前原遺跡
別名 | 小金井市No.12遺跡 |
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所在地 | 東京都小金井市前原町・中町 |
座標 | 北緯35度41分37.4秒 東経139度30分26.1秒 / 北緯35.693722度 東経139.507250度座標: 北緯35度41分37.4秒 東経139度30分26.1秒 / 北緯35.693722度 東経139.507250度 |
標高 | 50–52 m (164–171 ft) |
種類 | 遺跡(集落跡) |
歴史 | |
時代 | 後期旧石器時代・縄文時代・近世(江戸時代) |
前原遺跡(まえはらいせき)は、東京都小金井市前原町一・二丁目および中町四丁目にある後期旧石器時代、縄文時代、近世にかけての複合遺跡である[1][2][3]。
遺跡の概要
[編集]後期旧石器時代~縄文時代、近世の集落遺跡である。野川の河川改修により発掘調査が行われた。後期旧石器時代は前半期~終末期の計6層の文化層が検出されている。縄文時代は中期~後期の集落跡である。近世は土壙墓1基が検出されている。
武蔵野台地の南端、国分寺崖線の南側、立川面に位置する。本来は野川の右岸に立地していたが、河川改修の結果、現在では遺跡範囲の北側部分を野川が横断する形となっている。立川ローム層Ⅹ層の下位まで確認され、以下シルト・砂層~礫層に移行し、立川1面に相当する。遺跡の標高は50~52メートルである。
近隣には、同じ野川右岸、立川面の遺跡として西側に貫井南遺跡、東側に七軒家遺跡があり、対岸の野川左岸にはやや東寄りに新橋遺跡、さらに東側に野川中洲北遺跡がある。国分寺崖線上の武蔵野面には中山谷遺跡、西側に西之台遺跡があり、野川流域遺跡群を構成する。
調査の歴史
[編集]1975年(昭和50年)に野川改修工事に伴い発掘調査が行なわれ、後期旧石器時代の6層の文化層と縄文時代中期~後期の竪穴建物跡10棟、近世の土壙墓などが検出された[1][2][3][4]。
主な遺構
[編集]主な出土品
[編集]- ナイフ形石器
- 石槍(槍先形尖頭器)
- スクレイパー
- 有舌尖頭器
- 石鏃
- 打製石斧
- 石匙
- スタンプ形石器
- 石皿
- 縄文土器 - 隆起線文土器、条痕文土器、花積下層式、関山式、諸磯式、十三菩提式、五領ヶ台式、勝坂式、阿玉台式、加曾利E式、曽利式、称名寺式、堀之内式
- 土器片錘
- 土製円盤
- 垂玉
遺跡の変遷
[編集]後期旧石器時代
[編集]前半期
[編集]後半期
[編集]- Ⅳ下層:石器285点が5カ所の集中部から出土した。内訳はナイフ形石器11点、台形様石器1点、角錐状石器1点、スクレイパー7点、彫器1点、使用痕剥片1点、石核17点、剥片243点、石核再生剥片2点、ハンマー1点。黒曜石製のものがもっとも多く、次いで砂岩、珪質粘板岩なども利用している。礫群13基を伴う[1][4]。
- Ⅳ中2層:石器705点が9カ所の集中部から出土した。内訳はナイフ形石器44点、台形様石器11点、角錐状石器6点、スクレイパー9点、彫器1点、ドリル1点、使用痕剥片19点、石核36点、剥片577点、礫器1点。黒曜石製のものがもっとも多く、次いでチャート、砂岩なども利用している。礫群13基を伴い、とくに3号礫群は直径8mの範囲から2544点(計399kg)の礫が出土した。日本列島の後期旧石器時代において最大級の礫群である[1][4]。
- Ⅳ中1層:石器209点が13カ所の集中部から出土した。内訳はナイフ形石器41点、スクレイパー3点、彫器6点、使用痕剥片13点、石核17点、剥片210点(石刃多数を含む)、石核再生剥片1点、礫器7点、磨石1点。大半が凝灰岩製で、他にチャート、珪質粘板岩なども利用している。礫群11基を伴う[1][4]。ナイフ形石器は二側縁加工のものが卓越し、先断形が伴う。いわゆる「砂川型式期」[5]に該当する。
- Ⅳ上層:石器145点が2カ所の集中部から出土した。内訳はナイフ形石器7点、台形様石器1点、石槍4点、スクレイパー6点、彫器5点、使用痕剥片5点、石核4点、剥片114点、礫器1点。大半が黒曜石製である。礫群2基、配石1基を伴う[1][4]。
終末期
[編集]- Ⅲ層:石器69点が2カ所の集中部から出土した。内訳は石槍4点、スクレイパー3点、彫器1点、石核1点、剥片57点、礫器3点。砂岩製、次いで粘板岩製のものが多い。石槍は大型の両面加工である。礫群1基、配石3基を伴う[1][4]。
縄文時代
[編集]草創期
[編集]隆起線文土器、有舌尖頭器が出土している。遺構は検出されていない[2][4]。
早期
[編集]早期後半の貝殻条痕文系土器が出土している。スタンプ形石器が伴うものと考えられる。遺構は検出されていない[2][4]。
前期
[編集]花積下層式、関山式、諸磯a~c式、十三菩提土器が出土している。遺構は検出されていない[2][4]。
中期
[編集]勝坂2式期の竪穴建物跡6棟、土坑3基、加曾利E1式期の竪穴建物跡1棟が検出されている[2][4]。
後期
[編集]称名寺式期の柄鏡形建物跡1棟、土坑2基、堀之内1式期の竪穴建物跡2棟が検出されている[2][4]。
近世
[編集]土壙墓1基が検出されており、熟年男性1体の人骨と寛永通宝、数珠が出土している[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小金井市史編さん委員会『小金井市史 資料編 考古・中世』小金井市、東京、2019年3月 。
- 小金井市史編さん委員会『小金井市史 通史編』小金井市、東京、2019年3月 。
- 田中英司「砂川型式期石器群の研究」『考古学雑誌』第69巻第4号、日本考古学会、東京、1984年、1-33頁。
発掘調査報告書
[編集]- 国際基督教大学考古学研究センター『前原遺跡』 3巻〈Occasional Papers〉、1976年(原著1976年)。 NCID BA74855905 。