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諸葛誕の乱(しょかつたんのらん)は、中国三国時代の魏の大将軍司馬昭が、寿春において、諸葛誕による淮南の反乱軍と呉軍の合計約20万人を平定した戦いであり、寿春三叛と総称される3つの反乱のうちの第三の反乱である。別名、寿春の戦い。
背景
[編集]魏の後期、征東大将軍諸葛誕は、友人である鄧颺、夏侯玄らが相次いで誅殺され(高平陵の変)、王淩(王淩の乱)と毌丘倹(毌丘倹・文欽の乱)もまた三族が誅滅されたことから、司馬師・司馬昭の兄弟が権力をほしいままにしていることに不満を抱くとともに、不安を覚えていた。そのため、諸葛誕は、官府の庫中にある財物を供出したり、罪ある者の刑を免じたりして人心を買収し、揚州の侠客数千人を囲って自己の護衛のための敢死隊とした[1]。
甘露元年(256年)冬、呉が徐堨[注釈 1]を攻撃する機会を窺っていた折、諸葛誕は、自らの軍が防衛するのに十分であることを知っていたため、十万を兵を率いて寿春に赴いて防衛することを朝廷に対して求めるとともに、淮水に城壁を築いて呉軍の侵犯を防ぐことを要請した。当時、朝政は司馬昭が掌握していたが、長史の賈充の建議によって、部下を派遣し、四征将軍(征東将軍、征南将軍、征西将軍、征北将軍)を慰労させ、その動向を観察させようとしていた。司馬昭は、賈充を淮南に派遣した。賈充は、諸葛誕と面会し、時事について談論した。賈充は、「洛中の賢人は、みな禅譲を実行することを希望している。あなたはどう思うか」と諸葛誕に対して質問した。諸葛誕は、「あなたは賈豫州(賈逵)のご子息ではないのですか。あなたの家は、代々、魏の朝廷から恩恵を受けているのに、どうして国家を他人にやってしまうことができるのでしょうか(いや、そんなことはできないはずだ。)」と厳しく答えた。賈充は、黙して語らなかった。賈充は、帰朝して、司馬昭に対し、「諸葛誕は再び揚州に到達した後、士民の心を深く掌握しています。今、彼を召還したとしても、彼はきっと来ず、かえって謀反を起こすでしょうが、その害は大きくありません。もしも、彼を召還しなかった場合は、謀反の害が大きくなります。そのため、彼を召還したほうがよいと思います。」と述べた[2]。
司馬昭は、賈充の意見を採用し、甘露2年(257年)4月、諸葛誕を司空に任命し、京師に召還した。諸葛誕は、詔書を拝受すると、恐れをなした。諸葛誕は、揚州刺史の楽綝が離間の計を講じているものと考えて、楽綝を殺害することを企て、楽綝の殺害に反対した主簿の宣隆や、部曲督の秦絜を殺害し、淮南及び淮北に屯田していた十余万の兵と、揚州にて新たに召募した壮兵4、5万人を集めるとともに、これらの兵の1年分の糧食を集めて、籠城戦の準備を開始した。平寇将軍で臨渭亭侯の龐会と、騎督偏将軍の路蕃は、諸葛誕の行動に同意せず、諸葛誕の軍勢から離脱した[3]。諸葛誕は、長史の呉綱に命じて、自らの子である諸葛靚を呉に送り、呉の臣を称して救援を求めるとともに、部下の将士の子弟を人質とみなすよう求めた[4]。
諸葛誕は、呉と連携したことによって、魏と呉の前線に存在した要塞の合肥新城を防衛する必要がなくなり、合肥新城に駐屯していた将兵を集めて、合肥新城を空城とした。その結果、この戦いの初期において、呉軍にとっては、江東と寿春との間に遮るものがなくなり、スムーズに往来することが可能となった。
経過
[編集]呉綱が呉に至ると、呉の政柄を執っていた孫綝は大いに喜び、全懌、全端、唐咨、王祚らの将軍と3万人の兵士を文欽とともに諸葛誕を救援するために派遣した。そして、諸葛誕を左都護,持符節、大司徒、驃騎将軍、青州牧に任命し、寿春侯に封じた[5]。
司馬昭は、魏帝曹髦と郭太后を奉じて出征した。曹髦は、散騎常侍の裴秀と黄門侍郎の鍾会を先発させた。荊州刺史の魯芝は、州の文官と武官を率いて先駆した。魏軍は、蒗蕩渠[注釈 2]、穎水を経て、淮水へと入った。甘露2年(257年)6月甲子(25日)、曹髦らの車駕は項県へと至り、司馬昭は、青州、徐州、荊州、豫州から召集した諸軍及び関中の遊軍26万人を率いて丘頭に進駐した。同時に、廷尉の何楨に仮節を与え、淮南へ派遣して将士を宣慰させた。また、鎮南将軍の王基を行鎮東将軍、都督揚・豫諸軍事とし、安東将軍の陳騫らとともに寿春を包囲させた。将軍の李広は、戦いに臨んで進まず、泰山太守の常時(常林の子)は、病と称して出陣しなかったため、いずれも司馬昭によって軍法をもって斬刑に処された[6]。王基が寿春に至り、未だ包囲が完了していない時点で、文欽・全懌らは、城の東北の険しい山から城内へと軍隊を突入させた[7][8]。諸葛誕は、司馬昭の弟である東中郎将で広陽侯の司馬亮を敗走させ、司馬亮はこれによって免官された[9]。呉は、奮威将軍の陸抗を柴桑督に任じ、魏の牙門将、偏将軍を撃破した。戦後、陸抗はこの功績をもって征北将軍に昇進した[10]。
そのころ、魏の驃騎将軍の王昶は、夹石[注釈 3]に駐屯して呉の江陵に圧力を加えていたため、江陵の守将である施績、全煕らは、江陵を離れて諸葛誕を支援するために寿春に向かうことができなかった。
司馬昭は、王基に対し、軍を集めて堅守し、呉軍と交戦しないように命じた。王基が進攻することを何度も求めたところ、ちょうど、呉の朱異が3万人を率いて安豊に進駐し、外部で文欽と呼応する勢力となった。そこで、王基は、勅令により、諸軍を移動させて北山を占拠した。王基は、諸将に対し、「今や、すでに、包囲の営塁は堅固となった。兵馬も近づき、集中している。この時点では、守備する側の準備を入念に行い、敵軍が包囲を破って逃走するのを待つだけでよい。ただし、
司馬昭命令王基聚攏軍隊堅守壁壘不與吳軍交戰。王基屢次要求進攻,恰好吳國的朱异率領三萬人進駐安豐,成為文欽的外部接應勢力,詔令王基率領諸軍轉移佔據北山。王基對諸將說:“如今包圍的營壘已經堅固了,兵馬也近於集中,此時只應精心整治守備力量以等待敵人突圍逃跑,但是卻命令我們轉移兵力把守險要之地,使城內敵人得以放縱,如果這樣做,即使有聰明之人,也不能很好地處理以後的戰事!”於是就堅持有利的做法繼續包圍壽春,同時又上疏說:“如今與敵人對峙,我們就像山那樣巋然不動,如果轉移部隊依據險要,人心就會動盪不安,對於形勢有很大損害。各軍都已據守深溝高壘的營盤,眾心都已穩定,不可再加以動搖,這是治軍的要領。”上奏章之後,回報說同意王基的意見。於是王基等人四面合圍,形成里外兩層包圍圈,深溝高壘的防禦工事非常堅固。文欽等人多次出城企圖突破包圍,都受到迎面還擊而逃回[11]。
司馬昭又派奮武將軍監青州諸軍事石苞統領兗州刺史州泰、徐州刺史胡威的輕裝精銳士卒作為游動軍隊,以防備外面的敵兵。州泰在陽淵擊敗了朱異,朱异逃走,州泰在後面追趕,殺傷了吳兵二千人[12]。
七月,孫綝出動眾多兵力駐紮在鑊裡,又派朱異率將軍丁奉、黎斐等五人前去解壽春之圍。但孙綝自己却畏敌,驻扎在巢湖舟中,不敢亲临前线,孙亮命他上岸援助唐咨,他也不动。朱異把輜重糧草留在都陸,進駐黎漿,石苞、州泰又擊敗了他。太山太守胡烈率奇兵五千人偷襲了都陸,全部焚毀了朱異的物資糧草,朱異率領剩餘兵力吃著葛葉,逃歸孫綝處;孫綝讓朱異再次拼死出戰,朱異以士卒缺乏糧食為由,不服從孫綝的命令。孫綝大怒,九月一日,孫綝在鑊裡殺了朱異,領兵回到建業。孫綝既不能救出諸葛誕,而且又傷亡了大量士卒,還殺戮自己的名將,因此吳人沒有不怨恨他的[13]。孙綝改派弟弟孙恩援救诸葛诞。
司馬昭說:“朱異不能到達壽春,不是他的罪過,但吳人卻殺了他,這是想以此來安撫壽春的將士而堅定諸葛誕守城的意志,讓他仍然盼望著救兵。如今應加強包圍,防備他們突圍逃跑,而且要想方設法使他們判斷失誤。”於是到處放風行反間之計,揚言說:“吳國救兵就要到了,魏國的大軍缺乏糧食,要分散派遣病弱的士卒到淮北去吃那裡的糧食,看形勢圍攻不會太久了。”[14]
諸葛誕等人更加放寬心任意吃糧,沒過多久城中糧食告乏,而外邊的救兵仍然未到。將軍蔣班、焦彝,都是諸葛誕的心腹謀士,此時對諸葛誕說:“朱異等人率眾多兵力前來而不能進城,孫綝殺掉朱異而回到江東,表面上是以發救兵為名,內裡實際上是要坐等成敗。如今應趁眾人之心還能穩定,士卒願意效力,集中力量拼死命攻其一面,儘管不能獲全勝,仍有可能保全部隊實力,如果空坐這裡死守,是沒有出路的。”文欽說:“您如今率領十餘萬士卒來歸附於吳國,而我與全端等人都與您共同居於死地,我們的父兄子弟都在江南,即使孙綝不想來,而主上及其親戚又怎麼肯聽他的呢?而且魏國沒有一年是沒事的,軍民都很疲憊,如今他們圍守我們一年,內變就將興起,為什麼我們要捨棄這里而想冒著危險僥倖一戰呢?”蔣班、焦彝仍堅持勸他,文欽十分惱怒[15]。
諸葛誕要殺掉蔣班、焦彝,二人非常害怕,十一月,他們背棄諸葛誕越過城牆來投降。全懌哥哥的兒子全輝、全儀在建業,與家內之人發生爭執,就帶著母親率領部曲數十家來投奔魏國。此時全懌與其兄之子全靖以及全端之弟全翩、全緝都領兵在壽春城中,司馬昭採用黃門侍郎鍾會的計策,秘密地替全輝、全儀寫了書信,並讓全輝、全儀的親信之人送入城中告訴全懌等人,說:“吳國朝廷惱怒全懌等人不能擊敗包圍壽春的敵兵,而想要殺盡諸將的家屬,因此跑出來歸順魏國。”十二月,全懌等人率領手下兵將數千人開城門出來投降,城中的人十分震恐,不知怎麼辦好。詔令任命全懌為平東將軍,封臨湘侯,全端等人的拜官封職各有差等[16]。
王昶子王沦作为大将军参军参战,染病而死,司马昭为他落泪。
甘露三年(258年),文欽對諸葛誕說:“蔣班、焦彝認為我們不能出城而走,全端、全懌又已率眾投降,這正是敵人沒有防備的時機,可以出城一戰了。”諸葛誕和唐諮等人都認為很對,於是就大力準備進攻的器具,連續五六個晝夜進攻南面的包圍,想要突破重圍而出。包圍圈上的魏國諸軍站在高處發射石車火箭,迎面燒破敵方的進攻器具,箭石像雨一樣瀉下,死傷者遍地,流血充滿塹溝,諸葛誕等又被迫返回城中。城內的糧食越來越少,出城投降者有數万人之多。文欽想讓北方人都出城投降以節省糧食,留下他與吳國人一起堅守,但諸葛誕不同意,從此兩人之間互相怨恨。文欽平時就與諸葛誕有矛盾,只是因為反對司馬昭的想法相同而結合,事態緊急了就愈加互相猜疑。文欽進見諸葛誕商量事情,諸葛誕就殺掉了文欽。文欽之子文鴦、文虎領兵在城东一里诸葛诞所筑的小城(后世称诸葛诞城)中,聽到文欽的死訊,就想帶兵去為父報仇,但眾人不為他們效命,二人隨即獨自越過城牆逃出來,投降了司馬昭[17]。
軍吏請求殺了他們,司馬昭說:“文欽罪不容誅,他的兒子本來也應該殺掉;但文鴦、文虎因走投無路而歸順,而且城還沒攻破,殺了他們就更堅定了城內敵兵的死守之心。”於是赦免了文鴦、文虎,讓他們率數百騎兵巡城高呼:“文欽之子尚且不被殺,其餘之人有什麼可害怕!”又讓文鴦、文虎都擔任將軍,並賜爵關內侯。城內之人聞訊都很高興,而且人們也日益飢餓困乏。司馬昭親自來到包圍圈,見城上持弓者不發箭,就說:“可以進攻了。”於是下令四面進軍,同時鼓譟吶喊登上城牆,二月二十日,魏軍攻克壽春城。諸葛誕情急窘迫,單槍匹馬率領麾下从小城突围,司馬胡奮手下的兵士把他殺死,又誅殺其三族。諸葛誕麾下的數百人,都拱手排成隊列,卻不投降,每殺一人,就問其餘的人降不降,而他們的態度終究不變,以至於最後全部殺盡。吳將于詮說:“大丈夫受命於君主,帶兵來救人,既不能取勝,又要被敵人俘虜,我決不如此。”於是就脫掉盔甲突入敵人兵陣而戰死。唐諮、王祚等人都投降了。俘虜的吳國兵卒有一萬多人,繳獲的兵器堆得像山一樣[18]。
寿春城每年都下雨,淮水上涨淹没城池。司马昭刚筑工事围城时,诸葛诞笑他会不攻而自败。司马昭攻城时,却旱灾一年有余。城陷当日才大雨,司马昭的围城工事都被毁。
孙恩得知诸葛诞败亡后,也引兵回国。
結果
[編集]壽春之戰後,司馬昭成功剷除擁護魏帝的勢力。司馬昭被下詔為相國,封晉公,食邑八郡,加九錫,朝中的勢力已無出其右,為司馬氏篡魏奠基[19]。
当初反对诸葛诞起事的众人中,庞会进爵乡侯,路蕃封亭侯;宣隆、秦絜之子都被用为骑都尉,加以赠赐[3]。
評価
[編集]元朝史学家胡三省认为,魏军牢牢围困寿春后,即使周瑜、吕蒙、陆逊复生,也不可能解围了。如果孙綝举荆、扬之众出襄阳攻打宛、洛,迫使围攻寿春的军队回救,诸葛诞、文钦趁机突围,才有成功的可能。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『三国志』巻28魏書「諸葛誕伝」:誕既與玄、颺等至親,又王凌、毌丘儉累見夷滅,懼不自安,傾帑藏振施以結眾心,厚養親附及揚州輕俠者數千人為死士。〈魏書曰:誕賞賜過度。有犯死者,虧制以活之。〉
- ^ 《三國志 卷二十八 魏書 王毌丘諸葛鄧鍾傳》:甘露元年冬,吳賊欲向徐堨,計誕所督兵馬足以待之,而復請十萬眾守壽春,又求臨淮築城以備寇,內欲保有淮南。朝廷微知誕有自疑心,以誕舊臣,欲入度之。世語曰:司馬文王既秉朝政,長史賈充以為宜遣參佐慰勞四征,於是遣充至壽春。充還啟文王:“誕再在揚州,有威名,民望所歸。今徵,必不來,禍小事淺;不徵,事遲禍大。”乃以為司空。書至,誕曰:“我作公當在王文舒後,今便為司空!不遣使者,健步齎書,使以兵付樂綝,此必綝所為。”乃將左右數百人至揚州,揚州人欲閉門,誕叱曰:“卿非我故吏邪!”徑入,綝逃上樓,就斬之。魏末傳曰:賈充與誕相見,談說時事,因謂誕曰:“洛中諸賢,皆原禪代,君所知也。君以為云何?”誕厲色曰:“卿非賈豫州子?世受魏恩,如何負國,欲以魏室輸人乎?非吾所忍聞。若洛中有難,吾當死之。”充默然。
- ^ a b 《三國志 卷四 魏書 三少帝纪》:己卯,诏曰:“诸葛诞造构逆乱,迫胁忠义,平寇将军临渭亭侯庞会、骑督偏将军路蕃,各将左右,斩门突出,忠壮勇烈,所宜嘉异。其进会爵乡侯,蕃封亭侯。”……秋八月,诏曰:“昔燕剌王谋反,韩谊等谏而死,汉朝显登其子。诸葛诞创造凶乱,主簿宣隆、部曲督秦絜秉节守义,临事固争,为诞所杀,所谓无比干之亲而受其戮者。其以隆、絜子为骑都尉,加以赠赐,光示远近,以殊忠义。”
- ^ 《三國志 卷二十八 魏書 王毌丘諸葛鄧鍾傳》: 二年五月,徵為司空。誕被詔書,愈恐,遂反。召會諸將,自出攻揚州刺史樂綝,殺之。斂淮南及淮北郡縣屯田口十馀萬官兵,揚州新附勝兵者四五萬人,聚谷足一年食,閉城自守。遣長史吳綱將小子靚至吳請救。世語曰:誕既被徵,請諸牙門置酒飲宴,呼牙門從兵,皆賜酒令醉,謂眾人曰:“前作千人鎧仗始成,欲以擊賊,今當還洛,不復得用,欲蹔出,將見人遊戲,須臾還耳;諸君且止。”乃嚴鼓將士七百人出。樂綝聞之,閉州門。誕歷南門宣言曰:“當還洛邑,蹔出遊戲,揚州何為閉門見備?”前至東門,東門复閉,乃使兵緣城攻門,州人悉走,因風放火,焚其府庫,遂殺綝。誕表曰:“臣受國重任,統兵在東。揚州刺史樂綝專詐,說臣與吳交通,又言被詔當代臣位,無狀日久。臣奉國命,以死自立,終無異端。忿綝不忠,輒將步騎七百人,以今月六日討綝,即日斬首,函頭驛馬傳送。若聖朝明臣,臣即魏臣;不明臣,臣即吳臣。不勝發憤有日,謹拜表陳愚,悲感泣血,哽咽斷絕,不知所如,乞朝廷察臣至誠。”臣松之以為魏末傳所言,率皆鄙陋。疑誕表言曲,不至於此也。
- ^ 《三國志 卷二十八 魏書 王毌丘諸葛鄧鍾傳》:吳人大喜,遣將全懌、全端、唐諮、王祚等,率三萬眾,密與文欽俱來應誕。以誕為左都護、假節、大司徒、驃騎將軍、青州牧、壽春侯。
- ^ 《晋书》卷二:将军李广临敌不进,泰山太守常时称疾不出,并斩之以徇。
- ^ 《資治通鑑 卷七十七 魏紀九》:六月,甲子,車駕次項,司馬昭督諸軍二十六萬進屯丘頭,以鎮南將軍王基行鎮東將軍、都督揚豫諸軍事,與安東將軍陳騫等圍壽春。基始至,圍城未合,文欽、全懌等從城東北因山乘險,得將其眾突入城。
- ^ 《三國志 卷二十八 魏書 王毌丘諸葛鄧鍾傳》:是時鎮南將軍王基始至,督諸軍圍壽春,未合。諮、欽等從城東北,因山乘險,得將其眾突入城。
- ^ 《晋书》卷五十九:讨诸葛诞于寿春,失利,免官。
- ^ 《三國志 卷五十八 吴書 陆抗傳》:建兴元年,拜奋威将军。太平二年,魏将诸葛诞举寿春降,拜抗为柴桑督,赴寿春,破魏牙门将偏将军,迁征北将军。
- ^ 《資治通鑑 卷七十七 魏紀九》:昭敕基斂軍堅壁。基累求進討,會吳朱異率三萬人進屯安豐,為文欽外勢,詔基引諸軍轉據北山。基謂諸將曰:「今圍壘轉固,兵馬向集,但當精修守備,以待越逸,而更移兵守險,使得放縱,雖有智者,不能善其後矣!」遂守便宜,上疏曰:「今與賊家對敵,當不動如山,若遷移依險,人心搖蕩,於勢大損。諸軍並據深溝高壘,眾心皆定,不可傾動,此御兵之要也。」書奏,報聽。於是基等四面合圍,表裡再重,塹壘甚峻。文欽等數出犯圍,逆擊,走之。
- ^ 《資治通鑑 卷七十七 魏紀九》:司馬昭又使奮武將軍監青州諸軍事石苞督兗州刺史州泰、徐州刺史胡質等簡銳卒為遊軍,以備外寇。泰擊破朱異於陽淵,異走,泰追之,殺傷二千人。按:当时胡质已死,误。当时徐州刺史当为胡威。
- ^ 《資治通鑑 卷七十七 魏紀九》:秋,七月,吳大將軍綝大發卒出屯鑊裡,復遣朱異帥將軍丁奉、黎斐等五人前解壽春之圍。異留輜重於都陸,進屯黎漿,石苞、州泰又擊破之。太山太守胡烈以奇兵五千襲都陸,盡焚異資糧,異將餘兵,食葛葉,走歸孫綝。綝使異更死戰,異以士卒乏食,不從綝命。綝怒,九月,己巳,綝斬異於鑊裡。辛未,引兵還建業,綝既不能拔出諸葛誕,而喪敗士眾,自戮名將,由是吳人莫不怨之。
- ^ 《資治通鑑 卷七十七 魏紀九》:司馬昭曰:「異不得至壽春,非其罪也,而吳人殺之,欲以謝壽春而堅誕意,使其猶望救耳。今當堅圍,備其越逸,而多方以誤之。」乃縱反間,揚言「吳救方至,大軍乏食,分遣羸疾就谷淮北,勢不能久」。
- ^ 《資治通鑑 卷七十七 魏紀九》:誕等益寬恣食,俄而城中乏糧,外救不至。將軍蔣班、焦彝,皆誕腹心謀主也,言於誕曰:「朱異等以大眾來而不能進,孫綝殺異而歸江東,外以發兵為名,內實坐須成敗。今宜及眾心尚固,士卒思用,並力決死,攻其一面,雖不能盡克,猶有可全者;空坐守死,無為也。」文欽曰:「公今舉十餘萬之眾歸命於吳,而欽與全端 等皆同居死地,父兄子弟盡在江表,就孫綝不欲來,主上及其親戚豈肯聽乎!且中國無歲無事,軍民並疲,今守我一年,內變將起,奈何捨此,欲乘危徼幸乎!」班、彝固勸之,欽怒。
- ^ 《資治通鑑 卷七十七 魏紀九》:誕欲殺班、彝,二人懼,十一月,棄誕逾城來降。全懌兄子輝、儀在建業,與其家內爭訟,攜其母將部曲數十家來奔。於是懌與兄子靖及全端弟翩、緝皆將兵在壽春城中,司馬昭用黃門侍郎鍾會策,密為輝、儀作書,使輝、儀所親信繼入城告懌等,說「吳中怒懌等不能拔壽春,欲盡誅諸將家,故逃來歸命」。十二月,懌等率其眾數千人開門出降,城中震懼,不知所為。詔拜懌平東將軍,封臨湘侯;端等封拜各有差。
- ^ 《資治通鑑 卷七十七 魏紀九》:春,正月,文欽謂諸葛誕曰:「蔣班、焦彝謂我不能出而走,全端、全懌又率眾逆降,此敵無備之時也,可以戰矣。」誕及唐咨等皆以為然,遂大為攻具,晝夜五六日攻南圍,欲決圍而出。圍上諸軍臨高發石車火箭,逆燒破其攻具,矢石雨下,死傷蔽地,血流盈塹,復不城。城內食轉竭,出降者數萬口。欽欲盡出北方人,省食,與吳人堅守,誕不聽,由是爭恨。欽素與誕有隙,徒以計合,事急愈相疑。欽見誕計事,誕遂殺欽。欽子鴦、虎將兵在小城中,聞欽死,勒兵赴之;眾不為用,遂單走逾城出,自歸於司馬昭。
- ^ 《資治通鑑 卷七十七 魏紀九》:軍吏請誅之,昭曰:「欽之罪不容誅,其子固應就戮;然鴦、虎以窮歸命,且城未拔,殺之是堅其心也。」乃赦鴦、虎,使將數百騎巡城,呼曰:「文欽之子猶不見殺,其餘何懼!」又表鴦、虎皆為將軍,賜爵關內侯。城內皆喜,且日益饑困。司馬昭身自臨圍,見城上持弓者不發,曰:「可攻矣!」乃四面進軍,同時鼓噪登城。二月,乙酉,克之。誕窘急,單馬將其麾下突小城欲出,司馬胡奮部兵擊斬之,夷其三族。誕麾下數百人,皆拱手為列,不降,每斬一人,輒降之,卒不變,以至於盡。吳將于詮曰:「大丈夫受命其主,以兵救人,既不能克,又束手於敵,吾弗取也。」乃免冑冒陳而死。唐咨、王祚等皆降。吳兵萬眾,器仗山積。
- ^ 《資治通鑑 卷七十七 魏紀九》:夏,五月,詔以司馬昭為相國,封晉公,食邑八郡,加九錫;昭前後九讓,乃止。