左近正男
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左近 正男 さこん まさお | |
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生年月日 | 1936年11月26日 |
出生地 | 日本 大阪府大阪市 |
没年月日 | 2024年10月16日(87歳没) |
死没地 | 日本 奈良県生駒郡平群町 |
出身校 | 大阪府立市岡高等学校 |
前職 | 大阪市役所職員 |
所属政党 |
(日本社会党→) (社会民主党→) 新進党 |
称号 |
従四位 旭日中綬章 |
選挙区 | 旧大阪2区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1983年12月18日 - 1996年9月27日 |
左近 正男(さこん まさお、1936年11月26日 - 2024年10月16日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員(4期)。
経歴
[編集]- 大阪府大阪市生まれ。
- 大阪府立市岡高等学校卒業。
- 大阪市役所入庁。大阪市交通局勤務。
- 大阪交通労働組合委員長。
- 1983年12月 - 第37回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧大阪2区から立候補し初当選。
- 1986年7月 - 第38回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧大阪2区から立候補し再選。
- 1990年2月 - 第39回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧大阪2区から立候補し3選。
- 1993年7月 - 第40回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧大阪2区から立候補し4選。
- 1993年7月 - 細川内閣が成立。社会党が連立与党となる。
- 1993年12月~1994年1月 - 細川内閣が国会に提出した政治改革関連法案(小選挙区比例代表並立制など)の成立に奔走。
- 1994年6月 - 羽田内閣が総辞職。連立与党に残留することを主張し、自社さ共同政権構想に反対。首班指名選挙で日本社会党委員長村山富市ではなく連立与党の海部俊樹に投票。
- 1995年1月6日 - 新民主連合が新党準備会を発足させる。
- 1995年1月16日 - 山花・本岡昭次らとともに日本社会党院内会派からの離脱、新院内会派「民主連合・民主新党クラブ」結成を衆議院事務局に届け出る。
- 1995年1月17日 - 阪神・淡路大震災が発生。非常事態のため新会派「民主連合・民主新党クラブ」結成を撤回。新党結成も断念。会派に留まる。
- 1995年9月 - 衆議院災害対策特別委員長(1996年9月まで)。
- 1996年10月 - 第41回衆議院議員総選挙に際して社民党を離党。新進党公認で比例近畿ブロックから立候補し次点で落選する。
- 2007年4月 - 旭日中綬章受章。
- 2024年10月16日 - 腎盂がんのため、自宅で死去した[1]。87歳没。死没日付をもって従四位に叙された[2]。
主張
[編集]- 派閥は右派の政権構想研究会に所属。新政策懇話会・水曜会・ニューウェーブの会にも所属した。
- 政界再編や非自民非共産勢力による新党結成を志向。前畑幸子らとともに「自衛隊違憲」「日米安保反対」といった従来の社会党の基本政策の転換を求めた。
- 国民投票法の制定や投票年齢の18歳引き下げなどを主張した。
テレビ出演
[編集]脚注
[編集]- ^ “元社民党衆院議員の左近正男さん死去 87歳”. 産経新聞. (2024年10月24日) 2024年10月24日閲覧。
- ^ 『官報』第1351号6頁 令和6年11月21日
議会 | ||
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先代 日野市朗 |
衆議院災害対策特別委員長 1995年 - 1996年 |
次代 川端達夫 |