのもとへ取材に訪れ、後にエイプリル・フールの記事が雑誌に掲載された。また、『THE SPEED』には荒井由実も来ていて、細野も彼女の名前だけはよく知っていたという。
  • 5月、エイプリル・フール、荒木経惟とアルバム・ジャケット用のフォト・セッション(銀座~日比谷界隈)。エイプリル・フールが所属していたミュージカラー・レーベルの幾代昌子が当時、電通のカメラマンだった荒木を個人的に知っていて、ジャケット写真を彼に頼んだ。朝の5時に銀座で待ち合わることになったが、当日はドシャ降りの雨で、その中で日比谷公園に行ったり、あちこちで2時間近く写真を撮った。そのため翌日、メンバー全員、風邪をひいて寝こんでしまったという。
  • 5月7日、エイプリル・フール、TBSテレビ『ヤング720』収録(出演:遠藤賢司、他)。レッド・ツェッペリン<グッド・タイムズ・バッド・タイムズ>を演奏。細野から「松本これはできないだろう」と言われた松本は、むきになってドラムを練習したという。一緒に出演していた遠藤は<猫が眠ってる>を弾き語りで演奏。この頃、ティム・ハーディンやトム・ラッシュが好きだった細野は、再会した遠藤について「ロックよりもロックぽいな、特に言葉の使い方とか既に自分の言葉を持っていましたから」「『何てかっこいいんだろう』って僕は思ってたんですよ」という。
  • 5月9日、TBSテレビ『ヤング720』放送。5月7日収録分のオン・エア。
  • 5月、細野、大瀧に呼び出され、バッファロー・スプリングフィールドのアルバム『ラスト・タイム・アラウンド』を買う(新宿・紅屋)。細野は、バッファロー・スプリングフィールドが3作目のアルバム・リリースとともに解散したというニュースを聞き、とても残念に思っていたという。アルバムを聴かなければ気持が治まらないと思って探していたが、なかなか見つからなかった。するとある日、大瀧がそのアルバムを新宿の紅屋(後の帝都無線)で見つけたと、細野に電話で知らせてきた。大瀧は「細野さんはバッファローの『ラスト・タイム・アラウンド』を買ってなくて、欲しい欲しいって言ってたの。国内盤なんか無かったしさ、ヤマハにも輸入盤が入らなかったんだ。ところがある日、新宿で僕が見つけたわけ、輸入盤を。買おうかな、と思ったけど、細野さんが欲しがっていたの思い出して、電話したの。見つけたよって。そしたら『なに!?』って車で飛んできた。あんなに興奮したことはないって言ってたね」という。細野によればその頃、大瀧はバッファローに特に興味があった訳ではなく、細野が騒いでたのを知っていて情報をくれたという。細野は「急いでスッ飛んで買いに行って。もう舐めまわすようにして聴いたんだけど、あの時の興奮っていうのはなかったね。それで、またそのアルバムが良くて深みにはまっちゃった」という。
  • 5~6月、細野、エイプリル・フールを観にきた吉田美奈子と知り合う(新宿・パニック)。松本によればテレビで放送された<グッド・タイムス・バッド・タイムス>を観て、それを観に来たみたいだったという。
  • 6月、バッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレープ、ザ・バンドなどのカントリー・ロック、あるいはローラ・ニーロのようなシンガーソングライターに惹かれ始めていた細野と、ドアーズやクリーム、レッド・ツェッペリンといったハード・ロックやブルース・ロックを志向していた柳田との音楽面での不仲が決定的となる。細野によれば「その頃僕はローラ・ニーロを聴いてたりして、シンガーソングライターの方向にぐっと惹かれてる頃だったんだけど、ヒロはそういうものはやりたくないとはっきり言っていた」という。「そういうのは音楽じゃない。インプロヴィゼーションがない」と言う柳田を細野は「彼はロックバンドの志向が強かったんだよね」とし、「もしエイプリル・フールが日本語で、僕の好きなバッファローやローラ・ニーロとかそういうものを出来るんだったら、ひょっとするとはっぴいえんどの代わりになっていたかも知れないんですよ。だけどリーダーの柳田ヒロはやりたくないとハッキリ言ったんで、対立してしまった訳です。そういうことがあったので、潔く辞めようと」思ったという。対して柳田は「よく怒られてましたよ細野さんに。キックが聞こえないとか、サウンド面に。こっちは演奏してるだけで精一杯だから細野さんのイライラの原因がわからなかった。僕は技術がないから勢いでノイズと共にガーッとやっちゃいたいって思ってましたから。細野さんの言うようなのはできないんですよ。僕らはまだカヴァーをちゃんとやれるようになりたい段階でしたから。細野さんはもう次に行きたかったんでしょう」という。
  • 6月4日、細野、エイプリル・フールのライブを観に来た大瀧に、バンドからの脱退の意向を漏らす(新宿・パニック)。
  • 6月5日、細野、パニックでのエイプリル・フール終演後の未明、大瀧と松本宅へ行く(麻布・松本自宅)。大瀧によれば、松本の家に行って3人で夜明かししたのは、この日が初めてだという。また、松本も「その前にね、大瀧さんと麻雀やってんだよね。3人かもう1人ぐらいいて。中田さんがいたのかも知れない。それで麻雀やってて異常に怒鳴る人だなと思ってた。麻雀やってない時はすごくおとなしい人なのにね」とし、「ビージーズっぽい曲を日本語で作ってたんだ。<サンデードライブ>という。僕もビージーズは嫌いじゃなかったから、大瀧さんとはその辺で一致した訳」と後に語っている。
  • 7月頃、細野、TBSテレビ『ヤング720』出演(出演:内田裕也、麻生レミ、他)。番組を見ていた大瀧によれば、この日は演奏はなく喋りのみで、司会者からの「これからの抱負は?」との質問に、「日本語とロックを結び付けて、日本語のロックを作る」といったような答えを細野が言い、すごく胸が熱くなる思いをしたという。ただ、細野の「来年は日本語とロックを融合する」という発言が“融合”を“結納”に聞き間違えられたという。
  • 7月、大瀧、笹塚から代田の布谷のアパートに居候。
  • 7月、エイプリル・フール、八丈島で1か月だけ開かれた期間限定ディスコ『パニック』八丈島店にハコバンとして3週間出演。松本によれば、島民しか来ないジャングルの中にある倉庫みたいな人気のないディスコで、照明めざして飛来する大きな蛾から身をかわしながら毎晩演奏していたという。宿舎と倉庫の間をひたすら往復するだけの生活は仕事というより合宿に近い感覚で、そんな逃げ場のない生活でメンバーの仲はどんどん険悪になっていったという。
  • 夏、細野、松本 • 小坂と、新バンドの構想を話し合う(麻布・松本自宅)。
  • 9月、細野、ミュージカル『HAIR』のオーディションへ小坂に同行(赤坂・国際芸術家センター)。小坂に頼まれてエヴァリー・ブラザース<テイク・ア・メッセージ・トゥ・マリー>のギター伴奏をしたが、細野は『HAIR』は商業主義的なものだと感じ、嫌いだったという。一方、小坂はアンダーグラウンドの演劇がものすごいエネルギーを持っていると感じ、音楽の世界とは別に、演劇の世界も魅力的に映っていたから、『HAIR』のオーディションを受けたという。
  • 9月、小坂が『HAIR』に合格。細野と松本とは別行動をとるようになり、新バンド構想が頓挫する。細野は「あぁ、困ったなぁ。リード・ボーカルがいなくなっちゃった」と言い、小坂がいなくなったらもうだめだと落ち込んだという。しかし、「忠に裏切られた」と言っている細野を見て松本は「だったら一緒にオーディションについて行って、ギターの伴奏してあげることないのに」と内心思ったものの、その時は「ああ、そう」と聞いただけだった。改めてボーカリストを探すことになり、細野と松本はメンバー探しにやっきになったという。小坂は、はっぴいえんど結成に関わらなかった理由について「エイプリル・フールの時はね、ディスコのハコバンの仕事が終わると、麻布にあった松本の家に細野君と3人で集まって、音楽を聴いたりいろいろ話してたんです。彼らと話したことを通じて、僕の中で新しい音楽が芽生え始めてはいたんだけど、その頃の僕の交友関係は音楽にとどまらなかった。建築家だったり役者だったりカメラマンだったりデザイナーだったり。そういう交友関係もあって、いろんなことに興味があったから、関わらなかった。それはそれでよかったと思うけど」[13]と、後に語っていた。
  • 9月、細野、中田佳彦のキングレコードへの就職決定を知る。小坂の後任には一時、中田の名前も挙がっていた。細野は、中田に先を越されたと思ったというが、「一体どうしようか! って。でもノウハウがないんだよ。誰のサゼスチョンも聞くわけじゃないし。とりあえす大学の就職窓口に行ってみようと思って行ったんだけど、閉まってた。もうとっくに終わってたわけ、そういうことは。なんか、ものすごく普通のことに疎い。でも別に慌てなかったよ。もう1年やろうかなって、そのうちなんかわかるかなと思ってさ」と言う。
  • 9月4日、大瀧、布谷文夫宅にてバッファロー・スプリングフィールドのシングル<フォー・ホワット・イッツ・ワース>を聴く(梅が丘・布谷のアパート)。シングル盤を聴いていた大瀧に竹田が「大瀧さん、これB面もいいんだよ」といってB面の<ドゥ・アイ・ハフ・トゥ・カム・ライト・アンド・セイ・イット>を聴かせる。A面も聴いてはいたが今ひとつ良さがわからなかった大瀧は、B面のポップな感じがたまらなく好きだったという。あれもポップスの一種だと気がつき、この時代のロックンロールだという風に思った時に良さがわかったという。
  • 9月6日、エイプリル・フール、ライブ(新宿・パニック)。終演後、見に来ていた大瀧に細野がバンドの解散を打ち明ける。バッファロー・スプリングフィールドの良さが分かったと告げた大瀧に、細野が新バンドへの加入を要請する。大瀧はヤングブラッズ<ゲット・トゥゲザー>同様、バッファロー・スプリングフィールドというグループ名が口から出たことが意外だったのだと思うというが、細野は「“ああ、大瀧君はバンドに入るつもりだな”と思った。大瀧君は当時はソフト・ロックが好きで、僕はサイケデリックが好きで、それまでは一緒にやれるとは思っていなかったから」と、その場で決めたという。対して、自身もバンド向きじゃないと話す大瀧が、バンドに加入した理由を「いつも言うけど、闇夜の中にポンと一人入ったみたいな感じで。もちろん細野さんや松本も『僕たちだって試行錯誤だった』って言うんだけど、もっと真っ暗だったよね、俺は。わかんなかったんだよね。特にああいうロックン・ロールとは違うものだと思ってたからね。細野さんにはバッファロー・スプリングフィールドとかがあったけど、俺はなかったからさ」「でも、バンド以外に何に向いてたのかって言われてもね。返す言葉がないんだよ。それに、バンドをやるんだっていう意識もなかったような気がするよ。なんかみんなバンドっぽくないしね。楽器持ってないしさ。練習はあんまりやらないし。だから、歌だってそうだね。要するに曲作りっていうかサウンド作りっていうか、そういうものに向かう意識だけだったね」[14]と答えている。
  • 9月7日、新宿『パニック』でのエイプリル・フールのライブ終了後、大瀧を自宅に泊める。どういうバンドをやるかについて、細野は「こういうのやりたいんだ」と、バッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレープ、ローラ・ニーロやザ・バンドなど、大量のレコードを大瀧に貸し、車で送ったという。
  • 9月、細野、エイプリル・フールを観にきたアート音楽出版のディレクター小倉栄司と知り合う(新宿・パニック)。 小倉は、その時すでにエイプリル・フールの解散が決まっていること、新しいグループを結成するつもりでいる、という話を細野から聞きつけた。さらに、当時発売されていた様々な新譜についての話をきっかけに交流を持ち始めた。
  • 9月12日、エイプリル・フール、TBSテレビ『ヤング720』出演。
  • 9月15日、エイプリル・フール、東京キッドブラザースの劇伴アルバム『LOVE&BANANA』レコーディング(麻布・アオイスタジオ、虎ノ門・テイチク・スタジオ)。松本によれば「キッド・ブラザーズって、渋谷のマックスロードの奥をずっと入っていったあたりの左側にあって、そこにはけっこう通ってたんだよ。ちょっとした溜り場みたいになって。忠がそこに呼ばれて、チョコチョコッと出てたんだよね。ちょうど東さんだっけ? あの人が天井桟敷から分派して、東京キッドブラザースを旗揚げして、一番パワーがあったんだよ」と言い、細野も「エイプリル・フールに舞台音楽の依頼があって、キッドのプロジェクトに参加してバッキングもやった」と答えている。
  • 9月19日、22日、エイプリル・フール、東京キッドブラザースの劇伴アルバム『LOVE&BANANA』レコーディング(麻布・アオイスタジオ、虎ノ門・テイチク・スタジオ)。
  • 9月23日、細野、数多くのバンド名のアイデアを書き溜めたノートの中から、新バンド名を“ヴァレンタイン・ブルー”に決定。意味は「僕らはモテないから、バレンタイン・デーにはもっとブルーになる」というもの。
  • 9月25日、エイプリル・フール、練習(新宿・パニック)。練習後、細野、大瀧とともに松本の自宅を訪ね、細野 • 大瀧 • 松本による新バンドに関するミーティングが行われる(麻布・松本自宅)。後に細野は「つまり、これまでは、ロックは踊るための音楽だったわけ。そうじゃなくて、むこうのフォーク・ロック・バンドというのは、みんな、座って聴くっていう。そういうのをやろうってこと。要するに、ボブ・ディランとかポール・サイモンなんかを聴いていると、自分の言葉で、凄い意味深いことを歌っているわけ。これはすごい、これは詩だと思ったんだ。それに当時の流行としては、バッファロー・スプリングフィールドにしても、すごく地味で重たいんだよ。そういった深くてシリアスなことをやりたかったんだ」と答えている。
  • 9月26日、大瀧、松本に誘われ“メッセージコンサート”に行き、初めて遠藤賢司を見る。その後、大瀧と松本、細野の自宅を訪ねる。3人で朝までレコードを聴く(白金・細野自宅)。
  • 9月27日、エイプリル・フール、アルバム『April Fool』発売。アルバムについて、後に細野は「演奏と言うより、当時のレコーディング技術がロックを作り出せるだけの音が出せなかったというのもある。とにかくヘナチョコな音をしているんだ」と振り返っている。アルバムでは松本は松本零という芸名でクレジットされているが、この名は漫画家の松本零士が程なく有名になったので、紛らわしくなりすぐに却下された[15]。同日、“レコード発売記念フリー・コンサート”(虎ノ門・日消ホール 共演:ブルース・クリエイション)。レコード発売記念コンサートが解散コンサートのようになったため、エイプリル・フールのアルバム制作を担当した日本コロムビアのディレクター高久光雄は、その責任を取って始末書を書かされた。中田と一緒に見に行った大瀧によれば「一番最初に酔っぱらって、高久さんが出てきて、今にして思えば高久さんなんだけど、酔っぱらった人が出てきて、『今日はエイプリル・フールのデビュー・コンサートでなんとかで、でも解散コンサートです』って。なんだ、このバンドは、みたいな」だったという。また、この日、後にはっぴいえんどのマネージャーになる石浦信三がエイプリル・フールの楽屋を訪れる。石浦は羽田空港からスーツ姿で現れ、「スパイ活動をしている」と語った。松本によれば「彼は全共闘をやっていて、冗談かどうかわからないけど、追われているからかくまってくれとうちに来たこともあった。運動がエスカレートするばかりだから辞めたいんだと言ってて、じゃあ、今度新しいバンドをスタートするからマネージャーをやるかと言ったら、やりたいと。彼は小学生のころからの同級生で、数学の天才なのね。だからマネージャーができるかもしれないと思ったんだよ。彼は営業や商法とかは苦手なんだけど、新しいシステムを考えるのはうまくて、プロデュース印税なんて、当時なかったものをとってきたりした。論理的な回路がしっかりしていて、人に対して説得力があるんだ」[16]という。
  • 9~10月、ヴァレンタイン・ブルーのオリジナル曲制作を開始。細野、松本に作詞をするよう指示。後に細野は「当時、松本隆っていう青二才は偉そうな本ばっかり読んでたのね。こいつなら何かできるだろうと思って。こっちはそういう素養はその頃まったくなくて、音楽三昧だったから。ボブ・ディランとかポール・サイモンとか、ずいぶん表現が上手だなと憧れが強かったんですけど、それを日本語に直すのは、松本の仕事だと思ってたから」という。一方、松本は「どの辺で書く事になったのかなあ。とりあえず詞は全部僕が書くって事になって、それは細野さんに言われたような気がするんだよね。どんな詞を書けばいいって聞いたら、サイモン&ガーファンクルのポール・サイモンを参考にしろって言われて、サイモン&ガーファンクルの輸入盤を貸してくれた。歌詞カードも付いてないの。最高だよ、もう。たぶん、『水曜の朝、午前3時』とか。とにかくその辺を2、3枚見つくろってさ」という。
  • 10月2日、エイプリル・フール、フリー・コンサート(新宿・パニック)。この日のライブをもって解散。
  • 10月、細野と松本、大瀧のギター練習の成果を聴く(白金・細野自宅)。大瀧によれば「猛練習始めたから。ギターをやらなきゃいけないと思って。一番最初、バッファローをやるわけだから<ブルーバード>が一番ね、<ブルーバード>の間奏を練習したりとか。まさにあの自分が滝にうたれてるみたいな感じの、それから何かひとりで燃え始めてたのかなあ。<ブルーバード>の間奏をこうやることがあのバンドに対する熱意の1つの象徴みたいなことだって考えて、それをもう必死で練習して、コピーして、それをやったね。細野さんとしては、そういうのを必死で練習してきて、そのギターをやったっていうところで熱意を買ったんじゃないかと俺は思ってるけどね」と言い、松本も「大瀧さんが<ブルーバード>のアルバム・ヴァージョンの方の間奏のギターというのをコピーしてくるわけ。それが結構聴くに値するという事で、細野さんの家に集まって聞いたんだ。それで、これなら大丈夫なんていってたんだよね。このぐらい弾ければ大丈夫かと。それでサイド・ギターが決まって」と言っていた。
  • 10月、エイプリル・フール、TBSテレビ『ヤング720』収録。終了後、メンバーの他、高久光雄、野上らと喫茶店へ。その際、喫茶店のわきでメンバー全員と高久の記念写真を野上が撮影[17]
  • 10月11日、エイプリル・フール、TBSテレビ『ヤング720』放送。
  • 10月15日、エイプリル・フール、キッド兄弟商会のミュージカル『続・黄金バット』にバッキングで参加(虎ノ門・日消ホール)。
  • 10月頃、エイプリル・フール、桑沢デザイン研究所文化祭に出演。
  • 10月頃、細野 • 大瀧 • 松本で自動車旅行。松本によれば「細野さんと大瀧さんと3人で僕の車に乗って、東北から群馬、長野と長距離のドライブをした。宿も決めない行き当たりばったりの旅だったから、3人で車の中で寝たりもした。僕が運転席、細野さんが助手席でバック・シートに大瀧さんとギターという旅だった」という。また、細野は「大瀧の故郷の方まで行ったりして、本当にその結果旅の最中に大瀧は曲がいっぱい出来てきた。僕は全然出来なかったですが」という。この旅行を題材に<1969年のドラッグ・レース>(大滝詠一『EACH TIME』収録曲)が出来る。
  • 10月、細野、“テクニックのある演奏家が必要”と考え、鈴木の自宅に電話をかける。迷っていた鈴木に細野は、創刊間もない『ニューミュージック・マガジン』のレコード評でエイプリル・フールのアルバムが79点だったことを引き合いに出し、「今度は1等をとるから、絶対やってて得するよ」と説得、ヴァレンタイン・ブルーのメンバーにスカウト。迷っていた理由を後に鈴木は「深刻に悩んだわけじゃなくて、エイプリル・フールがドアーズなんかもやっていたから、そういう曲もやるんだったらイヤだなと。その辺のこだわりだけ」「高校三年のときに、もうはっぴいえんどで大阪へ行くという話があって、夏ぐらいから勉強をはじめたけど、試験に落ちて、浪人の途中で、もういいかと」[18]と語っていた。
  • 10月、細野 • 松本、松本宅に鈴木を呼んでオリジナル曲<雨あがり>(後の<12月の雨の日>の仮題)のデモ・テープを制作(大瀧不参加)。
  • 10月26日、エイプリル・フール、ラスト・ライブ(銀座・ジャンク 共演:日野皓正クインテット)。
  • 10月28日、ヴァレンタイン・ブルー、デビュー・ライブとなる“ロックはバリケードをめざす”に出演(お茶の水・全電通会館ホール 主催:日大闘争救援会 共演:遠藤賢司、早川義夫、ブラインド・レモン・ジェファーソン、他。当日は“ばれんたいん・ぶるう”の名で出演)。<12月の雨の日>、<かくれんぼ>、<春よ来い>、<ブルーバード>、<クエスチョンズ>を演奏。大瀧によれば「共演したバンドの奴がね、『あ、今日はオルガンいねえから、たいしたことねえぞ』って言ったの。柳田ヒロのことなんだよ。エイプリル・フールとごっちゃになってたんだろうけど、そういう次元だったみたいよ。腕をきそう、みたいなさ、すごく貧しい環境だったんだね。演奏は地味だったんだけど、すさまじいステージだったよ。演ってるうちに突然ドラムが聴こえなくなっちゃって、どうしたんだろうと思って振り向いたら、なんとベードラがないの。松本が叩いてるうちに前におっことしちゃった」[19]。また、この頃、マネージャーは細野が担当していたが、「練習不足だったしね、本当に自信なかったんですよ演奏というものに。お金もらえないな、恥ずかしくて。そんな気持ちでやったわけ。予想どおり、あまりいい演奏できなかったんです」という。この日、ヴァレンタイン・ブルーは遠藤賢司のバッキングも担当。大瀧は<夜汽車のブルース>のイントロで<汽車>の一節を大正琴で演奏。遠藤は「大正琴を弾いてくれたんだよね。あれが最初で最後の共演かもしれない。“いまは山中 いまは浜~”って大正琴で弾いてくれた」という。
  • 11月、細野、小倉栄司にヴァレンタイン・ブルーの結成を告げる(渋谷)。同席した鈴木によれば「渋谷かどっかで、確か僕と細野さんとエージと3人で話したんですよ。とにかくURCでレコード作らないかって」という。小倉もまた「ヤマハかなんかで会って、その向かいの喫茶店で話してて、かくかくしかじかグループをやるっていうんで。グループを、作ったという話かな、それを聞いて僕は見に行ったのかな、代々木かなんか、ヴァレンタイン・ブルーを見に」という。
  • 11月23日、大瀧と細野、“細野晴臣+α”名義でフォーク・コンサートに出演(代々木区民会館)。<I WAS A FLOWER ONE TIME>(細野作)、<チェルシー・モーニング>、<アイウエオの歌>を演奏。終演後、細野が小倉とURCのディレクター早川義夫に会いレコーディングの勧誘を受ける。大瀧によれば「帰りしな、細野さんと2人で、細野さんギター持って、俺が歩いてて、目黒かどこかの横断歩道に立った時に、サングラスをかけた髪の長い男と、背の低い男がツカツカツカッと寄ってきて、高石事務所のものですけれど『ねえ、君たちレコード作らない』って言われたんだよ」という。一方、小倉は「当時僕は、URCレコード、厳密にはアート音楽出版の社員であり、URCレコードの制作の現場を務めていた。そして、一番の望みといえば、ロック・バンドのレコーディングだった。そんなときに聞きつけたのが細野の新しいグループの話であり、レコーディングの話を持ちかけた。すでに彼、さらに松本が、エイプリル・フールの一員としてレコード・デビューを果たしていたという実績のあったことに、信頼を置いていた。それが、彼の新しいグループのレコード制作実現への願望をかりたてる要因のひとつになったことも事実である。加えて、細野と出会う度に交わす事の多かったレコードやアーティストについての会話、その評価や是非が、彼への信頼を高める大きな要因となった」という。しかし、コンサートに行ったのは事実だが、果たしてレコードの話を持ちかけたかどうか、もはやその記憶はなく、それより、早川が同行していたかということについても思い出せない。もっとも、後に彼らに関わることになる前島邦昭がいた事は確かで、彼こそこの公演のことを小倉に教え、案内してくれた人物にほかならなかったからだという[20]
  • 12月23日、大瀧、代田から恵比寿に引っ越す。

1970年[編集]

  • 1月12日、ヴァレンタイン・ブルーの練習(白金・細野自宅)。
  • 1月13日、“IFC(インターナショナル・フォーク・キャラバン)前夜祭”(都市センターホール 共演:中川五郎、遠藤賢司、愚、あがた森魚、斉藤哲夫、なぎらけんいち、他)。<12月の雨の日>、<春よ来い>、<ブルーバード>、<雨あがりのビル街>を演奏のほか、遠藤賢司のバッキングで<夜汽車のブルース>を演奏[1]
  • 1月14日、細野、原宿・URCレコードを訪問。音楽舎の高木照元から話があった岡林信康のレコードおよびステージのバッキングを、小倉から積極的に勧められる。小倉は「岡林はすでにその時に色々と制作に入ってて、レコーディングにふさわしい、メンバーがね、集まらなくてね」と、バック・バンドとしてはどうかみたいなことを理由にしつつも、本当ははっぴいえんどのレコードが作りたかったし、それしか方法がなかったという。しかし、細野をはじめメンバー全員が岡林の曲が好きではなかったので、この話は一度断った。
  • 1月16日、細野、大瀧の部屋を訪ね、大瀧にURCレコードでのレコーディング決定を告げる(恵比寿・大瀧自宅)。
  • 1月18日、ヴァレンタイン・ブルー、ミーティング。録音が4月頃で発売が6月頃を予定しているということで、毎週水曜の15:00-19:00に新宿・御苑スタジオで練習する事が決まる。この時点では日本語のオリジナルでやるかどうかについてはまだ揺れていたというが、それでも<春よ来い>と<12月の雨の日>は一応できていたので、それらを中心に先ず考えようという事になった。
  • 1月20日、ヴァレンタイン・ブルー、メンバー全員で映画『イージー・ライダー』の試写を観る。
  • 1月21日、ヴァレンタイン・ブルー、デモテープの収録を兼ねたファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第1回:15:00-19:00、新宿・御苑スタジオ)。小倉に呼ばれてURCのオーディション。細野は野地義行からフェンダー・ベースを借りて参加。鈴木の欠席によりリード・ギター不在ながらも<春よ来い>と<雨あがり>披露したが、小倉も早川も俯いたまま何にも言わなかったという。それで、たまたま何かの拍子でバッファロー・スプリングフィールド<ブルーバード>やモビー・グレイプ<ヘイ・グランマ>のカヴァー曲をやったところ、小倉が飛び上がって「これだよ、君達は!!」「それを聴いて安心した」と言ったという。大瀧は「自分たちの中ではこういう事をやりたいみたいな事が、ストレートにオリジナルでは伝わりにくいっていうのは、あの頃は特にみんな思ってたよね、そういう風に。オリジナルよりカヴァーやった時の方がいいみたいな、そういう傾向って、やっぱりあったと思うんだけども」というが、対して小倉は「彼らの作品を初めて耳にしたのは、確かその時のことだったと思う。作品を耳にしないままレコード契約を交わし、制作にとりかかるというのも無謀な話だが、それだけ彼らに信頼をおいていたのである。日本語のオリジナルでやるということは、すでに了承済みのことだった。しかし、作品はともかく、その最初の日の演奏に関してはひ弱さを否めなかった。それとは対照的に、演奏も充実し、力強さにあふれ、説得力をもっていたのはバッファロー・スプリングフィールドのカヴァー、確か<ブルーバード>だったと思う。それを耳にし、狂喜するとともに、安堵を覚えた。その時、僕が必要としていたのは、会社を説得し、納得させるための材料だったからである」[20]と振り返っている。結局、この日のリハーサルを終え、レコーディングが正式決定。以後、毎週水曜日午後3時から7時までスタジオでの練習が義務付けられた。
  • 1月24日、“音楽会”(ポリドール本社 共演:遠藤賢司)。細野 • 大瀧のみ“モーニング・デュー”の名前で出演。そろそろグループ名をヴァレンタイン・ブルーから変えようかと言っていた細野にとって、モーニング・デューもグループの名前の候補のひとつだったという。大瀧はDJも行った。
  • 1月26日、大瀧、<足跡>(松本による<かくれんぼ>の原詞)の曲が完成する(恵比寿・大瀧自宅)。
  • 1月27日、大瀧、<足跡>が<ちっちゃな田舎のコーヒー店>という詞に変更されたことを知って唖然とするが、メロディ・ラインは変わらないということで安堵。大瀧は松本の自宅で松本と友人でマット・ルームのスタッフの田代の前でギターの弾き語りで<ちっちゃな田舎のコーヒー店>を歌うが、歌い終わった後に長い沈黙が流れ、言い知れぬ気まずさを体験した。結局、この詞のタイトルは長いとの理由で最終的に<かくれんぼ>に落ち着く。<かくれんぼ>は、松本が渋谷のロック喫茶『ブラック・ホーク』で書き上げた作品で、店内にたなびく煙草の煙を“曇った空”と表現したことがきっかけで出来た[15]
  • 1月28日、ヴァレンタイン・ブルー、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第2回:15:00-19:00、新宿・御苑スタジオ)。<雨あがり>、<ちっちゃな田舎のコーヒー店>、<はっぴいえんど>、<しんしんしん>、<朝>、<めざめ>、<旅>の練習。松本によればリハーサルは「曲を作った人がアレンジのアウトラインを決めてきて、コード進行を書いた紙をみんなに渡して、それを土台にしてヘッド・アレンジでみんなで決めていった。最初からせーので演奏してた」という。この時録音されたデモ・テープのうち、松本作詞、細野作曲による<めざめ>が「この曲、地味で良くないよ。もっとメロディアスな曲を作らなきゃダメだよ、細野さん」と、小倉に否定された。細野はこの曲をメインにはっぴいえんどを組み立てていたというが、松本によれば「僕は横で見てて、細野さんがすごく傷ついていたのがわかった。一番これがいいと思ってる曲をある種、横から否定されちゃったわけだからすごく怒ってた。あんなに怒ったの見たことないぐらい」という。<めざめ>に対する小倉からの意見は松本にとって、細野メロディーを否定されたことだと思ったという。さらに「余計なこと言うなと思ってた。それで細野さんがすごいショックを受けちゃって、その後、ファースト・アルバムで2、3歩引いたんだよね。<風をあつめて>を作るまで、けっこう引きっぱなしになって、バンド内のバランスで大瀧色が濃くなったんだよね。あの(小倉)エージの一言がなければ、もっと全然違うバンドになってたと思うんだ、はっぴいえんどは」という。対して小倉は「彼らがやりたいことを、やらせてあげるのが最大のいいことであって、だから余計なことだけは、やるまいと思ったから、誰の歌詞とか、曲とかメロディーに関しては、よほどのことがない限り、口を出さない、それが一番いい事だと思ったんですよ。本当に。でも実際に聴いてみると音が悪すぎるとか、なるでしょう。その程度のものなんですよ、僕の立場は。いいとか悪いとかっていうのは、けっこうそのころ僕は僕で、主義主張がはげしかったから」というが、細野は「コピーに比べるとオリジナルがね、その頃はまだ貧困だった。習作の時代だったんだよ。でももっともだと思うんだよ。当時は僕は暗中模索の時代だし。自分では全然頓着してないから、きっと習作だよ、つまりはね。あれが良かったんだよ、あれで。あそこで自信がなくなったのが今に響いてる。僕にはそれが良かったんだよ」と振り返っている。
  • 2月4日、ヴァレンタイン・ブルー、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第3回:15:00-19:00、新宿・御苑スタジオ)。岡林信康、遠藤賢司、URCレコード社長・秦政明が見学に訪れる。この時、大瀧は「練習してた時にサングラスかけた男が秦さんといっしょに入って来て、何か遠くの方で、『これやでえっ、わいの求めてるものはこれやっ』とか何か向こうで言ってて、何言ってんのかな、何だこいつは? みたいなさ、サングラスかけて、何にも言わずドヤドヤ入ってきて、何なんだコイツは? みたいな感じでさ。遠藤賢司は知ってたけど、何か『これやでえっ、何とかやでえっ』とか言って大阪弁がとび交ってて。岡林がバックはどうのとか探し歩いてたと。で、前に『見るまえに跳べ』のレコーディングを途中までやってて、前のバンドに飽き足らなかったところで、だからこのバンドでやるのはええんちゃうかって感じで思ったらしいんだけど。細野さんとかは分かってたかもしれないけど、俺はそのどこの誰だか、岡林って聞かされてもそのオッサンが何やる人なんだか全然、もう何なんだかな、この人はって」と思ったという。岡林はその場でバック・バンドとしての協力を要請、細野は収入の確保とバンドの演奏能力向上を理由にこれを受諾。バック・バンドとしての仕事の内容は岡林のセカンド・アルバム『見るまえに跳べ』のレコーディングと全国30か所のツアーだった。岡林のバックをやることについて後に松本は「大瀧さんはボーカリストだから不満があったかもしれないけど、僕らはあまりなかった。それより、僕は嫌いな詞がいくつかあってね。<自由への長い旅>とか<私たちの望むものは>とかはよかったんだけど、おまわりさんがどうしたこうした…というような歌は、当時は面と向かって口にはしなかったけど、後ろにいてちょっと気恥ずかしかったね。四文字言葉を連発するのもちょっと嫌だった」[16]と答えている。
  • 2月5日、大瀧、<いらいら>が出来る。
  • 2月12日、ヴァレンタイン・ブルー、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第3回:15:00-19:00、新宿・御苑スタジオ)。初録音の<春よ来い>のほか、<12月>、<旅>ともう1曲の計4曲のデモ・テープを録音。大瀧は「4曲のデモ。これがもう、ひどいもんだったなあ。あの頃二度と聴きたくないやつっていうのは、唯一これの時だったからなあ。声は裏返ってるし、本当に始めようとしたハードロック・バンドが必死で燃えてるって感じの、演奏はよかったのかもしれないけど、歌がひどかったあ。何かこう、めいっぱい意図はあふれてるんだけど、体がついてってないみたいな感じでね。最悪だったね、これ」という。
  • 2月20日、ヴァレンタイン・ブルー、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第4回:15:00-19:00、新宿・御苑スタジオ)。
  • 3月5日、ヴァレンタイン・ブルー、“第一回東京ロックンロール・アンサンブル”に出演(六本木・自由劇場、共演:ブルース・クリエイション、遠藤賢司)。ヴァレンタイン・ブルーは遠藤賢司のバックで<夜汽車のブルース>と<雨あがりのビル街>も演奏。
  • 3月6日、遠藤賢司『niyago』レコーディング(麻布・アオイスタジオ)。細野 • 松本 • 鈴木が<夜汽車のブルース>、<雨あがりのビル街>、<君がほしい>(細野(b,p), 鈴木(g), 松本(Ds))に参加、大瀧はレコーディング見学(6日のみ)。遠藤は以前、松本の自宅へ5、6人で遊びに行ったときに勉強部屋にバッファロー・スプリングフィールドのレコードがあり、そこで初めてバッファローを聴き、「これ、いいねえ」とみんなが言ったという。それもあって、このメンバーだったら一緒にできるかなと思って入ってもらった気がするという。遠藤によれば「一緒にやることは俺が決めた。細野氏と知り合いだったし、メンバーとも話が合ったんだ。細野氏のベースが低音にあって、鈴木君の深くて鋭い川の流れのようなギターがあって、松本君のバッタバッタとそこらじゅうをひっぱたくようなドラムがあって、あ、いいなと思ってたんで、やろうよと言うと、むこうもいいねって」[21]という。
  • 3月7日、遠藤賢司『niyago』レコーディング(麻布・アオイスタジオ)。細野による<夜汽車のブルース>のエンディングのピアノがレコーディングされた。見学していた音楽ライター北中正和によれば「リズミックな演奏がローリング・ストーンズのイアン・スチュアートのようだと思った。物静かな人だったが、口を開くたびにスタジオになごやかな笑いの花を咲かせていた」という。
  • 3月8日、遠藤賢司『niyago』レコーディング(麻布・アオイスタジオ)。
  • 3月中旬、ヴァレンタイン・ブルー、バンド名を“はっぴいえんど”に改名。後に細野は「それ以前までの名前を付ける癖っていうのがありまして、スージー・クリームチーズとかドライアイス・センセーションとか、そんな長ったらしいサイケデリックの影響があったわけです。わけのわからない。それだと、どうしても、はっぴいえんどと合わなくなってきちゃったんです。すごい日本的なニュアンスが強くなってきて、松本が日本の文学のルーツの方に入ってったり、まあ漫画を通してですけど。そういう所で、バタくさい物っていうのは、段々合わなくなってきちゃったんですよね。そのバタくささがどうしてもヴァレンタイン・ブルーってのはあるから。<はっぴいえんど>という詞ができたのが最初なのか、或いは、はっぴいえんどという名前をつけたのが最初なのか、ちょっと覚えてないんですよね。でも、はっぴいえんどっていう名前が先だったんだと思うんですけど。あの時は、だから、エイプリル・フールもそうですけど、日本語になってる英語を捜してたんですね」と、日本語にあるような英語をという考え方で、“ハッピーエンド”に決めたと振り返っている。松本も「<はっぴいえんど>という詞を僕が書いて、細野さんが曲を作って、車に乗ってる時に急に『松本、はっぴいえんどの方がいい』ということになってグループ名が決まったんだ」という。
  • 3月12日、はっぴいえんど、レコーディングの予定がキャンセルになる。
  • 3月15日、はっぴいえんど、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第5回:新宿・御苑スタジオ)。
  • 3月16日、はっぴいえんど、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第5回:新宿・御苑スタジオ)。
  • 3月17日、はっぴいえんど、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第5回:新宿・御苑スタジオ)。
  • 3月17日、はっぴいえんど、URCレコードと正式契約(原宿・URCレコード)。大瀧によれば「契約書をもらってるね。シングルが1曲2円、LP1曲1円50銭って書いてある。バンドとしてって、だから、これから4人で割ったんだ」という。
  • 3月18日、<春よ来い>、<12月の雨の日>、<しんしんしん>をレコーディング(23:00-翌3:00、麻布・アオイスタジオ、ミキサー:吉田保)。ランチャーズの音がいいのでああいう風にしたいとの細野の意向で当時、東芝でランチャーズなどを手がけていた吉田の起用が決まった。小倉は、ハウスのエンジニア以外を使うのはこちらとしてはいいと思ったが、上の方としては実際、ギャランティや印税のことがからんでくるので、わからないと言っていたという。外部的な仕事がしたいという吉田の意向もあって最終的には、ためしでいいからやってみようということになったという。ところが、その時のレコーディングがあまりしっくりこなかったため結局、この日のレコーディングはキャンセルされた。細野は「わざわざエンジニアをね、試してみたんです。それは吉田美奈子のお兄さんだったんで。『私のお兄さん東芝でエンジニアやってるのよ』って言うから、紹介してって。で決まったわけですから。それはねえ、どんな音作るか知らないけど、なにしろやってみようという。で、エンジニアが大事だっていう事だけは、大前提だったんで。で、僕達は当時あまり意識してなかったけど、かなり音に関してはうるさいっていうのはある。かなり好みが厳しかった」という。ところが吉田はクラシック担当だったため、ボワーッとした、ロックじゃない音になったという。「音になってないから、練習してきてください」と言った吉田に対し、細野は「そんな筈はない」と反発した。さらに細野は「エンジニアから言わせると、演奏技術が未熟だから。リハーサルしてもう一回来いと、出直して来いと言って席を立って帰った。こっちから言わせると、エンジニアがひどかったと。音にならないと。だからまあ、上手くかみ合わなかったっていうとこですかね。エンジニア替える云々っていうのは、その場で決まっちゃったんだから。覚えてます。いやあな気持ちだったですよ、あの時は」と振り返っている。また、後に小倉も「当初、はっぴいえんどのアルバムは、岡林のバックを務めた作品よりも先に発売される予定だった。それが実現しなかったのは、3月18日、アオイスタジオで行われた最初のレコーディングの成果が、かんばしくなかったからである。演奏もサウンドも、生気に欠けていた。後に彼ら、とりわけ、細野は様々なインタビューで、エンジニアを務めた吉田保氏から演奏の非力を叱責された、といった風にふれている。が、エンジニア・ブースにいた僕を含めたスタッフの間では、演奏がいまひとつ物足りなかったことも事実だが、エンジニアリングに問題があるのでは、という意見も出ていた。その点を最も重要視、指摘したのは他ならぬ僕だったのだが、吉田保氏の起用は彼らの要望によるものだったことから、いかんともしがたく、複雑な思いにかられたものである。さらに、制作としては早川義夫も立会い、彼が一応ヘッドの立場にあったが、もとより彼らの音楽については理解できないともらし、決断を放棄したも同然だったことが、話を複雑なものにしてしまったのである」「その後、すぐさまスタッフで善後策を協議し、結果、すべてをキャンセルして新たに取り組むことにした」[20]と振り返っている。
  • 3月19日、はっぴいえんど、岡林信康『見るまえに跳べ』のレコーディング・リハーサル(17:00-23:00、新宿・御苑スタジオ)。<堕天使ロック>、<ロールオーバー庫之助>、<ラブ・ゼネレーション>を演奏。岡林がなかなかスタジオに現れなかったため、担当ディレクターだった早川義夫は、はっぴいえんどのバッキングで仮オケをレコーディングする。細野は「全くビジネスだなと、割切ったんですね。そこで初めてビジネスの心が生れた」という。また、大瀧は「岡林のレコーディングをするにあたって、どうのこうのって、やっぱり経済的にも苦しいしみたいな事を、全部細野さんが考えてたように思うよ。むこうとしては別にサイド・ギターはいらなかったんだけれども、制作上はっぴいえんども一人だけ抜かすのはアレだからって入れちゃったんじゃないの。そんな気がするけどね。まあ、岡林のギターよりは多少はうまかったっていう、程度なんじゃないのかあ」とし、鈴木も「御苑でやりましたよ。いきなり。大体、細野さんが決めてたみたい。ドラムはこうしてくれとか。で、ドラムとベースが決まると、だいたい、こっちも決まってきて」という。また、岡林について、後に高木照元は「アレンジに関しては、結構、はっぴいえんどの言うことを聞いてましたね。正直いって、そういう音楽的な部分では、岡林は、はっぴいえんどにかなわないと思ってた、と思うんですよ」と答えている。
  • 3月21日、はっぴいえんど、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第6回:新宿・御苑スタジオ)。
  • 3月22日、はっぴいえんど、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第6回:新宿・御苑スタジオ)。
  • 3月23日、はっぴいえんど、岡林信康<堕天使ロック>、<ロールオーバー庫之助>、<ラブ・ゼネレーション>のレコーディング(10:00-16:00、麻布・アオイスタジオ)。
  • 3月下旬、細野、小倉栄司とレコーディングの善後策を協議(原宿・URCレコード)。細野がグループを代表して事務所を訪れ、小倉と協議した。小倉によれば「僕と協議した結果、レコーディングはアオイスタジオのハウス・エンジニアを了承してもらう替わりに、ディレクターをひとりに絞って欲しいという彼らの要望から、僕が制作の担当にあたることになった。以来、彼らの要望を満たすべくミキシングについて事前に協議するためにアオイスタジオにも足を運んだ」[20]という。そのほか観客席をできるだけ少なくしてほしいとったことも、メンバーからの要望としてあったという。
  • 3月27日、新宿こだま。雑誌『Guts』主催のイベントに出演。
  • 4月1日、細野、小倉栄司 • 四家秀次郎 • 島雄一とレコーディングの打ち合わせ(15:00-、麻布・アオイスタジオ)。四家はアオイスタジオのハウス・エンジニア。細野は「四家さんていうおじさん。何でも言うことを聞いてくれるエンジニアは、まあかえって良かったのかな。何かを聴かせたかも知れない。或いは、出し惜しみして聴かせなかったのかも知れない。当然、バッファロー・スプリングフィールドは聴かせたと思うけど。でも、そこにはね、あの、ポップスの伝統的なね、リミッターのかかったね、ああいうサウンド固めをやったんですよ。で、それはバッファローが特別なわけじゃ無くて要するにレコードっていうのは、そういう音だと思っていたわけです。ただ、バンドとしてのサウンドってのは、よりバッファローに近いものを想定してましたけど」という。また、大瀧は「バッファローとかモビー・グレープを聴いて、当時やっぱりステレオ録音でドラムが右にあったりとか、ベースが左にあったりとか、いろいろ、曲によって、みんな違った配置をしてたでしょ。で、細野さん考えて、俺達の場合、曲によってこうやってドラムをこっちに置いたりとか、そういう事とかいろんな事やろうみたいな事を考えて、それを四家さんに話をしに行ったの。レコードは『ラスト・タイム・アラウンド』とニール・ヤングの<ローナー>が入ってるアルバムとクロスビー、スティルス&ナッシュ、それくらい持ってったかな。こういう音にしてくれって言って。で、まあ『ちょっとできるかどうかわからないけれどもやってみる』みたいな話で」という。また、小倉は「重箱のスミつつくみたいにね、レコードみんな聞いてた人達でしょ。基本的に録音の音質にうるさかったんですよね。自分達がそういうふうに理想的にやれないっていうことをエイプリル・フールで懲りてるから。まずレコードを聴いてみて、音を理解してっていうか、これに近い音あれに近い音って。ミュージシャンとしては、いやだろうけど、こっちはもう時間がかかるのはイヤだし、てっとり早くする方法はないかと、エンジニアとしても勉強したいんだけど、そういうレコード知らないし、ましてや輸入盤とかそういうのが多かったのでともかく持ってって、ミックス・ダウンの前じゃなくてレコーディングが始まる前に聴いてもらって」と答えている。また、四家のアシスタント・エンジニアだった島は「僕はその頃は、完全なアシスタントだったんです。アオイスタジオのエンジニアは四家さんで、四家さんと僕の2人だけです。こういう音にしたい、ということで試聴室を用意しまして、こういう音を録るには、どういう風にしようか、とか、そういうシチェーションを話しまして。僕は、一番最初は、音はこういう風にしましょう、その為にマイクはこういう風にしましょう、ということで参加していたんです」と答えている。
  • 4月2日、はっぴいえんど、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第7回:新宿・御苑スタジオ)。
  • 4月3日、はっぴいえんど、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第7回:新宿・御苑スタジオ)。
  • 4月4日、はっぴいえんど、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第7回:新宿・御苑スタジオ)。
  • 4月6日、はっぴいえんど、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第8回:新宿・御苑スタジオ)。イベント集団“マットルーム”による練習風景の8ミリ撮影が行われる。
  • 4月7日、はっぴいえんど、ファースト・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(第8回:新宿・御苑スタジオ)。
  • 4月8日、“音楽舎春場所第5回メッセージ・コンサート”(共立講堂)。岡林信康のバッキング。
  • 4月9日、アルバム『はっぴいえんど』<12月の雨の日>、<春よ来い>、<かくれんぼ>レコーディング(19:00-24:00、麻布・アオイスタジオ)[22]。エンジニアは、チーフだった四家秀次郎がサポートに入る形で若い島雄一がメインで務めることになり、当初は3日間の予定だった。小倉エージによれば、「音の資料となるレコードを山積みにし、スネア、タム、キックなど、ひとつひとつの音をレコードに照らし合わせていった。音決めだけでもかなりの時間を要した。エンジニアは、チーフだった四家秀次郎氏がサポートに入る形で若い島雄一氏がメインで務める、ということになった」「ダビングの多いレコーディングでもあった。4トラックのレコーダーでは到底間に合わず、2トラックを併用し、4トラックでベーシック・トラックをとってのち、ダビングをしながら2トラックにおとし、さらに、ダビングをしながら、4トラックの2トラックにいれ、残る2トラックにダビングし、さらにダビングをしながら、ファイナルの2トラックにミックス・ダウン、という方法でレコーディングされていた。山積みにしたレコードを録音のお手本としながらも、最後の音の整いに関して、一番の拠り所となったのは、やはりビートルズだった」[20]という。また、「僕は僕で、監視役ですね、とりあえず。つまり、会社じゃなくて、エンジニアの人が、レコードに忠実な音に作ってくれるかどうか。連中としては不安なわけでしょ、同じ様な音になるかどうか、演奏もそうだけれど、それと同じになっているかどうか。最初アシスタントに島さんがついたかな、順番にどんどん替っていく様な。四家さんとしては、島さんにそういう新しい仕事としてまあバンドの仕事だしやらせたかったということもあるんで、それで2人のコンビでね。全部足すと16トラックとか12トラックとかいう形でほとんどの曲をやったんです。いくつ楽器を入れたいっていうコンセプトがすでに連中にはありましたからね。僕はたぶん現場で相談してたと思うんですよね。それで、島さんと四家さんとで2チャンネルでは絶対に無理だから、チャンネル使ってどういう風にすればいいかっていう」とも話している。また、大瀧は「島さんが実質、卓に付いて録ってくれたわけですよね。後にワーナーに行ってミキサーになる人なんだけど、あのワイルドワンズの島英二のお兄さん。四家さんて名物ミキサーだから、自分の卓に、昔のミキサーの人ってさわらせないからね、アシスタントで横にいるわけだけど、やっぱりさわらせた事なかったらしいんだけれども、でも『ちょっとこれ、島君もやってみろよ』みたいな事で、録音してた時やプレイバックの時に、四家さんが、『これからは、島君の時代だなあ』って言ってたから、それはよく覚えてるなあ。四家さんがチーフでミキサーだけど、実質的には島さんがね。僕らが島さんのミキサー第一号だったんじゃないのかね」と振り返っている。そして、細野は「まだ当時はね、バンドサウンドから抜けてないんですよね。メンバー分の音しか考えてないんです。ドラム、ベース、エレキギター、ヴォーカルって、その位がけっこう、満足できれば良いわけですからあまりダビングとか考えてなかったです。精一杯だったんですね。色々な意味で余裕が無くて、時間も無いしね。あと、基本的な音がね、スタジオで作る、コンソールを通して出てくる音が、基本的な所で何か決定的に、どうしても違うからね。それ以上重ねていく事は出来ないっていう、基本が無いっていう。そういうあやふやな所で、ボーッとやってたような感じがするね」と答えている。 レコーディングについて、鈴木によれば「同録です。ついたてを立てて、4人一緒に演奏したと思う。大瀧さんもサイド・ギターを弾きながら仮歌をうたっていた。ダビングは僕がソロを入れるか、細野さんが生ピアノかオルガンを入れる程度」[18]だったという。一方、島雄一は「合議的な感じですね。あんまり強引にはめ込まないで、みんなで、ああしよう、こうしようっていう感じだった。サウンド・コンセプトはもう、ほぼ固まってました。ですから、音だけで、演奏的なものは、もうみなさんほとんど頭の中に入ってまして、むしろこっちの方が追いまくられる感じでしたね。自分がドラムをやっていたのでね、今の録音の方法だと、ドラムの音がドラムじゃない、なんて、あの頃息まいてまして、いわゆるスタジオで、スネアとかタムとかにマイクを立てたのは、僕は初めてだったんじゃないかと思うんですね。僕も非常に燃えてましたね、小倉さんもすごく熱心だったし、逆に当時それだけ音作りをさせてくれる、そんなに時間をくれるプログラムってなかったんですよ」と振り返っている。
  • 4月10日、アルバム『はっぴいえんど』<飛べない空>、<かくれんぼ>、<はっぴいえんど>、<あやか市の動物園>、<しんしんしん>、<春よ来い>、<12月の雨の日>レコーディング(19:00-翌5:00、麻布・アオイスタジオ)。
  • 4月11日、アルバム『はっぴいえんど』<あやか市の動物園>、<いらいら>、<手紙>、<飛べない空>、<かくれんぼ>、<しんしんしん>レコーディング(19:00-翌12:00、麻布・アオイスタジオ)。
  • 4月12日、“ロック叛乱祭”(16:30-20:00、文京公会堂 共演:休みの国、遠藤賢司、五つの赤い風船、中川五郎、愚、斉藤哲夫、若林純夫 司会:越智友嗣)。“はっぴいえんど”に改名後初のライブ。<12月の雨の日>、<春よ来い>、<かくれんぼ>を演奏。鈴木によれば「越智さんが大瀧さんの方へ行って、大瀧さんがいつものこんな感じでいるから、これはもう話してくれないなと思ったらしくて、僕の方へ来て、『名前が変わったそうで』『ええ、はっぴいえんどです』『どういう理由で?』『あんまり深く訊かないで下さい』ってな事を言ったかも知れない」という。この日、マットルームが8ミリで撮影。
  • 4月13日、アルバム『はっぴいえんど』<かくれんぼ>、<続はっぴーいいえーんど>レコーディング(0:00-7:00、麻布・アオイスタジオ)。大瀧によれば「まず、全部できてなかったから<敵>とか<朝>とか入れるとこ全部、カウベル入れたりとか、そういったダビングを朝まで、7時までかかったの。寝ずにやったの。それでレコーディングが終わって、“やったあ!”っていう気分になって外に出た時に、茂が『やあ、すがやかな天気だなあ』って言ったんだよ。爽やかと清々しいとを足しちゃったんだよね。でも“すがやか”っていう一語に尽きたね、全員が。で、ものすごくいい天気だったんだよ」という。その後、プロモーション・フィルムの撮影(7:00-16:00、新宿西口~瀬田・ゴミ処理場~横浜・外国人墓地)。大瀧によれば「新宿の西口の、あの貯水場の跡、まだ高層ビル建ってないの、あの処を走ったりとか、その後車に乗って横浜行って、外人墓地のあたり行って、撮影したのね。車に乗ってた時にエージも乗ってたし、みんな乗ってたけど、寝てないわけだよね、でも、ずっと興奮状態で、みんな興奮を隠せない。何か俺達はすごいことをやったんじゃないだろうか、みたいな、みんな喜んでね」という。また、鈴木も「メンバーもかなり体力的に盛り上がってる時期だったし、だから瀬田を本当に走り回ってたんだけど、平気であの頃。面白かったと思いますよ。コンクリートだけの骨組み、団地の骨組みみたいな所でフッと出てきたり、いなくなったりとか。割と『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』とかね、そういう感じで作ってたんです」という。
  • 4月18日、はっぴいえんど、岡林信康バッキングのリハーサル(新宿・御苑スタジオ)。あがた森魚と鈴木慶一が見学に訪れる[注 5]。鈴木慶一によれば「あがたに連れられて御苑スタジオ行ったわけ。あがたが早川さんに会うために。したら岡林信康のリハーサルにはっぴいえんどが来てて、岡林はいなくて早川さんがヴォーカルやってた」「早川さんが仮歌を歌っていたんだな。はっぴいえんどの前身、ヴァレンタイン・ブルーはテープで聴いたことがあった。しかし、そこにいるはっぴいえんどというバンドが、リハーサルの合間に日本語のロックを目の前でやってるのを見たとき、本当にびっくりしたんだ。僕もそのころ、日本語をロックのリズムに乗せるのに努力してたから、驚いた」という。この時、細野と知り合った鈴木慶一はあがたの自主制作盤『畜音盤』のレコーディング参加を細野に要請。細野もはっぴいえんどのステージでの演奏力強化のため鈴木に協力を依頼、以後、鈴木は、白金の細野の自宅をたびたび訪れるようになる。
  • 4月19日、パーティーでの演奏(六本木・THE SPEED)。マットルーム制作のプロモーション・フィルム『ラヴ・フェスティバル・ラヴ』が上映される。ロアビル向かい側のビル最上階にあったというディスコ『THE SPEED』について、野上によれば「1970年1月頃、経営者の川添光郎からマネージしてみないかと誘われ、小坂忠と僕とほか2名の計4名で運営を任されることになる。エイプリル・フール解散後、小坂はミュージカル『HAIR』日本版のオーディションに通り、はっぴいえんどには参加しなかった。しかし彼自身は無傷だったが『HAIR』がマリファナ騒動で突然終わったため、ソロでやるべく準備中であった。僕も3月で立教大学を卒業予定だったが、カメラマン志望以外、当面何も決まっていなかったのでやることにした」「4月19日には、レコーディングを終えたばかりのはっぴいえんどに出演してもらった。そしてマットルーム製作の、今となっては幻のはっぴいえんど8ミリ映画も上映した。僕の記憶では、ビートルズの映画のようにメンバーがただ駆け回ったりする結構アマチュアぽいものなので、幻のままでいいと思う」[3]というが、「落ち目になった『THE SPEED』の経営を引き受けた僕らだったが、やっぱり素人には何とも出来ず3か月であえなく閉店。盛大なクロージング・パーティで締めくくった」[23]という。
  • 4月20日、はっぴいえんど、岡林信康バッキングのリハーサル(15:00-18:00、新宿・御苑スタジオ)。
  • 4月21日、はっぴいえんど参加による岡林信康のアルバム『見る前に跳べ』レコーディング終了。
  • 4月24日、“岡林信康壮行会”(渋谷公会堂)。岡林信康のバッキング。当初、このコンサートは“サトウキビを刈りにいこう”というキャッチ・フレーズのもと“岡林信康キューバ行き壮行会”というタイトルで行われる予定だったが、コンサート直前になって渡航許可が下りずキューバ行きが白紙になりコンサートだけが行われる結果となった。
  • 4月25日、岡林信康『見るまえに跳べ』とはっぴいえんど『はっぴいえんど』の編集(麻布・アオイスタジオ)。
  • 4~5月、細野、『はっぴいえんど』のマスターテープから「手紙」をカットする[注 6]
  • 5月11日、渋谷ジァン・ジァン。松本が詩を朗読。大瀧によれば「レパートリーが少ないからすぐ終わっちゃって、何かやんなきゃってことになって、詩の朗読やることになったんだよね。そのとき、茂がギターの教則本で昨日覚えてきたばかりみたいな曲を、何度もひっかかりながら弾いてね」という。
  • 5月16日、“MAYカーニバル”(渋谷西武百貨店屋上 共演:加藤和彦、小野和子、三上寛、若林美宏)。<ブルーバード>、<かくれんぼ>、<12月の雨の日>、<ローナー>、<あやか市の動物園>を演奏[24]
  • 5月17日、“MAYカーニバル”(渋谷西武百貨店屋上)。細野 • 大瀧のみ“モーニングデュー”の名前で出演。
  • 6月5日、はっぴいえんど、メンバー全員で映画『ウッドストック』の試写を観る(東商ホール)。
  • 6月6日、はっぴいえんど、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 6月7日、“TBSラジオ公開録音”(有楽町ビデオホール)。松本隆 & 松本裕のツイン・ドラムス、中田がコーラスで参加。<シナモンガール>、<クエスチョンズ>、<ローナー>、<かくれんぼ>を演奏。
  • 6月9日、細野、メンバー全員を自宅に集め、岡林信康『見るまえに跳べ』試聴会を行う(白金・細野自宅)。
  • 7月2日、細野、あがた森魚『蓄音盤』レコーディング(新宿・御苑スタジオ)。
  • 7月8日、はっぴいえんど、ミーティング。席上、松本が急に「英語じゃだめだ」と言い出す。松本によれば「“場”とか、そういう言葉がはやった時期なんです。“自分の生きてる場”とか。“存在”とかさ。ちょっと実存風なんだけど。なんか、“場”っていうのを覚えてるな。そういうことを言い出したんですよね、僕が。アメリカを追いかけているんだけど、でもここは日本なんだから“場”が違うんだ、みたいなことでね、理屈こねだしたんですよ。で、結局ね、口で言い負かしたんだと思う、たしか。細野さんがすっごい頑強でね。だから、まずあの人から切りくずしていったのね。とりあえず、いろんな反論があったよ。『俺たちはインターナショナルになるんだから英語でなきゃダメだ』とか。最初からデカい話があってね。でも、日本で何でもないのに、どうやってインターナショナルになれるんだって気持が僕には強くて。ちょうど、つげ義春とか永嶋慎二とか流行ってる頃で、しきりに漫画っていうのがすごい先端を行ってるような気がしてたのね。音楽がすごく遅れてるんだってイメージがあって。いまだにコピーばっかりしてるじゃないか、と。英語でやってる限り、人のマネするしかないじゃないか、みたいなことからね。だから、僕が考えていたのは、とりあえず漫画という表現手段を通じてやってるぐらいのことを、ロックを使ってできないかなってこと。それがひとつの基本テーマだった」[25]と思っていたという。対して大瀧は「俺は『日本語なんかロックに乗るわけがない』って反対してたんだけど。とにかく松本が日本語だ、それじゃなきゃダメだって力説するからさ。ほとんど駄々をこねるに等しい感じだよね。細野さんも最初は俺と一緒に反対してたのに、あの人調和型だから早めに折れるんだよ。で、俺が残っちゃってさ。残ったらもう意地を張るしかないもんな」と言うが、最終的には松本が全員を説得し、今後、ステージでもカヴァー曲を演奏せず、オリジナル曲のみとすることをグループの総意として決定した。
  • 7月14日、はっぴいえんど、岡林信康バッキングのリハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 7月15日、はっぴいえんど、岡林信康バッキングのリハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 7月21日、初のワンマン・ライブ(渋谷ヘアー)。
  • 7月28日、大瀧、誕生日。この日よりアーティスト名を“栄一”から“詠一”に改称。
  • 8月3日、雑誌『新宿プレイマップ』主宰の“ニューロック座談会”が行われる(出席者:内田裕也、鈴木ひろみつ、ミッキー・カーティス、大瀧詠一、中山久民 司会:相倉久人)。席上、日本語のロックを標榜する大瀧は、ロックは英語でなければビートに乗らないと主張する内田裕也らからの執拗な批判や攻撃を受けた。この論争により、理論武装の必要性を強く感じたはっぴいえんどは、松本の年来の友人だった石浦信三をバンドのブレーンとして正式に迎え入れる。これにより、バンドの理論武装を石浦が担当することで、メンバーは音楽のみに集中できるようになった。
  • 8月5日、アルバム『はっぴいえんど』発売。大瀧は「4日で全部録っちゃったけど、ロックっていうベースの弾き方も、ドラムの叩き方も、ギターの弾き方も、歌い方もあるという、そういう所からスタートしたグループだよ、はっぴいえんどっていうのはね」「これでもう十分に日本の音楽界に足跡を残すことができたんだって本当に力強く思ったよ。当時松本の彼女がレコード屋さんの店員をしていたんだけど、その彼女が『はっぴいえんどは日本のビートルズよ』って言ってたのを覚えているけど、あの当時は本当にそういう意識でやっていたことは事実だね」[26]という。文化放送“OH!フリー”出演。岡林信康のバッキング、<12月の雨の日>を演奏。
  • 8月8日、“第2回全日本フォーク・ジャンボリー”(~9日、岐阜椛の湖畔、共演:岡林信康、五つの赤い風船、高田渡、岩井宏、遠藤賢司、早川義夫、斉藤哲夫、六文銭、加川良、赤い鳥、浅川マキ、金延幸子、なぎらけんいち、他)。<春よ来い>、<12月の雨の日>、<あやか市の動物園>、<いらいら>、<朝>、<しんしんしん>、<雨あがりのビル街>、<かくれんぼ>を演奏。
  • 8月27日、大瀧、“10円コンサート”で偶然出会った松本から、<はいからはくち>の歌詞を書いたメモを渡される(日比谷野外音楽堂)。大瀧によれば「僕が日比谷の野音にコンサート見に行ってたら、松本が後ろから肩をトントンと叩いて『今度こういうの出来たから曲つけて』って、さっと立ち去ったね。またカッコつけてね。それが<はいから~>だった。すぐ出来てステージでやり始めた」[26]という。
  • 9月1日、はっぴいえんど、リハーサル(~3日、渋谷・ヘアー)。細野の誘いで鈴木慶一が参加。鈴木慶一は「フレーズとかを口伝えで、茂のフレーズを僕がやったり、とか。5人で練習しました。僕はパートでいうと、セカンド・ギターですね。楽器は、セミアコのエレキです」という。また、この頃すでに石浦信三もはっぴいえんどに関わっていたが、石浦を見た鈴木は最初、リードギターの人かな、と思ったという。
  • 9月5日、はっぴいえんど、リハーサル(渋谷・ヘアー)。鈴木慶一も参加。
  • 9月16日、“第1回日本語のろっくとふぉーくのコンサート”(日比谷野外音楽堂 共演:岡林信康、遠藤賢司、頭脳警察、他)。<12月の雨の日>、<いらいら>、<敵 -タナトスを想起せよ!->ほかを演奏。サイド・ギター&コーラスで鈴木慶一が参加。鈴木はこれを機に、はっぴいえんどに入れるものだと思っていたが結局、細野は別に連絡しなかったという。また、この日のライブでは<12月の雨の日>で鈴木が付けたコーラスを、「なんか、変なゆがんだ日本語で歌っている」と思った大瀧が「そんな気持ち悪い歌い方、よせよ」と言ったところ、鈴木から「だって、あんたがそういう風に歌ってるよ」と言い返されたという。後に鈴木は「大瀧さんがゆがんでいるから。そうそう、僕は大瀧さんの歌い方にそろえようとして」と答えている。この日、高熱を押してステージに上がった大瀧は翌日、地下鉄で倒れた。
  • 9月19日、ニッポン放送“ビバ・ロック オールナイトニッポン”公開録音(ニッポン放送)。
  • 10月3日、岡林信康のバッキング(千代田公会堂)。
  • 10月9日、“岡林信康ろっくコンサート”(日比谷野外音楽堂)。岡林信康のバッキング、単独でも<かくれんぼ>、<12月の雨の日>を演奏。
  • 10月11日、文化放送生出演(渋谷東急デパート)。
  • 10月12日、文化放送“フォーク・タウン”公開録音(神田共立講堂)。
  • 10月18日、はっぴいえんど、“サン・ラザール”出演。
  • 10月19日、“岡林信康ろっくコンサート”(大阪・フェスティバルホール)。
  • 10月20日、“同志社大学学園祭”(京都新聞会館)。
  • 10月23日、“岡林信康ろっくコンサート”(名古屋市公会堂)。
  • 10月25日、CBCラジオ“オー・サンデー”生出演(CBCラジオ)。
  • 10月28日、虎ノ門ホール。
  • 11月1日、学習院女子短大学主催ライブ(千代田公会堂)。
  • 11月3日、ニッポン放送“パンチ・パンチ・パンチ”公開録音(鈴鹿サーキット)。
  • 11月4日、尾道女子短期大学主催ライブ(尾道公会堂)。
  • 11月5日、大阪府立大学学園祭。
  • 11月7日、愛知学院大学学園祭。
  • 11月9日、大阪商科大学主催ライブ(大阪市民公会堂)。
  • 11月10日、演劇センター六八移動劇場『翼を燃やす天使たちの舞踏』公演に併せたフリー・コンサート(大阪城前・大阪演芸センター黒テント)。岡林信康のバッキング。
  • 11月12日、岡林信康<家は出たけれど>レコーディング。併せてはっぴいえんどの新曲<はいからはくち>のバック・トラックのレコーディングも行う(麻布・アオイスタジオ)。<はいから~>のレコーディングについて、大瀧によれば「最初からキングでシングルを出すということでこうなったんだ。この11月頃にアート音楽出版で三浦光紀と会ってるんだよね、うろうろしてたんだよ。はっぴいえんどをキングでということで、頑張ってたんじゃないの。じゃ、まずはシングルからみたいなさあ、そういうことだと思うよ」という。そして、キングレコードのディレクター三浦光紀は「ヨっちゃん(早川義夫)か岩井さんか忘れたけど、最初頼まれたんですよ、僕が。はっぴいえんどをやってくれるレコード会社を探してくれって言われたんですよ。それで、URCでは本人達やりたくないって言ってたらしいのね。それで、僕がいたんだけど。持ってったんだけど、ダメだったんですよ。で、どこの会社がどう言ったかよく覚えてなかったんだけど、だいたい言ってんのがね、顔が悪い。それと、無愛想だ、詞が難かしい。いろんなとこへ持ってって断られて、もう自分でやろうと思ったんだ、その時。それで、シングルを先にやったんだ、多分」と言い、また岩井宏は「URCのやり方としては、シングル盤はURCの組織だとあまり売れないから、URCとしてはLPを売る為に、メジャーの会社のシングルで売り込みをやろうとしてたんだね」という。
  • 11月16日、小田原反戦市民の会(小田原市民会館)。
  • 11月18日、OBC主催ライブ(京都シルクホール 共演:高田渡、岩井宏、加川良、中川五郎)
  • 11月19日、東京薬科大学主催ライブ(豊島公会堂)。
  • 11月20日、早稲田企画構成委員会主催ライブ(杉野講堂)。
  • 11月21日、はっぴいえんど、文化放送“フォーク '70”出演。
  • 11月28日、はっぴいえんど、同志社大学学園祭に出演(出演:高田渡 他)。高田から、レコーディングへの協力を依頼される。
  • 12月1日、“岡林信康コンサート”(神田共立講堂 共演:岡林信康、高田渡、加川良)。岡林信康のバッキング。単独でも<かくれんぼ>、<はいからはくち>を演奏。
  • 12月3日、<はいからはくち>、<12月の雨の日>レコーディング(麻布・アオイスタジオ)。<12月~>のレコーディングについて鈴木は「ゆでめんのLPの中でシングル候補っていう風に考えると、やっぱあの曲になるんじゃないかな。これはみんな一致してた。メロディ・ラインも綺麗だし、歌も上手く歌っているし、そういった意味では、細野さんにしても僕にしても、大瀧さん程上手いヴォーカリストでないっていうのはちゃんと解っていると思うし」という。しかし、全てレコーディングしたものの、テンポが遅すぎて今一つだという事で未発表[注 6]。<はいから~>はベスト・アルバム『CITY』に収録。また、このレコーディングではシングル用として吉田保がミックスで参加したが、大瀧によれば「保さんが、クラッシックじゃなくて、この頃ロックも聴き始めたから、保さんがもう1回使ってくれっていう話があったんだよ。それで2度目にまた、ここで録ったんだよ。録ったんだけども、やっぱり気に入られなかったんだよ、細野さんにも茂にも。またダメっていう事になって。違う音になるんだよ、それでだからバツ印つけたんだね。保さんが言ったの思い出した。『いやあ、茂ちゃんにねえ、違うんだよなって言われて僕はどうしたらいいのか全然わからなかった』って」という。
  • 12月5日、<はいからはくち>レコーディング(麻布・アオイスタジオ)。
  • 12月9日、岡林信康<自由への長い旅>レコーディング(麻布・アオイスタジオ)。CM“MG5”用。
  • 12月12日、法政大学主催ライブ(小金井市民会館)。
  • 12月13日、“はしだのりひことクライマックス結成コンサート”(神田共立講堂 出演:はしだのりひことクライマックス ゲスト:岡林信康、吉田拓郎、五つの赤い風船、ソルティー・シュガー、他)。はっぴいえんどはゲストで出演。
  • 12月15日、演劇センター六八移動劇場『翼を燃やす天使たちの舞踏』公演に併せたフリー・コンサート(水道橋・黒テント)。岡林信康のバッキング。
  • 12月18日、NHKラジオ公開録音(NHK内スタジオ)。<春よ来い>、<かくれんぼ>を演奏。
  • 12月19日、早稲田東門会(横須賀市民会館)。
  • 12月20日、渋谷公会堂。
  • 12月21日、“はしだのりひことクライマックス結成コンサート”(京都勤労会館)。はっぴいえんどはゲストで出演。
  • 12月22日、“ニュー・ロック&ニュー・フォーク 魂にふれるコンサート”(池袋・立教大学タッカーホール 出演:遠藤賢司、頭脳警察、ブルース・クリエイション)。
  • 12月23日、“ロック・カーニバル#1”ジョン・メイオール東京公演(有楽町・日劇 出演:ジョン・メイオール・トリオ、岡林信康、ザ・モップス、ブラインド・バード、ソウルフル・プラッツ、イコナックス)。“ロック・カーニバル#1”は12月19日から25日まで、一週間にわたって開催されたコンサート。オープニング・アクトで岡林信康のバッキング。
  • 12月24日、“ロック・カーニバル#1”ジョン・メイオール東京公演(有楽町・日劇 出演:ジョン・メイオール・トリオ、ザ・ゴールデン・カップス、ザ・エム、ミッキーカーティスとSAMURAI、カルメン・マキ)。オープニング・アクトで岡林信康のバッキング。
  • 12月26日、“遠藤賢司リサイタル -遠藤賢司その世界-”(お茶の水・日仏会館)。昼の部と夜の部の二部構成のコンサート。二部ともバッキングで細野 • 鈴木のみ出演。<満足できるかな>、<待ちすぎた僕はとても疲れてしまった>、<雨あがりのビル街>を演奏。
  • 12月27日、福島文化センター。
  • 12月28日、青森市民会館。
  • 12月29日、岡林信康との全国ツアーが終了、一同帰京。細野は「きつさはありましたね。ハコで入るっていう経験とは、又ちょっと違うけど、まあ同じようなつらさですけどもね。自分で楽器持ってね、ドラムセットまで持ってくっていうんだから、これは過酷ですよ」という一方、「演奏能力が慣れてきたっていう事と、コンビネーションが出来てきたこと。それから、そのツアーのおかげで、ファンが出てきたんです。それは、結構大きなことです。期待される様になってきて、面白かったです」という。大瀧は「旅ばっかりだったねえ。とてもじゃないけどね、音楽のことなんか考えてるひまなかったよ。移動と、ステージとリハのみ」と言い、鈴木は「まず人間臭いっていうかな、終わってから飲んでいろんな話したりとか、そういった経験って余りなかったしね。はっぴいえんどのメンバー自体も余り飲まないし、そういった意味では、仲はいいんだけど礼儀正しい部分てかなりあるんですよ。どこまで行ってもよそ行きの部分ていうのを持ってるような。ただ、岡林さんの場合はもっとフランクな人だから。そういったところで、音楽っていうひとつの職業と、そういったものをやりこなしている人間の良い面・悪い面両方だけど、いろんな経験したかなあ。それは、岡林さんとやり始めた頃に一番、そういった意味で強かったかも知れないですね。初めてストリップ劇場行ったりとか。いわゆるそういった音楽とのいろんな事、初めてそこで経験してるもんねえ」と振り返っている。また、松本は「あの期間はね、インパクトあったから、みんなすごく長かったような気がしてるんだけれど、意外と短いんだよね。ワンツアーだけだから」という。そして、青森から東京に帰る列車の食堂車の中で<抱きしめたい>の歌詞を書き上げた。

1971年[編集]

  • 1月6日、“音楽舎初場所 -はしだのりひことクライマックス結成コンサート-”(大阪・フェスティバルホール 出演:はしだのりひことクライマックス、岡林信康 & はっぴいえんど、五つの赤い風船、遠藤賢司、アテンション・プリーズ、高田渡、加川良、岩井宏、斉藤哲夫、マヨネーズ)。音楽舎主催イベント。
  • 1月14日、はっぴいえんど、高田渡バッキングのリハーサル。
  • 1月15日、フジテレビ『ナイトショー』出演(フジテレビ内スタジオ)[注 7]。<春よ来い>を演奏、テレビ初出演。
  • 1月16日、高田渡<失業手当>、<自転車に乗って>レコーディング(音羽・キングスタジオ)。
  • 1月17日、代々木区民会館。
  • 1月21日、“岡林信康+浅川マキ+黒田征太郎+αジョイント・コンサート”(新宿厚生年金会館)。岡林信康のバッキング。はっぴいえんどとしては岡林との最後のライブ。大瀧によれば「<はいからはくち>とか、<抱きしめたい>とか出来てたんですよね、70年の暮れに。71年には、そういう曲を中心に、アルバムに向かおうってことは、暗黙の内にもう出来てたんでしょう。だからそれには、岡林のレコーディングはもうやめないと、レコーディングなんてできないと。というようなこともあって。年末には、もうそろそろやめるって話になってたんでしょ。じゃあ残ってた仕事だけをやってやめようって言うことで、どこかキリのいいとこってことで、この厚生年金大ホールで、浅川マキが1曲歌ったら岡林が歌うみたいな、両方バンドが出て。最後はたしか<自由への長い旅>だったんですよ。で、最後に岡林が僕の顔ってわけでもないけど、みんなを振り返って見て、『これで最後やでエーッ』て言ったんですよ。岡林さんは未練があったんじゃないですか、かなり」という。
  • 1月23日、はっぴいえんど、三浦光紀らキングレコードのスタッフとシングル・レコーディング及び販売権の打ち合せ(音羽・キングレコード)。大瀧によれば「キングから正式に出るみたいなことをちょうどここからピンに、単独になったっていうことで、売り出そうということで、この辺のシングルを出していこうみたいなメジャーなキングからっていうことじゃないかな。まあ、みんながそうだったかもしれないけど俺もそうだったんだけども、具体的にどういうことが行われて具体的にどうなって具体的な意図がどうなっていたかという、はっきりした把握はないんだよね」という。また、鈴木も「やっぱり、売れたいっていうのがあったんだろうね。先ずURCで作り終わって、それで高田渡だとか、ああいう連中と仲良くなって、確か連中が最初に、もうベルウッドに行ってたんですよ。その関係で僕達は、こっちに来ないかって言われてて、で、URCが何かいまいちマイナーなんで、向こうのほうがいいんじゃないかって」振り返っている。また、三浦光紀は「結局ね、はっぴいえんどってのはね、メジャーでやりたかったんですよね。特に大瀧君なんかはヒットしたい。あの頃からポップス研究してたから、そういう意識があったから。で、シングル出すんだったらメジャーから出したい、という事じゃなかったかと思うんだけど」という。
  • 1月31日、“聖ロックコンサート”(新宿厚生年金会館小ホール)。
  • 2月2日、小倉エージ、三浦光紀、石浦信三の3者間で販売戦略ミーティング(キング・レコード)
  • 2月3日、はっぴいえんど、<12月の雨の日>、<はいからはくち>レコーディング(17:00-25:00、音羽・キングスタジオ、ミキサー:山崎聖次)。山崎はキングスタジオのハウス・ミキサー。<12月の雨の日>について、大瀧によれば「シングルになったやつですね。この時のミキサーは山崎さんって人。この時8chだったと思う。それでやたら生ギター重ねたの覚えてる。エージが来て、『もっと重ねようよ、もっと重ねようよ』なんて煽られたのは覚えている」という。また、後に小倉は「<12月の雨の日>の再収録時には、制作を主導する大瀧がいた。同曲収録時でのジョージ・ハリスンの<マイ・スウィート・ロード>との出会いがフィル・スペクターの存在、自身の音楽的背景への再認識や追求の発端となり、自身のソロ活動に反映される。再収録作の<12月の雨の日>こそは大滝詠一としての旅立ちの始まりだった」[27]
  • 2月15日、はっぴいえんど、高田渡バッキングのリハーサル。岩井宏、加川良、中川五郎が見学。
  • 2月16日、高田渡<しらみの旅>、<銭がなけりゃ>レコーディング(音羽・キングスタジオ)。
  • 2月18日、予定されていたはっぴいえんどのレコーディングが、松本隆の欠席により延期になる。
  • 2月28日、はっぴいえんど、<はいからはくち>レコーディング(音羽・キングスタジオ)。
  • 3月、細野、私立立教大学社会学部産業関係学科を卒業。後に細野は「卒業までに5年かかってるの。べつに5年目になって勉強したわけじゃなくて、紛争で学校側が何がなんだかわからなくなって、みんな出しちゃったのね。卒業論文というのも一応あって、社会学かなんかのレポートだったけど、僕ははっぴいえんどの詩を書いて出した。原稿枚数なんか、指定よりまるで少なかったけど、“僕ははっぴいえんどというグループをやらなくちゃいけない。こんなところにはいられないから卒業させてください”って書いたら、卒業させてくれたの」と答えている。
  • 3月8日、はっぴいえんど、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 3月11日、はっぴいえんど、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 3月12日、はっぴいえんど、岡林信康<自由への長い旅>レコーディング(ビクター・スタジオ、ミキサー:梅津達男)。この時アコースティック・ギターの音がきれいに録れたことから、梅津をはっぴいえんどのセカンド・アルバムのレコーディングに起用することが決まった。しかし、梅津は当時ビクター・スタジオのハウス・エンジニアだったため、アルバムでは近藤武蔵の変名でクレジットされた。
  • 3月13日、はっぴいえんど、加川良レコーディングのリハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 3月14日、はっぴいえんど、シングル「12月の雨の日/はいからはくち」のポスター用写真撮影。
  • 3月21日、はっぴいえんど、プロモーション用8ミリ・フィルムの撮影(富津・マザー牧場)。
  • 3月22日、はっぴいえんど、プロモーション用8ミリ・フィルムの撮影(富津・マザー牧場)。
  • 3月23日、渋谷ジァン・ジァン(共演:DEW、PUFF)。
  • 3月29日、岡林信康<私たちの望むものは>レコーディング(麻布・アオイスタジオ)。
  • 3月30日、加川良<ゼニの効用について>他3曲レコーディング(麻布・アオイスタジオ)。
  • 4月1日、音楽舎主催イベント“音楽舎春場所コンサート”(~4日、神田共立講堂 共演:五つの赤い風船、加橋かつみ、長谷川きよし、クライマックス、他)。
  • 4月1日、シングル「12月の雨の日 / はいからはくち」発売。初回プレス1万枚。三浦光紀によれば「当時としてはものすごい数字なんだよね。とにかくもう、音楽的にははっぴいえんどが一番好きだったからね。そうとう気合いが入ったんだろうね。僕としては、会社を説得したのは、とにかくこれを売ってアルバムを出してヒットさせるからって事で、多分説得したんだと思うんですよね。キングレコードは僕のやってるものが解らなかったんで、もう初回の枚数からね、発売の日にちから全部、僕に任せてたんですよ。解らないって、これ聴いて何枚売れるか。だから、僕の言う通りに出したんです。あのシングル盤を当ててアルバムを売るから、このシングル盤の頭を多くしてくれって言ったんじゃないかなと思うんだよね、多分、1万枚って事はね。でも、まあ売れなかったんだと思う」という。
  • 4月5日、大瀧と松本、ニューミュージック・マガジン社主宰「日本のロック座談会」に出席(中村とうよう自宅 出席者:福田一郎、中村とうよう、ミッキー・カーティス、内田裕也、折田育造、小倉エージ、大瀧、松本)。テーマは「日本のロック情況はどこまで来たか」。第2回ニューミュージック・マガジン・レコード賞の日本のロック章部門で1位を獲得したはっぴいえんどに対して、ミッキー・カーティスが賛辞の言葉を述べ、内田裕也はURCのレコードばかりが評価されるのはおかしいと問題提起する展開となった。この座談会の模様は『ニューミュージック・マガジン』5月号誌上に掲載された。この後、はっぴいえんどは内田から5月22日の“ギビング”(内田、ミッキー・カーティス、深見龍作、木村英輝)主催の第1回自主コンサートへの出演要請を受けた。
  • 4月6日、代々木・山野ホール(共演:遠藤賢司)。
  • 4月9日、渋谷西武百貨店“BE-INN”(12:00-、17:00-(2ステージ))。加川良レコーディングのリハーサル(夜、新宿・御苑スタジオ)。
  • 4月10日、渋谷西武百貨店“BE-INN”(12:00-、17:00-(2ステージ))。加川良レコーディング(夜、麻布・アオイスタジオ)。
  • 4月11日、渋谷西武百貨店“BE-INN”(12:00-、17:00-(2ステージ))。
  • 4月12日、<抱きしめたい>リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 4月13日、<夏なんです>リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 4月14日、“加橋かつみコンサート”(大手町・サンケイホール)。ゲストとして出演。<いらいら>、<しんしんしん>、<12月の雨の日>、<抱きしめたい>、<はいからはくち>を演奏。
  • 4月21日、はっぴいえんど、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 4月22日、はっぴいえんど、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 4月24日、“'71フォーク・ジャンボリー・プレコンサート”(杉野講堂 共演:六文銭、吉田拓郎、遠藤賢司、斉藤哲夫、なぎらけんいち、あがた森魚、のこいのこ、森田洋子、他)。第1部は記録映画「70全日本フォークジャンボリー だからここに来た」上映会。はっぴいえんどは第2部のコンサートに出演。
  • 4月25日、渋谷ジァン・ジァン。
  • 5月5日、“斉藤哲夫、あがた森魚サアカス”(東急文化会館リトル・プレイ・ハウス 共演:斉藤哲夫、あがた森魚、さあかす、山本コウタロー、PUFF、鈴木慶一)。大瀧のみ出演。
  • 5月6日、はっぴいえんど、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 5月7日、はっぴいえんど、セカンド・アルバムのレコーディングを開始。<抱きしめたい>、<はいからはくち>レコーディング(音羽・キングスタジオ(1スタ)、ミキサー:山崎聖次、ディレクター:岩井宏)。カラオケのみ。未発表。この日録音されたテイクのマスター・テープは後に紛失。
  • 5月8日、はっぴいえんど、<抱きしめたい>レコーディング(目黒・モウリスタジオ(1スタ)、ミキサー:梅津達男(近藤武蔵))。
  • 5月9日、渋谷BYG。BYGは4月28日に開店したコーヒーハウス。1階が食堂、2階がロック喫茶、地下1階がライブ・スペース。このライブのブッキングを後に“風都市”として独立する音楽舎のメンバーが担当(前島邦昭、石浦信三、上村律夫、石塚幸一)。以降BYGは、風都市所属のミュージシャンたちのライブ拠点となる。
  • 5月11日、はっぴいえんど、セカンド・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 5月12日、はっぴいえんど、<空いろのくれよん>、<はいからびゅーちふる>レコーディング(目黒・モウリスタジオ(1スタ)、ミキサー:梅津達男)。
  • 5月14日、はっぴいえんど、<はいからはくち>、<夏なんです>のレコーディング・リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 5月15日、はっぴいえんど、<空いろのくれよん>、<はいからはくち>レコーディング(目黒・モウリスタジオ(2スタ)、ミキサー:梅津達男)。
  • 5月16日、文京公会堂。
  • 5月19日、“ウッドスモッグ”(日比谷野外音楽堂)。
  • 5月22日、ワーナー・パイオニア・レコード主催“ロックエイジ'71イン日比谷”(日比谷野外音楽堂 共演:SAMURAI、PYG、ファーラウト、エスケイプ)。このコンサートは当初、“ギビング”主催による第1回自主コンサートとして行われるはずだったが、都合によりワーナー・パイオニア主催に変更され、コンサート自体は予定道り行われた。その後、渋谷ジァン・ジァン。
  • 5月25日、松本の結婚式。細野が出席。
  • 5月26日、渋谷BYG。大瀧がソロで出演。エルヴィス・プレスリーやビージーズなど敬愛するミュージシャンのカヴァーを演奏。
  • 5月31日、“雑誌『ZINTA』創刊記念コンサート”(京都会館)。<空いろのくれよん>他を演奏。
  • 6月1日、大阪SS。SSは「春一番コンサート」を手掛けた福岡風太が主催するライブ喫茶。
  • 6月3日、マットルーム主催“第2回 日本語のろっくとふぉーくのコンサート”(日比谷野外音楽堂 共演:ザ・モップス、吉田拓郎、長谷川きよし、遠藤賢司、頭脳警察、DEW、他)。
  • 6月5日、風都市主催“DANCING古事記-東風”(京都大学西部講堂 共演:山下洋輔トリオ、DEW、ブルース・クリエイション)。この頃、音楽舎から別れて、音楽事務所“風都市”設立。この“DANCING古事記-東風”と翌日の“風都市”は、風都市が本格的に手掛けた最初のコンサート。石浦信三によれば「はっぴいえんどを売らなきゃいけないとかそういう感じじゃなかった。友達同志でマネージメントを僕が受け持とう。それから、松本が作詞する時の手助けをするっていうそういうことをやってました」という。
  • 6月6日、風都市主催“風都市”(京都円山公園 共演:山下洋輔トリオ、村八分、ジプシー・ブラッド、田舎五郎と魚、ヘビーフレンド、他)。もともと風都市という名前は、はっぴいえんどの次作のタイトルとして松本が考えていたが、松本によれば「石浦と大ゲンカになったんだ。僕が次のアルバムのタイトルは『風都市』にするって言ってたの。そしたら石浦が、それをコンサートと事務所のタイトルっていうか、名前にしようとしたわけ。京都だか大阪だかでコンサートがあってね、それが、風都市って事務所発足のコンサートで、自分の仕切りでやったの。で、風都市をコンサートの名前に使っちゃったから、事務所の名前も風都市にしたいとか言ってさ。『だって、それは2枚目のLPのタイトルにするんだぜ』とか言って。そう言ったじゃないかとか言って僕が。勝手にそんな事、誰が決めたんだとか言ってね。タイトルに著作権はないとか彼も言っちゃってさ。それで、しょうがなく。コンサートはゴーしちゃってるし、切符もチラシも刷っちゃったから、今さら変えらんないとかぼやくから。ぐしょぐしょになってね。それで僕が泣いた訳」という。また、“風都市”を会社組織とするため、音楽出版部門を受け持つ“シティミュージック”とライブ活動のブッキングを行う“ウィンド・コーポレーション”の2形態に再編。音楽舎とは違った方法で、独自のプロモーション展開を始める。ウィンド・コーポレーションはバッキングやプロデュース・ワークの印税収入やアレンジ・フィーの確立。シティミュージックは所属アーティストの原盤管理権の所有を目指したが、はっぴいえんどの解散などにより達成されずに終わる。
  • 6月12日、はっぴいえんど、<夏なんです>、<愛餓を>レコーディング(目黒・モウリスタジオ、ミキサー:梅津達男)。
  • 6月13日、青山タワーホール。
  • 6月19日、渋谷BYG。
  • 6月20日、“ストッピング! No.1”(14:00-、日比谷野外音楽堂 共演:ハプニングス・フォー+1、シローとブレッド&バター、ガロ、村八分、遠藤賢司、頭脳警察、他)。
  • 6月22日、同志社大学学園祭。
  • 6月26日、銀座ヤマハホール。
  • 7月2日、はっぴいえんど、セカンド・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(音羽・キングスタジオ)。
  • 7月3日、“日比谷ロック・フェスティバル”(~4日、日比谷野外音楽堂 共演:SAMURAI、ザ・モップス、PYG、ザ・ゴールデン・カップス、ハプニングス・フォー+1、ブラインド・バード、トゥー・マッチ、THE M、スラッシュ、ブルース・クリエイション、成田賢、ガロ、スピード・グルー & 陳信輝、1815ロックンロール・バンド、他)。
  • 7月7日、大瀧、この日関東地方に上陸した台風13号をヒントに<颱風>のデモ・テープを完成させる。
  • 7月16日、京都勤労会館。
  • 7月17日、ゆうえんち 浜名湖パルパル(~18日)[28]
  • 7月19日、名古屋ヤマハホール。告井延隆がピアノで参加。
  • 7月22日、はっぴいえんど、<抱きしめたい>レコーディング(22:00-26:00、目黒・モウリスタジオ、ミキサー:梅津達男)。
  • 7月25日、はっぴいえんど、<はいからはくち>、<空いろのくれよん>レコーディング(目黒・モウリスタジオ(1スタ)、ミキサー:梅津達男)。
  • 7月27日、渋谷ジァン・ジァン。
  • 7月28日、ニッポン放送“ビバ・ヤング オールナイトニッポン”公開録音(札幌STBホール)。
  • 7月29日、細野 • 鈴木、札幌から空路帰京[注 8]
  • 8月3日、はっぴいえんど、吉野金次とミーティング(原宿・アート音楽出版)。吉野のアルバム・レコーディングへの参加が決まる。細野は、ベーシストとして参加した南正人のアルバム『回帰線』のレコーディングで、ミキシングを担当していた吉野と面識があった。細野は「ビートルズが好きだとか、吉野さんのバック・ボーンは知っていましたけどね。僕らは、逆に“ビートルズにかなり入れ込んでるくらいの人なら、何でもできるだろう”と思って、期待したんです。音楽的な話ができるエンジニアでした。すごく才能あるなと思いましたよ。エンジニアとしては初めて僕らとコミュニケーションできた人だったんですね」という。一方、吉野によれば「『はっぴいえんど』を聴かせてもらって、“僕の音とずいぶん違うな”と思いましたね。当時の僕は歌謡曲の仕事もかなりやってたんだけど、彼らは歌謡曲をやってるような人間は好きじゃないだろうなと思ったし、彼らに3人か4人のエンジニアが次々とクビにされたって情報も得ていたんで、“じゃ、5人目は僕だろうな”という感じで。戦々恐々としながら、目黒にあったモウリスタジオという当時としては最先端のスタジオでやることになったんです。初めて彼らに会ったときに、僕は歌謡曲の仕事が終わって徹夜明けで行ったんですよ。先に着いたんだけど、へばっててソファーで寝てたんですよね。そこにメンバーのみんなが来て起こされたっていうのを後で松本隆さんが教えてくれました。そこで『僕の音はリミッターぎんぎんで、中音域をカットして作り込んだブリティッシュ・サウンド。西海岸の青い空のように乾いた感じでもないし、ストレートに響くわけじゃないから』って話をしたのを覚えてます」という。
  • 8月6日、“箱根アフロディーテ”(箱根芦ノ湖 共演:ピンクフロイド、1910フルーツガム・カンパニー、バフィ・セント・メリー、成毛滋、ザ・モップス、渡辺貞夫、山下洋輔トリオ、ダークダックス、他)。
  • 8月7日、“第3回全日本フォーク・ジャンボリー”(~9日、岐阜椛の湖畔 共演:岡林信康、加川良、高田渡、中川五郎、斉藤哲夫、金延幸子、中川イサト、村上律、シバ、岩井宏、遠藤賢司、吉田拓郎、三上寛、友部正人、山平和彦、武蔵野タンポポ団、なぎらけんいち、六文銭、上條恒彦、他)サブステージ(ロック)での演奏。<抱きしめたい>、<朝>、<12月の雨の日>、<かくれんぼ>、<はいからはくち>、<春よ来い>を演奏。このとき、篠原章と佐野史郎も聴衆の中にいた。
  • 8月8日、“第3回全日本フォーク・ジャンボリー”メイン・ステージが客に占拠され、はっぴいえんどの演奏が中止になる。このとき、暴動のどさくさに紛れて舞台の裏においてあった松本のドラムセットが粉々になり、撤去されてしまった。
  • 8月10日、はっぴいえんど、セカンド・アルバム・レコーディングのための合宿(ヤマハねむの郷)。この合宿のときに細野がメンバーに「これからは梅津達男ではなく吉野金次でいく」と宣言した。
  • 8月11日、はっぴいえんど、セカンド・アルバム・レコーディングのための合宿(ヤマハねむの郷)。
  • 8月12日、はっぴいえんど、セカンド・アルバム・レコーディングのための合宿(ヤマハねむの郷)。
  • 8月13日、はっぴいえんど、セカンド・アルバム・レコーディングのための合宿(ヤマハねむの郷)。
  • 8月14日、はっぴいえんど、セカンド・アルバム・レコーディングのための合宿(ヤマハねむの郷)。福島県いわき市へ移動。
  • 8月15日、“IWAKI JAZZ FESTIVAL”出演(福島県平市民会館 共演:山下洋輔トリオ、ジョージ大塚クインテット、落合俊トリオ、他)。
  • 8月21日、“ロックアウト・ロック・コンサート”(日比谷野外音楽堂 共演:岡林信康、柳田ヒロ、加川良、遠藤賢司、ガロ、他)。<春らんまん>、<空色のくれよん>、<ももんが>、<かくれんぼ>を演奏。大瀧によれば、このライブでのボーカルが生涯最高の出来だったと、自分では思っているという。
  • 8月22日、はっぴいえんど、<春らんまん>、<颱風>レコーディング(目黒・モウリスタジオ(2スタ)、ミキサー:吉野金次、ゼネラル・プロデューサー:三浦光紀、ディレクター:岩井宏)。吉野は「レコーディングスタジオに入る前に、練習スタジオで音楽的な打ち合せは済んで、レコーディングに臨んでましたから、僕は、そのディスカッションに加わった記憶は今のところありません。レコーディングに入っての、手直しとか音決めには参加していますけど。ですから、4人が決めてきたことに関して現場でケアするということですね。リズムのコンビネーションが今イチ悪い場合とか、あるいは、各楽器の音色といったことに関してはコミュニケーションはよくとりました。例えば、特に何かのレコードなり、曲を聴いて触発されて作ったっていう場合は、ある程度先入観がありますので、それと、実際に出している音とのギャップですね、そこをどうするかっていうことでは、かなり長時間ミーティングをしたような部分はあります。そういう時は言葉で言う時もありますし、思ってた音と全然違うんだけど、“こういうのもあるね”っていう時もありましたね。ですから、わりとスパンは広く考えていて、もちろんこだわりはあったんですけど、自分達のこだわり以外のものも、良ければ受け入れるっていう、そういうニュアンスはありました」というが、細野から「リバーブは疲れるから好きじゃない」と言われたため、自身の技だったリバーブとコンプが使えなかったのは厳しかったという。<春らんまん>について、吉野は「録音スタジオでの最初の出会いということで、お互いあまりリラックスしていなくて、ちょっと堅苦しい仕上がりになっていますね。分離している音が個人的にも好きなんですけど、ちょっと分離が甚だしくて、触媒的なところが足りないんです。思えば<春らんまん>は僕のオーディションのようなものだったのかもしれませんね。よくこれでクビにならなかったなと。ま、お互いに可能性を感じたのかもしれない」という。並行して梅津とのレコーディングも継続。
  • 8月23日、はっぴいえんど、<愛餓を>、<はいからはくち>(イントロ)、<空いろのくれよん>(ヴォーカル、リード・ギター、スティール・ギター)(22:00-26:00、目黒・モウリスタジオ(2スタ)、ミキサー:梅津達男)。
  • 8月25日、はっぴいえんど、セカンド・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(17:00-19:00、新宿・御苑スタジオ)。
  • 8月27日、はっぴいえんど、セカンド・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(19:00-23:00、新宿・御苑スタジオ)。
  • 8月29日、はっぴいえんど、<ももんが>(<暗闇坂むささび変化>)、<夏なんです>レコーディング(13:00-22:00、目黒・モウリスタジオ(2スタ)、ミキサー:吉野金次)。
  • 8月30日、はっぴいえんど、<空いろのくれよん>、<抱きしめたい>レコーディング(21:00-26:00、目黒・モウリスタジオ(1スタ)、ミキサー:吉野金次)。
  • 9月2日、はっぴいえんど、<あしたてんきになあれ>レコーディング(12:00-16:30、目黒・モウリスタジオ、ミキサー:吉野金次)。
  • 9月6日、はっぴいえんど、<風をあつめて>レコーディング(21:00-26:00、目黒・モウリスタジオ(2スタ)、ミキサー:吉野金次)。
  • 9月7日、はっぴいえんど、セカンド・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(麻布・アオイスタジオ)。
  • 9月8日、はっぴいえんど、セカンド・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(麻布・アオイスタジオ)。
  • 9月10日、はっぴいえんど、セカンド・アルバム・レコーディングのためのリハーサル(18:00-22:00、新宿・御苑スタジオ)。
  • 9月11日、はっぴいえんど、<花いちもんめ>、<颱風>レコーディング(10:00-16:00、目黒・モウリスタジオ(2スタ)、ミキサー:吉野金次)。
  • 9月12日、はっぴいえんど、<春らんまん>、<颱風>レコーディング(22:00-29:00、目黒・モウリスタジオ(2スタ)、ミキサー:吉野金次)。
  • 9月14日、愛知文化会館。
  • 9月17日、はっぴいえんど、<抱きしめたい>編集(22:00-29:00、青山・ビクタースタジオ、ミキサー:梅津達男)。曲中でジェットマシーンが使われているが当時、ジェットマシーンはビクター・スタジオにしかなかったため、スタジオが休日のときにミックス作業が行われた。
  • 9月、大瀧、三浦光紀からソロ・アルバムのレコーディングの話を持ちかけられる(青山・ビクタースタジオ)。同席した細野から「話のあるうちにやっといた方がいいよ」と説得される。
  • 9月、はっぴいえんど、アルバム『風街ろまん』のための撮影(狭山市鵜ノ木“アメリカ村”、撮影:野上眞宏)。アルバム『HAPPY END』のレコード中袋のメンバー4人揃っての写真は“WORKSHOP MU!!”が借りていたハウス前で撮影されたもの[29]
  • 10月、はっぴいえんど、アルバム『風街ろまん』のためのポートレイト撮影(六本木・アートセンター内スタジオ、撮影:野上眞宏)。メンバーの中でジャケットのコンセプトを担当していた松本は、1枚目『はっぴいえんど』同様、2枚目のジャケットも漫画家で今回は宮谷一彦に依頼することにした。宮谷は「白いバックにメンバーの顔が浮いているようなシンプルなデザインでいこう」と言い、顔のイラストの元になる写真の撮影を野上が依頼された。野上はイラスト用に顔だけをフラットなライティングで撮ったものと、その反対に思い切りサイドライトにして撮ったものの2ヴァージョンを撮影した[30]
  • 10月2日、“ウディ・ガスリー追悼公演”(目黒・杉野講堂 共演:乱魔堂、小坂忠、高田渡、加川良、友部正人、シバ、岩井宏、武蔵野タンポポ団、他)。新曲の<颱風>と<春らんまん>を演奏。
  • 10月5日、はっぴいえんど、アルバム『風街ろまん』ミックス・ダウン(17:00-翌16:00、目黒・モウリスタジオ)。メンバー全員が立ち会う。
  • 10月8日、はっぴいえんど、アルバム『風街ろまん』マスタリング(広尾・吉野金次の事務所)。
  • 10月9日、大瀧詠一ソロ・シングル<それはぼくじゃないよ>、<恋の汽車ポッポ>レコーディング(10:00-21:00、目黒・モウリスタジオ、ミキサー:吉野金次)。鈴木は「大瀧さんの場合はリード・ボーカルって事もあるし、それから岡林さんとかで何か恵まれない立場に立ったでしょ。ああいうところもあって、出したいのかなって。でもあまり、気持ちいいとはいえなかったね、正直言って。やっぱり何かさみしさを感じるんですよね」という。
  • 10月13日、はっぴいえんど、アルバム『風街ろまん』カッティング立会い(朝霞・東京電化)。
  • 10月17日、マットルーム主催“第3回日本語のろっくとふぉーくのコンサート”(日比谷野外音楽堂 共演:RCサクセション、遠藤賢司、小野和子、かまやつひろし、加橋かつみ、吉田拓郎、六文銭、加川良、頭脳警察、THE M、DEW、南正人、成田賢、金延幸子、クリンカム・クランカム、ゲッセマネ、トップギャラン、町田義人、MUTATION 9 BAND)。大瀧によれば「すごくいい出来だったと思うんだよ。自分では。けど、なんか受けなかったんだよね。ちっとも受けなかった。イメージ・チェンジのように受け取られたみたい。フォークとかカントリーに寄りすぎてる、みたいな。<春よ来い>のような、ぐっとくるものがないとかさ。こっちは自信を持って、これがひとつの到達点だ、完成形だ、という思いでやってたんだけど」という。
  • 10月19日、大瀧、シングル・ジャケットの撮影(青梅鉄道公園、撮影:おおくぼひさこ)。
  • 10月21日、大瀧、ソロ・シングル<それはぼくじゃないよ>レコーディング(目黒・モウリスタジオ)。
  • 10月23日、大瀧、ソロ・シングルのカッティングに立ち会う(キングの工場)。
  • 11月2日、立正大学“橘花祭”出演(15:00-、立正大学中庭)、早稲田大学“早稲田祭”出演(17:00-、西早稲田・早稲田大学)。
  • 11月3日、多摩美術大学“芸術祭”出演(上野毛・多摩美術大学)。
  • 11月4日、神戸大学学園祭(六甲台・神戸大学)。
  • 11月5日、近畿大学学園祭(東大阪・近畿大学)。
  • 11月6日、細野、野上眞宏とともに小坂忠の結婚式に出席。夜、慶応義塾大学“三田祭”(三田・慶応義塾大学 共演:はちみつぱい、頭脳警察、吉田拓郎、他)。先に出演していた頭脳警察の演奏が予定時間を大幅にオーバーしたため、<はいからはくち>1曲のみで終わった。奥村靫正と共に見学に行った野上によれば「先に出演していた頭脳警察は、Tレックス風の扇情的なメロディにのせた過激な歌詞で、学生たちの気持ちをしっかり掴んでいた。その夜の学生たちは異様に昂ぶっていて、まるでその場の空気全体が渦を巻いているようであった。頭脳警察の演奏は、その渦に巻き込まれたかのように時間をどんどんオーバーしていったのだった。はっぴいえんどは、初めのうちは楽屋としてあてがわれた教室で辛抱強く時間をつぶしていたが、だんだんとイライラの度合いが強まり、教室にいたり頭脳警察の様子を見に行ったりを繰り返していた。頭脳警察が盛り上げてしまったこのような状況は、彼らがなるだけ避けて通りたいというものだったと思う。その上、頭脳警察の演奏は全然終わる様子もないし、この後の予定があるものもいるので、はっぴいえんどのメンバーはもう帰ろうとまで言っていた。結局、頭脳警察の演奏は終わり、ようやくはっぴいえんどの番になって、彼らはステージに上がった。大瀧詠一がマイクの前に立つと『今日は時間が押してしまったので1曲しかやらない』というようなことを言って<はいからはくち>の演奏を始めたので、学生たちは騒然となって、飛礫の嵐がはっぴいえんどを襲った。後で細野は、ステージで石を投げられて思わず涙が出てきたと言ったた。メンバーはともかく1曲やり終えて、それぞれ慶応を後にした」[31]。という。また、大瀧は「頭脳警察が俺らの出番になっても、終わらないんだよね。俺達は早く帰りたくて、時間も過ぎてるしさ。別に頭脳警察もはっぴいえんどのジャマしようと思ってやったんじゃないと思うんだけどさ。だって30分どころじゃない、1時間とかなんか押したんだよ。頼むよ、もうカンベンしてよー帰ろうよ。あっちはあっちでやってりゃいいんだから。俺達はもう時間もちゃんとやって来てんだから帰ろうよ、みたいな事言って。よっぽど、よし、帰ろうとかって思った頃には、終わりましたみたいな感じだった。出てって、約束が違うって言って、それで1曲だけやって帰るって言って<はいからはくち>やって、それから石がビンビン飛んできて、バカヤローなんて。それで<はいから>をすごい勢いで、じゃんじゃんじゃーん。ってやってさ。全部“君ははいから”って言って。僕ははいからじゃないの。もう、頭に来てるから。二番とも、“きーみははいから、君はーはいからー、ばかやろー”とかさ。1曲だよ1曲。話と全然違って1曲で終わりにした。『もっとやれェーっ』って。どうしようもないんだよなあ、本当になあ。バーンとかいってそのままコードなんかウォーって引っこぬいてさ、もう最初っから帰る支度してるんだから。それですぐ帰ったんだよ。何にも後の事知らない」という。その後、細野と野上、小坂の結婚披露宴に出席(新宿・ヒルトンホテル・スイートルーム)。
  • 11月11日、渋谷BYG。大瀧ソロで出演。
  • 11月14日、“全日本ロック・フェア”(茂原市民会館)。
  • 11月20日、東京理科大学“理大祭”(神楽坂・東京理科大学)。その後、FM東京公開録音。アルバム『風街ろまん』発売。アルバムについて大瀧は「他の人たちにはまた違う思いもあったんだろうけど、少なくとも僕に関してはだんだん萎えてきましたね。どこか到達すると集中力とポテンシャルが一気に萎える、というのが特徴で。ライブもね、あまり気が進まなくなっていたね。俺にかかる負担が大きいから。声の調子の悪い日とかもあるし。だんだん憂鬱になってきましたね。アルバム2枚目でもう完成形が出て、完成・円熟・余裕・倦怠・退廃だね」「結局まだ<抱きしめたい>とか<はいからはくち>とか細野さんの<風をあつめて>とか、そういう完成形に至らないバンドは長く続けるんじゃないの? 確かに普通、ビートルズだとかちゃんとしたバンドなら違う。<抱きしめたい><はいからはくち><空いろのくれよん>をもって、これをさらに発展させていくのがスーパー・グループなのかもしれない。でも、僕はジョンとポールのような才能を持ち合わせていないし。“あ、いいところに来た”って声かけられただけの通りがかりの者だったし。これだけ出来ただけでもたいしたもんだと思ったんでしょうな」という。松本も「出来上がった時に、なんかもう、完成しちゃったという感じだよね。2枚目で『サージェント・ペパーズ』までいっちゃったみたいな。早すぎるなとは思ったけど、もうこれ以上やることなくなっちゃったような気がしたね。このアルバムは誰にも超えられないだろうし、自分でも超えられないだろうなって、それが実感だった。あそこでもう解散モードだよね」という。
  • 11月22日、渋谷BYG(共演:小坂忠)。
  • 11月24日、渋谷BYG。ワンマン・ライブ。
  • 11月26日、NHKラジオ第一「若いこだま」収録(NHK505スタジオ 司会:吉見祐子 ゲスト:渡辺武信、はっぴいえんど)。
  • 11月27日、京都体育館。
  • 12月3日、NHKラジオ第一「若いこだま」放送[注 9]
  • 12月5日、青森のレコード店主催のコンサート(~6日)。
  • 12月9日、“全日本ロック・フェア”(甲府市民会館)。
  • 12月10日、シングル「花いちもんめ / 夏なんです」発売。大瀧ソロ・シングル「恋の汽車ポッポ / それはぼくじゃないよ」発売。
  • 12月11日、渋谷BYG。
  • 12月12日、細野、加川良レコーディングのリハーサル(~13日、麻布・アオイスタジオ)。
  • 12月17日、風都市主催“風都市”(文京公会堂 主催:風都市)。
  • 12月18日、渋谷BYG。
  • 12月19日、“全日本ロック・フェア”(名古屋市港湾会館)。
  • 12月24日、岡山市民会館。
  • 12月26日、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 12月27日、細野、加川良<ポケットの中の明日>、<その朝>レコーディング(麻布・アオイスタジオ)。
  • 12月28日、細野、加川良レコーディング(麻布・アオイスタジオ)。
  • 12月31日、“第1回全日本フォーク・フェスティバル 71-72”(両国・日大講堂)。

1972年[編集]

  • 1月14日、音楽舎初場所番外コンサート“花いちもんめ猿飛佐助をたたえても でも満足できるかな”(霞ヶ関・虎ノ門ホール 共演:遠藤賢司、サンズ・オブ・サン)。
  • 1月16日、“聖ロック祭”(日本青年館ホール 共演:頭脳警察、村八分、遠藤賢司、ロスト・アラーフ、あんぜんバンド)。
  • 1月22日、ヤマハ主催のイベント(ライブ名称不明 青山タワーホール)に出演。
  • 1月23日、“はっぴいえんどコンサート”(新潟六日町(会場不明))。松本がドラムのタムに穴を開けたため、生ギター3本による変則スタイルで演奏。
  • 1月24日、“マッシュルーム・コンサートVol,2”(六本木俳優座劇場 共演:小坂忠 & フォージョーハーフ、かねのぶさちこ、吉田美奈子、ブルース・バウアー、ガロ、他)。終演後、細野は六本木の喫茶店ビクトリアで奥村靫正 • 野上眞宏らとお茶をする。
  • 1月26日、風都市主催“風都市”(池袋・豊島公会堂 共演:はちみつぱい、吉田美奈子、高田渡、乱魔堂、小坂忠 & フォージョーハーフ、遠藤賢司、友部正人、かねのぶさちこ、シバ)。
  • 1月29日、音楽舎主催のコンサート(新潟市民会館)に出演。
  • 2月13日、TBSラジオ公開録音(中野丸井本店屋上)。
  • 2月15日、渋谷ジァン・ジァン。
  • 3月3日、大瀧、リハーサル(~4日、新宿・御苑スタジオ)。
  • 3月5日、細野、結婚。
  • 3月6日、大瀧、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 3月11日、大瀧、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 3月12日、大瀧、ソロ・シングル<五月雨>、<空飛ぶくじら>レコーディング(目黒・モウリスタジオ)。
  • 3月17日、加川良<靴ひもむすんで>レコーディング(目黒・アオイスタジオ)。細野がベース、松本がドラムス、大瀧がコーラスでそれぞれ参加。
  • 3月18日、エレック・レコードのイベント“唄の市”(渋谷公会堂)に出演。
  • 3月19日、ベルウッド所属アーティスト総出演による“ベルウッド発足記念コンサート”(池袋西武百貨店前特設ステージ 共演:六文銭、高田渡、あがた森魚、岩井宏、中川五郎、山平和彦、友部正人、シティライツ、我夢土下座、他)。
  • 3月20日、大阪PLランド。
  • 3月29日、“We Insist”(神田共立講堂 共演:小坂忠、六文銭、カルメン・マキ & OZ、はちみつぱい、あがた森魚、武蔵野タンポポ団、他)。
  • 3月30日、マッシュルーム・コンサート“小坂忠リサイタル”(郵便貯金ホール 共演:小坂忠 & フォー・ジョー・ハーフ(小坂忠(vo,g)、駒沢裕城(st.g)、林立夫(ds)、後藤次利(b)、松任谷正隆(banjo)、細野晴臣(g,vo))、ガロ、成田賢)。
  • 3月31日、“聖ロック祭”(愛知県体育館)。
  • 3月、大瀧、三浦光紀とアルバム・レコーディングでアメリカに行く話を高田渡から聞き、細野を一緒に行かないかと誘う。大瀧は「僕がモウリスタジオで録音してたでしょ。ソロをやる時に、高田渡が遊びに来たんだよ。フラッと。で、高田が、今度アメリカ行くんだよっていう話だったの。三浦光紀がアイデア出したんじゃないかな、三浦さんが確か高田と一緒に行くとかっていう。それで大瀧さんも一緒に行かない、みたいな話だったの。で、俺も行くんだったら、みんなも行きたいって言うんじゃないのかなって、俺は思ったわけ。みんなの話を聞いてみよう、みたいな事で。で行くかって言ったら、みんな行くってなって。最初とにかく、高田渡と俺と、三浦光紀だけで行く話だったんだ、なぜか。それは絶対に間違いない」という。細野は「僕が聞いたのはね、はっぴいえんどで行く目的で立てられた計画じゃないんですね、それ。多分ね、大瀧君に関係あると思うんです。ソロなのか何か判らないけど。それで立てられた計画で、おそらく大瀧君が遠慮したというか、気を遣ったと思うんですね、メンバーに。それがだから、はっぴいえんどで行く事になったと、それで観光気分で行くっていう事ですね」という。そして三浦光紀は「もともと、大瀧さんのソロ・アルバムを作っていた時、エンジニアの吉野さんはレベルの高い人だし、大瀧さんはキングの工場に行ってカッティングまで立ち会ったんだけど、どうしても思うような音が出せない。どうしてなのか、向こうに行って、何が違うのか知りたいと思ったんです。大瀧さんにその話をしたら、おもしろいと感じてくれたみたいで、僕はメンバーを説得した覚えはないんですが、じゃあみんなで行ったらということになったんです」という。結局、メンバー全員でアメリカへ行くことが決まった。
  • 4月1日、“エイプリル・フール・コンサート”(大宮市民会館 共演:あんぜんバンド、他)。
  • 4月2日、テレビ神奈川『ヤングインパルス』に出演。松本欠席のため3人ギターによる変則スタイルでの演奏。
  • 4月4日、メロディーハウス主催“聖ロック祭・パートIII”(日比谷野外音楽堂 共演:遠藤賢司、井上陽水、RCサクセション、中川五郎、あんぜんバンド、梅雨前線、サユリグループ)。野地義行がベースで参加、細野ギターによるトリプル・ギターの5人編成。
  • 4月6日、“ONLY ONE EARTH CONCERT”(宇都宮公会堂)に出演。野地ベース、細野ギターによる5人編成。
  • 4月7日、大阪高島屋。野地ベース、細野ギターによる5人編成。
  • 4月8日、“はっぴいな拓郎たちの一日”(神田共立講堂 共演:吉田拓郎、泉谷しげる、五輪真弓)。
  • 4月9日、大瀧、ソロ<びんぼう>、<ウララカ>レコーディング(目黒・モウリスタジオ)。
  • 4月11日、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 4月13日、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 4月16日、大瀧、ソロ<空飛ぶくじら>、<五月雨>レコーディング(目黒・モウリスタジオ)。
  • 4月22日、“ふぉーく・オールスター夢の競演音搦大歌合”(日本武道館 主催:音楽舎 共演:岡林信康、吉田拓郎+猫、遠藤賢司、六文銭、五つの赤い風船、井上堯之+かまやつひろし+ガロ、加川良、三上寛、高田渡+武蔵野タンポポ団、山下洋輔トリオ)。TBSラジオのイベント、野地ベース、細野ギターによる5人編成。<それはぼくじゃないよ>、<空いろのくれよん>、<春らんまん>、<びんぼう>、<はいからはくち>を演奏。この時期、大瀧ソロ曲もバンドのレパートリーとともに演奏された。
  • 5月、大瀧、ソロ・アルバム『大瀧詠一』のための撮影(関越自動車道、撮影:野上眞宏)[32]
  • 5月5日、夜、大阪に向けてバスで移動。
  • 5月6日、“第2回春一番コンサート”(~7日、大阪天王寺公演野外音楽堂 主催:福岡風太 共演:はちみつぱい、あがた森魚、遠藤賢司、高田渡、武蔵野たんぽぽ団、小坂忠 & フォー・ジョー・ハーフ、友部正人、五つの赤い風船、ごまのはえ、加川良、ザ・ディランII、他)。野地ベース、細野ギターによる5人編成。<びんぼう>、<はいからはくち>を演奏。
  • 5月11日、文京公会堂。野地ベース、細野ギターによる5人編成。大瀧、内田裕也と雑誌『ヤングギター』用の対談。
  • 5月12日、豊島公会堂。野地ベース、細野ギターによる5人編成。
  • 5月14日、“第3回日本語のふぉーくとろっくのコンサート”第2部(日比谷野外音楽堂 主催:マットルーム 共演:ザ・モップス、かまやつひろし、加橋かつみ、南高節とかぐや姫、RCサクセション、遠藤賢司、クニ河内、ガロ、頭脳警察、武蔵野タンポポ団、小坂忠、中川五郎、ジプシー・ブラッド、乱魔堂、他)。野地ベース、細野ギターによる5人編成。<春らんまん>、<五月雨>を演奏。
  • 5月15日、大瀧、ソロ<びんぼう>、<それはぼくぢゃないよ>レコーディング(目黒・モウリスタジオ)。
  • 5月22日、大瀧、ソロ・レコーディング(目黒・モウリスタジオ)。
  • 5月27日、“サンシャイン・コンサート No.4”(静岡駿府会館 共演:小坂忠、他)。野地ベース、細野ギターによる5人編成。
  • 5月28日、“フォークビレッジ”(日比谷野外音楽堂)。野地ベース、細野ギターによる5人編成。
  • 6月3日、“聖ロック祭”(日比谷野外音楽堂 共演:頭脳警察、はちみつぱい、RCサクセション、井上陽水、友部正人、小坂忠、あがた森魚、中川五郎、なぎらけんいち)。野地ベース、細野ギターによる5人編成。
  • 6月5日、大瀧、ソロ<指切り>レコーディング(目黒・モウリスタジオ)。
  • 6月6日、渋谷東急本店5階。
  • 6月10日、“日本アマチュア・ロック祭”(日本青年館)にゲスト出演、審査員も務める。その後、はっぴいえんどのメンバーと石浦信三による“日本アマチュア・ロック祭”をめぐる座談会を雑誌『ヤングギター』用に行う。
  • 6月11日、細野ソロ・ライブ(中野丸井本店)。
  • 6月12日、大瀧、ソロ<いかすぜ!この恋>レコーディング(音羽・キングスタジオ)。
  • 6月17日、大瀧、ソロ<指切り>、<いかすぜ!この恋>ヴォーカル・パート・レコーディング(目黒・モウリスタジオ)。
  • 6月20日、大瀧、ソロ<おもい>、<水彩画の街>レコーディング(目黒・モウリスタジオ)。
  • 6月25日、大瀧、ソロ・シングル「空飛ぶくじら/五月雨」発売。
  • 6月29日、大瀧、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 6月30日、大瀧、ソロ・レコーディング(目黒・モウリスタジオ(1スタ))。
  • 7月1日、“ラスト・はっぴいえんどツアー”開始(福岡(会場不明))。
  • 7月2日、“牛にひかれて善光寺参りのコンサート”(長野市民会館 共演:あがた森魚、山平和彦、はちみつぱい、中川五郎)。
  • 7月5日、大瀧、ソロ<乱れ髪>レコーディング(目黒・モウリスタジオ(1スタ))。
  • 7月6日、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 7月7日、“花のフォークタウン・コンサート”(渋谷公会堂 主催:文化放送 共演:高田渡)。はっぴいえんどは高田のバッキングも担当。
  • 7月8日、同志社大学学園祭(京都・同志社大学)。
  • 7月10日、大瀧、ソロ<あつさのせい>レコーディング(目黒・モウリスタジオ(1スタ))。
  • 7月12日、大瀧、ソロ<水彩画の街>レコーディング(目黒・モウリスタジオ)。
  • 7月14日、渋谷ジァン・ジァン。
  • 7月16日、大瀧、ソロ<乱れ髪>、<朝寝坊>レコーディング(目黒・モウリスタジオ)。
  • 7月、メンバーからはっぴいえんどの解散話が出る。
  • 7月18日、ミーティング。
  • 7月19日、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 7月22日、仙台電力ホール。
  • 7月23日、名古屋愛知講堂。
  • 7月24日、大瀧、ソロ・レコーディング(目黒・モウリスタジオ(2スタ))。
  • 7月25日、リハーサル(四谷スタジオ)。
  • 7月26日、“コンサート・コンサート#2”(芝・郵便貯金ホール 共演:かまやつひろし、加藤和彦、小坂忠 & フォー・ジョー・ハーフ、遠藤賢司、吉田美奈子)。<花いちもんめ>、<暗闇坂むささび変化>、<夏なんです>、<風をあつめて>他を演奏。はっぴいえんどはフォー・ジョー・ハーフと共演の他、遠藤賢司のバッキングも担当[22]
  • 7月28日、大瀧の結婚式(半蔵門会館)。細野が出席。
  • 7月29日、NETテレビ「土曜ショー」出演。<夏なんです>を演奏。その後文化放送主催イベント「晴海ハルミナ」(晴海)出演。このイベント会場内で大瀧が文化放送放出品のレコード・セールを発見。メンバーに教え、全員で10円の輸入シングルを買い漁る。
  • 7月30日、静岡・沼津公会堂。
  • 7月31日、“白樺湖高原音楽祭”(白樺高原 共演:高田渡、ザ・モップス、他)。
  • 8月1日、“痴物狂(しにものぐるい)コンサート”(八王子市民会館 共演:あがた森魚)。
  • 8月、松本、初のエッセイ集『風のくわるてっと』用の撮影(六本木、撮影:野上眞宏)[33]
  • 8月4日、小倉市民会館。
  • 8月5日、“大震祭Vol,3”(長崎市公会堂 主催:20世紀FUCKS社 & SOON! 共演:布谷文夫、精神発見同盟、アゼリア、NJC、スコーピオン、シーホース、いとうたかお)。夜、SOON!の長門芳郎の運転で福岡まで車移動。
  • 8月6日、“ノコの島民芸博覧会”(博多・能古島 共演:小坂忠 & フォー・ジョー・ハーフ、頭脳警察、高田渡、ザ・ディランII、友部正人、遠藤賢司、井上陽水、他)。5日16:00から6日20:00まで行われた、オールナイト・イベント。このライブを、当時高校生だった甲斐よしひろが見ている。
  • 8月11日、心斎橋・ヤマハレコード。
  • 8月12日、関西テレビ。
  • 8月15日、熊本(会場不明)。
  • 8月17日、静岡駿府会館。
  • 8月、盛岡・岩手放送。大瀧は、アンコールで観客から「(ソロの)<空飛ぶくじら>やれ!」と言われ、惨たんたる思いがしたという。
  • 8月20日、“ジョイパーク野外コンサート”(10:00-、浜松・ジョイパーク四ツ池内ゴルフ場 共演:はちみつぱい、小坂忠、頭脳警察、フラワー・トラヴェリン・バンド、THE M、エディ藩、スピード・グルー & 陳信輝、友部正人、他)。
  • 8月21日、大瀧、ソロ・アルバム『大瀧詠一』ミックス・ダウン(目黒・モウリスタジオ(1スタ))。
  • 8月23日、大瀧、ソロ・アルバム『大瀧詠一』ミックス・ダウン(目黒・モウリスタジオ(1スタ))。
  • 8月24日、FM東京。
  • 8月25日、名古屋勤労会館。<抱きしめたい>、<はいからはくち>、<ちぎれ雲>(未発表曲)他を演奏。
  • 8月29日、大阪厚生年金会館。
  • 8月30日、徳島文化センター。解散決定前最後のステージ。大瀧は「ああ、これが最後なんだなあ。みたいな感じでやっていたよね。要するに、みんな暗黙のうちに終わってたはずなんだよ。これで最後なんだって、確か。暗黙の了解があったように思うけどなあ」という。
  • 9月1日、大瀧、ソロ・レコーディング(目黒・モウリスタジオ(2スタ))。
  • 9月4日、ニッポン放送。
  • 9月11日、大瀧、ソロ・レコーディング(~12日、目黒・モウリスタジオ(2スタ))。
  • 9月13日、石浦信三を交えてのミーティング(目黒・モウリスタジオ)。はっぴいえんどの解散が決定する。鈴木によれば「大瀧さんのソロ・アルバムのもう終りかけの辺りでそのスタジオに全員集まって、『もうやめよう』って」と、言われたという。細野は「結局みんな僕がリーダーだと思っていたので、僕が何考えてるかを尊重してくれてたんだと思うんですけど。僕は解散を決心してたんですね。ですから、みんなが何を考えているかということに気を遣わなかったんです、殆ど。3人の葛藤っていうのは、これはあったと思うんですけどね。かたやソロ、かたやプレイヤー、かたや作詞家っていうね、そういう3人だったんです。そこでまあ方向性が、明確になってきたんです。ですから、3人の中でまた何かやろうとか、そういう事じゃなくて。当初の目的を短期間で果たしちゃったわけですからね」という。松本は「僕が怒って家に帰った日があるよ、イスを蹴飛ばして。それはアメリカ行くずっと前だよね。解散っていうのは、大瀧さんと細野さんで決めちゃったから。とりあえず僕は、こうなったからって、ある日言われて、茂と。全員プロデューサーになろうと言って、プロデューサーの集団として発展解消しようと」と、言われたという。そして大瀧によれば「松本がえらい勢いで、おー、それなら解散してやろうって、席をバーンって立ったのだけは覚えてる。松本は、まだ、やる気でいたんだと思うんだよね」という。
  • 9月、旅行で行くはずだったロサンゼルスでの、はっぴいえんどのレコーディングが決まる。三浦光紀は「僕は『風街』が終わって、大瀧君のソロをやってる最中にも、はっぴいえんどの最後のアルバムを作ろうと準備はしていたと思うんですよね。『風街』終わってからね、だからもうソロ活動すると思ってたから、現に大瀧君のレコーディングが始まってるわけだから、当然僕はソロになるだろうと思ったんだけど、一人ひとりアメリカへ連れて行くわけに行かないんで。僕は最後のアルバムを作るっていう形でね、アメリカへ連れて行くんなら会社も説得できるし、それで向こうで全員が勉強して、それで帰ってきたらそれぞれのソロ活動に生かしてくような形になると思うから。その頃向こうでレコーディングしてるグループってなかったと思うんですよね。だから、はっぴいえんどに関しては、僕は何としてでも向こうでレコーディングさせたいと思ってたから。それで解散したにも拘わらず、精神的にはバラバラになってたんだけど、もう、最後のアルバムってことでやらないかって事で僕は、メンバーじゃなくて石浦君か岩井さんかどっちか忘れたけど、誰かに言ったんだと思うんです。日本でもう、一緒にやろうって言っても、できないと思ったから」という。そして三浦は、仲が良かった雑誌『ヤングギター』(シンコー・ミュージック)編集長の山本隆士にコーディネイトを依頼した。山本は「彼から、すでに解散することが決まっていたはっぴいえんどの最後のアルバムをアメリカでレコーディングしたいからそのコーディネイターをやってもらえないか、と相談されたんだ。僕は1968年に初めてアメリカに行ってて、向こうの音楽事情みたいなこともある程度判っていたし、僕の知り合いやシンコーのコネクションを使えば何とか出来るかなと思って、それで引き受けたんだよ」とし、著作権をシンコーで預かることにして、専務(当時)の草野昌一を説得して話を進めた。草野は「三浦光紀さんから『はっぴいえんどが解散しちゃうんで最後の大仕事をしたい』と協力を頼まれて、出版(著作権)を引き受けました。三浦さんは、僕がテンプターズや森山良子でアメリカ録音していたのを知っていたんですね。その経験があったから、ホテルを探したり、レコーディング・スタジオは1週間丸借りすると安くなるとか、そんなお世話をしました」という。そして、大瀧は「みんな行くんだったら、ただの観光より録音でもしましょうかってなって。本当に付属的みたいな感じだったから。私としては、スケジュール的に言うとレコーディングなんてもう眼中にない感じだからね。ソロが1枚出来上がってすぐだもの」と言い、ソロ・アルバムで曲を出し尽くしていたために乗り気ではなかったが、それでも行けばなんとかなるだろうと思ったという。細野も「嬉しいですよね。もう、初めてですからね。まあオマケって気持ちはありました。それから先に繋げていく様な、だいそれたものを作る気は無かったです。バンドとしてこう、カチッとしたものではないんだ、という事です。ま、それは、ソロの寄せ集めになるんじゃないかと思ってました」「もしも、東京でレコーディングっていう話だったら、もう僕には考えられなかったの。はっぴいえんどの3枚目っていうのは、もう考えられなかったから。だけど、ロサンゼルスということであれば、4人の気持ちがその時点ではひとつになれるから。なにしろ、ロサンゼルスはバッファロー・スプリングフィールドのいたところだからね。それならできるなと思って」という。しかし、鈴木は「僕としては非常にもう醒めた状態で、とにかくアメリカで楽しみたいんだっていうのが半分くらいあって」と言い、松本は「アメリカへははっきり言って行きたくなかった。もう解散決まってるのに、アルバム出してもしょうがないって言ってね、僕は反対した方なんだよ。でも、他の3人が行きたいって言うんで。ソロ・アルバムのつけ合わせでいいじゃないかって言ってね。僕は詞書きたくないからって」と、今回はドラムだけ叩き、詞はそれぞれ自分たちで書いてくれと言ったという。
  • 9月16日、大瀧、ソロ・レコーディング。
  • 9月20日、大瀧、ソロ・レコーディング。
  • 9月22日、大瀧、ソロ・レコーディング。
  • 9月24日、大瀧、ソロ・レコーディング。アルバム・ジャケット撮影。
  • 9月25日、FM東京の番組収録。
  • 9月26日、TBSラジオの番組収録。
  • 9月27日、大瀧、リハーサル(新宿・御苑スタジオ)。
  • 9月29日、大瀧、ソロ<おもい>、<五月雨>、<あつさのせい>レコーディング。
  • 10月1日、大瀧、リハーサル(~2日、新宿・御苑スタジオ)。
  • 10月3日、大瀧、ソロ・レコーディング完了。
  • 10月4日、大瀧、ソロ・アルバムのカッティングに立ち会う。その後、アルバム・レコーディングのため羽田空港に集合(19:00)。細野、大瀧、鈴木、松本の他、三浦光紀、山本隆士、上村律夫(風都市スタッフ)らスタッフ5名。21:40空路、ロサンゼルスに出発(LAほかホノルルに滞在)。
  • 10月4日夕方、はっぴいえんど、ロサンゼルス着。滞在用に借りたハリウッドのアパートに移動。
  • 10月5日、スタッフを含む全員でミーティング。細野と鈴木は曲を用意してきたが、ソロ・アルバムで曲を出し切った大瀧はまったく曲が用意できていなかった。大瀧は、細野や鈴木に「もっと作れば…」と言ったものの、結局作ることになった。
  • 10月5日、たまたま同じスタジオでアルバム『ディキシー・チキン』収録曲<トゥー・トレインズ>と<ディキシー・チキン>をレコーディング中だったリトル・フィートを見学[注 10]。細野はアメリカ滞在中でもっとも印象的な出来事として挙げ、「バッファロー・スプリングフィールドがひとつのピリオドを打って、ウエスト・コーストに、またそれ以上に豊富な新しい動きが出てきてた時期だったの。そういうものに触れたっていうのが大きかったよね。もう、ぶったまげた。熱気があるわけ。これは、なんかスゴイものができちゃったんだなぁと思わせるものがある。スタジオに入っていったらね、すでにもう中でやってるの。ギタリストのローウェル・ジョージがね、指揮をしてるんだけど、それがもう御神楽みたいな指揮で、すっかり入り込んじゃってる。ドラッグの匂いはむんむんしてるし。曲も、なんか聞いたことがないような感じで。ああいう時は、もう手放しで吸い込まれちゃうね。で、終わって彼らがコントロール・ルームに入ってきたの。僕らは隅っこでチョコンと座ってたんだけど、彼らはもう自分達の世界に入り込んでるから、僕らなんか目に入らないのね。なんかスゴイ熱気で、“やったね!”“おれたちやったぜ。おめでとう!”みたいな感じで盛り上がってるのを見て、あ、レコーディングっていうのはこれだ、と思った。この感じは、はっぴいえんどだって知ってるぞっていう、そんな感覚があった」という。また、松本は「見学させてもらって、テイク20録ってもまだまだいける体力の違いを見て、“僕はここまで出来ない”と諦めが付いた。“ドラムはもうやめよう!”と思ったんだ」という。そして山本隆士によれば、現地コーディネーターのキャシー・カイザーから、すでに押さえておいたサンセット・サウンド・レコーダーズでちょうどリトル・フィートがレコーディングをしているので観に行かないかと言われたという。そこで、下見も兼ねて行ったところ、彼らの演奏を目の当たりにしてはっぴいえんどのメンバー全員が“うわぁ、すげえっ!”となったので急遽、「コイツらに頼めないかな?」という話になったという。
  • 10月6日、朝、貸楽器屋から運搬された楽器がセッティングされ、細野 • 鈴木 • 松本の3人でリハーサル(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ))。
  • 10月7日、レコーディング開始(10:00-、サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ))。レコーディング自体は朝9時起床、10時スタジオ入り。昼食をはさんで、18時終了。あとはレコード屋に漁りに行ってくたくたになって帰って来るという日課だったという。鈴木は「全く醒めた状態でね、メンバー同志も割と根に持つ方なのかよく解らないけど。もともと明るい人間じゃないですからね。スタジオ入った時もみんな下向いて喋らないんですよ。僕はこれで、あの中で一番明るかったくらいだから、他の想像できるでしょ。で、ミキサーが“何だこれは?”って事になって。だって、1時間ぐらいブスーッとして音も出さない」「お互いこのあと別れるんだな、とか思うと、やっぱり沈むよね。だんだん暗くなってきちゃって、“おまえら何やってんだ!”とか怒り出した。理由もなく、しょうがないからニコニコしちゃってね。それからようやく音のほうもうまい具合に行きはじめた」という。また、細野も「僕たちはしらーっとした気持で自分たちのレコーディングをやっていてね、エンジニアからもっと笑え、もっと笑えって言われながら、なんで笑わなくちゃいけないんだって思いながら、僕たちは無表情ですからね」という。そして、三浦によれば「自分の作った曲を自分がプロデュースして、後はバック・ミュージシャンに徹するって考え方だから、その間に自分の曲が作れる。はっぴいえんどってのは、グループっていうよりも、本当ソロ・アルバムを作ってる感じだったものね。だから普通は、曲があって、みんなで話し合ってこうやって行こうってのがあるんだけれど、細野君の曲は細野君が全て、これはこうやるんだ、これはこうやるんだ。大瀧君の曲は大瀧君が全て、これはこういく、これはこういくでしょ。で、茂は自分の作った曲はこうやって、こうやるんだって。もう全部そういう形だったから」「割とタレントとディレクターの付き合いっていうより、僕なんかこう一歩下がっちゃって、もうスターを見る目で見てたからね」という。
  • 10月12日、<田舎道>、<外はいい天気>レコーディング(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ))。
  • 10月12日、<さよならアメリカ さよならニッポン>レコーディング(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ))。ヴァン・ダイク・パークスがレコーディングに参加。歌詞について、後に松本は「向こうである若いミュージシャンに、君たちは日本から僕たちの仕事を取りに来るのかと言われたことがあってね。その一言で、僕はすごくアメリカに幻滅を感じた。それまで憧れていた風船がしぼんで、それが<さよならアメリカ さよならニッポン>になった」[15]と答えている。
  • 10月13日、ブラス・セクションを中心に、現地ミュージシャンによるダビング開始。ブラスのアレンジはカービー・ジョンソンが手がけた。
  • 10月16日、レコーディングの合間に、はっぴいえんどのメンバーとポコの事務所を訪問。リッチー・フューレイらと会う。山本隆士が同行。この会見の模様は後に雑誌『ヤングギター』1973年1月号に掲載された。
  • 10月18日、レコーディング終了(サンセット・サウンド・レコーダーズ(2スタ))。
  • 10月22日、サンフランシスコの日系人向けテレビ局KEMOの番組に出演。<田舎道>を演奏。この時の映像は三浦が1インチ・テープで保管しているという。
  • 10月25日、はっぴいえんど、帰国。後に細野は「バンドにとってじゃなく、個人的なそれぞれに、リトル・フィートとヴァン・ダイク・パークスのもたらした影響が、絶大ならぬものがあった」とし、「その後の一人一人については、茂にも大瀧にも松本にもあったと思う。まあ、それぞれ自立できる力をもらったというか。ある意味、解散を後押ししてくれた。サンセット・サウンドでの体験は学校みたいなもんですね。ミュージシャンとしての免許皆伝に近いかな、これは体験を通してでしか得られないものなんです」という。
  • 秋、細野、狭山市鵜ノ木の通称“アメリカ村”に移住。この頃返還されたかつての米軍ハウスが、民間人に格安な家賃で提供され始めていた。そのため、アメリカのヒッピー・コミューンに憧れを持っていたミュージシャンをはじめとするクリエイターたちが自分たちのコミュニティを作ろうと、東京を離れて移ってくるようになった。細野も「一足先にアメリカ村に住んでいたWORK SHOP MU!!の仲間が見つけてくれたんですよ。当時、僕らは彼らのことを“ハイエナ”と呼んでました。家具やら何やらいろんないいものを拾ってくるんですよ。誘われて来たんです。なにしろ、家賃が2万ちょっとだったから。すごく贅沢な家だった。庭が広いし、洋風に作られていて、とても現実的な家じゃなかった」という。一戸建ての住宅は2LDKで天井が高く、庭もあったが、実際には湿気が多くかなりかび臭かったという。細野は「都会はどんどん変わりつつあった。原風景は破壊されて、はっぴいえんどのときにはあった“風街”って幻想もなくなった。東京生まれの自分にとって、故郷の喪失、不自然な状態。それで、田舎に憧れたんだよ。もちろんブームもあった。バック・トゥ・カントリーで、周りもみんな子供を作り、コミュニティを作る。コミューンみたいなところで、何かドロップアウトの気分で、皆が集まってきたわけです」という。「70年代の初頭は、ジェイムス・テイラーを筆頭にシンガー・ソングライターが出てきた時期でね。いくら憧れても、東京じゃできなかったんです。やっぱり、音楽は景色や空気と密接に繋がっているから。アメリカの西部へ行けないとすれば、アメリカの匂いのする田舎、狭山が一番近い環境だった。要するに僕自身、カントリー志向だったわけ。自然の中で暮らしたいと思っていた。やっぱり、これは都会しか知らなかったことへの反動だと思うんだ」というが、「でも真似事だね。バーチャル・アメリカン・カントリーを狭山で作った」のだという。
  • 11月22日、“コンサート・コレクション・パート1”。(目黒・杉野講堂 共演:加川良、泉谷しげる、小坂忠)。松本欠席によりドラムスは林立夫が担当。
  • 11月25日、大瀧、ソロ・アルバム『大瀧詠一』発売。
  • 11月、細野、鈴木と林から新バンドのベーシストとして誘われる。細野のソロ・アルバムのレコーディングに、鈴木 • 林 • 松任谷正隆の参加が決まる。
  • 12月、細野、スタッフ・ミーティング。ソロ・アルバムのレコーディングを狭山市鵜木の自宅で行うことが決まる。普通の民家でレコーディングしてみようというアイデアは、吉野金次から出されたものだった。細野は「僕らがレコーディングしようとする場合、いいスタジオということになると、結局、モウリ・スタジオとかアオイスタジオしかないんですね。ところが、そういった貸スタジオで何度かレコーディングしてきてると、そこで録音できる音がもうわかってくるというか、限定されてくるんです。で、吉野さんと話していたら、自宅でやったほうがいいんじゃないかということになって。自宅にあるごく普通のソニーのテープレコーダーを使って自分で録音してみたことがあるんですが、それを聴いてみると、非常にリラックスしていていいわけです。その延長上でやりたく思ったんです」という。さらに「何しろ初めてのソロだったし、あまり歌にも自信がなかったから、リラックスすることがいちばん大事だったんです。ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の影響もあったし、住んでるのが同じような家だったんでね。ピンク色じゃなかったんですけど」ともいう。そして吉野は「我々録音スタッフが狭山のアメリカ村にある細野さんの自宅『ホソノハウス』に集まったのは、レコーディングの始まる2か月ほど前だった。初めての道だったこともあるが1時間以上も遅刻してしまった。細野さん以外にキャラメル・ママのメンバーも勢ぞろいしていた。細野さんが自らミルで挽いた豆でコーヒーを入れてくれた。細野さんのアルバムを作る話が出た時、僕はまず、どうしたら彼がレコーディングしやすい状態が作れるか、と考えたわけです。その場合、モウリ・スタジオを使ったとしても満足できる結果が得られるとは思えなかったわけです。それはスタジオの性能が悪いからということではないのです。いままでそこで一応時間もかけてできるだけのことをやってきたわけで、じゃ、それ以上のものを期待するにはどうすればいいだろうかということになり、たとえば細野さんの家とか、生活の延長上でやるのはどうかという線が出てきたのです」とし、さらに「あの残響が少なめの、普段の生活環境とはずいぶん違った生音の聞こえ方がするスタジオにいると、楽器を弾いたり歌ったりしていなくたって、そこにいるだけで落ち着かなくなってしまうし、また、プロのスタジオ・システムそのものが持っている特殊なムードみたいなものがあり、細野さんがリラックス出来ない、というのもわかる気がする。打ち合わせを続けていると、細野さんがソロ・アルバムでイメージしている音のことに今迄以上に気が付き始めてくる。アメリカ村で自宅録音が出来そうかと相談されていたのだったが、徐々にどうしても録音を実現させるぞという気持ちになってきた」ともいう。
  • 12月、大瀧、三浦光紀と“ごまのはえ”のコンサートを見に行き、伊藤銀次と意気投合。プロデュースの約束をする(高槻市民会館)。当時、ごまのはえはディレクター岩井宏のもと、シングル「留子ちゃんたら」で72年にベルウッドからデビューしていた。そしてシングルだけでなく、いずれはアルバムもベルウッドからリリースする予定だったという。伊藤によれば「72年の秋にそろそろアルバムだなって言われたんですよ。どうしようかなって。でもよくあんな生意気なこと考えるなって思うんだけど、はっぴいえんどの音がダントツにいいし、それは楽器のアレンジメント、配置なんかも含めて、エンジニアの人がやってるところもあるだろうけど、これは絶対にメンバーにそういう力があるんだろうと。じゃ、細野さんか大瀧さんに頼んでみるかって生意気なことを言ってたわけ。じゃ、細野さんと大瀧さんとどっちがいいと思うって。どっちにしようか悩んでたんだけど、<颱風>とか大瀧さんの曲はすごく大阪っぽいって言ったらおかしいけど東京っぽくなかったんですよ。その当時すでに大瀧さんのファーストがあって。ラッカー盤でもらってたの。まだ本盤が出る前に。だから、<いかすぜ! この恋>はそのまま聴いていたの。あれ聴いて、大笑いだったの。すごいこの人はって。すごいパロディ精神で、そっくりだし、タイトルは全部入ってるし。こういう遊び心のある人はいいなあと思って。はっぴいえんどっていう器の中では、はっぴいえんどの大瀧詠一っていうのがあるけど、大瀧詠一っていう人はもっと違うものを持っている人で、ひょっとしたら僕らのような大阪のバンドを面白がってやってくれるかもしれないって。でもこの段階では鼻にもかけられないだろうと思ってたら、興味あるって言われたから。高槻市民会館まで見に来てもらって」[34]と話している。
  • 12月31日、はっぴいえんど、正式に解散。

1973年[編集]

  • 1月、大瀧、東京都福生市に引っ越す。奥村靫正によれば、大瀧も狭山を見に来たが、福生にいいハウスを見つけてこちらに住むようになったという。
  • 2月15日、細野、ソロ・アルバムのレコーディング開始(~3月16日)。機材が狭山市鵜木の自宅に運び込まれる。このレコーディング中、細野 • 鈴木 • 林 • 松任谷とのバンドが“キャラメル・ママ”と命名される。名付けた細野は「学生運動の中でこう、キャラメルを息子にあげる、ママみたいなね。甘ったれた息子に。甘やかすようなね。そんなような名前が、ちょっとだけ出てきた、流行ったことがあって。新聞かなんかで読んで、それをいただいたんです。コンセプトも何もないんですね」という。
  • 2月16日、細野ソロ・アルバムのレコーディング。機材の設置とサウンド・チェック。北中正和が見学に訪れる(狭山市鵜木自宅)。
  • 2月17日、細野、ソロ・アルバムの本格的なレコーディング開始(13:00-18:00、狭山市鵜木自宅)。自宅でメンバーが合宿状態でレコーディングを行うことは、正味に使える時間が長いという利点とともに、一つ間違うとしまりなくダラダラやってしまう危険性を感じた細野は、レコーディング時間を1時から6時までと区切り、3日やったら1日休むことにした。
  • 2月25日、アルバム『HAPPY END』、シングル「さよならアメリカ さよならニッポン / 無風状態」同時発売。アルバムについて細野は「僕とか大瀧とか茂が飛び出しちゃったのね。すると地が出てきて、あの、陽気なね。ジャケットのイメージも強いけどね。松本の色があそこで出てたら、『風街ろまん』よりもっとダークな、落ち込んだシリアスな世界になってたと思う」という。
  • 3月10日、細野、ソロ・アルバムのレコーディング。ホーン・セクションのダビング(13:00-18:00、狭山市鵜木自宅)。
  • 3月11日、細野、ソロ・アルバムのミックス・ダウン(~12日2:00頃、狭山市鵜木自宅)。
  • 3月12日、細野、ソロ・アルバムのレコーディング完了(狭山市鵜木自宅)。
  • 3月、細野、ソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』のための撮影(狭山・WORKSHOP MU!!、撮影:野上眞宏)[32]
  • 4月19日、細野、ソロ・アルバムのカッティングに立ち会う。吉野金次、北中正和らが同行(キングレコード埼玉工場)。
  • 4月、キャラメル・ママ、バンド活動の他にプロデュース・チームとしてヴォーカリストのバッキング活動も行う方針が固まる。
  • 春、荒井由実のアルバム・レコーディングが決まり、アルファレコード社長村井邦彦のところに、風都市の石浦とキティの多賀英典の両方からプロデュースの売り込みがあり、村井の判断でキャラメル・ママがレコーディングに参加することが決まる。
  • 5月25日、細野ソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』発売。
  • 9月1日、ベスト・アルバム『CITY ⁄ HAPPY END BEST ALBUM』発売。
  • 9月19日、キャラメル・ママ、リハーサル。
  • 9月20日、はっぴいえんど、リハーサル(場所不明)。石浦からの要望で、ピアニストとして鈴木慶一の参加が決定。後に鈴木は「マネージャーの石浦さんから『ぜひ、やってくれ』といわれたんだけど。その当時だってもっとうまいピアニストはいっぱいいたんだけどね、彼の最後のロマンティシズムじゃないか。僕がはっぴいえんどともに、日本語のロックの黎明期を歩んだという印象があったんだよ。だから最後もおまえがつきあえ、というような」といい、「これは石浦くんの起承転結の結のつけ方で、関わり方としても、腕前としてもちょうどいいだろう、ということで」と話している。また「リハーサルに行ったら、これがまたすごい。すごいものを見てしまった。大瀧さんが松本さんに『こういうパターン、叩ける?』というと、『叩けない』とぶすっと答えるんだよ。すると大瀧さんが『じゃあ叩けるまで待とうじゃないか』とこうきちゃう」とも答えている。
  • 9月21日、はっぴいえんどラスト・ライブ“CITY -Last Time Around”(文京公会堂 出演:大瀧詠一、ムーンライダース、ココナツ・バンク、西岡恭蔵、吉田美奈子、南佳孝 他)。<田舎道>、<氷雨月のスケッチ>、<夏なんです>、<はいからはくち>、<12月の雨の日>、<かくれんぼ>、<抱きしめたい>、<春よ来い>を演奏。後に『ライブ・はっぴいえんど』として発売[注 11]。吉野金次によれば、PAに夢中になっていたため録音のマルチ・テープがなくなっているのに気づかず、テープ・チェンジが遅れて<抱きしめたい>の出だしの部分が録れていないという。
  • 9月25日、細野ソロ・シングル「恋は桃色 / 福は内鬼は外」発売。

1974年[編集]

  • 1月15日、“CITY -Last Time Around”での模様を収録したライブ・アルバム『ライブ・はっぴいえんど』発売。はっぴいえんどの他、大瀧詠一 & ココナツ・バンクと西岡恭蔵のライブを併録。
  • 6月25日、ベスト・アルバム『SINGLES』発売。

1985年[編集]

  • 6月15日、「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」(国立競技場)。再結成ライブ。メドレー<12月の雨の日>~<風をあつめて>~<花いちもんめ>と<さよならアメリカ、さよならニッポン>を演奏。サポートとして、ワールド・スタンダード、ピチカート・ファイヴ、福原まりが参加。
  • 7月17日、記者会見。“はっぴいえんど宣言”を発表。
  • 9月5日、“ALL TOGETHER NOW”での模様を収録したライブ・アルバム『THE HAPPY END』発売。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1966年発足。メンバーは立教大1年生の柳田優、岡野正、田中恵一。SCAPという名前は“参謀本部”というような意味のつもりでつけられた。
  2. ^ “PEEP”の意味は英語の直訳から「のぞく」といわれていたが、本人たちは「くちばしの黄色いヒヨコがピーピー歌っている」という意味でつけられたという。
  3. ^ ジョージのママは、後に松本が全曲作詞を手掛けた南佳孝のアルバム『LAST PICTURE SHOW』(1986年2月26日発売 CBS/SONY CD:32DH352)収録曲<ミーン・ストリート>に“アレサによく似たママ”として登場する。
  4. ^ 細野のボックス・セット『HOSONO BOX 1969-2000』(2000年3月23日発売 Rewind / daisyworld 4CD:RWCL-20003-6)には、カセットで録音された“ザ・ジャムセッション・2”での<ミスター・ソウル>が収録されている。
  5. ^ あがた森魚と鈴木慶一がリハーサルを見学したのは同年3月19日との説もあり。
  6. ^ a b BOXセット『はっぴいえんどBOX』Disc 1のボーナス・トラックとして収録。
  7. ^ 雑誌『レコード・コレクターズ』2010年8月号表紙はこのときのもの。
  8. ^ この日14:02、札幌発東京行の全日空機と自衛隊の訓練機が岩手県雫石町付近上空で衝突し、全日空機の乗員・乗客162名全員が死亡する全日空機雫石衝突事故が起きた。細野と鈴木は、事故機となった全日空機よりも東京への到着がわずかに早いという理由から偶然にも日航機を選択し、難を逃れた。
  9. ^ 佐野史郎所蔵によるエアチェック音源が、BOXセット『はっぴいえんどBOX』Disc 5のエクストラ・コンテンツとして収録。
  10. ^ 細野と山本隆士がサンセット・サウンド・レコーダーズ、鈴木と大瀧がクローヴァー・スタジオとそれぞれ異なる回想している。また、見学はLA到着直後とする山本に対し、細野や鈴木は、はっぴいえんどのレコーディング後とする証言も残しているため、複数回見学している可能性が考えられる。
  11. ^ 1974年1月15日発売 Bellwood ⁄ KING LP:OFL-20

出典[編集]

  1. ^ a b 野上眞宏「1 細野晴臣との出会い」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、4-7頁。 ASIN B001FADJZ2
  2. ^ 野上眞宏「2 PEEP」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、8-10頁。 ASIN B001FADJZ2
  3. ^ a b c 野上眞宏「5 ザ・スピード」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、18-22頁。 ASIN B001FADJZ2
  4. ^ 野上眞宏「7 ロング・バケイション」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、26-29頁。 ASIN B001FADJZ2
  5. ^ a b 篠原章「松本隆に聞く 文学少年から作詞家への道」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、86-89頁。 ASIN B001FADJZ2
  6. ^ a b 野上眞宏「3 僕らのアメリカン・グラフィティ」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、11-13頁。 ASIN B001FADJZ2
  7. ^ a b c 野上眞宏「4 ザ・ジャム・セッション・3」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、14-17頁。 ASIN B001FADJZ2
  8. ^ 『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』株式会社ブルース・インターアクションズ、2002年、4-9頁。ISBN 4-86020-054-3 
  9. ^ 野上眞宏「6 記憶」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、23-25頁。 ASIN B001FADJZ2
  10. ^ 『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』株式会社ブルース・インターアクションズ、2002年、10-19頁。ISBN 4-86020-054-3 
  11. ^ 『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』株式会社ブルース・インターアクションズ、2002年、24-28頁。ISBN 4-86020-054-3 
  12. ^ a b c d 『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』株式会社ブルース・インターアクションズ、2002年、30-39頁。ISBN 4-86020-054-3 
  13. ^ レコード・コレクターズ2月増刊号『<レココレ・アーカイヴズ7> 日本のロック ⁄ ポップス』(株式会社ミュージック・マガジン)pp.193-209 特集 小坂忠“『ほうろう』で日本のロック史に大きな足跡を残すシンガー ⁄ ソングライターの歩み”(インタヴュー ⁄ 文=篠原章)、2012年2月21日発行・第31巻第3号・通巻411号
  14. ^ 萩原健太「大滝詠一に聞く 歌うということ」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、82-85頁。 ASIN B001FADJZ2
  15. ^ a b c ヒロ宗和「はっぴいえんどコンプリート年表 1966-1970」『ロック画報 01』第1号、株式会社ブルース・インターアクションズ、2000年6月25日、80-99頁、ISBN 978-4938339746 
  16. ^ a b 北中正和「01 松本隆インタヴュー」『ロック画報 01』第1号、株式会社ブルース・インターアクションズ、2000年6月25日、12-21頁、ISBN 978-4938339746 
  17. ^ 『HAPPY I SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968-1970』株式会社ブルース・インターアクションズ、2002年、76-77頁。ISBN 4-86020-054-3 
  18. ^ a b 北中正和「細野晴臣、鈴木茂に聞く 出会い、録音、新バンド」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、76-81頁。 ASIN B001FADJZ2
  19. ^ 萩原健太著 文庫版『はっぴいえんど伝説』(シンコー・ミュージック)pp.31-39 “Chap.2:HAIKARA BEAUTIFUL”、1992年10月23日発行
  20. ^ a b c d e 小倉エージ「一枚のシングルからはじまった伝説」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、96-101頁。 ASIN B001FADJZ2
  21. ^ 『<レココレ・アーカイヴズ7> 日本のロック ⁄ ポップス』 pp.163-192 特集 遠藤賢司“遠藤賢司が熱く語った28年、不滅の足跡”(北中正和)
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  24. ^ 野上眞宏「9 シブヤ西武MAYカーニバル」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、34-38頁。 ASIN B001FADJZ2
  25. ^ 文庫版『はっぴいえんど伝説』pp.41-77 “Chap.3:CITY”
  26. ^ a b 月刊『ミュージック・ステディ』1984 5月号 No.14 1984年5月15日発行(ステディ出版)pp.43-76“MUSICIAN FILE:大滝詠一徹底研究II”
  27. ^ 小倉エージ「果たせなかった再会 -“ゆでめん”を作ったころ、夢見ていた音楽のこと」『レコード・コレクターズ』第33巻第4号、株式会社ミュージック・マガジン、2014年3月1日、38-40頁、ISBN 4910196370343{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  28. ^ ゆうえんち 浜名湖パルパルは翌18日に開業した模様で、17日は移動日のため公演が行われなかった可能性がある。
  29. ^ 『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』株式会社ブルース・インターアクションズ、2002年、60-67頁。ISBN 4-86020-054-3 
  30. ^ 『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』株式会社ブルース・インターアクションズ、2002年、68-75頁。ISBN 4-86020-054-3 
  31. ^ 野上眞宏「10 三田祭前夜祭」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、39-43頁。 ASIN B001FADJZ2
  32. ^ a b 野上眞宏「15 自分の好きなこと」『はっぴいな日々』第19巻第10号、株式会社ミュージック・マガジン、2000年7月31日、61-65頁。 ASIN B001FADJZ2
  33. ^ 『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』株式会社ブルース・インターアクションズ、2002年、182頁。ISBN 4-86020-054-3 
  34. ^ 湯浅学「対談 伊藤銀次×大滝詠一」『レコード・コレクターズ』第25巻第4号、株式会社ミュージック・マガジン、2006年4月1日、54-61頁、ISBN 4910196370466{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。