湯山勇
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湯山 勇 ゆやま いさむ | |
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生年月日 | 1912年1月18日 |
出生地 |
日本 愛媛県宇摩郡別子山村 (現新居浜市) |
没年月日 | 1984年6月16日(72歳没) |
出身校 | 愛媛県師範学校 |
所属政党 |
(日本教職員政治連盟→) 日本社会党 |
称号 |
正四位 勲二等旭日重光章 |
配偶者 | 有 |
選挙区 | 旧愛媛1区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 |
1960年11月21日 - 1972年12月11日 - 1984年6月16日 |
選挙区 | 愛媛県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1953年5月3日 - 1959年 |
湯山 勇(ゆやま いさむ、1912年1月18日 - 1984年6月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)、参議院議員(1期)。
経歴
[編集]愛媛県宇摩郡別子山村出身。愛媛師範学校を首席で卒業後、愛媛県内の北予中学校、愛媛師範学校、松山高等女学校などで教師を務めた[1]。戦後、愛媛県教職員組合が結成されるとこれに参加し1951年に委員長に就任、翌1952年には愛媛地方労働組合評議会議長にもなる。
1953年の参議院選挙に愛媛県選挙区から出馬(日本教職員政治連盟)し初当選する。勤評闘争では強硬姿勢を取った愛媛県知事久松定武を相手に激しく抵抗し、1958年には参議院文教委員長となったが1959年の参院選で落選する。翌1960年の総選挙で愛媛1区に鞍替え出馬して衆院議員2期を務めた後、1967年と1971年2回連続、愛媛県知事選挙に出馬するも落選。1972年の総選挙で再度衆院議員に復帰し以後5期務める。この間1976年には衆議院災害対策特別委員長となった。
衆議院議員在任中の1984年6月16日死去、72歳。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈、正四位に叙される[2]。国会議員として初めて解剖実習用に遺体を献体、愛媛大学医学部で扱われた[3]。
1958年に鳩山一郎に教育委員任命制について質問したことは石川達三『人間の壁』で取り上げられている[4]。
1980年(昭和55年)、廃園の危機にあったスウェーデンのリンネ記念植物園の存続に貢献し、同植物園からリンネ・メダルが授与された。また、1982年(昭和57年)には北条市の腰折山で夫人とともにイヨスミレを再発見するなど、スミレの愛好家としても知られた[5]。
脚注
[編集]- ^ 『愛媛県百科大事典 下』 621頁
- ^ 『官報』第17215号10-11頁 昭和59年6月26日号
- ^ 第101回国会 衆議院 本会議 第36号 昭和59年7月17日
- ^ 「湯山 勇」 。コトバンクより2023年2月24日閲覧。
- ^ 「イヨスミレ」について 2024年7月2日閲覧。
参考文献
[編集]- 愛媛新聞社 『愛媛県百科大事典 下』 1985年
- 湯山勇伝編集委員会 『湯山勇伝 平和と社会正義の生涯 上巻・下巻』 1986年
- 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』衆議院、1990年。
議会 | ||
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先代 秋山長造 |
参議院文教委員長 1958年 |
次代 竹中勝男 |
先代 児玉末男 |
衆議院災害対策特別委員長 | 次代 川崎寛治 |