前田駒次
前田 駒次 まえだ こまじ | |
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生年月日 | 1858年2月27日 |
出生地 | 土佐国長岡郡下関村 |
没年月日 | 1945年2月20日(86歳没) |
死没地 | 北海道北見市 |
北海道会議員 | |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 1907年8月10日 - 1932年8月9日 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1916年 - 1920年 |
北海道会議長 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1928年8月10日 - 1932年8月9日 |
前田 駒次(まえだ こまじ、安政5年(1858年)1月14日 - 昭和20年(1945年)2月20日)は、日本の政治家。北海道開拓者として渡道し、北海道会議員(第3期 - 第9期)および議長(第9期)、初代野付牛町長をつとめた。開拓者・政治家として同地域の発展に貢献したことから、「北見開拓の父」とも呼ばれる[1]。
生涯
[編集]安政5年(1858年)1月14日[1][2][3](1月10日とも[4])、土佐国長岡郡下関村で、父・志和敬七、母・くすの3男として誕生する。明治13年(1880年)、武市安哉・坂本直寛・片岡健吉らとともに自由民権運動に参入する。地域の支援を受け、本山村外11ヶ村の学務委員および自治区造成委員を務める。明治21年(1888年)に、本山村・前田儀太郎の長女である寒と結婚し、婿養子となる[3]。
1892年(明治25年)、武市に声をかけられたことを契機として、北海道樺戸郡浦臼の聖園農場開拓に参加する。同地において、前田は北見地域でははじめてとなる稲作に取り組み、結実に成功させている[3]。その後、明治28年(1895年)ごろ、沢本楠弥に請われ、常呂郡クンネップ原野の北光社農場設立に参与する[5][6]。1904年(明治37年)には、北光社の支配人となる。前田は、農場用地の売却をおこなった。また、所定期間内に開墾を終えた入植者に、土地の半分を無償で贈与する施策を実行したほか、開拓困難な低湿地帯を政府に返還した。これらの施策により、当時不安定であった北光社の経営はある程度安定した[7]。1914年(大正3年)には北光社農場は札幌の資産家である黒田四郎に移譲され、北光社は活動を終了した[8][9]。
1907年(明治40年)、網走支庁より立候補し、第3期北海道会議員に当選する[8][10]。その後、1932年(昭和7年)の9期議会まで、以来7期におよぶ議員生活を送る[10]。9期議会においては、議長も務めた[2][11]。また、道議会議員と兼職で、1916年(大正5年)から1920年(大正9年)9月までの5年間、初代野付牛町長をつとめた[12][2]。 1945年(昭和20年)2月20日、北見市の自邸で逝去した[2]。
出典
[編集]- ^ a b 20世紀日本人名事典『前田駒次』 - コトバンク
- ^ a b c d 北海道総務部文書課 編『開拓につくした人びと 第3巻 (ひらけゆく大地 上)』理論社、1966年、191-209頁。doi:10.11501/2990755。
- ^ a b c 『北見市史 上巻』北見市、1981年、911-921頁。doi:10.11501/9570575。
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『前田駒次』 - コトバンク
- ^ 白井 2010, p. 272.
- ^ 白井暢明『北海道開拓者精神とキリスト教』北海道大学出版会、2010年、272頁。ISBN 978-4832967335。
- ^ 北見市 1981, pp. 898–905.
- ^ a b 北見市 1981, pp. 908–909.
- ^ 「北光社農場」『北海道の地名』平凡社〈日本歴史地名大系〉、2003年。
- ^ a b 北海道議会事務局 編『道会70年小史』北海道議会、1971年、134-142頁。
- ^ 北海道議会事務局 1971, p. 48.
- ^ 北見市 1983, p. 417.