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宗貞盛像(養玉院) | |
時代 | 室町時代 |
生誕 |
元中2年/至徳2年(1385年)[1] または不詳[2] |
死没 | 享徳元年6月22日(1452年7月9日) |
改名 | 都々熊丸/都都熊丸(幼名)、貞盛 |
別名 | 通称:彦六、右馬[3]、刑部少輔、讃岐守[4] |
戒名 | 圓通寺殿萬悦元勝 |
幕府 | 室町幕府 |
藩 | 対馬守護 |
氏族 | 宗氏 |
父母 | 宗貞茂 |
兄弟 | 貞盛、盛国、盛世、女(宗盛弘室) |
子 | 成職[5]、女(宗盛家室) |
宗 貞盛(そう さだもり)は、室町時代前期の武将、対馬守護。宗氏の第9代当主。第8代当主・宗貞茂の子。幼名は都々熊丸で、宗都々熊丸[6]ともいう。通称は彦六、右馬[3]、刑部少輔。
略歴
[編集]応永25年(1418年)4月、去年9月に病に倒れた父・貞茂が死去したことにより急に後を継いだ。都々熊丸と幼名で呼ばれて[8]、まだ幼少で元服していなかったはずであるが、後述の享年から計算した元中2年/至徳2年(1385年)生まれとするとこの時に35歳で、辻褄が合わないため、生年不詳とする史料もある[2]。
同年9月、慣例により新守護の貞盛(都々熊丸)は、朝鮮王太宗に使者を送り、宗貞茂の死を告げて土地の産物を献じ、服喪のために梵鐘と般若心経を求めた[9]。
翌年、李氏朝鮮の軍勢に対馬を攻められた(応永の外寇)が、奮戦し、両軍膠着状態になった際に、貞盛は朝鮮軍の要求を拒絶したうえで朝鮮の使者に対して暴風雨が近づいていることを警告し、停戦修好を求めた[10]。戦後、貞盛は李氏朝鮮との関係修復・強化に努めた。1441年には日本人が朝鮮近海で漁ができる権利を獲得(孤革島釣禁約)した。その後も朝鮮と嘉吉条約を結んで、朝鮮との交易による利益を独占した。ところが同じく朝鮮との交易に目をつけていた大内氏と敵対し、宗氏の主筋であった少弐氏と共に大内軍と戦ったが敗れて多くの領土を奪われた。また、大内氏によって所領を追われた少弐嘉頼を庇護している。
享徳元年(1452年)6月22日、死去[11]。一説に享年68[12]。対馬国上県郡佐賀村に葬られた[13]。戒名は圓通寺殿萬悦元勝[13]。
当主は嫡男の成職が継ぎ、弟盛国の次男・貞国が成職の養嗣子となってさらにその後を継いだ。 [14]
脚注
[編集]- ^ 享年68から逆算したもの。
- ^ a b 朝日日本歴史人物事典「宗貞盛」 。コトバンクより2022年4月12日閲覧。
- ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus「宗貞盛」 。コトバンクより2022年4月12日閲覧。
- ^ 堀田 1923, p. 633.
- ^ 貞盛の嫡男。宗氏第10代当主。将軍足利義成(のちの義政)より「成」の字を賜る。
- ^ 元服前であり、署名では「宗氏都々熊丸」とされた。
- ^ 大日本史料 7編31冊371頁.
- ^ 『太宗恭定大王実録』など[7]。
- ^ 大日本史料 7編31冊372頁.
- ^ 老松堂のみた日本 - 専修大学 58ページ [1]
- ^ a b c 史料綜覧7編908冊29頁.
- ^ 『對馬史略』による[11]。
- ^ a b 『宗氏世系私記』による[11]。
- ^ 朝鮮史学会 1924, p. 52.
参考文献
[編集]- 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書、1923年、633頁 。
- 朝鮮史学会 編「近世史」朝鮮史学会、1924年。朝鮮史講座: 朝鮮一般史, 第 1 巻, p. 52, - Google ブックス