利用者:Pugnari

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Wikipedia は、その独立性によって我々の知ること、考えることへの探求心を発展させてくれると期待している。


編集方針[編集]

  1. 何よりも赤リンク消去(=新規記事作成)。この際、スタブ・サブスタブとなるページを作らない。WP:VWP:NPOVに細心の注意。
  2. WP:VWP:NPOVから著しく逸脱した記事はまずテンプレート貼付などで注意喚起。自分でいじれる記事ならば表現を改めるなどする。改善の余地の無い記事は削除も考慮する。
  3. 既存記事の充実。バランスの取れた包括的記述になるよう心がけたい。

現在の活動状況[編集]

書きたい(書き換えたい)記事はいろいろあるのだが、なかなか重い腰が上がらない。活動再開を画策中。Wikipedia名前空間の議論からはほぼ離脱。

関心分野[編集]

次の順に詳しい。

  • 数学(代数幾何学)
  • 音楽(特にいわゆるクラシック音楽。16〜18世紀のヨーロッパの音楽に主に関心がある)
  • コンピュータ
  • 初等的な科学
  • 歴史・思想・社会など

数学は目下職業上の専門であるが、それがゆえに数学においてWikipediaに貢献することが難しく感じられる。いわゆる「理系的」思考をする一方で、興味の方向は「人文的」かもしれない。現在Wikipediaには音楽に関する項目の翻訳、加筆修正で貢献していきたいと思っている。

主義主張など[編集]

Wikipedia はGFDLに基づく非商業主義であり、媒体の性質上物理的制約も比較的小さいので、ジャンクな話題や種々雑多瑣末な話題を取り上げられることがその魅力、存在意義のひとつ(たとえば、近年のネット文化に関する解説などは興味深い)であると同時に、誰でも簡単にフリーで利用できるリファレンスであるという観点から、基本的な項目についてはある種の簡潔明瞭さが求められると思う。主たる解説と関連する副次的な話題とを、読者が識別可能な方法で記述しわけることが必要だと感じている。

その他の「主義」[編集]

「平易な文章主義」[編集]

難しいことを難しい言葉で記述することはたやすく、誰にでもできる。難しい言葉を使うものはしばしば自らの発する言葉におぼれ、文章の主張が空虚になったり、あるいは難しい言葉に振り回されて文章をごつごつの火山岩のようにしてしまう。コワイ文章は読むものを拒絶し威嚇する。文章を書くときに大切なのは(たとえばWikipediaの記事を書くとき)、難しい内容を、親しみやすい言葉、やさしい言葉で(テクニカルタームを用いないということではなく)、内容を損なうことなく記述することだと考えている(私にそれができているかは別にして)。それは、私たちが日々用いている現代の日本語(や、その他の言語)の美しく流麗なあり方を追求することにもつながる。

「穏やかなミニマリズム」[編集]

冗長であることがきらいである。冗長というのは、文章が長いということではなく、整理されないままにつらつらと書き連ねられていることを意味する。知識は複雑かつ重層的ではあるが、ある視点にたつとき、そこにある種の階層構造を与えることができる。受信者から見て、自分にとって重要な情報と重要でない情報は明らかに区別されるべきであり、それは、個々の情報のプライオリティーと連関というディレクトリー構造が見える構成によって実現できる。Wikipediaは事典である以上網羅的な知識のあり方を要求し、網羅的な知識のあり方はこのような階層構造によって初めて成立しうる。そうでなければただ大量の情報の海に、読み手ばかりか書き手までも、溺れ沈むことになる。

Wikipediaもその一つであるところの百科事典の類において、記事は長ければ長いほうが良い、情報は多ければ多いほうが良いというものではない。情報を多くするならばそれに従って指数関数的にその情報をどう組織するかが難しくなってしまう。良く組織されたプレゼンテーションをとらない限り、書いてある事柄の分量をただ増やしても、そこから生じる疑問や齟齬によって、結果的には読者の受け取る情報量は逆に極端に減少するだろう。

言葉足らずなことは許されない。必要な情報は記載されていなければならない。が、十分な情報を含む限りにおいて、文章は可能な限り簡潔であるべきだ。そして、記述が簡潔であるかどうかということは、書き手の視点がいかに整理整頓されているかどうかの試金石である。

「イマジネーション主義・共感主義」[編集]

人間は、イマジネーションや共感によって他者の主張や心情を立場や時間を超えて推し量ることができ、他者の幸福、あるいは、他者の苦痛が軽減されることに喜びを見いだすことができる。

たとえば、現代にまで禍根を残している歴史上の悲劇(ホロコーストや南京大虐殺など)について考えよう。出来事が過去のものとなってしまった以上、これが真実であったということを「点的に」決定することは不可能である。証言者の証言や同時代の資料に関して、意図的な誇張、矮小化が起こりうるし、意図しなくてもに記憶が不正確になったりする。さらには、証言者の立場やものの見方によって同一の事柄に対して加える評価が異なりそれによって、いわゆる「客観的な事実」というものは歴史の中には存在できない。歴史の事実は空間的に広がりを持った非決定論的な事象だと思う。それどころか、あらゆる出来事は、それが起こった時点ですでに、一見して点のように見えたとしても実際は空間的な広がりを持っており、時間とともにその「真実」の存在範囲は徐々に拡散されていく。過去へのまなざしを持つ現代の人間として、歴史上の出来事が何であったのかを空間的な広がりとともにとらえることはイマジネーションによってのみ可能であり、それによってはじめて歴史に対して客観的になりうると思う。

私たちがあらゆる機会に(たとえばWikipediaを通して)得ることのできる知識はわれわれの感覚、イマジネーションや共感の力をより豊かにし、それを通して、人間が個人として、また、集団として何であるかを知ることが我々の現在、未来を豊かにすると信じている。