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顕宗天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
弘計王から転送)
顕宗天皇
『御歴代百廿一天皇御尊影』より「顕宗天皇」

在位期間
顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日
時代 伝承の時代古墳時代
先代 清寧天皇
次代 仁賢天皇

陵所 傍丘磐坏丘南陵
漢風諡号 顕宗天皇
弘計
来目稚子
別称 弘計天皇
袁祁王
袁祁之石巣別命
袁奚天皇
父親 市辺押磐皇子履中天皇皇子)
母親 荑媛
皇后 難波小野王
皇居 近飛鳥八釣宮
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顕宗天皇(けんぞうてんのう、旧字体顯宗天皇、、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)は、日本の第23代天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日)。『日本書紀』での名は弘計天皇

概略

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去来穂別天皇(履中天皇)の長子である市辺押磐皇子の第三子。母は葛城蟻臣(ありのおみ)の女の荑媛(はえひめ)。同母姉に飯豊女王、同母兄に億計天皇(仁賢天皇)がいる。安康天皇が暗殺されたあとの後継者争いで父が大泊瀬天皇(雄略天皇)に殺されたため、兄と共に身を隠す。

大泊瀬天皇が在位23年で崩御して子の白髪天皇(清寧天皇)が即位した際、兄と共に命がけで皇族であることを現して無事に皇子と認められる。白髪天皇が在位5年で崩御したとき太子は兄の億計皇子だったが皇位を譲られて即位。父の仇である大泊瀬天皇への復讐を試みたが兄に諫められ思いとどまった。即位3年4月25日、崩御。

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  • 弘計天皇(をけのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
  • 来目稚子(くめのわくご) - 『日本書紀
  • 袁祁王(をけのみこ) - 『古事記
  • 袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと) - 『古事記
  • 袁奚天皇(をけのすめらみこと) - 『播磨国風土記

漢風諡号である「顕宗天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

事績

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亡命と帰還

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志染の石室

大脚御子と来目稚子の兄弟、のちの仁賢天皇と顕宗天皇は去来穂別天皇(履中天皇)の孫として生まれた。父は市辺押磐皇子といって、即位3年8月9日に暗殺された暗殺された穴穂天皇(安康天皇)は生前、皇位を継承させて後事を託そうとしていた。しかしかねてからこのことを恨んでいた大泊瀬皇子(穴穂天皇の弟、後の雄略天皇)は、10月に押磐皇子を近江の蚊屋野(かやの、現在の滋賀県蒲生郡日野町鎌掛付近か)へ狩猟に誘い出し、「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。子の大脚御子と来目稚子は難が及ぶのを恐れ、舎人とともに丹波国を経て播磨国赤石に逃れ、名を隠して縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕え、長い間牛馬の飼育に携わっていた。父の仇である大泊瀬天皇(雄略天皇)は即位23年に崩御し、子の白髪皇子が後を継いだ(清寧天皇)。

清寧天皇2年11月、小楯という者が天皇の大嘗祭(新嘗祭とも)のため播磨に遣わされており、縮見屯倉首の新築祝いに訪れていた。来目稚子は身分を明かすのは今しかないと兄に訴えた。兄は命惜しさに諫めたが弟の決意は固く、結局兄弟ともに命を懸けることになった。そして祝いの宴の席で舞い踊り歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。小楯は二人を王族と認め、都に迎え入れることを天皇に求めた。子がなかった白髪天皇(清寧天皇)はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年二王を宮中に迎え入れた。そして4月7日(5月10日)に兄王を皇太子億計、弟王を皇子弘計とした。

『古事記』によれば、弘計(袁祁)王は菟田首(うだのおびと)の娘の大魚(おうお)にめぐって志毘臣(しびのおみ)と恋争いをし、それを夜襲して誅殺したとしている。志毘臣は『日本書紀』における平群鮪(へぐりのしび)と同一人物とされていて、鮪は『古事記』の志毘臣と同じように恋争いが発端となって誅殺されるが、『日本書紀』では恋争いの相手が武烈天皇、争いの対象の女性は物部麁鹿火の娘の影媛(かげひめ)となっている[1]

清寧天皇5年1月16日に白髪天皇が崩御した後、皇太子の億計王は身分を明かした大功を理由として弟の弘計王に皇位(王位)を譲ろうとするが弘計王はこれを拒否。皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。

『古事記』では、二王が身分を明かして宮中に戻ったのは白髪天皇の崩御後、飯豊王の執政中のことであるとする。

復讐と断念

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結果的に兄の説得に折れる形で翌年元旦、弘計が即位した(顕宗天皇)。引き続き億計が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。即位した年、置目老嫗(おきめのおみな)の案内から亡父の遺骨の所在を知り得て、改めて陵を築いた。天皇は置目の功績を称えて宮中に居を構えさせたが、彼女は既に足腰が弱っており、不憫に思った天皇は宮中に縄を張り、それを伝って歩くようにさせ、さらに縄に鐸を掛けて、取り次ぎの係への手間を省かせたという。しかし翌年9月、置目は縄に捕まっても進むことができなくなり、故郷に帰りたいと願った。天皇はこれを許し、置目を見送りつつ歌を詠んだ。

置目もよ 近江の置目 明日よりは み山隠(がく)りて 見えずかもあらむ

即位2年、天皇は父の雪辱を果たすべく大泊瀬皇子(雄略天皇)への復讐に走り意祁命その陵の破壊を命じた。意祁命は少し陵の傍らを掘っただけで天皇(弟)のもとに戻り「既に壊しつくした」と奏言したが、早く戻ったことを不審に思い問いただすと事実を述べた。「父王の仇を報いるために必ずその陵を破壊しつくすはずが、なぜ少し掘っただけなのか」と天皇が追及したところ、「父王の怨みをその霊に報いようと欲することは誠に道理である。しかし大泊瀬天皇は父の仇ではあっても叔父(実際は従兄弟)であり、天下を治められた天皇であるから、その陵を破壊すれば後世の人の誹謗を買うことになる。」と意祁命は答えた [注 1]。その後の天皇は、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。

同3年4月25日、崩御。『古事記』に38歳(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。

系譜

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10 崇神天皇
 
彦坐王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊城入彦命
 
11 垂仁天皇
 
丹波道主命
 
山代之大筒木真若王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上毛野氏
下毛野氏
 
12 景行天皇
 
倭姫命
 
迦邇米雷王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本武尊
 
13 成務天皇
 
息長宿禰王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14 仲哀天皇
 
 
 
 
 
神功皇后
(仲哀天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16 仁徳天皇
 
菟道稚郎子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛二派皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中天皇
 
18 反正天皇
 
19 允恭天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
意富富杼王
 
忍坂大中姫
(允恭天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐皇子
 
木梨軽皇子
 
20 安康天皇
 
21 雄略天皇
 
 
 
 
 
乎非王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯豊青皇女
 
24 仁賢天皇
 
23 顕宗天皇
 
22 清寧天皇
 
春日大娘皇女
(仁賢天皇后)
 
彦主人王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
手白香皇女
(継体天皇后)
 
25 武烈天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26 継体天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


后妃・皇子女

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『日本書紀』に皇子女の記載なし。『古事記』にも「子無かりき」とある。

年譜

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『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[2]。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

  • 允恭天皇39年?
    • 誕生
  • 安康天皇3年
    • 10月、父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子に殺されたため、兄の億計王と共に逃亡
    • 11月、大泊瀬皇子が即位(雄略天皇
  • 雄略天皇23年
    • 8月、大泊瀬天皇崩御
  • 清寧天皇元年
  • 清寧天皇2年
    • 11月、兄の億計王と共に播磨で発見される
  • 清寧天皇3年
    • 1月、兄の億計王と共に皇子と認められ宮中に迎え入れられる
    • 4月、億計王が太子になる
  • 清寧天皇5年
    • 1月、白髪天皇が崩御。億計皇子と皇位を譲り合う。高木角刺宮に都が移り、飯豊青皇女が執政
    • 11月、飯豊青皇女が薨去
  • 顕宗天皇元年
    • 1月、近飛鳥八釣宮で即位。太子は億計皇子のまま
    • 2月、父の市辺押磐皇子の遺骨を発見
  • 顕宗天皇2年
    • 8月、大泊瀬天皇の陵を破壊しようとするが億計皇子に諫められる
  • 顕宗天皇3年
    • 4月、福草部を定める
    • 4月、崩御
  • 仁賢天皇元年
    • 1月、億計皇子が即位
    • 4月、傍丘磐杯丘陵に葬られる

皇居

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都は近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや。現在の奈良県高市郡明日香村八釣または大阪府羽曳野市飛鳥)。『古事記』は単に「近飛鳥宮」とする。

陵・霊廟

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顕宗天皇 傍丘磐坏丘南陵
奈良県香芝市

(みささぎ)の名は傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)。宮内庁により奈良県香芝市北今市の古墳に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円

上記とは別に、奈良県大和高田市築山にある宮内庁の磐園陵墓参考地(いわぞのりょうぼさんこうち)では、顕宗天皇が被葬候補者に想定されている[3]。遺跡名は「築山古墳」。

皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、神戸市西区押部谷町木津には、顕宗・仁賢両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。この神社の他にも西区内や明石市には所縁を称する神社が数多くある。

考証

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津田左右吉は億計・弘計2王の発見譚は典型的な貴種流離譚であるため、その史実性を疑い、実在しない架空の人物だと主張した。

現在でも実在を疑う説がある[4]が、その原因は記紀の所伝の内容があまりにも現実的では無いことにある。

「顕宗天皇(ヲケ)、仁賢天皇(オケ)の父親(市辺押磐皇子)は権力争いで雄略天皇に殺された為、二人は播磨国に逃げて、馬、牛飼いの奴隷になって身を隠した。 宴の席で、兄弟は舞を踊り、履中天皇の孫である事を謡の文句で示し、子供の居なかった清寧天皇はこれを受けて、宮廷に上らせ、自分の皇太子と皇子にする。」

天皇の孫だった人物が、逃亡中とは言え、牛や馬飼いの奴になったとは考えられず、舞の謡から初めて身分の貴種が明かされて、宮に上って天皇に即位する。というのもあまりにも劇的な展開である。これは生まれが貴い身分の人物が落胆の身になり、流浪の旅をして成長する貴種流離譚の典型的なものである。なぜ、このような物語が旧辞に取り入れられたのかははっきりしない。

近年では、この伝承に史実性を認める説もでてきた[注 2]。兄弟が畿内周辺を彷徨し、聖なる新室宴において唱え言をあげたことや、弘計の別名である「来目稚子」が久米舞を継承する来目部(くめべ)を連想させること、神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」ということなどから、当時に溯る民俗的背景がほのみえ、両皇子発見譚に史実性を認めながらも、詳細には意見は割れている。

また平田篤胤梁書に登場する扶桑国の国王乙祁(おけ)が、仁賢天皇の名億計(おけ)に通じること、在位年代もほぼ一致することから、乙祁は仁賢天皇であり扶桑国とは日本のことだと主張した。

また、両皇子発見譚が史実ではなかったとしても「史実でない物語・伝説が付加された」ということにすぎず、人物としての実在性や天皇系譜そのものを否定したことにはならないとし、億計・弘計の両天皇の実在を主張する意見[5]も少なくない。

脚注

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注釈

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  1. ^ 神皇正統記では仁賢天皇が陵の破壊を思い立ち,それを即位前の顕宗天皇が諌めたと,兄弟で全く逆の立ち位置となっており,それにより弟が兄に先立ち即位したとある(恐らく北畠親房の誤認か)。
  2. ^ 若井敏明の説では億計王・弘計王の兄弟を発見したのは「忍海部」の人物であることから、実は兄弟は早くから飯豊王の保護下に匿われており、発見は半ば出来レースだったと推測する。これに対し角林文雄などの説では物語の構成・展開に信憑性を認め、発見は本当に偶然だったとしている。

出典

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  1. ^ 笹川尚紀「『日本書紀』の編纂と大伴氏の伝承」(初出:『日本史研究』第600号(2012年)/笹川『日本書紀成立史攷』(塙書房、2016年)ISBN 978-4-8273-1281-2
  2. ^ 『日本書紀(三)』岩波書店 ISBN 9784003000434
  3. ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。
  4. ^ もう一度学びたい古事記と日本書紀 西東社 2006 P206-207
  5. ^ 田中卓安本美典など

関連項目

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外部リンク

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