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利用者:Pixan/arg01

議論:日本語版ウィキペディアの記事を書く方、読む方への注意点と要望(書類チューン記事から始まる問題提起)[編集]

書類チューンの記事を作成し、熟成していくプロセスの中で議論が生じており、これは単独の記事における問題ではなく、記事を書く人読む人それぞれが関心を持つことが望ましいものと思い、この場に記述することにした。

リソース[編集]

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言語と国の結びつき・法制度に関して[編集]

日本語はご存じの通り、日本という国家との結びつきが強い。対して英語スペイン語は複数の国家の(実質的な)公用語として幅広く用いられているため特定の国家との結びつきは日本語と比べると弱い。このことは記事の書き方や読み方に影響をもたらしている。日本語版の記事を書くときには黙示的に「日本では」「日本での制度上は」「日本の法律では」という前置きが行われている。

対して英語やスペイン語で記事を書くならば(書いたことないけどね)特定の事象について、たとえば「イギリスでは不法とされるが、オーストラリアではグレーゾーンで、アメリカでは一部の州で許可される」ということがあるだろう。それでは、このような事象があって記事を書く際に、各地の制度におけるとらえ方を個別に書く必要があるだろうか。それは無理なこと、無駄なことである。あえて書く必要はない。

日本語の記事は、ほとんど日本国内に暮らす人間によって読まれている。知識の利便性を有意義にするためには、日本の環境・歴史・諸制度などへの整合性を高めればよい。つまり先に述べたように、これらを黙示的に扱えば、自ずとその方向性に近づく。

私はひとつ良い経験を持つことができた。書類チューンという記事を立ち上げると瞬く間に力強い支援を受けて、立ち上げた本人がいうのは不謹慎ではあるが、読み応えのある内容に成長した。支援者による関係機関への取材を通じて、事実の再確認(罪名の変更)を促すこともできた。その後に、某氏による本記事の削除を求める提案がなされた。その提案の核心は「違法行為のやり方を書くな」であった。私や支援者のスタンスは違法行為のやり方の説明をしているどころか、(一時期散発的に流行した模様の)この行為が不法行為であり、実際に行うとどのような不利益があるかという観点で成長させていった。これが不法行為の実施手段かどうかを検証するための簡単な手法を某氏に提示し反証を求めたが、残念ながら反証どころか議論への参加さえ得られなかった。もっとも、不法行為を完成しうる手段については全く記述していないため、某氏の指摘は全く的はずれではあった。

この問題は、3つ前の段落の内容と密接となる。某氏は違法行為についての記述だから削除を求めるだけの条件がそろっていると判断しただろう。しかし、(書類チューンというひとつの事象にかかわらず)ある行為が合法なのか違法なのかを基準に、削除の可否を求めるならば、たまたま日本語の場合日本国との結びつきが強いので、大前提に日本の法制度を用いていけば成り立っていくが、他の言語の場合はたちまち破綻する。特にアメリカのように、連邦の法律としては違法で特定の州では合法で、というような複雑な組み合わせになってくると記事を書くことすら不可能になってくる。

今のところ、日本語で記事を書く際は日本の法制度等に照らさなければならないというローカルルールは存在していない。また、これは限られた人数かもしれないが、日本語を母語としない人々が日本についての学習を深める上で日本語の記事を読んだり書いたりする機会はあり、その場合、日本の法制度を大前提に持ってくると授受できる情報量が制限されることとなる。

確かに、違法行為マニュアルたる記事を書くのは悪い。しかし何が違法行為で、それはおおむねどのような行為を指すのか、という記事を書くのは悪いことだろうか。これにはウィキペディアとして何らかのガイドラインがあるのだろうか。私は今(2006-07-17)のところこれを知っていない。

書く側の責任・読む側の責任とは何か[編集]

次に、懸案の書類チューンのノートに「読者に責任を求めてはいけません。責任ある編集を放棄するともとれる発言は問題があります。ブロック依頼を出しますのでご了承ください。」という某氏(先ほどの某氏とは同じかどうかわからない)とのメッセージが書き加えられた。

書く側の責任、これは難しい問題である。不文律、信義則、性善説といった無形のルールに沿って行うもので、書く側は「なるべく良い内容にするためにその時できうることを試みる」といったところが妥当だと思う。しかしこれは何に裏付けされた(そうしなかった場合のペナルティは何か)ものではなく書いた人の責任がどのような形で追及されるのかが不明確である。

これは何もウィキペディアだけの問題ではなく、紙媒体や放送でもこの手の問題を抱えている。よく知られている例として、競馬の競争結果と配当金に関する報道がある。注意深くこれらを見ていただくとわかるが、この報道では「結果は念のため主催者発表のものと確認してください」というようなメッセージが加えられている。つまり、報道で間違っていてもその責任は追求されない。もちろん主催者が間違えば責任追及される。しかし報道各社はなんとしてでも間違いのないよう最大の努力を行っている。ここが大事な所である。

ウィキペディアの場合、責任のある編集というのはどのようなものを指すのだろうか。ちょうど、この書類チューンの記事に加筆された支援者は、行政機関へ質問状を送付して正確な情報の入手に努めた。これは編集行為として優秀ではあるが、責任のある編集といえるかどうかはわからない。受験の参考書などには「(講師陣の名前)責任編集」といった語句でその書物の信頼性を示しているものもあるが、それを読んですべての問題演習をこなしたにもかかわらず落選してしまった場合であっても、彼らに何の責任を追及できようか。

次に、某氏のいう「責任ある編集を放棄する」についてごく個人的な見解を述べる。責任ある編集を放棄するという姿勢で私は記事を書くことはできないし、したくない。何時間も貴重な時間を費やしてわざわざそういう姿勢になるのは、私にとってどう頑張ってもできないくらい難しいものである。記事を書いていけば、少しでも情報量が豊かになるように進めていく傾向がある。それが結果的にどう反映されているかは検証しにくいが、この姿勢は記事を立ち上げる場合・既存の記事に加筆する場合ともに同じである。

読む側の責任について考察したい。某氏は「読者に責任を求めてはいけません。」と述べた。これもウィキペディアに限った話ではなく、他人に強制されている場合や本人に充分な取捨選択の手段や時間が残されていないことなどを例外として、どのような行為であっても、基本的にその結果は本人に帰属する。ウィキペディアを読むことのできる知的水準を持つ人ならば、その情報にふれて、それがどのようなものであるか判断する力があるはずである。

読者といっても様々なクラスがあるが、それらの各クラスに応じて説明を書いていくことは不可能である。よって読む側においては自分位置づけを認識し、書いてある内容を充分に把握することが必要であり、理解のないまま興味本位で行為に及ぶというのは避けていただきたい。これも無形のものではあるが、性善説的な姿勢で読んでいただけなければあらゆる記事が不法行為や紛争の種になってしまう。

小中学生でもウィキペディアを利用していると聞く。書く側としては小中学生に応じた内容にて記述すべきなのかもしれないが、それは難しく、親権の及ぶ児童の皆さんにはぜひともご両親や先生、指導員といった、情報を的確に分析できる人の補助を受けていただきたい。

さて、某氏によって私は「読者に責任を求めた」ということについて糾弾されるという事態になったが、これは反対側からとらえ直すと、筆者は読者の行為における結末について責任を負うべきだという主張になる。これは非常に厳しい主張であり、まずはこの形についてのコンセンサスを形成する必要がある。ウィキペディアの記事を書く人は読者の顛末を先読みしていかなければならないだろうか。これについては当該某氏のご意見をまず聞きたい。

もちろんのことだが、この記事に関わった方やそれ以外の方のご意見も聞いて考えたいと思う。--pixan 2006年7月17日 (月) 14:01 (UTC)