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ココ・シャネル Coco Chanel | |
---|---|
Coco Chanel | |
ココ・シャネル(1920年) | |
生誕 |
Gabrielle Bonheur Chanel 1883年8月19日 フランス共和国、オーヴェルニュ地方ソミュール |
死没 |
1971年1月10日(87歳没) フランス、パリ |
墓地 | スイス、ローザンヌ |
国籍 | フランス |
著名な実績 | ファッションデザイン |
受賞 |
ニーマン・マーカス賞 1957年 |
ココ・シャネル(フランス語: Coco Chanel、1883年8月19日 - 1971年1月10日)[1]は、20世紀に活動したフランスのファッションデザイナー。20世紀を代表するファッションデザイナーのひとりで、ファッションブランド「シャネル」の創業者[2]。本名、ガブリエリ・ボヌール・シャネル(Gabrielle Bonheur Chanel)。
生涯
[編集]1883年8月19日にフランス南西部で誕生。幼年期は孤児院で育つ。 1910年に帽子専門店「シャネル・モード」を開業。1921年に香水「No.5」、「No.22」を発表。1957年にニーマン・マーカス賞を受賞。1971年1月10日に死去。享年87歳。
シャネル起業まで
[編集]行商人の父アルベール(Albert Chanel)と母ジャンヌ(Eugénie Jeanne Devolle)の間に、フランス北西部ペイ・ド・ラ・ロワール地方ソミュールの救済病院で生まれる。シャネルが12歳の誕生日を迎える前に母が病死、父には捨てられ、孤児院や修道院で育った。オーヴェルニュ地方のムーランでお針子として18歳で孤児院を出た後、当時つきあいのあった将校たちに連れられ、カフェ・シャンタンで歌手になりたいと夢見るようになる。キャバレーで歌っていた際に「ココ」という愛称がつけられる(後述)。
この頃[いつ?]交際していた将校であるマエティエンヌ・バルサンとともにパリ郊外へ移り、彼の牧場で過ごす。その時に制作していた帽子のデザインがそこで認められ、バルサンの援助により、1909年、パリ17区マルゼルブ大通り160番地で、帽子のアトリエを開業する。
1910年に、パリ1区カンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。1913年にドーヴィルで二号店を開店。翌年に第一次世界大戦が開戦する。 1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。その翌年コレクションを発表し大成功を収める。ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となった[要追加記述]。1918年に第一次世界大戦が終戦した。
シャネルの興亡
[編集]1921年、本店をカンボン通り31番地に拡張。前年に会った調香師エルネスト・ボーによって生み出された、シャネル初の香水「No.5」、「No.22」[3]を発表した。
1924年に第2代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナーと出会い、6年間の交際の間に彼からもらった多くの宝石類から着想を得て模造宝石を使ったジュエリーを発表。同時期、後に「シャネル・スーツ」として発表されるスーツの原型がつくられた。
1939年当時4000人を抱える大企業として成長したシャネルだったが、コレクション前の苛烈な労働条件に、労働者側がストライキを敢行。苦労してその地位を築いたシャネルには労働環境を重視する彼らの考えを受け入れられずに対立し、シャネルは一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。
対独協力と亡命
[編集]第二次世界大戦中の1940年、フランスがナチス・ドイツに占領され、親独のヴィシー政権下となった際、シャネルはドイツの国家保安本部SD局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将と懇意になった[4]上に、同国外交官ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラージ男爵の愛人になることで、様々な恩恵を受けて暮らした。さらに、またドイツの諜報活動機関であるアプヴェーアのコードネームを与えられた工作員でもあった[5][要ページ番号]。
このことから、1944年のシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス軍と連合国軍によるフランス解放後に即座に逮捕された。しかし、戦前から交流のあったイギリス首相のウィンストン・チャーチルの計らいにより釈放され、第二次世界大戦において中立国であったスイスのローザンヌへ脱出し亡命生活を送った。
1939年9月に勃発し1945年8月に終結した第二次世界大戦中と戦後のスイスへの亡命期の15年間、シャネルはフランスのファッション界で沈黙を守りファッションで生計が立てられなくなったが、香水部門は比較的好調であったので、その売上金で隠居生活中も比較的優雅な生活が送ることが出来た。
ファッション界への復帰
[編集]1954年、スイスでの亡命生活を終えパリに戻ったシャネルは、ヴァンドーム広場を望むホテル・リッツに住まいを構え、ファッション界へ復帰を果たした。 翌年にシャネル・スーツ(襟のないジャケットとストレートなスカートの組み合わせ[6]を発表。
死去
[編集]シャネルは1971年、住居としていたパリのホテル・リッツにて、コレクションの準備中に87歳で没した。 シャネルの亡骸は、高級墓地への埋葬を拒否されたこともあり、亡命生活を送っていたローザンヌの墓地「ボア・デュ・ヴォー」(セクション9・No.130)に埋葬された。
作風
[編集]この節は大言壮語的な記述になっています。 |
シャネルは、コルセットが多用されていた1910年代-1920年代の女性服に対して抱いていた「どうして女は窮屈な服装に耐えなければならないのか」という積年の疑問への回答として、愛人であったウェストミンスター公爵の故郷であるイギリスの紳士服の仕立てや素材を女性服に応用し、スポーティでシンプルなデザインの「シャネル・スーツ」を生み出した。
女性の自立を目指し、モデルに当時の女性としては斬新だった、ポケットに手を入れる仕草をして歩かせていた[7][出典無効]。それにより女性服にポケットを作った。
なおシャネルはかなり痩せた体型だった。そのため、モデルとしてシャネルの服を着たシャネルがきっかけで、現在に至るまで「ファッションモデルは痩せている方が美しい」という固定観念が生まれたとされる[誰によって?]。
評価
[編集]フランス解放後に、「対独協力者」、「売国奴」としてフランス中からの非難を浴びた[要出典]。
ファッション界へ復帰した際、当時はシャネルの第二次世界大戦時の言動に対する嫌悪感が根強く残っており、「古臭い」としてヨーロッパではバッシングを受ける[誰によって?]など散々だったが、「売国奴」と蔑まれた[誰によって?]シャネルやドイツへの嫌悪感が大戦後10年近い年月を経て薄まった上に、ウーマンリブ運動によって女性の社会進出がめざましかったアメリカ合衆国では熱狂的に受け入れられた。
1957年にアメリカで「過去50年間でもっとも大きな影響力を与えたファッションデザイナー」としてモード界のオスカーことニーマン・マーカス賞を受賞した。
エピソード
[編集]「ココ」は愛称で、お針子仕事の傍ら、情熱を実行すべく、歌手を志してキャバレーで歌っていた『Ko Ko Ri Ko』(フランス語で「コケコッコウ」 )と、『Qui qu'a vu Coco dans le Trocadero』(トロカデロでココを見たのはだれ)という歌の題名にちなんでつけられたものである。 ヴィシーでオーディションを受けるも、落選ばかりであったために芸能界への道はあきらめた。
バルサンの援助により帽子のアトリエを1909年に開業したのは、友人達の社交場となった彼の牧場で過ごしていたときに退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められたためである。 翌年の1910年にカンボン通りで「シャネル・モード」を開店したときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛する人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際を始める。カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。
劇作家のジャン・コクトー、画家のパブロ・ピカソ、作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーなどが集うサロンを主催するミシア・セールと出会い、ストラヴィンスキーやジャン・コクトー、ロシアのドミトリー・パヴロヴィチ大公などサロンの様々な人物と交際する。
同い年である画家・マリー・ローランサンに肖像画を描いてもらったが、シャネルはそれを気に入らなかったために返却した。この肖像画は現在[いつ?]、パリのオランジュリー美術館に展示されている。
ウェストミンスター公爵と別れた後交際していたポール・イリブは1935年に急死した。
1930年代初頭に100万ドルの契約金でハリウッドに招かれて、シャネルの大ファンであった グロリア・スワンソンの映画の衣装制作に携わったが、スクリーン上では地味で見映えの悪いシャネルの衣装は不評で、また彼女自身も他人に命令されることが大嫌いなワンマン体質であった為、僅か二作を手掛けただけでフランスに帰国した。
シャネルは晩年をスイス・ヴォー州のローザンヌで過ごした[8]。レマン湖畔に佇むホテル、ボーリヴァージュ・パレスは、シャネルがローザンヌでの住まいとしたお気に入りのホテルであった。
晩年のシャネルは孤独による不安や恐怖などの症状と不眠症に悩まされ、1日1本のモルヒネ注射が欠かせなくなっていた。
シャネルの遺言により、墓石の周りには白い花が咲き乱れている。
伝記・評伝
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- マルセル・ヘードリッヒ 『ココ・シャネルの秘密』 (山中啓子訳、ハヤカワ文庫で再刊、1995年)
- シャルル・ルー 『ココ・アヴァン・シャネル』 (榊原晃三訳、ハヤカワ文庫NF 上・下、2009年8月)
- エドモンド・シャルル・ルー 『シャネルの生涯とその時代』 (秦早穂子訳、鎌倉書房、1990年)
- ポール・モラン 『シャネル 人生を語る』 (山田登世子訳、中公文庫、2007年)
- ポール・モラン 『獅子座の女シャネル』 (秦早穂子訳、文化出版局)
- ティラー・マッツエオ『シャネルN°5の秘密』(大間知知子、原書房 2011年)
- ハル・ヴォーン『誰も知らなかったココ・シャネル』(赤根洋子、文藝春秋 2012年)
- エリザベート・ヴァイスマン 『ココ・シャネル 時代に挑戦した炎の女』 (深味純子訳、阪急コミュニケーションズ、2009年9月)
- ジャネット・ウォラク 『シャネル・スタイルと人生』 (中野香織訳、文化出版局 2002年)
- クロード・ドレ 『ココ・シャネル』 (上田美樹訳、サンリオ出版)
- リサ・チェイニー『シャネル、革命の秘密』(中野香織監訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン 2014年3月)
- 山田登世子 『シャネル-最強ブランドの秘密』 (朝日新書、2008年)
- 山口昌子 『シャネルの真実』 (人文書院、新潮文庫で2008年4月に再刊)
- 藤本ひとみ 『シャネル』 (講談社、講談社文庫で2008年12月に再刊)
- 海野弘 『ココ・シャネルの星座』 (中央公論社、中公文庫で再刊)
- 秦早穂子 『シャネル20世紀のスタイル』 (文化出版局)
- 安達正勝 『二十世紀を変えた女たち―キュリー夫人、シャネル、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユ』 (白水社)
漫画
[編集]映画
[編集]- 『ココ・シャネル』(1981年、イギリス・フランス) - 監督:ジョージ・カッツェンダー、出演:マリー・フランス・ピジェ
- 『ココ・シャネル』 (2008年、アメリカ) - 出演:シャーリー・マクレーン
- 『ココ・アヴァン・シャネル』 (2009年、フランス) - 監督:アンヌ・フォンテーヌ、出演:オドレイ・トトゥ
- 『シャネル&ストラヴィンスキー』(2009年、フランス) - 監督:ヤン・クーネン、主演:アンナ・ムグラリス
演劇
[編集]- ブロードウェイミュージカル『COCO』(1969年、アメリカ) - アラン・ジェイ・ラーナー作詞、アンドレ・プレヴィン音楽、主演:キャサリン・ヘプバーン
- ミュージカル『ガブリエル・シャネル』(2009年、日本) - 脚本・作詞:齋藤雅文、演出:宮田慶子、美術:妹尾河童、主演:大地真央
出典
[編集]- ^ “Inside CHANEL - Timeline”. シャネル. 2017年6月18日閲覧。
- ^ “ココ シャネルとは - コトバンク”. コトバンク. 2017年6月18日閲覧。
- ^ Burr, Chandler. “For old-line Chanel, audacious new edge - A 10-fragrance set rocks the boat of the upscale perfumer's exclusive tradition,” The Orlando Sentinel, March 23, 2007 Clara D. Lepore
- ^ アンナ・マリア・ジークムント 著、西上潔 訳『ナチスの女たち 第三帝国への飛翔』東洋書林、2009年、99頁。ISBN 4887217625。
- ^ ハル・ヴォーン 著、赤根洋子 訳『誰も知らなかったココ・シャネル』文藝春秋、2012年。ISBN 4163755101。
- ^ “シャネル・スーツ(シャネル・スーツ)とは - コトバンク”. コトバンク. 2017年6月18日閲覧。
- ^ 『クイズダービー』第686回(1989年4月22日放送分)の3問目より
- ^ “レマン湖地方(ヴォー地方)”. スイス政府観光局. 2017年6月18日閲覧。