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コレクション
[編集]社会・人文系の資料、神奈川県に関する資料を中心に、特色のあるコレクションが収集されている。女性関係資料は、2015年にかながわ女性センターから移管されており、山川菊栄の旧蔵書や原稿等を集めた山川菊栄文庫、ジェンダーについての資料がある[1][2]。神奈川資料は、神奈川県についての資料が収集されている。江戸時代の和書や開港関係資料、新聞の地域版など貴重な資料がある[3]。そのほか、音楽評論家の野村光一による音楽関係資料からなる野村光一文庫などの特別コレクションもある[4]。
生涯犬を愛し、もる、さぶ、彦七、三匹の雑種を飼った。全て牝犬だったが、「音が可愛いから」という理由で命名した。散歩や餌やりなど、自ら面倒をみた。『埋もれ木』が単行本になった時に献辞を「彦七に」とした[5]。新宿区払方町の家の寝室のクローゼットの上に、彦七の小さな骨壺を大切に置いていた。年齢を理由に、三代目の彦七の死後、犬は飼おうとしなかった[6]。
吉田健一が建てた家に暁子は住み続けた。暁子が高校三年生の時に家の建築が始まった。母の死後、暁子は兄から家を買い取った。[7]
小学校 清泉女学園商学部昭和27年入学、正月には東京に転居 P28 [8] 昭和49年にパリに留学 P37 白百合学園に11年在学、フランス人の先生と週一回フランス語の本を読んで学ぶ P129
概要
[編集]1871年2月25日にロシア帝国ヴォルィーニ県ノヴォフラード=ヴォルィーンシキー町で生まれた。青年時代は西ウクライナのヴォルィーニ地方で過ごした。幼い頃から病弱で、結核を患っていた[9]。学校や大学などへ行けなかったが、人文科学を中心とした家庭教育を受けた。治療のためにしばしば南方のクリミア、グルジア、イタリア、エジプトなどを訪れた。ギリシア語、ラテン語、英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語、ベラルーシ語、ポーランド語、ロシア語など幾つかの外国語を完璧に使いこなし[10]、ハインリヒ・ハイネ、ヴィクトル・ユーゴー、ジョージ・ゴードン・バイロン、アダム・ミツキェヴィチ、ホメーロスなどの作品、1902年にはマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』のウクライナ語訳を完成させた[10]。1890年に妹のために『東洋民族の古代史』という教科書を著した。文学界にデビューしたのは1884年である。リヴィウの雑誌『星』で「鈴蘭」と「サッポー」という二つの詩を発表した。当時から「レーシャ・ウクライーンカ」(ウクライナ人のレーシャ)の筆名も使い始めた。1893年に『歌の翼の上に』[10]、1899年に『思いと夢』、1902年に『反響』などの詩集を出版した。イヴァン・フランコ、ムィハーイロ・フルシェーウシクィイをはじめ、多くのウクライナの知識人と交流を持ち、女性解放運動やウクライナ民族解放運動に関わり、詩人の役目は自民族を目覚めさせることにあると信じた。晩年に詩劇の作家として頭角をあらわし、20以上の作品を書いた。その中には『青い薔薇』(1896年)、『夢中』(1901年)、『秋の昔話』(1905年)、『地下墓地にて』(1905年)、『カッサンドラ』(1907年)、『森林中』(1909年)、『貴族婦人』(1910年)、『地の原にて』(1910年)、『マルティアン弁護士』(1911年)、『岩の主』(1912年)、『狂宴』(1913年)などがある。最高作は、古代ウクライナの多神教の神話などをモチーフに、人界の男性と神界の女性の愛を描いた『森の歌』(1911年)という詩劇である。『森の歌』はバレエやオペラが作られている[9]。文学評論家として「ブコヴィナにおける小ロシア作家」(1900年)[10]、「近代イタリア文学における二つの傾向」、「近代ポーランド文学論」、「近代社会演劇」、「文学における理想郷」などを著した。1913年8月1日、グルジアのスラミ市(現トビリシ)で病死した[10]。キエフのバキコヴェ墓地に葬られた。
服飾・衣装
[編集]ウクライナの民族衣装は、ソロチカ、ヴィシヴァンカなどがある。これらは刺繍が施され、飾りだけではなく、魔よけの意味がある[11][12]。地方ごとに独自の刺繍法があり[13]、約200種類の技法、数千種類のモチーフがあるといわれている[14]。伝統の布として、美しい刺繍のされたルシュニキ(ルシェニク[15]、ルシニーク[13]とも)があり、儀式にも使われる[14]。伝統的な花の冠はヴィノクと呼ばれる[12][16]。
武相荘の歴史は1942年(昭和17年)10月、白洲夫妻が当時の東京府南多摩郡鶴川村(現在の東京都町田市能ヶ谷)に農家を購入した事に始まる[17]。その数年前から白洲夫妻は、戦況の悪化による空襲や食糧難を予測して農地の付いた郊外の家を探しており[18]、当時の使用人の親戚が鶴川村で駐在をしていた縁で購入した。当時の次郎は日本水産・帝国水産統制株式会社(後のニチレイ)役員であったが、職を全て抛ち、退職金を注ぎ込んで購入した。内部は荒れていたため当初は東京市新宿区水道町(現在の東京都新宿区)にあった自宅から通い、ゆっくり修理すればよいと考えていたが、戦況の悪化に伴い1943年5月に正式に転居。自給自足の農民生活を始める。次郎41歳、正子33歳だった。水田と畑があり[18]、以後の次郎は終戦まで専ら農作業に勤しんだ。
- ^ 『神奈川県立図書館 所蔵資料のご紹介』神奈川県立図書館 p.3
- ^ 「山川菊栄文庫のご紹介」『図書館雑誌』vol.109 no.9 2015.9
- ^ 『神奈川県立図書館 所蔵資料のご紹介』神奈川県立図書館 p.4-5
- ^ 『神奈川県立図書館 所蔵資料のご紹介』神奈川県立図書館 p.7
- ^ 『作家の犬』平凡社、2007年、68-71頁。ISBN 9784582634310。
- ^ 「吉田健一の家」『神奈川近代文学館』第156号。
- ^ 『作家の家』平凡社、2010年、8-11頁。ISBN 9784582634549。
- ^ 吉田暁子『父 吉田健一』河出書房新社、2013年。ISBN 978309022505{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- ^ a b 『集英社世界文学事典』集英社,2002 p.201-202
- ^ a b c d e 原田義成「レーシャ・ウクラインカ再読」『スラヴ研究』54,207-224 (2007)https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/38702/1/08_harada.pdf
- ^ 『ポプラディアプラス3 ヨーロッパ州』ポプラ社,2019 p.53
- ^ a b “ウクライナの民族衣装”. NPO法人日本ウクライナ友好協会KRAIANY. 2022年2月27日閲覧。
- ^ a b 『ロシアの染織』学習研究社,1984 p.188
- ^ a b 『東欧で見つけた可愛い刺繍』河出書房新社,2013 p.79-83
- ^ 『朝倉世界地理講座10 東ヨーロッパ・ロシア』朝倉書店,2007 p.386
- ^ “ウクライナの伝統 豪華な花の冠の人気が復活した理由”. 日経ナショナルジオグラフィック. 2022年2月27日閲覧。
- ^ 『随筆家・白洲正子』町田市民文学館ことばらんど編集・発行,2010 pp.8-9
- ^ a b 『るるぶ町田市』JTBパブリッシング ,2008 pp.84-85