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利用者:Omotecho/sandbox/ルートヴィヒスルスト宮殿

ルートヴィヒスルスト宮殿:庭の池に映る正面

ルートヴィヒスルスト宮殿(ルートヴィヒスルストきゅうでん ドイツ語: Schloss Ludwigslust)はドイツ北部メクレンブルク=フォアポンメルン州ルートヴィヒスルスト市にある18世紀後半の荘厳な建物で、用途は住まいと城砦であった。もとは公爵領の首都シュヴェリーンから泊まりがけで狩猟に出かける別邸があり、やがて豪華な隠れ家として建て直された。その後、ここで生まれた孫の時代からしばらくの間(1765年-1837年)は中央政庁として機能した。宮殿の名前はここを建てたクリスティアン・ルートヴィヒ2世にちなみ、「ルートヴィヒのおたのしみ」(ルートヴィヒスルスト、ドイツ語: Ludwigslust)を意味する。庭園の霊廟にエカチェリーナ2世の孫娘がねむる。

起源[編集]

ルートヴィヒスルスト宮殿は公国の首都シュヴェリーンから馬車で1日の距離(36km)の地点にある。1724年、メクレンブルク=シュヴェリーン公の弟クリスチャン・ルートヴィヒ王子(1683年生 - 1756年没)はクレノウという集落の近くに、泊まりがけで狩猟ができる邸宅を建てさせた。1747年に兄から公爵位を継承しメクレンブルク公となった後も「ルートヴィヒのおたのしみ」(ルートヴィヒスルスト)と呼び、ほとんどの日々をこちらで起居している。

レジデンツ[編集]

後継ぎのフリードリヒ2世(1717年生 - 1785年没、在位:1756年 - 1785年)は1765年、公国の首都をシュヴェリーンからルートヴィヒスルストへ移す。すると、すでに「お城」への奉仕で小さな集落から町に発展していた一帯は開発が加速する。3年後の1768年には元の狩猟用邸宅のすぐ後方に新しく壮大な定住用の居城「レジデンツ」(ドイツ語版)を築く[1]。さらに1772年から1776年にわたり、ヨハン・ヨアヒム・ブッシュ(英語版)の設計により、後期バロック様式に建て替えている。

ドイツ語で「居城」(レジデンツ)と呼ばれる宮殿の基本設計はEの字形の基礎を設け、3つの翼棟中央に配した「軍団」の翼は前後に貫くように見える。翼棟はイオニア式、対照的に主棟は正面に装飾の豊かなコリント式列柱がそびえる。街に面した主棟のファサードにあてた平面的な新古典主義様式は、主棟中心に配した立方の塔屋4面のうち1面のみで、内庭(「栄誉の庭」クールドヌール ; フランス語発音: [kuʁ dɔnœʁ]; 独: Ehrenhof)はドリス式構造である。レンガの構造材の表面に地元産の砂岩を貼り、同じ材でルドルフ・カプランガーが神話の人物像をモチーフに、等身大を上回る石像に彫った。屋根とコーニスの間にその40体を並べ、あいだに交互に花瓶を配してある。外装にキャピタル、スワッグ(Capitals、swags)ほかの装飾を施したのは、Martin Satorius[1]である。

ルートヴィヒスルスト:「プラッツ」(広場)の向こうに車寄せと正面玄関。

内装はさらに新古典主義のデザインを極めている。1階に客室、2階の壮大な大広間はピアノ・ノビーレ(またはフェステタージュ Festetage)と呼ばれる。中央棟に設けた「金箔の間」は1、2階吹き抜けを巨大なコリント式の柱が支え、張り子手法[注釈 1]を使った大規模な漆喰装飾との取り合わせが革新的で、現在は夏のコンサート会場に当てている。隣接する区画の1つは半ば公共の空間であり、控えの間とサロン、観客席、ギャラリーを備えた。反対側の区画は半非公開であり、大公の応接室、壁面に額入りのミニチュア画を並べた寝室、キャビネット、磁器の暖炉を置いたギャラリーがあった。

ところで「シュロス」(城)を中心とする区域は壮麗な建物群で構成され、たとえば宮廷教会 Hofkirche [注釈 2]は王族専用の礼拝堂である。町の目抜き通りは城を中心点として建設された。庭を通る区画は「ホフダーメンアリー」(「宮廷貴婦人の並木道」)として斜行し、庭を囲む木立の中央を抜ける。今日でも樹木が茂りわずかに高くなった地平線に向かって伸びている。

通称「宮廷貴婦人の並木道」の眺め。画面奥の居城に対して斜めに伸びている。前景はウェッベリン強制収容所の収容者200名の記念碑と墓地。

宮殿周辺の庭園は総面積120ha、後世のロマン主義世代があがめたであろう設計は、噴水を配し優美な連続式の泉水(カスケード)が運河を模した水路に流れ込む。シュヴェリーンの幾何学庭園(1749年-1755年)を手がけたジャン・ローラン・ル・ゲイ(英語版)がこの「城の庭」の素案を描き、実際に建築に当たったのはその弟子のヨハン・ヨアヒム・ブッシュである[2]。設計素案にあったサン・ピエトロ広場のベルニーニの列柱を連想させる壮麗な並木は姿を消し、1780年ころにブッシュは新古典主義様式の石橋を水路にかける。

段差の幅いっぱいに水が落ちる連続式の低い滝を築いて水を定量ずつ流し、その水音が常に変わらないことから、デルワルツェ(「ロール奏法」)というあだ名がついた。廃墟を模した人工の洞窟、ゴシック様式の礼拝堂、2つある霊廟はそれぞれ 一方は公妃ルイーズ (1808年没) 、もう一方のジョセフ・ラミー(英語版)[3]の設計した廟にエカチェリーナ2世の孫エレナ・パヴロヴナ大公妃(1808年没)がねむる[注釈 3]。そのほかルートヴィヒの愛馬の記念碑などが立つ[4]

連続式の滝

パウル・フリードリヒ大公は1837年、首都機能をシュヴェリーンに戻した。ルートヴィヒスルスト城は夏の離宮として使われ、改築を免れた。公園の大部分は19世紀半ば(1852年以降)に修景プランを大幅に変更する[5]。ドイツの貴族層から幅広い財政的支援を取り付け、わけてもぺーター・ヨセフ・レンネの後ろだてを得て、レンネの采配で自然らしさを強調したイギリス風景庭園の手法が施される[5]。宮殿を取り巻く水路や池は自然を模した流れに改造し、周りを囲む森林は庭園と接するあたりにさまざまな樹種を植栽して景色に変化をつけた。それでも主軸となる宮廷貴婦人の並木道(独: Hofdamenallee)は宮殿を挟み、ひたすら斜角を保って直線状に森を貫いている。また「大運河」も宮殿に対して斜めに伸び、全長1.5km前後のまま変わっていない。

旧「宮廷教会」(独: Hofkirche 1803年-1809年)

退位したメクレンブルク=シュヴェリーン家は宮殿を住まいとして使い続け、1945年に市当局に明け渡す。現在では「シュヴェリーン州立ルートヴィヒスルスト・ギュストロー美術館」として、メクレンブルク公の収集品であったジャン=バプティスト・ウードリーの絵画ならびにジャン=アントワーヌ・ウードンの複数の胸像[注釈 4]を展示する。

を展示する。

ここに滞在したイギリスの作家ウィリアム・メイクピース・サッカレーは、自著に登場する18世紀の不道徳な英雄バリー・リンドン(英語)の豪奢な生活の一幕を描いている(同名の映画作品あり)。伯爵夫人に求愛するリンドンはツァモールという黒人の小姓にトルコ風の衣裳を着せるなど、「オリエンタルな雰囲気に満たされ贅沢の限りを尽くした大邸宅」に暮らすという設定である[注釈 5]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ルートヴィヒスルストで用いた張り子手法を「ルードヴィヒスラスター・カルトン」と呼ぶ。自在に整形でき型枠を使った成形も可能。
  2. ^ 宮廷教会は Johann Christoph Heinrich von Seydewitz (ドイツ語版)が担当した。
  3. ^ 大公妃は世子フリードリヒ・ルードヴィヒの妃でパウル・フリードリヒ大公とその妹を生んでいる。パウル・フリードリヒは都をシュヴェリーンに戻した人物である。
  4. ^ 1782年の冬、パリを訪れたフリードリヒ・フランツ公と妃はウードンに胸像を注文している。現在、博物館の所蔵するテラコッタ色の胸像14体も、同じ機会に求めたことに疑いはない[6]
  5. ^ ヨーロッパで流行したトルコ趣味の詳細は、テュルクリに詳しい。

出典[編集]

  1. ^ a b Staatlichen Museum Schwerin website(シュウェリーン州立美術館公式サイト)” (ドイツ語). 2007年4月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年10月16日閲覧。
  2. ^ Erouart, Gilbert (1982). L'architecture au pinceau : Jean-Laurent Legeay, un piranésien français dans l'Europe des lumières. Paris : Electa Moniteur, 1982. シリーズ:Architecture., Essais et documents. [1] [2]
  3. ^ Turner, Paul V. (1996) Joseph Ramée: International Architect of the Revolutionary Era. Cambridge University Press, ISBN 0521495520, NCID BA28604483
  4. ^ McLachlan, Gordon (2004) (英語). The Rough Guide to Germany. p. 718 
  5. ^ a b 「庭園案内」公式パンフレット” (英語). Schloss Ludwigslust ルートヴィヒスルスト宮殿. 2007年11月2日閲覧。
  6. ^ Poulet, Anne L. (2003). Jean-Antoine Houdon: Sculptor of the Enlightenment. National Gallery of Art exhibition. p. 45f 

外部リンク[編集]

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