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称制
[編集]称制(しょうせい)は、臨朝称制(りんちょうしょうせい)の短縮型で、かつて中国や日本など東アジアの国々で、帝王の近親者が帝王の代理として国を治めたことをさした語である。ただし中国の場合と日本の場合では、その内容が大きく異なる。
中国の場合
[編集]臨朝称制の定義
[編集]中国では幼少の皇帝が立つと、その皇帝に近い皇族がこれにかわって国を治たが、その者が皇后、皇太后、太皇太后の場合は「臨朝称制」、皇太子の場合は「監国」、その他の男性皇族の場合は「摂政」と呼んで区別した。臣下の者が摂政になることはありえなかった。
皇后は皇帝の正妃として、また後宮の主として、宮廷ではそもそも皇帝に次ぐ権威がある存在だった。しかも皇帝が寵愛する妃を皇后にすることができた中国では、皇后は皇帝に最も近い存在であることが多かった。そうした皇后出生の男子が次代の皇帝になれば、生母である太后(皇太后や太皇太后など)の権威は絶大なものとなる。したがってその皇帝が幼少の場合、太后にはその権威に見合った実権が委ねられたのも自然だった。
太后が実の子や孫の代理として国政をみる限り、いずれは成人した皇帝のもとに実権が戻ることが期待できるので、帝位の簒奪を心配する必要もなかった。このため、中国で幼少の皇帝を代理したのは太后による臨朝称制がほとんどで、男性皇族による監国や摂政の例はほんの数例しかなかったのが特徴的である。
臨朝称制の語源
[編集]幼少の君主の生母が国政を代行した例は春秋・戦国の昔からあったが、中国全土に君臨する皇帝の代理として臨朝称制をはじめて行ったのは、前漢の初代皇帝高祖の皇后だった呂雉である。
高祖が崩じたあと、呂雉の子が立って恵帝となったが、凡庸な恵帝には有能な異母兄弟が何人もおり、その背後には有力な外戚がひかえていた。これを憂えた呂雉はかれらを次々に粛正していったが、その方法があまりにも残忍だったため、恵帝は政務を放棄して酒に溺れてしまう。そこで呂太后が代わりに政務をみるが、まもなく恵帝が23歳で崩じてしまうと、呂太后は恵帝の子でまだ幼児の少帝恭を立てて自らが国を治めた。『漢書』「高後紀」には
- 惠帝崩、太子立為皇帝、年幼、太后臨朝稱制、大赦天下。
恵帝崩じる、太子を立て皇帝と為す、年幼し、太后朝に臨みて制を称す、天下に大赦す。
とあり、この「朝に臨みて制を称す」が臨朝称制の初出である。
儒教の影響で、中国には古くから「男は外、女は内」という伝統があった。これは宮廷においても同じことで、たとえ皇太后であろうとも日頃その身は後宮の奥深くにあって、政務の場である朝廷に自由に出てくることは許されなかった。しかし皇帝を代理する呂太后は別格で、日常的に “朝” 廷に “臨” んで政務をみた。これが臨朝である。
またこの前漢に先立って中原を統一した秦の始皇帝は、従来の「王令」を「詔」、「王命」を「制」と改称するなどといった「皇帝専用語の制定」を行っていたが、呂太后は自らこの “制” を “称” して皇帝同様に命令を下した。これが称制である。
臨朝称制の例
[編集]中国の歴代王朝で臨朝称制した者は28人にのぼるが、そのすべてが皇后、皇太后または太皇太后である。
垂簾聴政
[編集]時代が下って儒教の理念が浸透し、男尊女卑の概念が普遍の原理として中国社会に定着するようになると、女性が「朝に臨みて制を称す」という行為は、たとえそれが太后といえどもいかがなものかと問題視されるようになった。しかし皇帝専制の中国において臨朝称制は必要不可欠な制度である。そこで「臨朝称制」にかわって、表現を和らげた「垂簾聴政 (すいれんちょうせい) 」という語が用いられるようになった。
垂簾聴政とは「御簾 (みす) を垂 (た) らして政 (まつりごと) を聴く」を意味する。朝廷で太后は廷臣の前には姿を見せず、幼少の皇帝を座らせた玉座の背後に簾 (すだれ) を垂らし、その陰に身をひそめて政務報告をうけたことから生じた語である。ただしこれはあくまでも建前であって、実際には太后と幼少の皇帝と並んで報告や拝謁を受けることも多かった。
19世紀後半から20世紀はじめにかけて、清の西太后は前後47年間にもわたって垂簾聴政を行った。このことから、中国では西太后の治世そのものを「垂簾聴政」と呼ぶまでにこの語は人々にとって身近な語になった。その結果この語が「太后による政治」という意味で定着し、今日では古代の臨朝称制をも含めて垂簾聴政と呼ぶことがある。しかし垂簾聴政はあくまでも便宜上の通称であって、皇后・皇太后・太皇太后による皇帝の代理を正式に言い表す語は臨朝称制であることに変わりはない。
日本の場合
[編集]日本の「称制」
[編集]日本では上代の一時期に「称制」を行った者がいる。ただし日本の「称制」と中国本来の臨朝称制には、その形態に大きな違いがある。
- 中国の臨朝称制:
1. 新帝が立ったが、
2. 幼少のため、
3. これが成人するまでのあいだ、
4. 皇后、皇太后、または太皇太后が、
5. 皇帝の代理として国を治める。
- 日本の「称制」:
1. 先代の天皇が崩じ、
2. 何らかの理由で次の天皇がすぐに即位できない状況にあるとき、
3. 当面のあいだ、
4. 本来次の天皇であってしかるべき皇太后、皇女、皇子が、
5. 事実上の天皇として国を治める。
つまり中国の臨朝称制があくまでも「君臨する幼帝の代理」なのに対し、日本の称制は「自身が事実上君臨する天皇そのもの」なのである。
日本型「称制」の例
[編集]正史である『日本書紀』が「称制」としてあげているのは、白鳳期に中大兄皇子が皇太子として行なった「素服称制」と、鸕野讚良皇女が皇太后として行なった「臨朝称制」の二例のみである。ただしこのほかにもいわゆる日本型の「称制」にあてはまるものとしては、天智天皇亡き後の近江朝を「太政大臣」として背負った大友皇子の例や、清寧天皇亡き後大和朝廷を背負った忍海飯豊青尊の「臨朝秉政」の例があり、さらに実在の是非は別として、日本型「称制」の先例とされた神功皇后による「摂政」の例がある。
本節ではこれら五例を通じて「日本型称制」の成立とその独特な統治形態を概観する。(なお以下では特に但し書きがない限り、すべての名称、呼称、年月、経緯などは『日本書紀』の記述による。)
神功皇后
[編集]- 実名: 気長足姫尊
- 続柄: 先帝の皇后、次帝の生母
- 形態: 摂政「」
- 開始: 201年、仲哀天皇崩御の後
- 終了: 269年、崩御
- 経緯:
- 仲哀天皇八年、熊襲征伐のため筑紫に赴いた仲哀天皇と共に、神功皇后は筑紫橿日宮に滞在していたが、そこで皇后は神懸りして住吉大神から「宝の国(新羅)を授ける」という神託を受けた。しかし仲哀天皇はこれを信じず、逆に大神を非難したため、大神の怒りに触れた天皇は翌九年にわかに崩御してしまった。すると住吉大神は皇后に再び神託を下し、今度は皇后の胎中の子に宝の国を授けると告げた。皇后は神託に従い、腹に石をあてさらしを巻いて体を冷やし、出産を遅らせながら身重のまま新羅を攻めた。新羅王は戦わずして降服して朝貢を誓い、高麗と百済も朝貢を約した(三韓征伐)。同十二年に帰国すると誉田別皇子を出産、翌年には群臣から推されて皇太后となり摂政となった。神功皇后摂政三年、大和に帰ると誉田別皇子を皇太子とし、磐余の若桜宮で国を治めた。治世六十九年で崩御。あとは太子が位を継いだ(応神天皇)。
忍海飯豊青尊
[編集]- 大泊瀬皇子は皇位継承の有力候補だった従兄の市辺押磐皇子を殺害して位についた(雄略天皇)。市辺押磐皇子の二子、億計王と弘計王は播磨国に逃れ、身分を隠して成長した。雄略天皇が在位23年で崩御したあとは、子の清寧天皇が位を継いだが、天皇には后妃も子もなかった。そこで481年、弘計王は一計を案じ、天皇の宴の席で歌に託して自らの身分を明かす。天皇はこれを喜び、迎えを遣わして翌年二王を宮中に入れ、兄の億計王を皇太子に、弟の弘計王を皇子にした。484年、清寧天皇が崩御すると、皇太子の億計王は、そもそも先帝にわれらの身分を明らかにした功は弘計王にあるとして、皇位を弟に譲ろうとした。しかし弘計王はこれを固辞。二王は互いに譲り合って決着をみなかったので、姉にあたる飯豊青皇女が、忍海飯豊青尊と称して臨朝秉政[1]した[2]。治世十ヵ月で崩御。あとは弘計王が位を継いだ(顕宗天皇)。
中大兄皇子
[編集]- 続柄: 先帝の皇太子
- 形態: 素服称制:「素服(あさものみそたてまつりて)称制(みことのりきこしめす)」
- 開始: 661年11月、斉明天皇崩御の後
- 終了: 668年2月、即位(天智天皇、〜672年1月崩御)
- 経緯:
- 解説:
大友皇子
[編集]- 続柄: 先帝の皇子
- 形態: 太政大臣:
- 開始: 672年1月、天智天皇崩御の後
- 終了: 672年8月、自縊
- 経緯:
- 解説:
鸕野讚良皇女
[編集]- 続柄: 先帝の皇太后、皇太子の生母
- 形態: 臨朝称制:「臨朝(みかど)称制(まつりごとしきこしめす)」
- 開始: 686年9月、天武天皇崩御の後
- 終了: 690年1月、即位(持統天皇、〜702年8月譲位)
- 経緯:
注釈
[編集]- ^ 秉政 (へいせい) とは「政治を司る」という意味だが、本来の中国語ではむしろ「権力を欲しいままにする」といった否定的な意味を含むもので、『前漢書』では臨朝称制していた王太后の甥の王莽が、『後漢書』でもやはり臨朝称制していた梁太后の兄の梁冀が、それぞれ太后の威光をかさに専権を振るった様子を記したくだりにこの秉政という語が使われている。『日本書記』の編者は明らかにその辺りを混同して「臨朝称制」すべきところを「臨朝秉政、〜と称す」としている。
- ^ 『古事記』ではこれがさらに徹底しており、「清寧天皇が崩御すると、天皇となる者がいなくなってしまったので、だれか継承者はいないかと探したところ、市辺忍歯別王(市辺押磐皇子)の妹である忍海郎女 (おしぬみのいらつめ)、またの名を飯豊王 (いひとよおおきみ) がいたので、これが葛城の忍海高木角刺宮 (おしぬみの たかぎの つのさしの みや) で即位した」と書かれている。億計王と弘計王は『古事記』では飯豊の甥にあたるが、彼らが現われるのはそのあとになってからである。