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利用者:Poo tee weet?/b

Roman oil lamp depicting coitus more ferarum
Ancient Roman oil lamp (circa 1st Century AD) depicting woman having sexual intercourse with two men simultaneously
Typical heterosexual Roman painting from Pompeii
Roman Spintria (i.e. brothel token)
Sunga Empire sculpture (India), 1st century BCE. Metropolitan Museum of Art.
Traditional pederastic courtship scene on an Athenian black-figure amphora from the 5th century B.C.

性描写の歴史とは絵画、彫刻、写真、演劇、音楽、言語芸術といった時代を通じて性を表現してきた文化生産物の歴史である。それらは古代と現代とを問わず、ほとんど文明が興るのと同時に生み出されてきた。始原の文化においてはしばしば性行為が超自然的な力と結びついており、したがってその信仰は性描写と密接な関係にあった。インド、ネパール、スリランカ、日本そして中国といったアジアの国々では性の表象やエロティック・アートは土着の信仰における特殊な、つまり霊的な意味を持ってきた。ギリシア人やローマ人もエロスの本質を無数の芸術にして飾り立てたが、そのほとんどは信教や文化的な習俗と一体化していた[1][2]

時代が下るとコミュニケーション/伝達の手段が進化していくが、新たな技術―印刷、写真、映画、コンピューター―が生み出されるたびに、それらは性描写を人々の目にとめ、行き渡らせるために応用されていくのである[3]

歴史的位置づけ[編集]

初期の文明において性描写はしばしばその文化に固有の、宗教的な美術の一部であり、そのため他のジャンルと異なる扱いを受けたり、傍流に置かれたりということはなかった。ポルノグラフィーというのは近代的な概念であって、ヴィクトリア朝までは存在しなかった。現在のような定義は1860年代に売春婦という意味が抜け落ちたときに代わりに加えられたものである[4]。1857年の英語の医学事典に初めて次のような定義が現れる。「公衆衛生の対象(matter)として売春の、あるいは売春婦を描写すること」[5]。1864年にはウェブスターの辞典に初めて現代的な意味で紹介されている。「ポンペイに例をみるようなバッコス祭らんちき を執り行う部屋の壁を飾るために用いられる猥らな絵」[6]。ここから今日のあからさまな図像一般を指す言葉になったのである。古代の法においても特定の性行為は制限を受けたり禁止されていたが、描写されたものを単にみるだけであれば1857年まではどの国でも違法ではなかった。性的な書籍や印刷物を蒐集することが法に触れる場合があっても、実質的にあからさまなもの一般を見ることも禁止する法律が構成されるのはヴィクトリア朝の時代である[3]

1860年代にポンペイの大規模な発掘調査が行われ、そこで明るみに出た古代ローマのエロティック・アートの数々に、ローマ帝国の知を受け継いだと自認していたヴィクトリア朝の人間は衝撃を受けたのだった。あっけらかんとした性的な描写がされた美術品をどうしてよいのか戸惑いが広がり、上流階級の学者たちをのぞけば誰もが自分たちの目の届かないところへ隠そうとした。動かせるものはナポリの秘宝館英語版へと遠ざけられ、撤去をまぬかれたものも繊細な女性や子供、労働者階級を堕落させないために隠蔽され、遮断された。イングランドで(つまり世界で)初めてポルノフラフィが犯罪となるの律は1857年に猥褻刊行物法が制定されたときである[3]。しかし時々の抑圧にも関わらず、性的な主題を描くことは一千年にわたってあたりまえ(common)だった[7]

古代[編集]

The Venus of Willendorf, a figurine with exaggerated sexual characteristics
A prehistoric petroglyph of a vulva

旧石器時代および中石器時代[編集]

最古の現存する性描写に旧石器時代の洞窟画と彫像がある。より一般的な対象は動物や狩りの場面だが、人間の性器を描いたものもある。裸の人間が性的な特徴を誇張して描かれたものが旧石器時代の絵画や遺物にみつかる(たとえばビーナスの小像)。近年でもイングランドに1万2千年以上も前のものとされるクレスウェル・クラッグが発見されているが、ここには女性器を様式化したであろうシンボルがみつかる。直接的な証拠はないものの、宗教的な儀式に用いられていた[8]か、よりはっきりと性的な目的があった可能性が指摘されている[9]

2005年4月にはドイツで7200年前のものと考えられる男女の小象が発見された、と考古学者が報告している。それによると男性が女性のほうに体を傾け、性交のやり方について手ほどきをしている場面を描いたものである。この小象にはアドニス・フォン・チェルニッツ英語版という名前がつけられている[10]

エジプト[編集]

エジプトから出土した遺物の一つに当時の「メンズ・マガジン」が「トリノのエロティックパピルス」と名づけたものがある。これは断片的ではあるが、明らかに性行為を描いた、ラムセスの時代のものだ(1292-1075 BCE)。

ギリシアとローマ[編集]

古代ギリシアの人々はしばしば陶磁器に性的な場面を描いていて、その多くが最も早い時期に同性愛や少年愛を描写したものを含んでいるために有名である。ギリシア芸術にはよく性行為が描かれるが、この時代にはポルノグラフィーという概念がなかったために、それが違法であったり非道徳的なものであったのかを区別することは不可能である。そもそも彼らの美術品には日常生活が写し取られているのであって、性的な傾向が強いものがそのなかにあるというだけだ。しかし男根の彫刻がデロス島のディオニュソスの神殿に見られるように礼拝の場に置かれるのに対して、一般的な家財やお守りとなる頭像も頭の下の四角い台座の表にはあの名高い男根が彫られていた。ギリシア人の理想的な男性のイメージである小さいペニスは、美にうるさいローマ人にも採用された[3][11][12]。ギリシア人はまた西欧世界で初めてレズビアンの性を描いた有名な作例を持ってもいる。サッフォーの「アフロディテ讃歌」をはじめとしたホモセクシュアルな著作である[13]

A Priapus figure from Pompeii. Large phalli were considered undesirable for men to possess and often depicted for comic effect in ancient Rome.[2][3]

ポンペイとヘルクラネウムの崩壊したローマの建築物からはおびただしい数の露骨な性描写がおこなわれた絵画や彫刻がみつかるが、もともとどんな目的で描かれたのかはそれぞれに異なる。「秘儀荘」には明らかに宗教的な崇拝の対象が連想される鞭打ちの儀式が描かれたものがあるが、これなどは性的なものというよりも宗教的な意味合いのほうが強くみうけられる。一方で売春宿の扉の上に描かれる、性的なサーヴィスを提供する旨の広告がそうであるような生々しい絵も存在する。ポンペイでは歩道に彫刻された男根と睾丸とは旅行者が売春宿と歓楽街へ案内するためのもので、一般的な装飾と同程度にみられた。ローマ人は性描写はそれにふさわしく飾り立てられるものだと考えており、実際ウォレン・カップのように文化的な慣行や性的な道徳観がそこには反映されている。タブーとみなされた性行為は滑稽な味を出すためいテルマエに描かれたのである。巨大な男根は幸運のお守りであるためしばしばその通路のそばに置かれ、家に彫刻を飾ることも一般的だった。複合建築が発見されたときに発掘された最初のものはギリシアの神であるパンが山羊と性交にふけっている大理石の象であった。この細部まで手の込んだ獣姦を描いた美術品はあまりにも猥褻であると考えられ、2000年まで一般に公開されることはなく、いまもナポリの秘宝館におさめられたままである[2][3][14]

ペルー[編集]

ペルーのモチェ文化にも陶器に露骨な性描写を施した古代人もいる。しかしその目的は他の古代文明のものとはまったく異なっていた。モチカ文化では死者の世界は生者のそれと正反対であると考えられており、性行為を描いた器は副葬品としてつくられたのである。そこにはマスターベーションやフェラチオ、アナル・セックスといったものが主題となったが、これらはみな子孫を残すことのないものである。死者の世界ではこの意味が反転して多産の象徴となることを願ったのだ。モチカ文化のエロティックな陶器はラファエル・ラルコ・オイレの研究書にもみることができる[15]

アジア[編集]

Shunga (Japan)
Prince and his lady on a terrace at night (India)

東洋における性描写の歴史は深く、長い伝統をもつ。日本や中国、インド、ペルシアやその他の国は愛に関する人間の能力を言祝ぐ無数の美術品がつくられた。男女の愛と同じだけ同性愛も描かれている。ヴァーツヤーヤナによる「カーマスートラ」は古代の性愛の手引き書として最も有名なものの一つであり、紀元まもないインドですでに書かれている。性の約束事を著したもう一つの書が「匂える園」であり、15世紀にムハンマド・イブン・ムハンマド・アル=ナフザウィの手になるものだ。

日本では木版画においてエロティック・アートが咲き誇るような隆盛をみせていた。春画として知られる様式であり、鈴木春信や喜多川歌麿などの絵師が多くの作品を残している。また絵巻物も非常に人気があった。春画は13世紀に出現した芸術で、時として規制の動きがあったにも関わらず普及していった。江戸幕府によって初めて好色本が禁止されたのは享保7年(1722年)だったが、春画は19世紀に写真が発明されるまで絶えることは無かった[1][16]

中国も性描写に関して長い伝統があり、具体的には1721年から1368年にかけての元の時代に遡ることができる。中国のエロティク・アートは明の時代(1368-1644)に全盛期を迎えた[1][17]

中国でも日本でも、エロティシズムが小説の歴史において大きな役割を果たした。11世紀の貴族の女性が書いた「源氏物語」は、しばしば「世界最初の小説」とも呼ばれ、抑制がきいていながらも実に現世的な言葉づかいで主人公の情事をなぞっている[18]。16世紀の中国ではよりあからさまな「金瓶梅」が書かれているが、これは中国の四大小説の一つに数えられているほどである。源氏物語は書かれたときから褒め称えられてきたのに対し、金瓶梅はポルノフラフィーだとして長きにわたり規制をうけ、四大小説には別の作品がはいっていた[19]

ヨーロッパ[編集]

性描写は中世の装飾写本にすでに見られ、そういった図絵のほとんどが時祷書の余白に描かれていたが、装飾写本は手製であるため非常に高価であり、読むことができる人は限られていた。中世の研究者の多くが、こういった写本があることで中世の人々は一冊で信仰心と性欲の両方を満たしたと考えている。ことにその一冊が所有する唯一の本であるということもしばしばだったからである。余白に書かれた図絵は道徳的な戒めのためのものだったと考える研究者もいるが、聖職者や役人が性交にふける姿が描かれていることを考えると反体制の起源もうかがわせるものがある[3]

グーテンベルクによって印刷機が発明されるまで、西欧で露骨に性的な画像が大量に流通することはなかった。前述のように性的な画像を無いようとするものは手製であり高価だったため、上流階級の男性だけが利用できたのである。大英博物館にはその上流階級の医者であるジョージ・ウィットが1865に寄贈した古代のエロティカをコレクションしたもので一杯になった「秘密」の部屋英語版がある。スクラップブックをはじめとするコレクションはいまも収蔵されているのだが、その殆どは最近になって別のコレクションと統合されることになった[20]

大量流通の時代[編集]

版画[編集]

Erotic engraving supposedly after Agostino Carracci (1557–1602)
Die Nacht - Night by Sebald Beham (1548) 108 x 78 mm.

版画がヨーロッパで普及するのは15世紀半ばのことで、これはかさばらないことが特徴であるため、常置することのない性描写のある絵図には最適だった。裸体と古典的な主題の復活はごく早い時期から版画の歴史と軌を一にしていて、神話から主題をとった版画の多くが明らかに性的な内容を含むことを正当化するためのものだった。特にジョヴァンニ・バッティスタ・パルンバの版画などはその典型といえるが、より卑近なエロティシズムが1475年から1500年にかけての「交尾のアレゴリー」のための版画にはみられる。これは若い男女が性交を行う姿を描いたもので、ベンチの端から女性の足が天高くのび、反対側にのびた巨大なペニスの持ち主は両手両足に亀頭の根元のまわりで鈴がつけられたままベンチによじのぼっている。版画板が摩滅するまで刷られたら、その場合はもう一度彫られてまた刷るのに使うということが繰り返された。この時代につくられた刷は数百にのぼると思われるが、現存しているものは1枚もない[21]

古代の神々の愛の数々、とくにオウィディウスがつぶさに描くゼウスのそれは、物語において事実上の性行為(actual sex)が重要な鍵となる画題をいくつも提供し、またそれを描くことが正しいとも感じられていた。なかでも「レダと白鳥」は、神が白鳥となって現れて婦人を誘惑するという、きわめてあからさまなものだ。しかし幾分奇異なことではあるが、鳥の姿であるために許容しがたいものではないと考えられてきたのである[22]。 16世紀末のわずかな間、ルネサンス期の邸宅(パラッツォ/palace)という半私的な空間に飾られる美術品にどこまでの描写が許されたのかは定かでない。ミケランジェロの「リダ」は性行為の最中を描いた巨大な絵画であり、1499年の「ヒュプネロトマキア・ポリフィリ」につけられた無数の挿絵のなかの1枚にも、衆人環視のなか勝利の車の上で性交をするレダと白鳥を題にしたものがある[23]

16世紀になると性的な題材を印刷物にしようとしてスキャンダルをまねくこともあった。高名なイタリアの芸術家マルカントニオ・ライモンディが1524年にイ・モーディを出版しようとしたときがそうで、問題のもととなったのはこの16の「ポーズ集」という名の性交体位を図にまとめたものだった。ライモンディは結果として法王クレメンス7世に投獄され、イ・モーディも全冊が破棄されてしまった。実はライモンディの版画集にはよりどころがあった。マントヴァのパラッツォ・デル・テのためにとジュリオ・ロマーノに依頼された一連のエロティックな絵画がそれにあたるのだが、実際に両者は非常に似通った描写がされているにも関わらずライモンディだけが罪に問われたのは、印刷された版画が一般人でも手にすることができたからである。ピエトロ・アレティーノがオリジナルを見に来るまでロマーノは版画のことを知らず、まだ製作にとりくんでいる最中だった。そしてアレティーノは16篇の直截的なソネット(「おしりとおまんこどちらでも、僕のちんこは幸せさ、君も幸せ大喜び」)を書き[3][24]、それにこの絵を添えて、ライモンディの放免を後押し(secure)するのである。その後「イ・モーディ」は詩と絵とあわせて1527年に再び出版された。これは性的な文章と画像が合わさった初めての例だったが、教会はまたも見つけた端からこの本を没収していった。ライモンディはこの時は投獄をまぬかれたが、検閲は完璧なもので原本の完全版はいまも発見されていない。現存する文章も400年後に見つかった複製を複製したものである[3][24]

An erotic illustration by the French painter Édouard-Henri Avril
Das Liebespaar (The Lovers) by Peter Fendi

17世紀にはポルノグラフィックな、あるいはエロティックな文学の実例となる作品がおびただしく流通し始めた。その一つである1655年に出版された「エコール・ド・フィーユ」はフランスにおけるポルノグラフィの起こりとみなされている作品で、16歳の少女とその世慣れた従姉妹がセックスについてあけすけな議論を交わすという対話篇に挿絵がつけられている[25]。有名なサミュエル・ピープスの日記にもこの本を購入したことが記録されている。それによるとピープスは1人で読んだ後は焼いてしまったので妻に見つからずにすんだ。「『エコール・ド・フィーユ』はくだらない、いたずらみたいな本だ。気取らない装丁なので買ってみたが、読み終わったらすぐに焼いてしまうことにした」[26]

Illustration from Juliette by the Marquis de Sade

啓蒙主義の時代にはフランス人の自由思想家たちが社会を批判し風刺するメディアとしてポルノグラフィを利用しはじめた。リベルタンのそれは反政府的な社会批評であり、性を抑圧するカトリック教会と大衆に向けられることがしばしばだった。量産された安価な冊子の買い手はすぐにブルジョワジーが占めるようになり、イングランドがそうであったように下層階級や精神薄弱者の道徳が荒廃すると上流階級の人々を恐れさせた。女性や奴隷、無教育な人間は当時は非常に弱い存在と考えられていたのである。そうした小説と挿絵は(パレ・ロワイヤルのギャラリーで売春婦に並んで売られていた)たいてい反教権的で、不品行な僧侶や修道士、尼僧ばかりが登場した。これはフランスのポルノグラフィの伝統ともなり、20世紀まで持ち込まれた。やがてフランス革命の時が訪れ、ポルノグラフィの批判の矛先は政治にも向かうようになる。よく槍玉にあがったのがマリー・アントワネットとルイ16世である[25][27]。革命前後に出版されたのが名高いマルキ・ド・サドの小説である。挿絵がついていることも多く、それが画家にとっての政治評論にもなっているのだった[28]

イングランドでも一つの答えが出された。それが、ジョン・クレランドが1748年に書いた(後に短縮され「ファニー・ヒル」へと改題される)「ある遊女の回想記」である。この小説は18世紀の英文学における様式の流行り廃り(the literary conventions and fashionable manners)を風刺していたが、それ以上にスキャンダラスだったのは、語り手である女性が性行為を楽しむどころかそれをさらけだし、しかも倫理や身体といった問題がまったく厚みを欠いていた(no dire moral or physical consequences)からである。しかしクレランドは露骨な文章とはほど遠いものを書いており、全編にわたって性行為や身体部位は婉曲に表現され、ペニスの一語に50もの異なる言葉があてがわれてていた。この小説では2つの小地震がロンドン主教の著した本によるものだとされていたため、クレランドは逮捕され、すぐに投獄されてしまったが、「ファニー・ヒル」は出版され続け、英語で書かれた本のなかで最も版を重ねた1冊になった。しかし、アメリカでは1963年まで、イギリスでは1970年までこの本を所持することは法で禁じられていた[29]

写真[編集]

19th-century nude photograph

1839年にルイ・ダゲールが初めての実用的な写真技術をフランスの科学アカデミーに報告する[30]。ダゲレオタイプはそれ以前のものとは異なり、素晴らしい画質で細部もはっきりとしており、時とともに劣化するということもなかった。新たな科学技術は、すぐに裸婦像を写し取る新たな方法を熱望していた芸術家たちの目にとまった。伝統的にもアカデミーとは画家が女性(あるいは男性)の姿形を修得するためにヌード・デッサンを学ぶ場でもあった。それぞれがフランス政府に登録されねばならず、つまり売ることはできなかった(?)。すぐにヌード写真はアカデミーの授業の対象となり、画家を支援するために販売された。しかし、写真のリアリズムは絵画のイデアリズムとは対極にあり、それが写真固有のエロティシズムを生み出すものであった[3]

しかしダゲレオタイプには欠点がないわけでもなかった。 The main difficulty was that they could only be reproduced by photographing the original picture since each image was an original and the all-metal process does not use negatives. In addition, the earliest daguerreotypes had exposure times ranging from three to fifteen minutes, making them somewhat impractical for portraiture. Unlike earlier drawings, action could not be shown. The poses that the models struck had to be held very still for a long time. Because of this, the standard pornographic image shifted from one of two or more people engaged in sex acts to a solitary woman exposing her genitals. Since one picture could cost a week's salary, the audience for these nudes mostly consisted of artists and the upper echelon of society. It was cheaper to hire a prostitute and experience the sex acts than it was to own a picture of them in the 1840s.[3] Stereoscopy was invented in 1838 and became extremely popular for daguerreotypes,[31][32] including the erotic images. This technology produced a type of three dimensional view that suited erotic images quite well. Although thousands of erotic daguerreotypes were created, only around 800 are known to survive; however, their uniqueness and expense meant that they were once the toys of rich men. Due to their rarity, the works can sell for more than 10,000 GBP.[3]

In 1841, William Fox Talbot patented the calotype process, the first negative-positive process, making possible multiple copies.[33] This invention permitted an almost limitless number of prints to be produced from a glass negative. Also, the reduction in exposure time made a true mass market for pornographic pictures possible. The technology was immediately employed to reproduce nude portraits. Paris soon became the centre of this trade. In 1848 only thirteen photography studios existed in Paris; by 1860, there were over 400. Most of them profited by selling illicit pornography to the masses who could now afford it. The pictures were also sold near train stations, by traveling salesmen and women in the streets who hid them under their dresses. They were often produced in sets (of four, eight or twelve), and exported internationally, mainly to England and the United States. Both the models and the photographers were commonly from the working class, and the artistic model excuse was increasingly hard to use. By 1855, no more photographic nudes were being registered as académie, and the business had gone underground to escape prosecution.[3]

Eadweard Muybridge: Woman walking with fishing pole (detail)

The Victorian pornographic tradition in Britain had three main elements: French photographs, erotic prints (sold in shops in Holywell Street, a long vanished London thoroughfare, swept away by the Aldwych), and printed literature. The ability to reproduce photographs in bulk assisted the rise of a new business individual, the porn dealer. Many of these dealers took advantage of the postal system to send out photographic cards in plain wrappings to their subscribers. Therefore, the development of a reliable international postal system facilitated the beginnings of the pornography trade. Victorian pornography had several defining characteristics. It reflected a very mechanistic view of the human anatomy and its functions. Science, the new obsession, was used to ostensibly study the human body. Consequently, the sexuality of the subject is often depersonalised, and is without any passion or tenderness. At this time, it also became popular to depict nude photographs of women of exotic ethnicities, under the umbrella of science. Studies of this type can be found in the work of Eadweard Muybridge. Although he photographed both men and women, the women were often given props like market baskets and fishing poles, making the images of women thinly disguised erotica.[3]

雑誌[編集]

1880年、ハーフトーン印刷が初めて安価に写真を複写するのにもちいられた。この発明は20世紀初頭にのポルノグラフィーとエロティカの方向転換を促した[30]。新しい印刷工程は写真の画像を容易に白黒で再生産することを可能にした。それまで印刷機は彫版、木版、凸版に限定されていたのである[34]。これはポルノグラフィーの大量消費を生み出す最初の形態で、いまだかつてないほど価格が抑えられ、入手も容易になった[3]

そして初めてフランスにヌード(よくバーレスクの女優がモデルとして雇われた)やセミヌードの写真を中身だけでなく表紙にも用いて特集する雑誌が現れる。いまであればソフトコアに分類されるものだが、当時は衝撃的な内容だった。すぐにアートや自然主義礼賛という名目で出版されるようになり、タイトルも「フォト ビット」、「ボディ・イン・アート」、「フィギュア・フォトグラフィー」、「ヌード・リビング」、「モダンアート・フォーメン」といったものになった[3]。1900年に始まった「ヘルス・アンド・エフィシエンシー」などもイギリスの典型的な自然主義派の雑誌である[35]

ポルノグラフィーにはもう一つの初期形態が存在するが、それがティファナ・バイブルとして知られる漫画本で、1920年代からアメリカに出現し、カラーの光沢紙をつかった男性向け雑誌が出版されはじめるまで続いた。漫画や他の文化などから人気キャラクターを借りてくることもよくあり、絵も洗練されていない手書きのものが一般的だった[36]

1940年代には「ピンナップ」という言葉が男性向けの雑誌やカレンダーなどから切り取った写真のことを表現するときに用いられるようになった。壁に「ピンナップする」という言い方もそうであるが、アメリカ軍の兵士が第二次世界大戦で使っていた言葉である。40年代の写真は脚にフォーカスしたものがほとんどだったが、50年代には胸に力点が置かれるようになる。ベティ・グレイブルとマリリン・モンローは当時最も人気のあるピンナップ・モデルだった。20世紀後半にはポルノグラフィーは1950年代のプレイボーイやモダンマンのような雑誌に発展していく。実際に現代的な光沢紙をもちいた男性向けの(ヌード)雑誌の始まりは、1953年にヒュー・ヘフナーがマリリン・モンローの写真を購入したことにもとめられる。ヘフナーはそれを新しく創刊される「プレイボーイ」の見開きに採用したのである。そしてすぐにこのタイプの雑誌はポルノグラフィーが消費される主要なメディアになっていった[37]

戦後のイギリスではストッキングや下着に焦点をあてた「ビューティフル・ブリテン」や「スピック」、「スパン」といったダイジェスト版の雑誌も現れ、ハリソン・マークスによるさらにきわどい「カメラ」も刊行された。これらは驚くほどの人気を集めている。「カメラ」の製作にあたって戦力となったのがハリソン・マークスのパートナーだったパメラ・グリーンである。これらの雑誌はヌード、あるいはセミヌードの女性にとにかく挑発的だったり誘惑的なポーズを撮らせていたが、陰毛はかけらも写っていなかった。

ボブ・グッチョーネがイギリスでペントハウスを創刊するのが1965年だが、こちらは別の角度からヌードに迫っていた。カメラは女性に直接向かわず、まるでモデルが牧歌的なプライヴェートの時間を過ごしているかのように撮影されたのである。この転換は女性をエロティックに描写する手法に大きな影響を及ぼした。同時にペントハウスは女性の陰毛と、真正面からの全裸をふくんだ写真を刊行した初めての雑誌でもある。どちらも当時はエロティックな境界やポルノグラフィーの領域といったものを越えていると考えられていた。1960年代後半には誌面はさらに露骨になりはじめる。この頃は臀部が人気を集めていたが、合法性の基準や読者の嗜好の変化も背景にあった。1970年代には公共の空間が撮影場所として注目され、また1990年代に近づくにつれて、挿入を含めたセックスや同性愛、グループ・セックス、マスターベーション、そのほかフェティッシュなものが「ハスラー」をはじめとするハードコアな雑誌で特集されるようになっていく[3][37]

生産コストの安さもあいまって、ありとあらゆる好みやフェティシズムに応える雑誌が次々に創刊された。ゲイ・コミュニティに向けた雑誌も隆盛をみせるが、初期の雑誌として1951年にボブ・マイザーが始めた「フィジーク・ピクトリアル」が最も有名なものの一つに挙げられる。これはマイザーが男性モデルのサーヴィス(service)を売ろうとして形になったものだ。フォト・スタジオ「アスリーテック・モデル・ギルド」は失敗することになるが、白黒で出版された雑誌は鮮明な映像をほこり、写真も男性の体格をたたえていた。およそ50年ほど刊行されている。こういった雑誌では、カウボーイや剣闘士、水兵といったゲイ・アイコンの新たなスタンダードを描くために小道具や衣装が効果的に用いられるようになっている[3][38]

映画[編集]

Images from early Austrian erotic films by Johann Schwarzer.

人々が性描写を鑑賞するための次世代のテクノロジーは、モーション・ピクチャーだった。エジソンのもとで働いていたウィリアム・ケネディ・ディクソンが初めて実用的なセルロイドのフィルムを発明し、それをキネトスコープの製作に結びつけたのである。このピープ・ショーを上演する装置はフィルムを連続でループさせるもので、エジソンの光源に触発されたディクソンが開発したものだった。さらにディクソンはエジソンの会社を去って、ミュートスコープをつくった。これは手回しによってピープ・ショーを映写する装置だった。どちらも事実上フィルムの一部からとられたコマを回転ドラムの形にして動く映像を生み出すものだった。撮影地は海辺であることが多く、ふつう裸だったり画家のモデルを演じている女性をシーケンスでみせていた。イギリスではこういった発明品が「What the butler saw(執事が見たもの)」装置として知られるようになる。これは最初期の最も有名なソフトコア・ポルノのタイトルにちなんだ名前だった[39][40]

機械をのぞき込ませるのではなく、観客の前でスクリーンに動く画像を映写するというアイデアはヨーロッパで生まれた。1895年、1896年にリュミエール兄弟とロバート・W・ポールが初めてモーション・ピクチャーの映写機を公開で実演してみせた[41]

ポルノ映画の製作が始まるのは1895年にモーション・ピクチャーが発明された直後である。最初期のパイオニアとしてユージーン・ピルとアルベルト・キルシュナーの2人が挙げられる。キルシュナーはピルのために現存する最古のポルノ映画を監督している。商品名は「リア」だった。1896年の映画「花嫁の眠り(Le Coucher de la Marie )」ではルイーズ・ウィリーがストリップティーズを演じている。ピルの映画は女性が服をはだけるきわどい映画に触発されたもので、成功していた他の映画会社もこういったフィルムから利益を出していた[42][43]

ピルはポルノ映画の制作者としては無名に近かったため、「初の」という形容はしばしば別の映画に捧げられてきた。2008年の「黒と白と青(Black and White and Blue )」はこの男性向け映画という商売の秘密の起源を考察した最も学術的な文献の一つである。デイヴ・トンプソンが豊富な資料をもとに詳述しているとおり、こういった産業が初めて発生したのは世紀の変わり目におけるブエノスアイレスやその他南アメリカの都市の売春宿であり、その後数年間で急速に中央ヨーロッパに広がった。しかし、そうした最初期のポルノ映画で現存しているものは存在していない。パトリック・ロバートソンの「Film Facts 」によれば、モーション・ピクチャーにおける最初のポルノが1908年にフランスでつくられた「A L'Ecu d'Or ou la bonne auberge」であることは間違いない。これは退屈しのぎに兵士が宿屋で女中と逢い引きをするという筋書きである。しかしアルゼンチンの「El Satario」はそれより制作年が前である可能性がある。年代としてはおそらく1907年から1912年にあたり、ロバートソンの注記にも「現存する最古のポルノ映画で、アメリカのキンゼイ・コレクションにおさめられている。どれだけ早くからポルノグラフィーが手法として確立されたかを物語る映画として、ドイツの「アム・アーベント」(1910年)がある。10分ほどの映画で女性が一人ベッドルームでマスターベーションをしている場面から始まり、続いて男性と(straightな)セックス、フェラチオ、アナルセックスを演じる」[44]

オーストリアではヨハン・シュヴァルツァーがサトゥーン・フィルムという製作会社を立ち上げて1906年から1911年にかけて52本のエロティックな作品をつくったが、当局の検閲をうけて会社が解散させられてしまい、フィルムも破棄された。

スタッグ・フィルムやブルー・フィルムと呼ばれた男性向け映画はすぐに違法になり、1940年代からしばらくはアマチュアが地下で製作するようになった。映画づくりには時間も物質も大量に要求されるため、必要な設備が利用できないときはたとえばフィルムを洗うために自分たちの浴槽を使ったりしていた(組織犯罪と結びついていることもしばしばだった)。そうした映画は私的に流通したり、販売役が回ったりしていたが、所持したり視聴するということは刑務所行きの危険を冒しているに等しいことはかわらなかった[3][45]

戦後にはマスマーケットのさらなる成長が促され、発展していく。新たなテクノロジー、特に8mmフィルムとスーパー8mmフィルムゲージの出現は、アマチュアによる映画撮影を広く普及させた。起業家にはこの市場を開拓しようという者も現れている。イギリスではハリソン・マークスの作品は「ソフトコア」に分類されたが、1950年代には過激なものだと考えられていた。一方大陸ではこのような映画はより露骨なポルノだった。ラッセ・ブラウンは質の高いカラー映画のパイオニアで、早い時期から父親の外交特権を利用して頒布が行われた。ポルノグラフィーは1969年にオランダで合法化され、爆発的な商業作品の生産につながった。いまではポルノ映画の制作者は合法的な職業となり、大量に安く、しかし質は良い作品を生み出すことをを可能にするすぐれた設備や用品には投資する経営者にも事欠かない。雑誌と並んでこの新たなポルノは大量にヨーロッパへと密輸され、非正規のルートで販売されたり、会員限定のシネクラブで時に上映された[3]

アメリカで映画館で一般に公開された、初めてのストーリー付きの明らかにポルノグラフィと呼べる映画は、ふつう「Mona the Virgin Nymph」(単にMonaとしても知られる)だとされる。1970年の59分の映画で、製作に関わったビル・オスコ、とハワード・ジームは後に比較的高い予算でカルト・ムービー「フレッシュ・ゴードン」にも携わっている[45][46]。1971年の「Boys in the Sand」はポルノグラフィーとしていくつもの点で新しかった。まず初めて一般に視聴可能なゲイ・ポルノであり、出演者とスタッフのクレジットを(大多数が匿名だったとはいえ)画面上に表示した初めての映画だった。さらに流行していた映画のタイトル(この作品の場合は「The Boys in the Band」)をパロディすることやニューヨークタイムズのレビューをうけることも映画としては初めてだった[47]。1972年には2本のポルノ映画がアメリカで国民的なヒット作となる(hit their public peak)。「ディープ・スロート」と「グリーンドア]は大衆に支持されて社会現象となった。1973年が「ミス・ジョーンズの背徳」に公開され、多くの人がスクリーン上で大ぴらにセックスを描くことがすぐに常識的になるということを予言した。しかしすぐに保守的な文化が尊重されるようになり、幻想が事実になることはなかった。ウィリアム・ロッツラーが1973年に次のような言い方をしている。「エロティックな映画は一般化している。次第に何事も無くメインストリームに取り込まれ、そして細分化されて消えてしまうだろう」[48]。しかしイギリスでは「ディープ・スロート」は2000年までノーカット版は認められず、2005年6月まで公開されることはなかった[45][49][50]

Video and digital depictions[編集]

Digitally altered erotic photograph

ほとんどのポルノ映画は1982年ごろにはもっと安く、便利なメディアであるビデオテープで発売されるようになった。多くの映画監督ははじめこの流れに抵抗をみせた。というのも、ビデオテープが再生する映像は質的にまったく別物といってよかったからである。しかし消費者は圧倒的にこの新しい商品形態を好んだため、態度をすぐに改めたものがポルノ産業の利益の大部分を手にすることになった。そして監督たちが映画をとり続けることはまったく採算の合わない選択肢だということを理解したとき、この新たなテクノロジーは瞬く間に、そして完全に主流になった。こうして映画はシアターから家という私的な空間に移行する。これはポルノグラフィーに巨大な予算がかけられ、メインストリームを生み出す時代の終焉を意味していた。撮影そのものはまったく安価になり、すぐに先祖返りを思わせる素朴さへの回帰をみせながらも想像しうるかぎりのフェティズムを網羅するようになった。毎年つくりだされていた何百ものポルノ映画の代わりに、いまや数千ものビデオが製作され、そこには異なる作品からセックスの場面だけを集めたコンピレーションまで生まれている[3][45]

双方向性と非日常性という新規な要素をもたらすエロティックなCD-ROMが1980年代後半から90年代の初めに普及した。しかし品質の低さは明らかな欠点で、インターネットが一般家庭につながれるのが常識的になると、売り上げは下降していった。ビデオの革命が起こっていたころ、視聴時のプライバシーは保たれつつも、人々と相互交流を果たすこともできるインターネットは多くの人にポルノグラフィーを求める起点として好まれた。最近になって出現したデジタルカメラという広く利用可能なテクノロジーは、動画と静止画と両方の面で、プロとアマチュアの作品の線引きを曖昧にしている(between erotic films, photographs and amateur and professional productions)。

デジタルカメラはどちらの形態にアクセスすることも容易にし、機器に接したものであれば誰でもたやすく製作ができるものにしてしまった。今日利用可能なポルノグラフィーはアマチュアがつくったものだ。デジタルなメディアが革新的であったのは、カメラマンやフィルムメーカーがそれまででは不可能なほど高いレベルで描写の劇性やエロティシズムを高める形で画像の処理ができた点にある[3]

そして高精細度ビデオがますますプロの作品に用いられるようになり、ポルノグラフィーのもつイメージまで変化させることを予感させる。ポルノ産業は最も早くこのテクノロジーを取り入れた世界の一つであり、HD-DVDとBlue-ray Discの規格競争でもおそらく決定要因となった[51]。カメラのアングルやクローズアップ、照明のやりかたも新しくなるだけでなく、新技術がもたらすよりクリアでシャープな映像は、それまでのビデオのフォーマットでは可視的でなかった欠陥を覆い隠す、美容整形やプロフェッショナルな手入れを出演者に要求しているからだ[52]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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外部リンク[編集]