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利用者:Yama-no-junin/手取川大洪水

手取川大洪水(てどりがわ だいこうずい)とは、石川県手取川で起こった以下の大洪水のことをいうが、

  1. 1896年(明治29年)に起こったもの。
  2. 1934年(昭和9年)7月11日に起こったもの。『手取川大水害』ともいう。

ここでは2について詳説する。

洪水前史

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白山を源とし日本海に注ぐ手取川は、古来何度も氾濫を繰り返し現在の金沢平野を形成してきたのだが、それ故に地域住民から『暴れ川』と呼ばれ恐れられてもいた。江戸時代加賀藩は洪水のたびに人力による川底の浚渫(しゅんせつ)や水没した水田の復旧に力を注いできたが、当時白山麓は幕府直轄領だったため、手取川をさかのぼって崩壊現場を救うまでには至らなかった。

明治の世になって、石川県では1881年(明治14年)の洪水を機に治水対策の議論が本格化し、1885年(明治18年)より県費を投入して堤防の建設などを進めてきたが、それでも洪水は収まることなく、中でも1896年の洪水は死者24人、損害家屋9500戸、2万3000町歩の土地が被害を受けるなど未曾有の水害となった。 こうした中、1910年(明治43年)に当時の石川県知事李家隆介が柳谷の荒廃状況を視察、砂防の必要性を痛感し内務省に奏上した結果、1912年(明治45年)、柳谷が内務省告示により砂防指定地の指定を受け、ここに白山砂防は国家的プロジェクトとして動き出すことになったのである。

1912年(大正元年)、牛首川上流の甚之助谷(じんのすけだに)および柳谷(やなだに)への山腹工が始まり、白山砂防は本格的にスタートする。しかし、1920年に起こった集中豪雨のため、それまでの工事現場はほとんどは破壊されてしまった。県は総工費250万円・25カ年継続工事とし、甚之助谷(特に上流部)・柳谷における築堤を開始。荒廃の著しい甚之助谷には特に大きい(高さ17メートル)甚之助谷5号堰堤を5カ年の継続事業として築造した。これらの堰堤は、『階段式堰堤群』と呼ばれる、川の流れに沿って小さな(8m程度)堰堤を階段状に連ねて築造された[1]セメント骨材などの資材運搬は、1925年に金沢―白峰間の道路改良工事が完成するまでは、歩荷たちの肩に頼らなければならなかったため、工事の進行は困難を極めた。

1927年(昭和2年)、13カ年の継続事業として工事費251万円で国による直轄工事が開始された。しかし、流域の住民は「250万円の大金を山奥の砂防に投ずるより、むしろ白峰村に至る道路の改修工事に使用した方がはるかに有利だ」などとささやく者も多く、砂防に対する関心ははなはだ低かった。こうした中、1934年の大水害を迎えるのである。

洪水時の様子

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この年、白山麓は大雪に見舞われ、梅雨期になるまで低温が続いたため、大量の雪が山に残っていた。さらに活発な梅雨前線の活動により7月10日から11日にかけて記録的な大雨(白峰・女原で460mm余り)が降り、大量の雪解け水が発生した。7月11日未明、その水が一気に山を下り始めたのである。

別当谷では大規模な土砂崩れが発生[2]土石流となってふもとの集落を襲った。白峰村市ノ瀬(いちのせ)は温泉地でたくさんの湯治客で賑わっていたが、この土石流に温泉街もろとも呑み込まれ集落は消滅、住民・湯治客合わせて 名が死亡した。宮谷で発生した土石流は、地元民が『百万貫』と呼んでいた巨岩を牛首川まで押し流した。出作り集落の赤岩・河内谷(こうちだに)でも小学校の巡回授業所が流出、尾口村へ降りる道路も寸断されて白峰は一時孤立地となってしまった。幸いにも洪水から3日後、福井県勝山市より援助物資が届けられ、住民は命をつなぐことが出来た。

尾口村深瀬もこの濁流により全滅状態となった。当時金沢市へ電力を供給していた吉野第1・第2および福岡第2発電所は流出、レンガ造りの福岡第1発電所[3]は流出を免れたが建物の3分の2近くまで水に浸かった。

土石流の勢いは山麓を抜けても収まらず、堤防を次々破壊しては流域の集落を襲った。鶴来町では天狗橋の3分の1が流され、川北村橘では逃げ遅れた住民が次々と洪水の餌食となり中には日本海まで流された者も少なくなかった。

救援活動

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洪水後

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被災住民は

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白山砂防は

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このような未曾有の大災害を出したにもかかわらず、砂防えん堤が完成していた甚之助谷と柳谷は崩壊を完全に免れた。これにより流域住民もようやく砂防の重要性を理解し、以後工事は急ピッチで進められていくこととなった。 また、砂防最後の砦として1979年、当時日本海側最大規模を誇った手取川ダムが完成した。

余談

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  • 『冬の豪雪』『梅雨時の大雨』と1934年とほぼ同じ状況となった2006年、7月16日に白山市白峰の蛇谷で土石流が発生したが、作業用の鉄橋が流された程度で収まった。
  • 当時被害を被った能美市徳久町の菓子店「たなか」はこの水害を記念し『昭和九年』という名前のもなか菓子を製作販売している。

補足

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  1. ^ 当時内務省新潟土木出張所白山砂防工場所長だった赤木正雄の考案による。固い岩盤がなく高い堰堤を作れないこの地にふさわしい優れた工法で、のちに設置された堰堤もほとんどがこの工法で作られた。
  2. ^ その跡地は後に“別当くずれ”と呼ばれ、現在でも毎日少量の崩落が見られるため、国土交通省による監視活動が続けられている。
  3. ^ 現:北陸電力福岡第1発電所。その跡が現在でも壁に残っている。


参考文献

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  • 白峰村教育委員会編『聞き書き抄 はくさんおんせん 昭和9年手取川大水害』
  • 橋本澄夫・東四柳史明・高澤裕一・奥田晴樹・橋本哲哉編『ふるさと石川歴史館』2002年・北國新聞社刊
  • 橋本哲哉・本康宏史監修『北國新聞に見るふるさと110年』2003年・北國新聞社刊

外部リンク

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北陸の土木建築遺産/甚之助谷砂防堰堤群