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鍋城
熊本県
別名 鍋倉城、多良木城
城郭構造 山城
築城主 相良頼氏[2]
築城年 伝・鎌倉時代
主な城主 多良木氏(上相良氏)、相良氏
遺構 平坦地、石垣、堀切
指定文化財 町指定史跡
位置 北緯32度17分08.8秒 東経130度55分57.5秒 / 北緯32.285778度 東経130.932639度 / 32.285778; 130.932639 (鍋城)座標: 北緯32度17分08.8秒 東経130度55分57.5秒 / 北緯32.285778度 東経130.932639度 / 32.285778; 130.932639 (鍋城)
地図
鍋城の位置(熊本県内)
鍋城
鍋城
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鍋城(なべじょう)は、熊本県肥後国上球磨)にあった中世山城球磨郡多良木町黒肥地(旧黒肥地村)字鍋城にある城趾。南北朝時代においては九州における南朝方の重要な拠点の1つであった。

概要

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上相良氏(多良木氏)代々の居城という。県下でも最大級の規模を有する山城で、多良木町はいうに及ばず球磨郡を代表する城趾である[3]が、城趾は中世古文書および江戸時代の全藩の地誌にはほぼ登場せず、『相良文書』に鍋倉城として出てくる程度である[3]

郡市の史料においても、相良頼氏[4]関連の記述に少し名が登場する程度で文書記録に乏しいが、『嗣誠獨集覧巻之一』の第二の弥五郎頼氏の項に「文応元年庚申(1260年)王宮社修造同二年(弘長2年)辛酉鍋城長運寺再興」の記事が見え、『求麻外史』巻一之二蓮佛公(長頼)第二の項には「弥五郎頼氏、公第二子也、及蓮寂公薨、公以多良木頼氏其後…(中略)…頼氏築鍋城而居焉」と記述されている[1]。これにより築城主は頼氏で、築城時期は鎌倉時代前期と推測される。

城趾は現在、雑木の生い茂る丘陵になっていて、下草に覆われる季節では石垣を見つけるのも困難だが、地元には城の名残が地名として残っている。周辺にある史跡(里の城、内城、新堀城、相良頼景館)は外城をなして城塞群であったと考えられているほか、鍋城の真南の球磨川に縁には船着き場の遺構がある[5]。また城の東西に東光寺と平等寺というの鎌倉時代以前の古刹の遺構があり、周辺には蓮花寺や青蓮寺[6]など相良氏と関係が深い寺院もあって、上相良氏の霊廟も存在する。

歴史

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鎌倉時代、相良氏は頼氏流の相良氏が多良木を領し、頼親流の相良氏は人吉を領して、二流に分かれたが、鍋城は上球磨の枢要の位置にあり、前者の上相良氏(多良木氏)の本拠であったとされている[3]

南北朝時代の建武3年/延元元年(1336年)、上相良家の惣領・多良木経頼は南朝方に加わって蜂起すると、北朝方の下相良家の惣領・相良定頼と戦った[3]興国元年/暦応3年(1340年)には下相良家の庶流(定頼の叔父)相良祐長も南朝方に加わるが、観応の擾乱期の和睦などを挟んで、多良木氏との抗争は100年以上も長く続き、鍋城がその抵抗の拠点となった。騒乱の終わりは、文安5年(1448年)2月、幼少の下相良家当主・相良堯頼に対して多良木頼観頼仙兄弟が反乱を起こして人吉城を攻略し、堯頼を国外に追放したことに端を発する。下相良家の山田城[7]主・永留長続が人吉城を奪還すると、8月に多良木兄弟は再び蜂起したが、長続は久米城[8]を攻めて、救援に訪れた頼観・頼仙を久米雀ケ森の合戦で討ち取って、上相良家を滅ぼした[3]。これにより相良氏は初めて球磨郡内の統一を果たした。

多良木相良氏の旧領は長続の所領となり、第四子の頼泰に譲られた[3]。しかし次の為続の代になって、文明3年(1471年)、頼泰は讒言にあってに城を取り上げらた。文明16年(1484年)に勘気が解かれ、再び多良木に入部して鍋城を居城としたが、長享元年(1487年)、頼泰は嫡宗(長毎)排除して自分の子長泰に宗家を継がせようと謀反を企んだとして、幼少の弟・松千代丸(後の長弘)を除く家族全員が誅殺された。その後、多良木や鍋城は宗家・為続の手に入ったとみられる[3]

天文14年(1545年)、長弘の子で八代岡の地頭相良治頼を擁して人吉衆が反乱を起そうとしたが、計画が漏れて、後に治頼は多良木に来て鍋城に拠ろうとしたが、城代の税所源兵衛尉が偽って城に入れず、治頼は耳取原で戦って敗れた[9][3]

永禄2年(1559年)の獺野原の戦いで、丸目頼美東長兄らの本拠の湯前城[10]に対して、人吉勢が拠点としてのも鍋城だった[3]。また、天正9年(1581年)の相良義陽の討死の後、後嗣を狙った弟・頼貞の球磨帰国に際して、多良木の地頭・岩崎加賀守が同調している[11]。ただし、鍋城がいつまで使われていたかなどはよくわかっていない。

遺構

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城跡は小椎川と栖山川の合流点にあって、「鍋城」という字名を残す独立丘陵(南北方向に主軸を呈し、標高200m・東側麓の水田面よりの比高約40m)に位置する。 丘陵の背面は、南北幅400m・東西幅100mを越える大規模な帯状の平坦地(主に畑地)となっており、城跡の範囲確認は困難であるが、南側先端部寄りに長さ43 mの堀切(堀幅5.5m)が観察される。また、堀切で仕切られた南側区画には、「本丸」「二の丸」の小名を有する方形状の一隅があり、地元ではこの地を城の中心 部と伝えるようである。「本丸」は長径85m・短径30~36mを計り、南側で2mの落差を持って「二の丸」が接する。「二の丸」は長径44m・短径30~39mを示し、東縁一帯と南縁一部に高さ1m程の石塁を残す。周辺の竹薮には古井戸(直径4)も現存しており、同地内での生活址の存在が推察される。

一方、堀切より北側へ75mの地点には栗林があるが、この一帯が城跡内で最も高く、『多良木町史』編纂に伴う発掘調査の結果、多量の土師質土器とともに柱 跡や礎石が検出された。この遺構は、城跡における位置から、地元ではいわゆる望楼跡ではないかと見る。また栗林の周辺の畑地には五輪塔の残欠部が点在して おり、土師質土器片が出土する。堀切に近い所からは南宋系と見られる青磁片も出土する。

城跡の北端部は「古城堀」という小名を残す自然の迫地となっており、対岸には「赤田(字名)」の丘陵が展開する。迫地の底幅は長さ約11mで両壁は切り立ち、岩肌が顔をのぞかせている。まさに格好の堀切と言えよう。さらにこの「古城堀」は、コーナー部分で鈎型に大きく湾曲し、城跡の西側麓を南北に走るので、城跡にとってこの上ない地の利となる。

注目すべき事に西側麓の迫地には、「岩風呂」と称される横井戸も存在する。入口は高さ2m・横幅4mで内部は奥行きが15m程で3本に別れ、さらに奥の方へ伸びているがこの部分については調査不可能である。また入口には、横井戸の存在を隠すかのように巨石が横たわるのも興味深い。

主たる登城道は、丘陵の南端部にあり、登城口には「大手下」の小名が残る。この他、丸山と古城の両集落からの登城道がある。なお、この両集落は、武家屋敷跡と言われている。



昭和47年(1972年)の発掘調査では、丘の最上部から望楼跡と考えられる建物跡や柱跡や礎石、多数の土師質土器が発掘され、付近の田畑では南宋系とみられる青磁片も見つかっている[12]


鍋城の本丸は丘陵南端の標高222m(比高40m)に位置する。


東西にそれぞれ小椎川と栖山川が流れ、南麓で合流している。南西側の登城口に大手下の字名が残る。丘上にはかつて長さ43m、底幅5.5mの堀切があり、南側が本丸と二の丸の2区画に分かれていた。


脚注

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  1. ^ a b 阿蘇 1979, pp. 354–355.
  2. ^ 『求磨外史』の記述による[1]
  3. ^ a b c d e f g h i 阿蘇 1979, p. 354.
  4. ^ 相良氏初代の相良長頼の次男。上相良氏(多良木氏)の祖。
  5. ^ 現在は堤防工事されて地形が大きく変わっているが、近代まで木材輸送に球磨川が使用されていた。
  6. ^ 青蓮寺阿弥陀堂は、国指定重要文化財。
  7. ^ 山江村山田字城山。
  8. ^ 在多良木町久米字今山田。
  9. ^ 但し、『南藤蔓綿録』では、「一時鍋城籠城」とある。
  10. ^ 現在の球磨郡湯前町の普門寺のある場所。湯前城と鍋城とは、球磨川とその河岸段丘を挟んで、南北に対峙する位置にある。獺野原はその間に広がる球磨北岸の小平地。
  11. ^ 岩崎加賀守は「多良木城主」とされるが、多良木城という名前の城はなかった。多良木には複数の城趾があるが、しばしば多良木荘の城である鍋城をさして多良木城という場合があるので、これも鍋城をさすのではないかと考えらている。
  12. ^ 阿蘇 1979, p. 355.

参考文献

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関連項目

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