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エリアス・アシュモール | |
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生誕 |
1617年5月23日 スタッフォードシャー、リッチフィールド(イングランド) |
死没 |
1692年5月18日 (74歳没) ロンドン、ランバス |
国籍 | イングランド |
職業 | 好古家、政治家、紋章官、占星術師、錬金術師 |
エリアス・アシュモール(Elias Ashmole 1617年5月23日 – 1692年5月18日)はイングランドの好古家、政治家、紋章官であり、占星術と錬金術の学徒としても知られている。イングランド内戦では騎士党に属して王党派を支持し、チャールズ2世が復位すると忠誠を買われて高官を歴任した。
フランシス・ベーコンの科学的精神に強く共鳴した好古学者であり、蔵書もその知的関心を反映してイングランドの歴史や法、貨幣学、地誌、錬金術、占星術、天文学、植物学に関するものが多くを占めた。さらにフリーメーソン創成期のメンバーでもあるが、どの程度まで関係を持ちいかなる影響を受けたのかははっきりしていない。アシュモールはまた王立協会の創立における重要人物の一人であり、実験科学の発展に大きな役割を果たしたにもかかわらず、科学と同じだけ骨董や超自然的な事物に関心を寄せていた。生涯を通じてむさぼるように古美術や人工遺物を集め続けたが、蒐集品の多くは旅行家、植物学者、コレクターのジョン・トラディスカント(子)から譲り受けたものであった。オックスフォード大学につくられたアシュモレアン博物館にはアシュモールに寄贈された値段のつけようのない写本をはじめとした蔵書や蒐集品のほとんどがおさめられている。
弁護士、王党派、フリーメーソン
[編集]アシュモールはスタッフォードシャー、リッチフィールドのブレッドマーケットストリートで生まれた[1]。家族は名士ではあったが、アシュモールが生まれる頃にはすでに没落していた。Baron of the Exchequerのジェイムズ・パジトを類縁に持ち、コヴェントリーの富裕な衣料品商であったアンソニー・ボウヤーの娘アンを母とした。父親のサイモン・アシュモール(1589–1634)は馬具屋であり、アイルランドとヨーロッパで兵役についたこともあった。エリアスは地元のグラマースクール(現在のキング・エドワード6世グラマースクール)に通い、リッチフィールド大聖堂の聖歌隊員にもなった。1633年にはパジトの息子のつきあいからロンドン暮らしを始め、そのパジトの助けもあり1638年には事務弁護士(solicitor)になる。ロンドンでの生活は順調で、わずか3年後の1641年12月6日には貧しくはあったが貴族の出自であるエレノア・マナリングと結婚する[2]。こうしてまだ20代そこそこであったアシュモールは地位と財産の足がかりを得たのであるが、妻は妊娠中に命を落としてしまった[3]。
イングランド内戦ではチャールズ1世の側につき、1642年に戦いが起こるとロンドンを離れて義父のペーター・マナリングを頼りにチェシャーのスモールウッドに身を寄せた。そのまま隠遁生活が続いたが、1644年にはリッチフィールドの徴税官[4]に任じられた[5]。当時一流の占星術師であり宮廷と強いつながりがあったジョージ・ウォートンの薦めもあり、その後すぐにオックスフォードで国王軍の武器科将校になった。そして空き時間を見つけてはブレーズノーズ・カレッジの下宿で数学と物理を勉強する生活を送るとともに、天文学をはじめ占星術や魔術にも深い関心を抱くようになる[6]。1645年の後半にはウスターで徴税官の仕事を得てオックスフォードを去った。その後も国王軍で役職を授かり、ジェイコブ・アストリーの歩兵連隊で大尉となって数学者であるにもかからず砲兵にまわされた。しかし実際の戦闘には一度も加わらなかったようである[7]。
1646年7月にウスターが議会軍に降伏すると再び職務を退いてチェシャーに移った[8]が、その帰路にあったリッチフィールドで、母が疫病のためにちょうど3週間前に亡くなったということを聞かされた[9] 。アシュモールがフリーメーソンの一員として認められるのはこの時期である。この年の10月16日の日記にはこう書かれている箇所がある。「ランカシャーのウォリントンでフリーメーソンにさせられた(with Coll: Henry Mainwaring of Karincham in Cheshire)」[10][11]。日記にはもう1箇所別のところでフリーメーソンの活動について言及している箇所があり、1682年の会合にもまだ参加しており特にサークルから脱退などもせず良好な関係を築いていたようである。この年の3月10日分にはこう書かれている。「"About 5 H: P.M. I received a Sumons to appeare at a Lodge to held the next day, at Masons Hall London."」。また次の日には「"Accordingly, I went ... I was the Senior Fellow among them (it being 35 yeares since I was admitted) ... We all dyned at the halfe Moone Taverne in Cheapeside, at a Noble Dinner prepaired at the charge of the New-accepted Masons."」[12]。こうしたアシュモールの記述はイングランドにおけるフリーメーソンについて言及した最古の例である。[13]。しかしその自伝的な覚書にあるこれらの記述を除けば、アシュモールの関わりについてはこれ以上詳しく立ち入ることはできない[14]
蒐集家として
[編集]1646年から47年にかけて、アシュモールは条件の良い結婚を確実にするために同時に何人もの資産家の未亡人に近づいている[15]。1649年にはオールダマーストンのウィリアム・フォスター公の娘であるメアリ・マナリング夫人と結婚することに成功した。新妻は三度も夫を亡くした裕福な女性であり、アシュモールより20歳も年下だった[16]。最初の妻の親族と結婚しているため、おそらく身内にあたるメアリは育った子供たちの母親ともなった。花嫁の家族による反対を押し切った結婚であり、夫婦で仲むつまじかったことを示す証拠は見つかってない。マナリング夫人は1657年に別居と扶養料を求める訴えを起こして、裁判所に退けられているのだ。しかしそれでもこの結婚によってアシュモールは妻の最初の夫が持っていた不動産を自由にできたため、そのバークシャーのブラッドフィールドを中心にした地所は好奇心を満たすには十分な財産をもたらした。もはやアシュモールは生計を心配する必要もなく、これまでの趣味に加え新たに植物学と錬金術とを追い求めることができたのである。友人であるウォートンの釈放をとりはからい、不動産の管理を任せている[8]。
1650年代を通じてアシュモールは錬金術を学ぶことに大変な情熱を注いでいる。1650年には『ファスシキュラス・ケミクス』を刊行し、その際には名前をアナグラムにして「James Hasolle」なる筆名を名乗った。この本は二冊のラテン語による錬金術書を英訳したもので、そのうちの一冊はあのジョン・ディーの子であるアーサー・ディーの書いたものだった。1652年にはアシュモールの最も重要な錬金術書である『Theatrum Chemicum Britannicum(英国の化学の劇場)』を出版している。これは英語で書かれた形而上学的な詩の浩瀚な注釈書であり、かつて存在したが私蔵された写本にしか存在しない多くの著作をおさめ、利用可能にしていた。そしてまたこの本はアシュモール自身も錬金術の実験を行っていたことを示すわずかな証拠ともなっているが、彼は錬金術について書かれた本の蒐集家であったようで、錬金術を実践するのではなく研究する側の人間として、ウィリアム・バックハウスの学徒を自称している。最後の錬金術書として1658年に『The Way to Bliss』を出版し、その後は次第に他の分野へ関心が移っていったようだ。『The Way to Bliss』は病を防ぐために、バランスのよい食事、適度な運動、十分な睡眠を奨励しているが[17]、この二つの流派の融合を目指す著作はアイザック・ニュートンをはじめとする物理学者によって熱心に読まれるようになった[18]。
植物学者でありコレクターのジョン・トラデスカント(子)と出会うのは1650年ごろである。トラデスカントは父とともに異国の植物や鉱物を始め世界中から珍品を集めており、ランベスにある邸宅のコレクションは膨大な量に上り、当時からたいへんに有名だった。アシュモールは1652年に目録づくりを手伝い、1656年にそれを『Musaeum Tradescantianum』として出版する際にも資金を援助してやった。1652年にただ一人の息子を亡くしていたトラデスカントは7年後の1659年に証書をつくってコレクションを譲ることを決め、死後にはこの契約のもとでアシュモールが財産をもらい受けることになった。トラデスカントが1662年に亡くなると、後家のヘスターは財産を譲るのは自分の死後だと主張して異議を唱えた。しかしアシュモールはまったく妥協せずトラデスカントのコレクションを我が物にしようとしたため、学者のなかにはアシュモールが野心家だと考える者もいた。つまり英雄にこびへつらってその遺産を盗み取り、自らの栄達の糧としたというのである[19][20]。
王政復古
[編集]その後もアシュモールはコレクションをさらに充実させていき、目録にはボドリアン図書館のローマ時代のコインなども加わった。これは8年後の1666年にやっと完成することになるが、ここまで遅れたのは1660年にチャールズ2世が復位したためであった。アシュモールの忠誠心が買われて大変に引き立てられたことがむしろ妨げになったのである。He was appointed Secretary and Clerk of the Courts of Surinam and Comptroller of the White Office.これらの肩書きで収入が増したわけではないが、特別な義務を負うものでもなかった[21]。he was also given the office of Commissioner and then Comptroller for the Excise in London, and later was made the Accountant General of the Excis.となるが、これは王室の歳入のかなりの部分に責任を持つ立場であった。しかし後者の地位はかなりの収入をもたらすと同時に有力なパトロンとして振る舞えるだけの権力を約束するものだった[2]。
またイングランド王はロイヤル・コレクションのコインやメダルの目録づくりをアシュモールに依頼し、議会派の時代に売り払われるなどで散逸したコレクションを追跡する役目につけている。さらにアシュモールは即位の際の組織づくりにも関わったか、少なくとも自らを指導者として演出したようである[2]。
1661年には王立協会の創設メンバーの一人となるが、それほど活動的なわけではなかった。最も重要なのは1660年6月に紋章院にウィンザー・ヘラルドとして任命されたことである。この地位についたアシュモールはガーター勲章の歴史に夢中になり、1650年代からその研究に没頭するようになったほどで、後に王立協会の紋章に自分のデザインを推薦している[14]。
1665年には州史としてまとめた『The Antiquities of Berkshire』を、1672年には『The Institution, Laws and Ceremonies of the Most Noble Order of the Garter(ガーター勲章の歴史)』を出版している。後者は長年の研究をもとにした大著でヴェンツェスラウス・ホラーの挿絵がつけられていた。以前にも勲章の史料編纂官を自任しようとして失敗していたが、この仕事によってアシュモールは専門家として確かに位置づけられた。そのほとんどは1665年に書き上げられたが、当時ロンドンではペストが猛威を振るっていたためそれを逃れて地方で執筆が進められていた[22]。複写は外国の叙勲者にも届けられ、その返礼としてデンマーク王やブランデンブルク選帝侯、プファルツ選帝侯などから黄金の記章(インシグニア)が贈られた。こうしてアシュモールは実直な紋章学者、系譜学者として役目を果たし、王室の典礼と儀式においては第一流の権威と考えられるようになった[2]。
1668年4月1日にエレノア・マナリングが亡くなるが、同じ年の11月3日には友人であり同じ紋章官であり古物蒐集家のウィリアム・ダグダルの娘エリザベス(1632–1701)と再婚する。新しい妻はうら若い娘だったが妊娠しては死産や流産を繰り返したため、アシュモールはついに子供を持つことがなかった.[23]。1675年にはおそらくは紋章院内の派閥争いのためにウィンザー・ヘラルドを辞任している[2][24]。筆頭上席紋章官の役が提示され、これは伝統的に騎士の身分がともなうものであったが、ダグダルのために断っている[8]。
アシュモールは自身の紋章を持っていた。彼の場合は腕に紋章をつけることを認められた貴族(Armiger)の家系にあると認められ、紋章記述でいう「Quarterly gules and or a fleur de lis argent in the first quarter」with a greyhound courant for the crestの図像となった。王政復古後はgreyhoundの位置に新たなクレストが認められ、占星学への関心が反映されて「On a wreath sable and or the planet Mercury collocated in the middle of the caelestiall Signe Gemini proper his right hand extended toward heaven and left holding a Caducan rod or」となった。これによってティンクチャーも「quarterly sable and or a fleur de lis in the first quarter」に改められた[25]。
さらに王政復古はイングランド国教会の再設にもつながり、アシュモールもリッチフィールド大聖堂に新たな祈祷書を用意した。1684年にはダグダルが義理の息子にこんな手紙を送っている。「低俗な人間たちは」いまだに「長老派の習慣から抜け出せていない。いまも自分たちで考え出した長ったらしい祈祷文句やばかげた説教を有り難がっている」[26]。王党派の人間がもっぱらそうであったようにアシュモールの周囲でも国教への不服従は軽蔑された。しかしアシュモールは「最初期のフリーメーソンの成員であり、著作からは熱狂的な薔薇十字団員であったことがうかがわれる」[27]。一方でジョン・ガドベリーはこう書いている。「アンソニー・ウッドが彼を薔薇十字団員だと言っているがこれは間違いだ。ここまでばかげた事をいう人間もそういないだろう」[28]。アシュモールがフリーメーソンや薔薇十字団と関わりを持ったのは人付き合いの延長か、もしくは骨董品への関心からで、熱烈な宗教心などから生じたものではないだろう。とはいえ、宇宙的な知識の容れ物という考え方が薔薇十字団の著作のなかで示されるし、こういった思想は部分的にではあれ巨大な博物館を造りたいというアシュモールの望みに霊感を与えはしたのだろう[18]。
アシュモレアン博物館
[編集]1669年にはオックスフォード大学で医学博士号を取得している。その後も大学との関係は保たれ、1677年にはトラデスカントのコレクション独自に集めたものを寄贈し、大学側も保管に適した博物館を建てて、一般に公開した。1674年にはトラデスカントの地所に隣り合った家に引っ越しており、いくつかの蒐集品を自分のもとへ移していた。そのため未亡人のヘスターとは1678年になってもコレクションの帰属をめぐって法的な争いが続いていたが、その後ヘスターは庭園の池で溺れて亡くなっている。1679年の初め頃には財産の貸借権を取得し、自分の財産との統合を始めた.[30]。アシュモレアン博物館は1683年に完成するが、これをもってヨーロッパに初めて真に社会のためになる博物館が誕生したと考える者もいる[31]。アンソニー・ウッドによれば、オックスフォードにコレクションが運び込まれる際には12台の荷馬車が一杯になったのだという。実際はもっと多かったはずなのだが、博物館におさめられることになっていたアシュモール自身のコレクションの大半―古美術品、書籍、写本、版画、9000枚ものコインやメダル―は1679年1月26日にミドル・テンプルが不幸な火事に見舞われた際に燃えてしまったのである[32]。結果的にトラデスカントが蒐集した分の割合が想定されていた以上に多くなってしまい、マイケル・ハンターが言うように、アシュモールがトラデスカントを足蹴にしてコレクションを集めた功績を不当なまでに自分のものにしているという批判にこの事件は理路を与えてしまうのである[2]。
1678年にはリッったチフォードの現職議員2人のうち1人が亡くなったことを受けてこの選挙区で行われた補欠選挙に立候補した。その最中に選挙戦を取り仕切っていたアシュモールの従兄弟、トーマス・スマルリッジが病に倒れ、やはり亡くなっている。そしてアシュモールが選挙区を訪れることはなく、自分の占星術でも予言されていた通りに選挙で敗北したのだった[33]。1685年の総選挙にも自ら立候補している。現存する文書によれば当時最も人気がある候補者だったが、ジェームズ2世が身を引くようにもとめ(当時は君主が議会選挙に介入したようである)、アシュモールはそれに応じたのだった。選挙当日にアシュモールに投じられた票は無効とはならず、全てイングランド王が立てた候補の票に読み替えられた。そしてこうした取り計らいが行われた結果、王室(リチャード・ルーソン)の贔屓を受けた候補しか当選しなかったのである[34]。
1680年代になると健康が衰え始め、我流の療法として「おこり を追い払う」3匹の蜘蛛を首のまわりにぶら下げていた[35]アシュモールは、ジェームズ2世の在位中こそ税務局を掌握し、名誉革命後に死ぬまで維持し続けるが、職務そのものにはまったく精力的ではなくなった。伝記を書くための材料として日記にして人生を綴った手稿をまとめることも始めていた。伝記はついに書かれなかったが、これらの手稿はアシュモールとその時代を伝える豊富な資料となっている[15]。アシュモールは1692年5月18位置にランバスの自宅で亡くなり[36]、5月26日にランバスのセント・メアリー教会に埋葬された。蔵書などの蒐集品はオックスフォードのアシュモレアン博物館に遺贈された。蔵書の三分の二は現在同じオックスフォードのボドリアンにおかれているが、ヴィクトリア期に博物館の収蔵品から分割されたという事実は[37][38]、アシュモールが博物館を自分のコレクションではなくトラデスカントのものを中心にして博物館を設計したという考え方の一因となっている[39]。アシュモールの未亡人エリザベスは石工のジョン・レノルズと1694年3月15日に再婚した。子供をもうけないまま7年後に彼女が亡くなると、ランバスにある家と土地はレノルズのものとなった[40]。
マイケル・ハンターはオックスフォード英国人名辞典に寄稿したアシュモールの項で、こう結論づけている。アシュモールの最も顕著な特徴はその野心だけでなく、世界を階層立てられたものとして見る眼である、と。この視線こそが彼の王制主義とあらゆるもの―紋章、系譜、式典、そして占星術や魔術まで―への関心を結びつけているのである。であればこそ古物の蒐集や学術的な探求だけでなく、法や実業、政治においても成功をおさめたのだ[2]。彼が集めた品々はいまも貴重であり、とりわけ『Theatrum Chemicum Britannicum』をはじめとした錬金術書はさもなくば失われていたであろう多くの著作をそこに留めている。友人たちとの閉鎖的な関係は長く続いたが、例えば占星術師のウィリアム・リリーなどがその典型だろう[41]。しかし結局はリチャード・ガーネットが言うように「アシュモールは貪欲さの虜だった」[42]。
脚注
[編集]- ^ Elias Asmole – (1617–1692), Lichfield City Council 2008年2月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g Hunter, Michael (September 2004; online edition May 2006) "Ashmole, Elias (1617–1692)", Oxford Dictionary of National Biography, London, Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/764, retrieved 25 January 2010 (Subscription required)
- ^ Josten, C. H. (editor) (1966). Elias Ashmole (1617–1692). His Autobiographical and Historical Notes, his Correspondence, and Other Contemporary Sources Relating to his Life and Work Oxford: Clarendon Press, vol. I, p. 18
- ^ 訳注: King's Commissioner of Excise
- ^ Josten, vol. I, p. 19
- ^ Elias Ashmole, founder of the Ashmolean Museum, Brasenose College, University of Oxford 2008年3月3日閲覧。
- ^ Josten, vol. I, pp. 28–30
- ^ a b c Nash Ford, David (2004), “Elias Ashmole (1617–1692)”, David Nash Ford's Royal Berkshire History (Nash Ford Publishing) 2008年2月29日閲覧。
- ^ Josten, vol. I, p. 33
- ^ Josten, vol. II, pp. 395–396
- ^ Henry Mainwaring was a cousin of Ashmole's first wife who had fought with the Parliamentary forces (Josten, vol. I, p. 33).
- ^ Josten, vol. IV, pp. 1699–1701
- ^ マイケル・ハンターはこの立場であるが(Hunter, 2004)、フリーメーソンと思しき最初の人物としてロバート・モーレイの名前を挙げる者もいる (その場合、最古の記録は1641年となる Westfall, Richard S. (1996–2008), Elias Ashmole, Pietre-Stones Review of Freemasonry 2008年2月29日閲覧。も参照のこと).
- ^ a b Beresiner, Yasha (October 2004), “Elias Ashmole: Masonic icon”, MQ Magazine (11): 6–11
- ^ a b Hill, Christopher (1968), “Elias Ashmole (1617–1692). His Autobiographical and Historical Notes, his Correspondence, and Other Contemporary Sources Relating to his Life and Work, Review”, The English Historical Review 83 (327): 355–357
- ^ She was the widow of Sir Edward Stafford (d. 1623), John Hamlyn (d. 1633) and Sir Thomas Mainwaring (d. July 1646), recorder of Reading, Berkshire (Josten, vol. I, p. 43).
- ^ Feola, Vittoria, English antiquarian medical books of the 1650s, Medical University of Vienna 25 January 2010閲覧。 (pdf)
- ^ a b Churton, Tobias (2004), Magus: The Invisible Life of Elias Ashmole, Lichfield: Signal Publishing, ISBN 0-9543309-2-7
- ^ Swann, Marjorie (2001), Curiosities and Texts: The Culture of Collecting in Early Modern England, Philadelphia: University of Pennsylvania Press, pp. 12, 40–54, ISBN 0-8122-3610-6
- ^ “Heaven on earth”, The Economist, (29 June 2006) (Subscription required)
- ^ Josten, vol. I, pp. 137, 153
- ^ Josten, vol. I, pp. 155–156
- ^ Josten, vol. I, pp. 172–173, 219, and 243
- ^ Josten, vol. I, p. 195
- ^ Josten, vol. I, pp. 114–115, 131
- ^ Josten, vol. IV, p. 1742
- ^ De Quincey, Thomas (1886), “Historico-Critical Inquiry into the Origin of the Rosicrucians and the Freemasons”, Confessions of an English Opium-eater, London: Walter Scott, p. 207
- ^ Josten, vol. I, pp. 681–682
- ^ Cannon-Brookes, Peter (June 1999), “Elias Ashmole, Grinling Gibbons and Three Picture Frames”, Museum Management and Curatorship 18 (2): 183–189, doi:10.1016/S0260-4779(00)00027-3
- ^ Swann, pp. 40–54
- ^ Unlike previous collections assembled by aristocrats, the museum was open to anyone, regardless of rank, who could afford the entrance fee (Swann, pp. 40–54).
- ^ Ashmole's collection had escaped the Great Fire of London in 1666; it was evacuated by barge before the fire reached the Temple precincts, which were, in any case, largely spared from the fire (Josten, vol. I, p. 158).
- ^ Josten, vol. I, pp. 220–225
- ^ Josten, vol. I, p. 268
- ^ Probably live spiders trapped inside nutshells (Josten, vol. IV, p. 1680).
- ^ 墓石や国庫支払命令書による日付であり、ジョン・ガドベリーに従えば5月19日となる (Josten, vol. IV, pp. 1889–1890).
- ^ Rare Books and Printed Ephemera, Bodleian Library, University of Oxford 2008年3月3日閲覧。
- ^ Ashmole Manuscripts, Archives Hub, Universities of Manchester and Liverpool 2008年3月3日閲覧。
- ^ Feola, Vittoria (23 July 2004), “Elias Ashmole's library”, Society for the History of Authorship, Reading and Publishing annual congress 2004 (Institut d'Histoire du Livre) 2008年3月3日閲覧。
- ^ Josten, vol. I, pp. 300–301
- ^ サミュエル・ピープスの日記には1660年10月24日の午後にリリーの家を訪れたとある。彼はそこでアシュモールとも引き合わされ、「たいへん機知に富んだ御方」だと教わる。
- ^ Garnett, Richard (1891, repr. 1973). "Ashmole, Elias (1617–1692)." Dictionary of National Biography (London: Oxford University Press).
関連文献
[編集]- Coil, Henry Wilson (1961, repr. 1996). "Ashmole, Elias;" Coil's Masonic Encyclopedia, pp. 72–73 (Richmond, VA: Macoy Publ. Co. Inc.)
- Feola, Vittoria (2005), “The recovered library of Elias Ashmole for the Ashmolean Museum in the University of Oxford”, Bibliotheca 1: 259–278
- Godfrey, Walter; Wagner, Anthony, and London, H. Stanford (1963). The College of Arms, Queen Victoria Street : being the sixteenth and final monograph of the London Survey Committee, (London), (contains a biographical list of officers of arms)
- Hunter, Michael (1983). Elias Ashmole, 1617–1692: The Founder of the Ashmolean Museum and His World. Oxford: Ashmolean Museum.
- Webster, Charles (1970), Ashmole, Elias, 1, New York: Charles Scribner's Sons, ISBN 0684101149.
外部リンク
[編集]- Elias Ashmoleの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Ashmolean Museum
- The Royal Society Library and Archives Catalogues includes biographical details of former Fellows
- Theatrum Chemicum Britannicum (1652) from the Schoenberg Center for Electronic Text and Image at the University of Pennsylvania Library.
- 1617 births
- 1692 deaths
- Alumni of Brasenose College, Oxford
- People associated with the Ashmolean Museum
- English alchemists
- English antiquarians
- English astrologers
- English occult writers
- English officers of arms
- Fellows of the Royal Society
- Museum founders
- People from Bradfield, Berkshire
- People from Lichfield
- People educated at King Edward VI School (Lichfield)