利用者:McYata/デシデリウス1
デシデリウス | |
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在位期間 756年–774年 | |
先代 | アイストゥルフ |
次代 | カール大帝 |
出生 | 710年 |
死亡 | 786年 |
王室 | Lombardy |
配偶者 | アンサ |
子女 デシデラタ アンセルペルガ アデルペルガ リウトペルガ アデルキス |
デシデリウス (ラテン語: Desiderius 720年ごろ – 786年ごろ)またはダウフェル (Daufer)、ダウフェリウス (Dauferius)は、北イタリアを支配したランゴバルド族最後のランゴバルド王。フランク王国のカール(大帝)に娘を嫁がせたが、後に対立して攻められ王国を滅ぼされたことで知られている。
即位と権力強化
[編集]ブレシアで生まれたデシデリウスは当初トゥスキアのドゥクスであり、756年にアイストゥルフが死ぬとランゴバルド王位を継いだ[1][注釈 1]。この時、アイストゥルフの兄であり前の王でもあったラトキスが隠棲先のモンテ・カッシーノを出て王位奪回を試みたが、デシデリウスは教皇ステファヌス3世の助力を得てこれを速やかに鎮圧した。戴冠式に際して、デシデリウスは教皇に、聖座に属していた都市を返還し、教皇領をより拡大させることまで約束していた[2]。
757年、デシデリウスは自身の権力強化に向けて動き出した。すなわち、強力なイタリア中部のスポレート公国、南イタリアのベネヴェント公国を服従させようとしたのである[3]。スポレート公リウトプランドはデシデリウスを成り上がり者として軽蔑し、彼の王位継承を認めず、ランゴバルド王から離れてフランク王ピピン3世に従うといってデシデリウスを脅したが、デシデリウスは東ローマ帝国海軍の支援を受けてリウトプランドを屈服させ[3]、公国をその息子アレキス[3]に継がせた。さらに同年にはスポレート公アルボインを廃位し、スポレート公国を掌握した[4]。前任者たちと同様に、デシデリウスはイタリア半島におけるランゴバルド王権の拡大に努めたが、ローマ教皇や南イタリアの諸公国との利害対立は避けられなかった。759年8月、デシデリウスは息子アデルキスをランゴバルドの共同王として即位させた[5][注釈 2]。
ローマを訪れ聖ペテロの墓で祈りをささげたデシデリウスだったが、そこから帰ると彼は前任者たちと同じような攻撃的志向に回帰した[6]。さらには東ローマ帝国と交渉して、教皇領を削る協定を結ぼうともたくらんでいた[7]。760年、フランク王ピピン3世の使節が訪れ、デシデリウスに教皇から奪った都市の一部を返還するよう説き伏せたが、その後デシデリウスは約束を守らなかった[8]。
対立教皇フィリップスの擁立
[編集]767年、デシデリウスは教皇パウルス1世の没後の混乱に介入し、エスクイリーノの丘の聖ヴィトゥス修道院にいたフィリップスという聖職者[注釈 3]を連れ出してきて、768年7月31日に略式で即位させた。これが対立教皇フィリップスであるが、彼は諸国の承認や強力な後ろ盾を得られなかったため、同日のうちに退位して修道院に戻ってしまい、それ以降消息を絶った[9]。
カロリング朝フランク王国の介入
[編集]デシデリウス以前のアイストゥルフらがランゴバルド王であった時代、フランク王ピピン3世はイタリアに侵攻してランゴバルド軍を破り、教皇庁とカロリング家の間で同盟を結んでいた。それ以来、ランゴバルド王国は半ば動きを封じられていた。そして773年、教皇ハドリアヌスは公にデシデリウスとの断交を宣言した[10]。デシデリウスが報復として教皇領の都市を攻める動きを見せると、ハドリアヌスはフランク王カール(大帝)に助けを求めることで応えた[10]。ランゴバルド軍がアルプス山脈を封鎖したので、ハドリアヌスは海から使節を送り出した。彼らの任務は、カール大帝に自分が教皇庁の守護者であることを思い起こさせることであった[11]。
もともとカールはランゴバルド王国と友好関係を築いており、デシデリウスの娘デシデラタを妻に迎えるほどであった[12][注釈 4]。前任の教皇ステファヌス3世はランゴバルド王国とフランク王国の同盟関係を苦々しく思いながらも両王国と友好関係を維持していた。しかし彼の死後772年に教皇となったハドリアヌスは、この同盟を崩して政治的環境を覆そうと図ったのである[14]。両王国を天秤にかけた末、ハドリアヌスはデシデリウスと手を切る方針を取った。彼に教皇領を攻撃させ、フランク王国に助けを求めるというのはみな彼の計画の内であった[15]。要請を受けたカール大帝は、教皇側に立つことを決めた[16][注釈 5]。フランク王国の王権を分担していたカールの弟カールマンが没したことも状況の変化に影響していた[12]。というのもカールマンの未亡人と息子たちがデシデリウスのもとに身を寄せ、『教皇の書』が伝えるところによれば、カールに吸収された王国の継承権を主張していたからである。ただ歴史家のロジャー・コリンズによれば、このカールマンの家族の主張も、教皇がフランク王国をランゴバルド王国と敵対させるために流した偽情報であった可能性があるという[18]。
773年春、カールは2軍をランゴバルド王国へ侵攻させた。ランゴバルドの首都パヴィーアは8か月に及ぶ包囲戦の末に占領され、デシデリウスは捕らえられた[19][注釈 6]。その後、カールはデシデリウスを北フランスのコルビー修道院へ追放し[20]、「フランク王」である自身の称号に「ランゴバルド王」を付け加えた[21]。このカールがランゴバルド王(ラテン語: rex Langobardorum)を名乗った事件は、ゲルマン諸王国の王として征服した王国の称号を合わせて名乗るようになった初めての事例である[22]。カールはランゴバルド族の勢力を根絶するのではなく、彼らが「彼らの法を維持する」のを認め、「反逆者であった者を許した」[20]。最終的にデシデリウスの野望は潰え、彼が独立王国として記録上最後のランゴバルド王となった[23]。
家族
[編集]デシデリウスはアンサ(アンシア)と結婚し、一男五女をもうけた。
- アンセルペルガ(アンセルベルガ): ブレシアの女子大修道院長
- アデルペルガ (アーデルペルガ、アデルベルガ): ベネヴェント公アリキス2世の妃
- リウトペルガ (リウトピルク、リウトベルガ): タッシロ3世の妃
- デシデラタ (本来はおそらくゲルペルガまたはゲルベルガ): 770年にフランク王カールと結婚したが、771年に婚姻を否認された(中世における離婚)。
- アデルキス (アダルギス): コンスタンティノープルのパトリキウス
- デシダナ: 戦闘で死亡
後世への影響
[編集]今日でも、イタリアにはデシデリウスの重要な業績が様々な形で残っている。美しいモザイク画を擁しランゴバルド時代の建築を現在まで残しているブレシアのサン・サルヴァトーレは、デシデリウスが建設したものである[24]。彼のイタリア名デジデーリオ(Desiderio)は欲望、切望という意味もあり、例えば英語に直訳すると"desire"となる。1822年、イタリアの著名な小説家・詩人であるアレッサンドロ・マンゾーニの悲劇『アデルキ』では、デジデーリオ(デシデリウス)は虚栄心が強く自らの権力欲により王国と遺産を滅ぼす男として描かれている。息子のアデルキ(アデルキス)は平和を欲するが、その思いは父の野望と共に潰え、餓死する。この劇中で、マンゾーニはデシデリウスとランゴバルド人がイタリア半島の統一に失敗したことへの無念さを表現している[25][注釈 7]。
出典
[編集]注釈
[編集]- ^ フランスの歴史家ピエール・リッシュによれば、アイストゥルフの死は「教皇がパヴィーアでの国王選挙に影響力を及ぼせるようになった」点で、デシデリウスにとって幸運なことであった[2] 。
- ^ アデルキスとデシデリウスは774年6月に共に廃位されるまで共同統治をおこなった[5] 。
- ^ 教皇グレゴリウス1世は、この修道院はシチリア内もしくはその近くの、聖ヴィトゥスに捧げられた修道院のことであるとしている ("Epist.", I, xlviii, P.L., LXXXVII, 511)。
- ^ さらにデシデリウスはカールとさらに関係を強化するべく、カロリング朝の王の一人もしくは数人に、教皇庁との関係を取り持たせイタリア半島への通行権を保証しようとさえしていた。実際カールとその弟カールマンは「ローマのパトリキウス」(patricius Romanorum)という称号を共有しており、特にカールマンはフランク王国側でアルプス山脈の交通を支配していた[13]。
- ^ 『フランク王国年代記』によれば、この教皇の使節は773年にカールの下へ到着した[17]。
- ^ 当時パヴィーアには、デシデリウスの息子アデルキスがカールマンの遺族とともに暮らしていた[8]。
- ^ Also see: https://www.britannica.com/topic/Adelchi
脚注
[編集]- ^ Christie 1998, p. 105.
- ^ a b Riché 1993, p. 73.
- ^ a b c Goffart 2012, p. 338.
- ^ Noble 1984, p. 107.
- ^ a b Blunsom 2013, p. 158.
- ^ Frassetto 2003, p. 141.
- ^ Frassetto 2003, pp. 141–142.
- ^ a b Frassetto 2003, p. 142.
- ^ Reardon 2015, p. 59.
- ^ a b Koenigsberger 1987, p. 85.
- ^ Riché 1993, pp. 96–97.
- ^ a b Fried 2015, p. 43.
- ^ Bachrach & Bachrach 2017, p. 357.
- ^ Bachrach & Bachrach 2017, pp. 357–358.
- ^ Bachrach & Bachrach 2017, pp. 358–359.
- ^ James 1995, pp. 94–95.
- ^ McKitterick 2008, p. 28.
- ^ Collins 1999, p. 282.
- ^ Bachrach & Bachrach 2017, p. 359.
- ^ a b Riché 1993, p. 98.
- ^ James 1995, p. 95.
- ^ Davis 2015, p. 412.
- ^ Frassetto 2003, p. 143.
- ^ McKitterick 2001, p. 192.
- ^ Lewis 2009, p. 235.
参考文献
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- Koenigsberger, H.G (1987). Medieval Europe, 400–1500. Essex: Longman. ISBN 0-582-49403-6
- Lewis, David L. (2009). God's Crucible: Islam and the Making of Europe, 570–1215. New York: W.W. Norton. ISBN 978-0-39306-790-3
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- Riché, Pierre Michael Idomir Allen訳 (1993). The Carolingians: A Family Who Forged Europe. Philadelphia: University of Pennsylvania Press. ISBN 978-0-81221-342-3
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爵位・家督 | ||
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先代 アイストゥルフ |
ランゴバルド王 756年–774年 |
次代 カール大帝 |
先代 アルボイン |
スポレート公 758–759 |
次代 ギスルフ |
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