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愛媛県庁

愛媛県の政治は、愛媛県における県政、各市町村の政治、および日本の中央政府への影響について記述する。

特徴[編集]

愛媛県は日本有数の保守王国(保守優位県)である。保守政党・自由民主党(自民党)の勢力が非常に強く、1998年時点で、人口あたりの自民党党員比率は全国1位、県選出の国会議員は全て自民党員であった[1]

これに対して愛媛県における日本社会党の勢力は非常に弱く、オイルショック以降はほとんどの選挙区で県議・市議の候補者を擁立することすらできなくなってしまう。革新首長は新居浜市長を20年間務めた泉啓太郎を除いてほぼ存在しない[2]

愛媛県自民党は「保守一枚岩体制」であるとされていた。通常、日本の各都道府県では自民党地方議員が自民党国会議員の庇護を受け、各国会議員の系列ごとにいくつかの派閥を作っている。しかし、愛媛県自民党は国会議員による介入を許さず、知事を頂点に一本化されていた[2]

国政[編集]

自民党は結党以来、どの中選挙区(各定数3)でも2議席以上を獲得してきた(1960年の愛媛1区を除く)。小選挙区が導入されてからは、自民党が4つの選挙区で全勝を続けてきた。民主党が圧勝した2009年の総選挙でも、愛媛3区を除いて自民党が勝利している。 [3]

愛媛県は東予・中予・南予に区分され、それぞれ中選挙区制時代の衆院選挙区の愛媛2区・1区・3区(いずれも定数3)に対応していた。55年体制が成立してからは議席を自民党と社会党がほぼ寡占していた。1958年から1983年まで例外は1区から民社党公認で2回当選した中村時雄のみ(ただし社会党公認で3回の衆院当選した経験があった)。1区では都市化が進み、1986年以降は社会党が議席を維持する体力が低下し、公明党と日本新党が1つずつ議席を獲得してた。保守王国である愛媛では自民党が強く、県内9議席中1958年に8議席、1963年に5議席を獲って以降、6~7議席で推移していた。社会党は定数3であったため、1960年代以降の多党化傾向から守られ、自民党に対抗する野党第一党として1議席を獲得し続けていた[4]

愛媛1区は、1970年代後半から関谷勝嗣塩崎潤(自民党)を軸にした安定期が訪れた。それより少し遅れて3区にも西田司今井勇(自民党)、田中恒利(社会党)の3人による安定期が生まれた。愛媛2区では、定数を満たすか,時には超える数の保守系候補者が必ず立候補してきていた。そのため、保守系の有力候補3~4名に社会党候補を加えた3~4名で3議席を争う熾烈な選挙戦が続いてきた[4]

県政[編集]

保守派の台頭[編集]

1950年代初頭の愛媛県では革新系の政治勢力が拡大しており、1950年参院選愛媛選挙区での三橋八次郎当選、1951年愛媛知事選挙での久松定武当選、1953年参院選愛媛選挙区での湯山勇当選など、連勝を続けいていた。 [5]。しかし、1954年に白石春樹ら保守系県議が「副知事をおかない条例」を制定したことを契機として、2代目公選知事の久松は革新系の副知事羽藤栄市を切り、保守勢力に支持基盤をシフトした。こうして保守派を固めた久松は1955年愛媛県知事選で圧勝し、革新勢力はこれを機に退潮していく。

1956年、愛媛県は自治省から財政再建団体に指定された。これを機に県は人件費削減のために県教職員の昇給に勤務評定を実施しようとする。これに対して、日本教職員組合(日教組)に属する愛媛県教職員組合(県教組)は反発し、愛媛県教育委員会(県教委)と約2年間にわたる攻防が行われた。県教組は1957年12月に県議会議長・白石に調停を申し入れ、全校への勤務評定導入を受け入れた。この結果、かつて日教組の御三家と呼ばれた愛媛県教組は衰退し、1959年愛媛県知事選で久松が前参院議員の三橋八次郎を破り3選を遂げた。なお、愛媛の勤務評定システムは文部省に評価され、日本の各自治体へ導入されていった[5]

久松第3期県政では生活福祉が重視され、インフラ整備や教育・福祉施設の充実が行われた。農業の近代化にも取り組み、1963年には愛媛のみかん生産量が日本1位になった。1959年の県議会選挙では、自由民主党(自民党)が42議席を獲得し圧勝したものの、県議の中で内部分裂が起こる。1960年、自民党会派は分裂し、主流派の「自由民主党」、非主流派の「自由民主党同志会(自民同志会)」「自由民主党クラブ」の鼎立状態となった。自民同志会は久松と自民党主流派を牛耳る白石らを批判し、久松の4選阻止を目指した。1962年今治市長選で元副知事の羽藤が勝利したことをきっかけに、自民同志会は日本社会党(社会党)・民主社会党(民社党)・労働組合と「県政刷新県民会議」を結成した。そして、1963年愛媛県知事選挙に、久松の対抗馬として愛媛新聞社長の平田陽一郎を擁立した。この知事選挙は熾烈を極め、野党は河上丈太郎江田三郎成田知巳鈴木茂三郎、自民党は岸信介池田勇人三木武夫藤山愛一郎らが愛媛を訪れてそれぞれの候補者を応援した。結果は久松330398票、平田325989票となり、わずか4412票差で久松が4選を決めた。久松陣営を率いた白石は公職選挙法違反で起訴され最高裁判所まで争うが、1968年の明治100年を記念した恩赦により、政令特赦され県政に復帰した。これ以降白石は強力なリーダーシップを発揮し、知事を頂点とする県政のピラミッド体制を構築していく[5]

保守一枚岩体制の構築[編集]

5期20年の久松県政の後を受けて行われた1971年愛媛知事選は、それまで愛媛自民党を率いた県議・白石と愛媛革新勢力のリーダーである衆議院議員湯山勇の一騎打ちとなった。都市部・東予・中予で優位に立った湯山に対し、白石は郡部・南予でより多くの票を獲得して厳しい選挙を勝ち抜いた。知事に就任した白石は、広報活動に力を入れるとともに、自らの支持基盤である南予重視の政策を採り、農業用水を確保するために4つのダムを建設した[5]

1970年代は日本全国の自治体レベルで革新勢力が勢いを取り戻し、各地で革新首長が誕生していた。松山市で自民党市議の割合が減るなど、愛媛にも保守優位体制に綻びが見えたかのように見えた。これに危機感を覚えた白石は、徹底した組織固めで1975年愛媛知事選挙に臨んだ。自民党公認候補として政党色を前面に打ち出し、自らの支持母体である農協はもちろん、商工団体婦人会看護婦会農村後継者協議会青年懇談会青年同志会など、400もの団体から推薦を取り付けた。さらに、70もの愛媛自民党支部に選対本部を作り、浮動票の多い松山には20もの支部組織を置いた。その上で積極的な組織戦を展開し、浮動票の多い松山市や青年層にも支持を獲得した。白石の対立候補である野村晃社会党・共産党・公明党の支持を受けて選挙戦に臨んだが、組織は不活発で地道な活動が行われず、表面だけの「国道選挙」にとどまった。結果は14万票以上の票差をつけ、白石の圧勝に終わった[5]

知事に就任した白石は、国会議員にすら県政への介入を許さず、県行政を頂点とし、周辺に自民党県議団を配置、各地域選出の県議を通じ市町村を管理する愛媛特有のピラミッド体制を完成させた[1]

社会党の衰退[編集]

1955年体制においては、社会党は愛媛県において自民党の後塵を拝していたが、自民党への中心的な対抗勢力であった。社会党は県議会第2党の地位を占めており、1959年 - 1970年代前半に7〜8議席を維持してきた。新居浜市では社会党公認候補として泉敬太郎を5回当選させた。1975年県議選において人口減少が激しく、保守基盤が強い南予・郡部において定数削減が行われた。しかし、この県議選で社会党はわずか4議席と大敗した。これにより南予・郡部で社会党は永遠に議席を失い、松山・今治・新居浜の3選挙区のみでしか議席を獲得できなくなった。松山では定数が増え続けたが、全国的な多党化の潮流に乗った民社党・公明党・共産党などが議席を獲得し、社会党は郡部で失った議席を都市部で挽回することは叶わなかった。石油危機を機に全国的にも保守回帰(長期低落傾向だった自民党の復調)が生じており、革新首長たちが次々と敗れていく。そこで公明党・民社党は保守系候補を「相乗り」で推薦・支持し、地方政治において与党化していった。愛媛県でも社会党は対抗馬を立てることができず、保守系候補にすり寄るようになった。1990年代の県議選では1議席確保がやっとなっていた[2]

1980年代以降、社会党が候補者すら建てれられくなったため、自民党候補者が当選し続けた。社会党に代わり、共産党が勝算度外視で1983年・1987年の県議会選挙において候補者を乱立させた。しかし、1991年県議選では共産党も候補者数を抑えたため、無投票の選挙区数が激増した[2]

保守分裂[編集]

白石の後継者として、伊賀貞雪が県知事に就任する。伊賀は有力議員を取り込み、白石色を排除した独自路線を模索する。しかし、1998年に白石派と伊賀派の対立が表面化し、一枚岩と言われた愛媛県自民党が分裂した。1999年、愛媛県知事選挙で21人の県議と5人の県選出国会議員が支持する加戸守行と11人の県議、2人の国会議員が支持する伊賀、さらに5人の県議が推す藤原敏隆の間で県知事選が行われる。自民党本部の幹事長森喜朗も介入する中、選挙戦が行われ、加戸が勝利した[1]

市町村政[編集]

愛媛県内の政治風土は東予地方中予地方南予地方によって差があるとされている。これらの地方は中選挙区制時代の愛媛1~3区に対応する[2]

地方 地図 主な都市 特徴 投票行動 旧中選挙区
東予   新居浜市
今治市
臨海工業地帯 比較的リベラル 愛媛2区
中予 松山市 松山とその通勤地帯
県の中枢管理機能・本社機能が集中
潮流に影響を受けやすい
地縁・血縁に縛られない有権者が多い
多党化が進展
愛媛1区
南予 八幡浜市
宇和島市
農漁村地帯  「完璧な保守王国」
自民党が圧倒的に強い
愛媛3区

東予[編集]

東予は愛媛では、比較的リベラルな地域とされている。東予の中でも、住友グループなどの大企業労働組合を抱える新居浜・西条生活圏では革新系政党が強く、新居浜市では愛媛ではほぼ唯一の革新首長(泉敬太郎、任期1965年 - 1984年)が誕生した。一方、中小零細企業からなる地場産業中心の今治生活圏では、保守地盤が厚かった。今治市長選では革新統一候補が生まれることがない代わりに、保守分裂選挙が見られた<ref name=i-imabari>。

中予[編集]

南予[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

[[Category:愛 媛県]] [[Category:愛 媛県の政治]]

  1. ^ a b c 1998年12月号 愛媛初・知事選公開討論会”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  2. ^ a b c d e 政界再編と地方議員 : 愛媛市町村会議員調査より”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  3. ^ 「保守王国」 の市長のキャリア形成-愛媛県主要都市の歴代市長より
  4. ^ a b 市川虎彦「地場産業都市の政治構造-愛媛県今治市の戦後地方政治(1)
  5. ^ a b c d e 地方政治における保守王国形成の政治過程