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ジョン・シャープ・ウィリアムズ
John Sharp Williams
生年月日 (1854-07-30) 1854年7月30日
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国テネシー州メンフィス
没年月日 1932年9月27日(1932-09-27)(78歳)
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミシシッピ州ヤズー郡
出身校 ユニバーシティ・オブ・ザ・サウス英語版
バージニア大学 (LLB)
所属政党 民主党
配偶者 Betty Webb
子女 8人
サイン

在任期間 1903年3月4日 - 1909年3月4日

在任期間 1903年3月4日 - 1909年3月4日

選挙区 ミシシッピ州第1部
当選回数 2回
在任期間 1911年3月4日 - 1923年3月4日

選挙区 ミシシッピ州5区
当選回数 5回
在任期間 1893年3月4日 - 1903年3月3日
選挙区 ミシシッピ州8区
当選回数 3回
在任期間 1903年3月4日 - 1909年3月3日
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ジョン・シャープ・ウィリアムズ英語: John Sharp Williams、1854年7月30日 - 1932年9月27日)は、1890年代から1920年代にかけて活動したアメリカ合衆国の政治家。所属政党は民主党

連邦上院議員2期、連邦下院議員8期。第58議会から第60議会まで下院少数党院内総務および下院民主党員集会英語版委員長を務めた。院内総務時代には、同時期にアメリカ下院議長を務めたジョーゼフ・キャノン英語版との個人的な友好関係から、議長が有する委員任命権の一部を事実上移譲されていた[1]

経歴[編集]

ウィリアムズは1854年7月30日、テネシー州メンフィスで生まれた[2]。実家は典型的な「南部貴族」で奴隷制を用いたプランテーションを行なっており、父と祖父は南北戦争南軍の将校として従軍して戦死している[1]。母もウィリアムズが幼いうちに亡くなっていたため、ウィリアムズはミシシッピ州ヤズー郡に住む祖母のもとで育てられた。1870年にケンタッキー・ミリタリー・インスティテュート英語版を卒業後、ユニバーシティ・オブ・ザ・サウス英語版に入学[2]。その後、バージニア大学に転入。ルプレヒト・カール大学ハイデルベルクドイツ)とブルゴーニュ大学英語版フランス)で2年間のヨーロッパ留学を経験した後、バージニア大学に戻り、1876年に学士(法学)を取得した[3]。その2年後にヤズー郡の実家に戻り、家業の綿花栽培業を継ぐ[2]。また、同じくしてヤズーシティに法律事務所を開業し、弁護士としても活動していた[3]

1890年、ミシシッピ州5区から下院議員選挙に出馬するが、予備選で現職のジョセフ・ビーマン英語版に敗れて落選[1]。1892年に州5区から再び出馬して初当選[4]。1902年選挙からは新設されたミシシッピ州8区に移る[2]。ウィリアムズはジェファーソン流民主主義の信奉者と見做されており、1903年から始まる第58議会から下院少数党院内総務に就任し、第60議会まで務めた[2][3]。共和党のジョーゼフ・キャノン英語版下院議長と個人的な友好関係を築いていたため、民主党議員の委員会配属を決める実権を握り、民主党内で大きな権力を持つことになった[5][1]

ウィリアムズは上院議員を目指し、1899年の夏に立候補を表明したが後に撤退。1906年、翌年の上院議員選挙に立候補を表明する。ミシシッピ州では民主党の力が極めて強かったため、ウィリアムズとジェームズ・バーダマン英語版州知事との一騎打ちとなった民主党予備選が事実上の総選挙であり、全米で取り上げられた。バーダマン州知事はアフリカ系アメリカ人の投票権を保護する修正第15条の廃止と、アフリカ系アメリカ人の公民権の憲法上の根拠となっていた修正第14条の改正を求めていた[6]

ウィリアムズは648票差の接戦を制して指名を獲得。1908年1月にミシシッピ州議会によって上院議員として正式に承認された[注 1]。予備選挙後にウィリアムズは1909年3月に満了する下院議院議席への再選は求めないことを発表し、1909年に任期満了で辞職してから1911年に上院議員に就任するまで、ヤズー郡のプランテーションに戻った。

主張[編集]

国際関係[編集]

上院議員としてヴェルサイユ条約の批准と国際連盟への加盟を主張。1918年から1920年まで、ウィリアムズは上院の議場で 21 回の演説を行った。

大統領選挙[編集]

ウィリアムズは大統領選挙への出馬を表明したことはないものの、2度に渡って民主党候補指名選挙で票を獲得している。

1度目は、自身が臨時議長も務めた1904年民主党全国大会でのこと。同大会では、同年の大統領選挙における民主党候補の指名が行われ、当時、下院少数党院内総務を務めていたウィリアムズは、8票(全体7位)を獲得したが、指名を辞退した[8]

2度目は上院議員時代の1920年民主党全国大会でのこと。同大会では1920年の大統領選挙における民主党候補の指名が行われたが、規定票数を獲得する候補が現れず最終的に44回もの投票が行われた[9]。ウィリアムズは初回の投票のみではあるが、20票(全体14位)を獲得している[10]

容姿・性格[編集]

  • 1904年の民主党全国大会でウィリアムズが臨時議長を務めた際の記事で、リンカーンスター紙はその容姿と性格について次のように記載している。

    身長は5フィート9インチ[注 2]で華奢な体格。黒い瞳、黒い髪で整った目鼻立ちである。話し方はきつい南部訛り英語版で、よく通る声である。痛烈な皮肉と鋭い機知に富んでいる[8]

  • 下院議長を務めたキャノンはウィリアムズのユーモアのセンスを高く評価し、「(ウィリアムズは)規則委員会英語版で常に新しい話題を提供してくれ、私たちを楽しませてくれた」と語った[1]。また、ウィリアムズのお気に入りのジョークとして次の話が伝わっている。

ある日、ウィリアムズが下院議長の私室に入ると、議長のキャノンはウィリアムズを共和党員だと思い、委員会人事について極秘に相談し始めた。5分ほどして事態に気づいた「アンクル・ジョー[注 3]」は、ウィリアムズと笑いあった[1]

選挙結果[編集]

ミシシッピ州 連邦下院議員選挙(上位三候補)
政党 候補者 票数 得票率 政党 候補者名 票数 得票率 政党 候補者名 票数 得票率
ミシシッピ州 連邦下院議員選挙 (ミシシッピ州第5選挙区): 1892年-1900年[4][11][12][13][14]
1892年 民主党 ジョン・ウィリアムズ 7,541 71.4% 人民党 W. P. Ratliff 3,028 28.7%
1894年 5,645 66.3% W. P. Ratliff 2,873 33.7%
1896年 10,475 80.1% W. H. Stinson 2,248 17.2% 共和党
リンチ派英語版
J. E. Everett 212 1.6% [注 4]
1898年 4,941 97.0% 共和党 S. R. Pitts 142 2.8% 無所属 J. L. Caldwell 10 0.2%
1900年 9,385 100.0%
ミシシッピ州 連邦下院議員選挙 (ミシシッピ州第8選挙区): 1902年-1906年[15][16][17]
1902年 民主党 ジョン・ウィリアムズ 1,443 100.0%
1904年 4,903 100.0%
1906年 2,009 100.0%

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1890年ミシシッピ州憲法(英語版)では、州上院・下院、州知事、州最高裁判所判事などの公選で決定される州レベルの職種は全て4年毎の定期選挙で選出されることになっており、連邦上院議員は4年間の任期初年度の定例議会で選出されることになっていた。そのため、1912年から1918年までの任期を務める連邦上院議員の選挙のほとんどが1911年に行われたが、ミシシッピ州では1908年の定例会議で選出することになっていた[1][7]
  2. ^ 5フィート9インチは、メートル法では約175cm。
  3. ^ ジョーゼフ・キャノン英語版の愛称。
  4. ^ 第4位:J. H. Denson(共和党ヒル派英語版)、142票(1.1%)

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g Osborn, G. C (1939). “Joseph G. Cannon and John Sharp Williams”. Indiana Magazine of History 35 (3): 283–294. http://www.jstor.org/stable/27787079. 
  2. ^ a b c d e WILLIAMS, John Sharp:1854 – 1932”. Bioguide Search. 2022年1月31日閲覧。
  3. ^ a b c The Political Career of John Sharp Williams (1854-1932) - 2009-01”. Mississippi History Now. 2022年1月31日閲覧。
  4. ^ a b MS - District 05 Race - Nov 08, 1892”. Our Campaigns. 2022年2月2日閲覧。
  5. ^ Bolles, Blair. Tyrant from Illinois: Uncle Joe Cannon's Experiment with Personal Power, W. W. Norton & Company, 1951, p. 54
  6. ^ James Kimble Vardaman: Thirty-sixth Governor of Mississippi: 1904-1908 - 2004-01”. Mississippi History Now. 2022年2月2日閲覧。
  7. ^ The Mississippi Constitution of 1890 as originally adopted -”. Mississippi History Now. 2022年2月2日閲覧。
  8. ^ a b “Big Demonstration for Cleveland”. The Lincoln Star. (1904年7月6日). https://www.newspapers.com/image/?clipping_id=21366905&fcfToken=eyJhbGciOiJIUzI1NiIsInR5cCI6IkpXVCJ9.eyJmcmVlLXZpZXctaWQiOjMwOTYxMzE0NiwiaWF0IjoxNjQzODA3MDI1LCJleHAiOjE2NDM4OTM0MjV9.Rq11wdOqjhGyQZZr3iWe3crDwWIQQHkjN6AyKCgqjMk 2022年2月2日閲覧。 
  9. ^ Pietrusza, David (2007). 1920: The Year of the Six Presidents. New York: Carroll and Graf. ISBN 978-0-7867-1622-7. https://books.google.com/books?id=Uia4A04q8dMC 
  10. ^ US President - D Convention Race - Jun 28, 1920”. Our Campaigns. 2022年2月2日閲覧。
  11. ^ MS - District 05 Race - Nov 06, 1894”. Our Campaigns. 2022年2月2日閲覧。
  12. ^ MS - District 05 Race - Nov 03, 1896”. Our Campaigns. 2022年2月2日閲覧。
  13. ^ MS - District 05 Race - Nov 08, 1898”. Our Campaigns. 2022年2月2日閲覧。
  14. ^ MS - District 05 Race - Nov 06, 1900”. Our Campaigns. 2022年2月2日閲覧。
  15. ^ MS - District 08 Race - Nov 04, 1902”. Our Campaigns. 2022年2月2日閲覧。
  16. ^ MS - District 08 Race - Nov 08, 1904”. Our Campaigns. 2022年2月2日閲覧。
  17. ^ MS - District 08 Race - Nov 06, 1906”. Our Campaigns. 2022年2月2日閲覧。

外部リンク[編集]

アメリカ合衆国下院
先代
ジョセフ・ビーマン英語版
ミシシッピ州選出下院議員
ミシシッピ州第5選挙区

第9代:1893年3月4日 – 1903年3月3日
次代
アダム・バード英語版
先代
地区新設
ミシシッピ州選出下院議員
ミシシッピ州第8選挙区

初代:1903年3月4日 – 1909年3月3日
次代
ジェイムズ・コリアー
先代
ジェームズ・D・リチャードソン英語版
下院少数党院内総務
1903年–1909年
次代
チャンプ・クラーク英語版
先代
ジェームズ・D・リチャードソン
下院民主党員集会英語版委員長
1903年–1909年
次代
チャンプ・クラーク
アメリカ合衆国上院
先代
ヘルナンド・マニー英語版
アメリカ合衆国の旗 ミシシッピ州選出上院議員(第1部)
第20代: 1911年3月4日–1923年3月3日
同職:リーロイ・パーシー英語版ジェイムズ・K・ヴァーダマン英語版パット・ハリスン
次代
ハーバート・D・スティーブンス英語版