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美幾(みき、1836年 - 1869年8月12日)は、江戸時代末期 - 明治時代初期の遊女である[1][2][3]。梅毒の治療中に重体に陥り、医師から解剖のための遺体提供を依頼されて承諾したと伝えられ、日本で最初の献体者(篤志解剖)とされる[1][2][3]。美幾とその生涯については、渡辺淳一の小説『白き旅立ち』、吉村昭の小説『梅の刺青』などが題材に取り上げている[4][5][6]。
生涯
[編集]1836年(天保7年)生まれ[2]。駒込追分(現在の東京都文京区向丘、中山道と日光御成街道の分岐点にあたる)の住人彦四郎の娘といい、名については「美幾女(みきじょ)」、または「ミキ」、「みき」などとも表記される[1][2][3][6]。10歳のころから本郷の旧家へ奉公に出ていたが、父が負傷して働けなくなったため遊女になったと伝えられる[3][4]。
遊廓での勤めを続けるうちに、美幾は梅毒に罹患した[3][4][5][6]。その治療のため、医学校(東京大学医学部の前身)の附属病院として設置されていた黴毒院(ばいどくいん)に入院した[5]。美幾の病は重く、治療に当たっていた医師からの解剖のための遺体提供を求められた[3]。美幾は自らの死期が近いことを悟り、その求めに応じた[3][7]。父母と兄が連署の上、美幾の遺言を東京府に届け出た[3]。届け出は認容されたが、許可書には「厚ク相弔イ遣ルベキコト」との条件が付加されていた[1]。
美幾は1869年(明治2年)8月12日、34歳で死去した[2][6]。翌日、下谷和泉町[注釈 1]にあった医学校の仮小屋で日本初の病死体解剖が実施された[注釈 2][注釈 3][1][2][3][7]。医学校は美幾の霊を慰めるため、小石川植物園そばの念速寺(浄土真宗大谷派)で同月16日に葬儀を執り行って手厚く葬り、遺族には金10両が贈られた[1][4][7][6]。
美幾の墓は、念速寺(東京都文京区白山2丁目9番11号)の本堂裏、千川通り側の塀ぎわに現存する[1][3][7][8]。墓石の裏面には、「わが国病屍の始めその志を嘉賞する」と当時の医学校教官が美幾の志を称えた銘が刻まれ、法名として「釈妙倖信女」が与えられている[注釈 4][8]。この墓は、1974年(昭和49年)11月1日に文京区指定史跡となった[8][9]。墓碑は、保存のために透明なケースで覆われた状態となっている[6][7][10]。
なお、美幾に続く篤志解剖の2人目から4人目までの人々については、翌年の1870年(明治3年)に記録が残されている[1]。2月の八丁堀亀島町の「金次郎」、3月の深川大島町の「竹蔵」、10月の小日向水道町の「ムツ」の名があるが、いずれの人にも姓の記録がないため、貧しい階級の出と推定されている[1]。これらの人々も丁重に葬られて、遺族には金3両が贈られていた[1]。
「篤志解剖」第1号について
[編集]小川鼎三は、その著『医学の歴史』で「篤志解剖」希望者の第1号は、幕末から明治期にかけて活躍した洋学者・軍学者の宇都宮三郎であると記述している[1][4]。宇都宮は旧名を「宇都宮鉱之進」といい、尾張藩士の子として名古屋に生まれた。若いころから武芸と兵法を修め、砲術を学んだ後に化学の分野に進み、明治維新前後の日本の化学界に大きな功績を遺した人物である[1][4]。宇都宮は蘭学も学んでいたため、桂川甫周の家によく出入りしていた[注釈 5][1]。
1868年(明治元年)、宇都宮は重病で病床に伏していた[4]。幕藩体制の瓦解を目の当たりにし、かつての仲間たちが活躍するのを見て前途を悲観した彼は、「篤志解剖願」を書き上げて東京府に提出した[注釈 6][1][4]。この願に対して東京府は、「願の通り御免仰付けられ候」と許可を与えた[1]。しかし、宇都宮の病はすっかり回復したため、解剖も行われなかった。宇都宮は1869年(明治2年)3月に明治新政府の開成学校の教官として出仕を命ぜられ、7月には大学中助教に任じられた[1][4]。同年には結婚もしている[1]。小川は、宇都宮(による篤志解剖願)と美幾の間に何らかのつながりがあるかもしれないと推測している[1]。結局宇都宮は1902年(明治35年)に死去し、故郷の幸福寺(愛知県豊田市)に埋葬された[4][5][11]。そのため、「篤志解剖」第1号は美幾となった[1][4]。
なお、美幾の「篤志解剖」第1号について、末永恵子(福島県立医科大学講師)がその著書『死体は見世物か 「人体の不思議展」をめぐって』(2012年)の中で触れている[12][13]。末永は美幾について「医学校の附属病院に入院していた重症の患者で『貧病人』であった」と当時の文書に記されていたことを挙げて、「入院したときはすでに重症で命の危機に瀕していた彼女の意思のほんとうのところは、今では知る由もない」と指摘した[12]。
「篤志解剖」に関する異説
[編集]香西豊子[14]は、自著『流通する「人体」―献体・献血・臓器提供の歴史』(2007年)において、美幾(『流通する「人体」―献体・献血・臓器提供の歴史』では「ミキ女」と表記)の「篤志解剖」について取り上げている[15]。香西は美幾について、刑死体以外の死体が解剖の対象となる道を拓いた功績でたたえられていると記しつつも、いくつか考慮すべき点があることを指摘した[16]。
香西は同書で、美幾の解剖から6年後の1876年(明治8年)に死去した東京府士族の妻「おいね」の事例を挙げた[16]。おいねはその死後に解剖するようにと遺言し、日々新聞(同年2月25日付)は「我国病体解剖ノ請願アル、おいね其嚆矢なる」と報道した[16]。さらに1912年(明治45年)には、美幾の解剖を正式な解剖と認めない論調も存在した[16]。その内容は、1870年(明治3年)以前の解剖は「観臓(フワケ)」と呼ぶべきで系統だったものではないというものである[16]。そして解剖体の「第1号」も「清三郎」という人物だったとする[16]。
同書では、美幾を解剖体第1号とする説は1932年(昭和7年)に刊行された『東京帝國大学五十年史』(以下、『五十年史』)に現れていると記述している[16]。『五十年史』の編纂にあたって、当時の書類を筆写した『解剖日記』が発見され、美幾の解剖に関する事実が再認識された[16]。その結果、『五十年史』では医学校での解剖体第1号として美幾の名を挙げている[16]。
香西はさらに考慮すべき点として、美幾の解剖は「近年にいたるまで、ひとえに賞揚されるものではなかった」とする[16]。『解剖日記』が発見から昭和10年代までの記述では、美幾のことを「近代における解剖の最初の事例」としている[16]。ただし、それらの記述には「篤志」について触れられておらず、明治時代初頭では「有志解剖」について「散発的で特殊な事象」として扱われたという。美幾の件についても、その例外ではなかった[16]。
フィクションにおける美幾
[編集]小説家の渡辺淳一は、1973年(昭和48年)に当時順天堂大学の教授を務めていた小川鼎三から、日本における志願解剖の第1号が吉原の遊女であったという話を聞いた[17]。渡辺は当初、何かの記録違いではないかと思い即座に信用できなかったというが、小川は美幾の名と念速寺の墓地のことまでを渡辺に教えた[17]。それ以来、渡辺は美幾の存在に強い興味を覚えるようになった。渡辺は同年12月に念速寺を訪問した。墓に詣でて住職から美幾についての話を聞き、自らの医学生時代に実習で年若い女性の死体解剖に当たった体験などとと重ね合わせつつイメージを育て上げていった[17][18]。
渡辺は美幾の生涯を題材に、小説『白き旅立ち』を書き上げて小説新潮の1974年3月号から5月号にかけて連載した[19]。この作品中では、宇都宮鉱之進は美幾の馴染み客として描かれた。美幾は宇都宮から解剖についての知識を得て、後に労咳が悪化した後に彼の縁で小石川養生所へ入院し、篤志解剖の申請手続きは円滑に行われたこととされた[4][6]。作中で美幾は養生所で出会った滝川長安という若き医師に密かに想いを寄せ、彼が解剖こそ日本医学の発展に不可欠だと説いているのを聞き、死後に自らの体を提供する約束をした後に生涯を終えている[20]。
『白き旅立ち』について詩人で文芸評論家の郷原宏は「伝記小説の秀作」と評し、美幾のことを「作者のペンによって発見され、発掘されたヒロインである」と記述した[21]。郷原はさらに「篇中至るところに医学と文学の最も理想的な協調を見い出すことができる」と高い評価を与えた[21]。
吉村昭の小説『梅の刺青』は、美幾の腕に刻まれていたという刺青から題を得ている[注釈 7][6][22]。吉村は美幾の解剖に立ち会った医学者石黒忠悳の子孫から当時の日記を見せてもらう機会を得た[22]。石黒の日記中に彼女の腕に梅の小枝を描いた刺青があったとの記載を見つけた吉村は、そのことに衝撃を受けた旨を記述している[6][22]。
この小説は、宇都宮鉱之進が1868年(明治元年)11月に医学所宛てに自身の献体の願い書を提出するところから始まり、最後は解剖された人々の慰霊のため1881年(明治14年)に建立された谷中墓地内にある千人塚の場面で終わる[5]。小説内では、美幾の解剖時に執刀者となった人物を田口和美(たぐち かずよし、後に東京大学医学部解剖学の初代教授となった)、説明者となった人物を桐原真節(きりはら しんせつ、後に東京大学附属病院の初代院長を務めた)としている[23][24][25]。
『梅の刺青』は、あとがきで作者の吉村が述べているとおり、日本での初期解剖の歴史を主題としている[22]。美幾のことについては、東京大学医学部解剖学教室が取り扱った解剖の歴史的事実と捉えて小説化した[5][6]。吉村は美幾のことを、小川の後任に当たる順天堂大学教授酒井シヅから教示されたと小説のあとがきで述べている[5]<[22]。
2004年に公開された塚本晋也の映画『ヴィタール』は、人間の肉体と意識あるいは魂の関連を取り上げた作品である[26][27][28]。映画の主人公で人体解剖に耽溺する記憶喪失の医学生高木(浅野忠信)にはレオナルド・ダ・ヴィンチ、高木の幻想の中に繰り返して現れるヒロイン、涼子(柄本奈美)には美幾のイメージがそれぞれ投影されているという[26]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 文献によっては、「下谷和泉橋通り」とも記述されている。
- ^ 宝暦4年(1754年)閏2月7日に、山脇東洋が京都の刑場で刑死者の解剖を行って以来、解剖には刑死者の遺体が使われていた。
- ^ 小川鼎三は『医学の歴史』178頁で、解剖実施日を「8月14日」と記述している。
- ^ 墓石の原文は、「駒込追分販夫彦四郎女名美幾 患徽症属不治 遂入病院乞治 已而病革 遺言解視其体以阪医理 因鳴之官得充焉 寛死年三十四 乃如其言則於其内景 果有大所発明突是為本邦剖検病屍之始 官乃嘉其志賜資葬之礫川念速寺 為誌以伝焉 明治已已秋八月 医学校教官 同主簿記」と漢文で刻まれている。
- ^ 桂川甫周 (国興)は、『ターヘル・アナトミア』の日本語訳に参加した同名人物の曾孫にあたる。
- ^ 宇都宮によるこの願は現存し、東京大学の解剖学教室に保管されているという。
- ^ 吉村の小説では、彼女の名を「みき」とひらがなで表記している。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 小川、178-180頁。
- ^ a b c d e f “美幾女とは”. 講談社 日本人名大辞典- コトバンク. 2015年5月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 籠谷、88頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l お茶の水女子大学附近の科学史散歩 (PDF) 立花 太郎 2021年8月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g 江戸東京医学史散歩 その16 医学用語を歩く シソーラス研究会ウェブサイト、2013年8月31日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b c d e f g h i j 小野(2008).
- ^ a b c d e 横山、158頁。
- ^ a b c 文京区 区指定文化財 文京区役所ウェブサイト、2013年8月30日閲覧。
- ^ 美幾女墓 文京区指定文化財データベース 文京区役所ウェブサイト、2013年8月30日閲覧。
- ^ 文京区・念速寺 TOKYO TEMPLE GUIDE・東京寺院ガイド、2013年8月30日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 豊田市郷土資料館特別展 舎密(セイミ)から化学技術へ─近代技術を拓いた男・宇都宮三郎─ 豊田市郷土資料館だよりNo.37 (PDF) 平成13年10月10日発行 豊田市郷土資料館ウェブサイト、2013年9月1日閲覧。
- ^ a b 末永、181-182頁。
- ^ “末永 恵子 スエナガ ケイコ (Keiko Suenaga)”. researchmap. 2021年10月2日閲覧。
- ^ “香西 豊子 コウザイ トヨコ (Toyoko Kozai)”. researchmap. 2021年10月2日閲覧。
- ^ 『流通する「人体」―献体・献血・臓器提供の歴史』、pp.31-36.
- ^ a b c d e f g h i j k l 『流通する「人体」―献体・献血・臓器提供の歴史』、pp.31-36.
- ^ a b c 渡辺、271-272頁。
- ^ 渡辺、274-279頁。
- ^ 『渡辺淳一の世界』、246頁。
- ^ 渡辺、391-422頁。
- ^ a b 『渡辺淳一の世界』、116頁。
- ^ a b c d e 吉村, p. 260-261.
- ^ 田口和美とは コトバンク、2013年9月2日閲覧。
- ^ 東大病院だより No.47 (PDF) 2013年9月2日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 吉村, p. 258.
- ^ a b シネマ情報『ヴィタール』ダンス・ライブラリー -観る・読む・学ぶ- Chacott webマガジン DANCE CUBE 2013年8月31日閲覧。[リンク切れ]
- ^ ヴィタール Movie Walker、2013年8月31日閲覧。
- ^ ヴィタール-映画作品紹介- CINEMA TOPICS ONLINE、2013年8月31日閲覧。[リンク切れ]
参考文献
[編集]- 小川鼎三 『医学の歴史』 中央公論社〈中公新書〉、1964年。ISBN 4-12-100039-0
- 籠谷典子編著 『東京ウォーキング No.16 小石川後楽園・植物園コース』 牧野出版、2003年。ISBN 4-8950-0084-2
- 香西豊子 『流通する「人体」―献体・献血・臓器提供の歴史』 勁草書房、2007年。ISBN 978-4-326-10174-0
- 末永恵子 『死体は見世物か 「人体の不思議展」をめぐって』 大月書店、2012年。ISBN 978-4-272-33077-5
- 横山吉男 『江戸・東京名墓碑ウォーク』 東京新聞出版局、2002年。ISBN 4-8083-0774-X
- 吉村昭 (2002). 島抜け. 新潮社〈新潮文庫〉(表題作の他『欠けた椀』、『梅の刺青』を収録). ISBN 978-4-10-111744-7
- 渡辺淳一 『渡辺淳一全集 第2巻 花埋み 白き旅立ち』 角川書店、1996年。ISBN 4-04-573602-6
- 『渡辺淳一の世界』 集英社、1998年。ISBN 4-08-774332-2
- 小野友道「梅のいれずみ : 篤志解剖第一号 遊女美幾 (いれずみ物語 ; 28)」『大塚薬報』第639号、大塚製薬工場、2008年10月、43-46頁、NAID 120002468477。
外部リンク
[編集]- 登録者文集「私と献体」 日本財団図書館(電子図書館) 2013年8月27日閲覧。
- 東京の医跡 諸澄 邦彦(埼玉県立がんセンター放射線技術部) Web医療科学 医療科学社のホームページ、2013年8月31日閲覧。
- 井上芳郎「解剖学と医学:今と昔」『総長室炉辺談話』2002年、hdl:2115/337。