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かわはらいくお

河原郁夫
生誕 1930年12月20日[1]
日本の旗 日本東京都大田区[2]
死没 (2021-03-21) 2021年3月21日(90歳没)
職業 プラネタリウム解説者
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河原 郁夫(かわはら いくお、1930年12月20日 - 2021年3月21日)は、日本のプラネタリウム解説者(プラネタリウム弁士[3]、星空案内人[3][4][† 1])、天文家

来歴[編集]

プラネタリウムとの出会い[編集]

東京府東京市蒲田町(現在の東京都大田区東蒲田)に育つ[2][5][6]1940年、小学校4年生の団体見学で東日天文館に足を運び、プラネタリウム投影に大いに感銘を受ける[7][† 2]。すぐに父親にせがんで連れていってもらい、まもなく、蒲田から有楽町まで単身で通うようになった[7]

天文少年[編集]

河原は、初めて接したプラネタリウム解説で覚えたオリオン座を実際に観ようとした。深夜に起きて自宅2階の物干し場で待ちかまえていたところ、明け方、プラネタリウムで観たとおりにオリオン座が上ってくるようすに感激した[5][6][8]。星空のとりこになった河原少年は、ボール紙と、神田の眼鏡店で買い求めたレンズを組み合わせて望遠鏡を自作し、物干し場を「河原天文台」と名づけて星に親しんだ[2][5][6][9]。後年、好きな星座を問われて「オリオン座」と答えており、想い出深く、88星座の中で一番きれいだと述べている[5]。戦時中は灯火管制のため自宅から天の川が見えたという[2][5][6][10]。 東日天文館には、毎日1銭ずつもらう小遣いやお年玉などをやりくりし、日曜日11時の投影に通った(のちに9時半の投影も観るようになった)[11]蒲田駅から有楽町駅まで国電で往復20、東日天文館の入場料に25銭を要したため、通っていたのは多いときで月に2~3回ほどだった[5]。12時に投影が終わると、日比谷公園に現存するヤップ島石貨の前に座って、母親に持たせてもらったおにぎりを頬張るのが楽しみだったという[2][5][6][11]

東京市教育局長を会長とする少国民天文研究会[12]に参加し、毎月一回、東京市内の国民学校から選抜された生徒として東日天文館で野尻抱影らの天文講話を聴く機会があった[7][† 3]

東日天文館には1943年ごろまで通っていたが、東日天文館の投影内容が戦時を反映したものに変容したため、足が遠のいた[5][6]

大空襲に遭う[編集]

1945年4月15日城南大空襲で東蒲田の自宅が罹災[5][6]。河原は、布団鉄兜のほか、鈴木敬信『星と宇宙とプラネタリウム解説』(東日天文館発行)と大漢和辞典を持って、母親と妹たちとともに避難[† 4]。水に濡らした布団を被って火の手から逃れた[6][11]。それまで何台か自作した望遠鏡や架台はすべて灰燼に帰した[7]

河原一家は、神奈川県横須賀市にある父親の実家に転居することとなる[5][6]

師との出会い[編集]

戦後、『天文月報』1944年10月号(実際には戦後に発行されたという)に掲載された第一回天文学普及講座の予告[13]を目にし、1946年4月20日東京科学博物館に足を運ぶ。そこで水野良平東京天文台報時課長[14])の謦咳に接し、師と慕うことになる[6]

同年の[6]、ふたたび自作した口径3㎝の望遠鏡太陽黒点観測を始め[5][7][15]、1948年7月から1952年9月まで[15]日本天文学会への報告を行った[16][17][18][19][20][21][22][23][24][25][26][† 5]

1947年に再発足した横浜すばる会(横浜天文研究会)に参加[31]1949年には横須賀天文同好会を小林弘忠[† 6]と立ち上げた[33][34]

東京理科大学へ進学[編集]

1951年、水野良平の母校でもある東京理科大学に入学。

同年、富田弘一郎東京天文台)、箕輪敏行[† 7]小学校教員)、山田昌一(東京理科大OB)らによる流星の写真二点観測(神奈川県川崎市西生田と東京都三鷹市の東京天文台)に参加[36][40]

1952年9月、横須賀天文学会(水野良平会長)の設立に小林弘忠らとともに参加、会報の編集に携わる[6][34]。 大学4年次の1954年4月から1年間、東京天文台太陽物理部にて太陽の活動性についての研究を行った[1][6][41][† 8]

1955年3月、東京理科大学理学部物理学科を卒業[1]。水野良平が在職していた横須賀学院に理科教員として勤める[6][44][45]

天文博物館五島プラネタリウム[編集]

1956年8月より、水野の誘いで天文博物館五島プラネタリウムの開館準備に参画[1][6][46]シーロスタット望遠鏡[† 9]の設置や星座ジオラマの製作に携わる[6][† 10]

1957年4月、同館の学芸課長に就任した水野[14]らとともに初代解説員となる[6][49][50][51][† 11]。当初は、水野が作成した解説概要をまず覚えてから、各解説員が自分なりのメモを作成し、練習を重ねてから投影に臨んだという[45]。投影は1日に8回あり、最終投影は20時からだった[45]。当時はコンソールの向かい側にあるミキサー室にもうひとりが裏方として入っており、ガラス越しにドーム内のようすを見て、BGMをかけたりマイクの音量調整を行っていた[7]

河原は、自身が製作に携わったシーロスタットの担当でもあり、晴れた日には毎日調整を行っていた[7]

神奈川県立青少年センター[編集]

1962年、新設される神奈川県立青少年センター[† 12]の初代館長を務めることになった朝比奈貞一[† 13]から声がかかり、同センターの設立準備のため、同年2月に移籍[7][58]。国立科学博物館で朝比奈のもとにいた村山定男[† 14]から、これまでは自分が朝比奈先生にお仕えしてきたが、これからは先生をお願いしますよ、と言われたという[6]

開館後は、時おり朝比奈を訪ねてくる野尻抱影から食事に誘われ、随行していた[6]横浜関帝廟で河原が撮影した野尻の近影が野尻の著書の口絵に掲載されており[59]、晩年、プラネタリウム解説のなかで野尻との想い出を語ることがあった[60]

1972年8月には天文課長に就任、1990年3月の定年まで18年近くにわたって同職にあった[58]。プラネタリウムの現場から離れるのを嫌って昇進を断っており[27]、他の施設から館長への就任を打診されたが、これも好きな解説ができなくなるとの理由で断った[58]。定年退職後も1997年まで同館の非常勤職員としてプラネタリウム解説を担当した[58]

1972年から1979年まで[61]、日本プラネタリウム研修会[† 15]の初代会長を務める[64]1979年、それまで副会長を務めていた小坂由須人仙台市天文台第2代台長)と会長職を交替し、日本プラネタリウム研究会と改称した後の1987年まで副会長を務めた[1][61]

川崎市青少年科学館[編集]

1997年2月[61]、直弟子にあたる川崎市青少年科学館館長の若宮崇令[65]に懇請され[6][27]、横浜の紅葉坂から川崎生田緑地に移ってプラネタリウム解説を続けることとなった[10][66]2010年5月9日、川崎市青少年科学館改築前の最終投影を担当[67][68]

2011年9月25日、仮設ドームでの最終投影を担当。週2回(2010年までは週4回[69])行っていた一般投影から引退した[8][69][70]

生涯現役を貫く(かわさき宙と緑の科学館)[編集]

2012年からは、「かわさき宙と緑の科学館」としてリニューアルした同館において、8月を除く月1回(2019年度は奇数月)第3木曜の特別投影「星空ゆうゆう散歩」を担当[71]

2016年11月9日、第45回川崎市文化賞を受賞[66][72][73][74]

2018年12月20日米寿誕生日が「星空ゆうゆう散歩」の当日[75][76]にあたり、「川崎で見えた南十字星」と題して生解説を行った。同日に発売された、冨岡一成が河原を描いた『ぷらべん 88歳の星空案内人 河原郁夫』[6]は、日本のプラネタリウム草創期の貴重な証言が収められた資料となった[77][† 16]

2020年3月19日の投影が新型コロナウイルス禍の影響で中止[79]になった後、投影休止が続いていたが、2021年3月20日、1年2か月ぶりに「星空ゆうゆう散歩スペシャル」[80]を満90歳で担当。

2021年3月21日、生涯最後の星空解説を行った翌日、死去[81][82]

人物[編集]

日本国内のプラネタリウム施設が大阪市立電気科学館生駒山天文博物館[† 17]天文博物館五島プラネタリウムの3箇所[78][† 18]だった1957年から、64年間にわたってプラネタリウム解説の現場に身を置きつづけた。晩年は、日本最年長[66]・最長キャリア[78]のプラネタリウム解説者として、満90歳で死去する前日まで現役をまっとうした。

2018年(87歳)に記された星空解説の骨子[6]は「文学から現代天文学の話題までを一つながりのものとして構成した傑作」とされ、「常に新しいことを学び,取り入れ,紹介している姿勢」がみられると評された[78]

長きにわたるキャリアのなかで多くの後進を育て[58][66][78][60][100]、影響を与えた[60][101][102][103][104][105][76][106][107][108][109]。神奈川県下では、川崎市青少年科学館(1971年開館)の初代天文担当職員(のちに館長)・若宮崇令[65]平塚市博物館1976年開館)の初代天文担当職員・岩上(小林)洋子[110]らが河原の薫陶を受けている[6][58][60]

晩年にかわさき宙と緑の科学館で担当した「星空ゆうゆう散歩」では、2012年に開発されたプラネタリウム投影機・MEGASTAR-III FUSION[† 19][† 20]を駆使[66][117]した全篇生解説が行われていた。構成・操作・解説をすべて手ずから行い[72]、来場者には、当日のテーマと構成が記されたA3二つ折り(4ページ)のリーフレットが配付された[60]

子どものころ、新しもの好きの父親[5]に連れられて交通博物館東京科学博物館にも出かけた[11]が、東日天文館のプラネタリウムに出会ったことが人生を決める起点となった[2]。はじめて接した投影で用いられていたサラサーテツィゴイネルワイゼンの美しい響きがとくに印象的だったと語っており[2][5][7]、自身もプラネタリウム投影で日の入りに用いることがあった[101]。プラネタリウムをきっかけとしてクラシック音楽にも親しむようになった[7]河原が、64年にわたった解説者人生の最後に用いた曲は、ヘンデル作曲『オンブラ・マイ・フ』の弦楽版であった[60]

晩年にいたるまで「プラネタリウム大好き」を公言しており[7][118]、「コンソールに立つとシャンとして元気になります」[5]「ワクワクゾクゾクしますね」[72]と述べていた。自らが東日天文館で得たような感動を伝えることができればと念願しながら解説を行っているという[7]。来場者には、プラネタリウムで星が好きになってもらいたい[5][119]、ほんとうの星を観るための「アプローチ」[5]「きっかけ」[10]「動機づけ」[119]になれば、それが「人生にとってプラス」[119]になればありがたい、と語っていた。

毎回、自身のプラネタリウム解説を録音して聴きなおし、次回に活かしていた[2][5][10][69][119]。ただし、「半世紀ずっと反省だらけ」とのこと[5][10][69][† 21]

「星を見ているとパワーがもらえる」[5][119]と述べており、2035年9月2日に日本で見ることができる皆既日食を見ることを目標としていた[10][27][70][119][† 22]。神奈川県立青少年センターで毎週日曜日に解説を行っていた1996年(65歳)には、今後も大好きなプラネタリウムとともに生涯を歩んでいけたらどんなに幸せだろう[7]と記しており、2015年(84歳)には、希望としては一生死ぬまで現役でいたい、コンソールの中で「みなさんさようなら」と言って逝ければ大往生だと思う、と語っていた[5][† 23]。死去したのは、生涯最後の投影の翌朝[60]であった。

恩師の水野良平からは「全く、私とは兄弟か親子の関係」とされ、水野の著書『最新天体写真集』(法政大学出版部、1957)は、ほとんど河原の著書と言っても過言ではないという[44]。河原は水野と信仰もともにし、1952年に横須賀小川町教会[121]にて宮内俊三牧師から受洗[122][† 24]。水野は河原夫妻の仲人でもある[6][7]

フェリス女学院短期大学[123]和泉短期大学[123]神奈川県立神奈川総合高等学校[10]などで非常勤講師を務めた。

著書[編集]

  • 河原郁夫『プラネタリウム解説法 〔プラネタリウム教本〕』(五藤光学研究所、1976)
  • 河原郁夫『星空のはなし 天文学への招待』(地人書館、1978)NCID BN01563558
  • 河原郁夫『新版 星空のはなし 天文学への招待』(地人書館、1993) ISBN 9784805204504

参考文献[編集]

書籍[編集]

  • 冨岡一成『ぷらべん 88歳の星空案内人 河原郁夫』(旬報社、2018)ISBN 9784845115655
  • 水野良平『星とともに』(1969)
  • 神奈川県立青少年センター『青少年センター30年のあゆみ』(1992)
  • 日本アマチュア天文史編纂委員会『続 日本アマチュア天文史』(恒星社厚生閣、1994)ISBN 4769907885
  • 日本アマチュア天文史編纂委員会『改訂版 日本アマチュア天文史』(恒星社厚生閣、1995)ISBN 9784769908036
  • 天文博物館五島プラネタリウム『五島プラネタリウム44年のあゆみ』(2001)
  • 五島プラネタリウム卒業文集制作委員会『渋谷の星の向こうに』(2005)
  • 徳間書店取材班『最高齢プロフェッショナルの条件』(徳間書店、2012)ISBN 9784198634759

その他[編集]

  • プラネタリウム会報(日本プラネタリウム研修会/日本プラネタリウム研究会)
  • Twilight(日本プラネタリウム協会)
  • 日本プラネタリウム協議会会誌(日本プラネタリウム協議会[63]
  • 渋谷の二番星(渋谷星の会[124]

ほか

脚注[編集]

註釈[編集]

  1. ^ 川崎市青少年科学館時代に名乗るようになった[5]。いわゆる「星のソムリエ」とは無関係。
  2. ^ 晩年の発言や著述ではいずれも夏休みに父親と初訪問したとされている[2][5][6]
  3. ^ 河原より年長の大谷豊和原恵が入会していた東日天文倶楽部(のちに毎日天文同好会)には、6円の年会費を捻出する余裕がなく、入会しなかったという[11]
  4. ^ 当日、父親は不在だったという[6]
  5. ^ 黒点観測は15歳から晩年までライフワークとして続けていた[5][27][9][28][29][30]
  6. ^ 横浜国立大学に在学、指導教官は神田茂。日本流星研究会の副会長を1969年から1981年まで務めた[32]
  7. ^ 1918年生まれ。1953年に川崎天文同好会[35]を設立。1966年から1979年まで川崎市立の小学校長を歴任。理科教育社会教育・地域文化の育成に多大な貢献があり、1971年の川崎市青少年科学館の開館にも尽力。1971年ごろから光害問題に対峙し、日本の星空を守る会を立ち上げ、事務局長として1972年10月8日ジャコビニ流星群極大にあわせてのライトダウン運動を行った。1979年に川崎市文化賞、1984年星のチロ賞2004年日本気象学会奨励賞、2006年に瑞宝双光章を受賞。2014年没。[36][37][38][39]
  8. ^ 小野実[42]らに指導を受けた。当時の部長は後に日本天文学会理事長を務めた野附誠夫[43]
  9. ^ 日本光学製。東急文化会館の屋上に設置された30cm鏡(フューズドクォーツ)から15cm(焦点距離270mm)の屈折望遠鏡を通して8階ロビーあるすりガラス越しに直径50cmで投影された[47][48][49]
  10. ^ 作業の担当は草下英明が割り振ったという[45]
  11. ^ 最年少。ほかに草下英明、大谷豊和[50]、小林悦子[52]
  12. ^ 1962年11月開館[53]名古屋市科学館と同時)。プラネタリウムは施設の老朽化と耐震工事の必要性に迫られたため[54][55]2003年2月をもって閉室[56]した。
  13. ^ 国立科学博物館で普及課長・事業部長・第二研究部長などを務め、五島プラネタリウムの評議員(学芸委員)[49]でもあった[57]
  14. ^ 天文博物館五島プラネタリウムの評議員(学芸委員)を務め、同館の最後の館長を務めた。
  15. ^ 五藤光学研究所のプラネタリウムを導入した施設が参加する団体[62]。1983年、日本プラネタリウム研究会に改称[61]。2007年、日本プラネタリウム協議会(JPA)[63]に合流[61]
  16. ^ 「小説風な表現によって,書かれた詳細が真実かどうか悩ましく感じられる」[78]との指摘がある。本書のあとがきにも、「聞き書き」ではなく、著者の「作品づくりの欲求も少なからずあった」とある。
  17. ^ 1951年7月7日、「生駒山天文協会が主体となり、朝日新聞及び近畿日本鉄道と合同」(共同提唱)により、生駒山上遊園地の南側に位置した京都大学生駒山太陽観測所(1941年7月設立、1972年3月閉鎖)の隣接地に開館、同地に1940年に建設された生駒山航空道場の建物が転用された。航空灯台だった塔の天井からフーコーの振り子が設置されていたという。当初は6mドームにスピッツ社のピンホール式投影機が導入されており、のちに金子式のダイヤ型投影機と入れ替わったという。9mドームにはトムキンス氏の手になる61cm反射望遠鏡(1936年に京都大学が輸入、英国製と米国製の二説あり)が設置されていた。1968年9月に閉館。翌年10月3日、後継の施設として、遊園地の北側に生駒山宇宙科学館が開館(吉阪隆正設計)。1997年3月20日、生駒コズミックシアターとしてリニューアルされ、1999年6月29日に閉館。生駒山天文博物館で使われていた金子式ダイヤ型投影機は生駒中学校に移設された。61cm反射望遠鏡は、宇宙科学館では展示物となっており、現在は鏡のみが大阪市立科学館に展示されている。宇宙科学館の建物は2015年12月頃に取り壊されたという。元航空灯台だった天文博物館の建物(塔)は、近鉄の生駒山上無線局舎として利用されていたが、老朽化のため2016年1月頃に取り壊されたといい、鉄塔に建て替えられた。京都大学の太陽観測所の建物も2016年2月頃に取り壊されたという。[83][84][85][86][87][88][89][90][91][92][93][94][95][96][97][98]
  18. ^ 2016年現在、391館。アメリカ合衆国に続いて世界第2位。[99]
  19. ^ 大平技研のMEGASTARシリーズで最も大型の光学式投影機で、2021年3月現在、川崎にのみ導入されている[111]恒星投影機から全天を32分割して投影される恒星数は1500万個で、すべてのメシエ天体をはじめとする星雲星団も投影され、来場者による双眼鏡を用いた観察が想定されている。恒星投影機には135個の輝星投影機が搭載されており、色の再現や個別調光が可能。川崎には常設館で唯一 FUSION機能が導入されており、輝星投影機と全天周8K映像(ドーム周辺部に設置されているプロジェクタ17台から投影)を細密に組み合わせて連動させたFUSIONモードによる投影も可能。川崎で採用された太陽投影機と投影機は、恒星投影機の南側に独立して設置され、超高圧水銀灯を光源とし、デジタル映像で表面のようすを投影する。惑星投影機もそれぞれ独立して恒星投影機の南側を囲むように設置され、金星のみレーザ光源で高輝度の投射を行い、水星火星木星土星LED光源で投影する。[112][113][114][115][116]
  20. ^ 生涯8台目の投影機だったという[5]
  21. ^ 1957年から1962年まで天文博物館五島プラネタリウムの同僚だった小林悦子がインタビューに答えて「真面目な顔をしてユーモアをおっしゃる」と述べている[120]
  22. ^ 満104歳8か月で当日を迎えることになる。
  23. ^ 歯や目が悪くなってきているため、潮時を考えたほうがいいとも思っている、とも語っていた[5]
  24. ^ 水野は1917年[14]鳥居坂教会で倉長巖牧師から[122]受洗。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 河原郁夫「星空のはなし 天文学への招待」、地人書館、1982年5月。 
  2. ^ a b c d e f g h i 理大人」『東京理科大学報』第170号、東京理科大学、2008年7月8日。 
  3. ^ a b 星空ゆうゆう散歩(2019年度)”. かわさき宙と緑の科学館. 2020年11月7日閲覧。
  4. ^ 川崎市多摩区版 (2016年10月28日). “河原郁夫さん 星空案内 60年続け 先月、市文化賞も”. タウンニュース社. 2020年11月7日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y "明日へのことば 星を語って60年". ラジオ深夜便. 24 May 2015. NHKラジオ第一。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 冨岡一成「ぷらべん 88歳の星空案内人 河原郁夫」、旬報社、2018年12月20日、ISBN 9784845115655 
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「プラネタリウムと私」『Twilight』、日本プラネタリウム協会、1996年6月、56-59頁。 
  8. ^ a b 川崎市多摩区版 (2011年9月30日). “55年の星空解説、引退へ 科学館の”プラ弁”河原さん”. タウンニュース社. 2020年11月7日閲覧。
  9. ^ a b 【私のオススメ本】「かわさき宙(そら)と緑の科学館」のプラネタリウム弁士 河原郁夫さんオススメ!「火星兵団」(海野十三 著) 三一書房”. 讀賣新聞 (2018年7月13日). 2021年4月20日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g “星空の魅力を伝えて半世紀、「プラネタリウム弁士」活躍中”. 神奈川新聞. (2009年8月9日) 
  11. ^ a b c d e 「東日天文館の思い出 河原郁夫先生にお聞きしました」『渋谷の二番星』、渋谷星の会、2014年10月、2-6頁。 
  12. ^ 『博物館研究』第16巻第5号、日本博物館協会、1943年5月、129頁。 
  13. ^ 公告」『天文月報』第37巻9-12号、日本天文学会、1944年10月、公告、豫告。 
  14. ^ a b c 水野良平氏略歴」『天文月報』第71巻第12号、日本天文学会、1978年12月、320頁。 
  15. ^ a b 小山ひさ子「太陽黒点」『改訂版 日本アマチュア天文史』、恒星社厚生閣、1995年6月25日、46頁。 
  16. ^ 寄書 アマチュアからの太陽観測報告」『天文月報』第42巻第12号、日本天文学会、1949年12月、98頁。 
  17. ^ 会員諸氏の太陽黒点観測」『天文月報』第43巻第12号、日本天文学会、1950年12月、138頁。 
  18. ^ 会員諸氏の太陽黒点観測(1950年8月~10月)」『天文月報』第44巻第2号、日本天文学会、1951年2月、31頁。 
  19. ^ 会員諸氏の太陽黒点観測(1950年11月~12月)」『天文月報』第44巻第3号、日本天文学会、1951年3月、47頁。 
  20. ^ 会員諸氏の太陽黒点観測(1951年1月~2月)」『天文月報』第44巻第5号、日本天文学会、1951年5月、79頁。 
  21. ^ 会員諸氏の太陽黒点観測(1951年3月~5月)」『天文月報』第44巻第8号、日本天文学会、1951年8月、127頁。 
  22. ^ 会員諸氏の太陽黒点観測(1951年6月~8月)」『天文月報』第44巻第11号、日本天文学会、1951年11月、175頁。 
  23. ^ 会員諸氏の太陽黒点観測報告(1951年9~11月)」『天文月報』第45巻第2号、日本天文学会、1952年2月、31頁。 
  24. ^ 会員諸氏の太陽黒点観測(1951年12月-1952年3月)」『天文月報』第45巻第7号、日本天文学会、1952年7月、111頁。 
  25. ^ 会員諸氏の太陽黒点観測(1952年4~6月)」『天文月報』第45巻第2号、日本天文学会、1952年10月、159頁。 
  26. ^ 会員諸氏の太陽黒点観測(1952年7~9月)」『天文月報』第46巻第2号、日本天文学会、1953年2月、31頁。 
  27. ^ a b c d 「最高齢プロフェッショナルの条件」、徳間書店、2012年9月30日、ISBN 9784198634759 
  28. ^ 藤森賢一「太陽」『続 日本アマチュア天文史』、恒星社厚生閣、1994年11月10日、49頁、ISBN 4769907885 
  29. ^ 河原郁夫「太陽黒点群の型の推移について」『第3回日本アマチュア天文研究発表会 報告書』1970年10月11日。 
  30. ^ 中島林彦「nippon天文遺産 第29回 五島プラネタリウム カール・ツァイスⅣ型投影機(下)」『日経サイエンス』、日経サイエンス社、2021年2月。 
  31. ^ 森久保茂「活動の推移 戦争終結より人工衛星打ち上げ頃まで」『改訂版 日本アマチュア天文史』、恒星社厚生閣、1995年6月25日、28頁。 
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外部リンク[編集]