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利用者:Quark Logo/sandbox土岐頼純

 
土岐頼純
土岐頼純像(岐阜県南泉寺蔵・模本)
時代 戦国時代
生誕 諸系図による① 明応8年(1499年
親子説による② 大永4年(1524年
死没 天文16年11月17日1547年12月28日
改名 政頼、盛頼、頼充、土岐二郎
別名 通称:次郎、二郎
戒名 南泉寺殿玉岑珪公大禅定門
墓所 南泉寺岐阜県山県市大桑)
官位 美濃守
幕府 室町幕府美濃国守護職
氏族 土岐氏
父母 諸系図による① 父:土岐政房、母:
親子説による②父:土岐頼武、母:朝倉貞景の女
兄弟 諸系図による① 頼純頼芸原治頼梅戸光高揖斐光親鷲巣光敦頼満頼香、女(六角義賢室)、女(見證寺某[注釈 1]室)
親子説による②頼純
[一説に] 濃姫[注釈 2]斎藤道三の娘)
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土岐 頼純(とき よりずみ)は、戦国時代美濃守護大名である。頼純は最晩年の名で、初名は政頼(まさより)。諱は複数あり、盛頼(もりより)、頼充(よりみつ)ともいう。通称は次郎(二郎)、左衛門尉、美濃守。

前代の守護大名・土岐頼武との関係は、同人説、親子説、兄弟説がある。(後述

生涯

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人物の比定

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土岐頼武嫡男で、母は朝倉貞景の三女。妻は斎藤道三の娘。

略歴

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大永4年(1524年)、土岐政房の長男として誕生。

父・頼武の死後も大桑城に拠って、叔父である美濃守護土岐頼芸および斎藤道三と対峙する。しかし、味方であった近江国六角定頼天文5年(1536年)に頼芸方に転じ、さらに守護代斎藤利茂も定頼の仲介で頼芸方になるなど、次第に劣勢に立たされる。

天文8年(1539年)正月、頼芸との間で和議が成る。しかしこれは一時的なもので、裏では斎藤道三による調略が進められていた。天文12年(1543年)7月以降、祐向城、別府城などの大桑城の支城は相次いで陥落、大桑城も落ち、頼純は母の実家である朝倉氏を頼って越前国へ亡命した。

天文13年(1544年)8月、頼純は朝倉孝景(宗淳)と尾張国織田信秀の支援を得て、美濃再入国を企てる。しかし、斎藤道三は6月にはこの情報をつかんでいたらしい。朝倉軍は朝倉宗滴が総大将となり、徳山谷を南下、9月19日に赤坂で斎藤軍と合戦し、これに勝利し六角氏との連絡路を遮断した。一方、織田軍は道三の籠もる稲葉山城を正面攻撃、9月22日に総攻撃を仕掛けたが、城下での斎藤勢の防戦もあり、夕刻になって攻撃を中止し、撤収にかかったところを攻撃され大敗した。この敗戦によって頼純は朝倉軍とともに再び越前に引き揚げた。

天文15年(1546年)秋、再び頼純と頼芸・道三との間で和議が成った。朝倉孝景、織田信秀の室町幕府への働きかけに加え、頼芸の同盟者である六角定頼の仲介もあったらしい。9月、頼純は菩提山城を経て大桑城へ入城した。和議の条件として、頼芸の隠退と頼純の美濃守護職就任があったという。また、道三の娘との婚姻も実現した。


守護となって1年余り後、天文16年(1547年)11月17日、頼純は急死した。享年49。



享年24。おそらく道三の謀略にかかって殺害されたものと推定される[注釈 3]が、公式の記録が存在しないため確証はない。

ただし、『土岐家譜』では、頼純は享年49、法名は南泉寺殿玉岑珪公大禅となっている。ただ、父・頼武の別名が頼純とも言われており、また頼武の享年が49前後とされるため、おそらくこの「頼純」は、父・頼武のことだと思われる。

その他

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脚注

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注釈

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  1. ^ 河内国久宝寺郷の僧。
  2. ^ 濃姫が信長に嫁ぐ前に頼純の妻になったとする説がある[1]
  3. ^ 六角承禎条書には「斎藤道三が土岐頼純を婿に取ると早くに亡くなられ、その弟の土岐八郎も自害させられた、(道三の)関与は明らかである」との記述があり、当時から斎藤道三に疑いの目が向けられていたことが推測される。

出典

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  1. ^ 川口素生「Q30 信長の正室・濃姫をめぐる秘密と謎とは?」『山内一豊と妻千代101の謎』PHP研究所、2005年。ISBN 4569664652 
  2. ^ "「麒麟がくる」"川口春奈の最初の夫"は矢野聖人! 土岐頼純役で大河ドラマ初出演「うれしかった」". Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. 25 January 2020. 2020年1月28日閲覧
  3. ^ "声優土岐隼一「麒麟がくる」に祖先登場していた". ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. 28 January 2020. 2020年1月28日閲覧

参考文献

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