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利用者:Nux-vomica 1007/sandbox3

日本国ビルマ国間同盟条約
条約交付文(国立公文書館所蔵)
署名 1943年8月1日
発効 同日
条文リンク 日本国「ビルマ」国間同盟条約・御署名原本・昭和十八年・条約第九号 - 国立公文書館
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日本国ビルマ国間同盟条約(にほんこくビルマこくかんどうめいじょうやく)は、1943年8月1日和暦昭和18年8月1日、ビルマ暦1305年ワーガウン英語版ラザン1日)、日本ビルマ国のあいだで交わされた同盟条約である。ビルマの首都・ラングーンにおいて、ビルマ国駐箚特命全権大使の澤田廉三と、ビルマ国内閣総理大臣のバー・モウの間で締結された。

ビルマ国は日本のビルマ侵攻英語版を通して成立した「独立国家」であり、同条約を通して日本はビルマ国の独立を承認した。しかし、その一方でこの条約には軍事秘密協定が付随しており、ビルマ国の主権は実質的には日本のもとに帰属した。

背景[編集]

1937年(昭和18年)7月7日盧溝橋事件をもって、日本と中華民国は全面戦争に突入した(日中戦争)。日本は同年9月12日に首都の南京を占領するも、中国国民政府はその前日に首都機能を重慶に移しており、抗戦を続けた[1]イギリスフランスといった諸外国はこれに対抗して、中国への軍事支援をおこなう、いわゆる「援蔣ルート」を構築した[2]。当時イギリス領であった北部ビルマから四川省に至るビルマルートはそのひとつであり[2]、1939年より、ラングーンからラーショーまで鉄道で、そこから昆明を通って重慶までトラックを用いる陸上物資輸送がはじまった。日本軍はこれを封鎖しようとしてイギリスとの外交交渉や空爆をおこなったものの、効果はなかった。これを経て、日本はビルマ人の独立主義者を懐柔し、イギリスの植民地体制を揺るがす謀略を考えるようになった[3]

1930年代末期のビルマでは、議長に初代ビルマ植民地政府首相バー・モウが、書記長にアウン・サンが就任する反英組織である「自由ブロック」が結成された。この結社運動はヨーロッパにおいて第二次世界大戦が巻き起こったことを背景とするもので、「英国の危機はビルマの好機」がそのスローガンとなった。集会やデモを通じ、自由ブロックはイギリス植民地体制の不当性と、イギリスへの戦争協力拒否を訴えた。しかし、ビルマ政府はバー・モウを筆頭とする、組織関係者2000人以上を逮捕・投獄したため、この運動は挫折した[4]

出典[編集]

  1. ^ 安井三吉「日中戦争」『国史大辞典』吉川弘文館。 
  2. ^ a b 日本大百科全書『援蒋ルート』 - コトバンク
  3. ^ 根本敬『物語 ビルマの歴史 - 王朝時代から現代まで』(kindle)中央公論新社、2014年、2187-2198頁。ISBN 978-4-12-102249-3 
  4. ^ 根本 2014, pp. 2211–2220.