劉季述
劉 季述(りゅう きじゅつ、? - 901年)は、唐の昭宗時期の宦官。左神策軍護軍中尉劉行深の養子であり、後に、父に代わって左神策軍護軍中尉となった。
生涯
[編集]劉季述は、もとは地位が低く権力も弱かったが、僖宗・昭宗の在位中に、やや声望と権力を高め、枢密使に抜擢されるようになった[1]。楊復恭が排斥された後,昭宗は、西門重遂[注釈 1]を右神策軍中尉、観軍容使に任じた[2][3]。李茂貞が興元府を得て跋扈し、朝廷に従わなくなると、宰相杜譲能は、内枢密使周𧬤及び西門重遂とともに李茂貞を誅殺しようとして軍を起こし、嗣覃王戒丕[注釈 2]を京西招討使として、神策大将軍李鐬をその副使とした[4]。李茂貞が兵を率いて盩厔に臨み、興平に迫ったところ、官軍は、壊滅した[5]。ついに川辺の高地に陣を張って杜譲能らの罪を暴くと、京師は震撼し、昭宗は安福門を守りつつ、西門重遂と周𧬤を斬殺して李茂貞に謝罪するとともに、代わりに駱全瓘と劉景宣を護軍中尉に任じた[6]。
乾寧2年(895年)、李茂貞が王行瑜・韓建とともに兵を率いて入朝すると、李克用は、李茂貞を討伐するために渭水の北に駐屯した[7]。同州節度使王行実は、京師を出奔する際、劉景宣に対し、「沙陀(李克用)の軍は、十万に至った。天子を奉じて危難を避けなさい」と言った[8]。劉景宣は、李茂貞が関係が良好であったため、駱全瓘と鳳翔衛将閻珪[注釈 3]は、ともに昭宗を脅して岐に狩へ向かわせ、王行実と劉景宣の子の劉継晟は、放火して東市を略奪したところ、昭宗は、承天門に登ったが、おびただしい数の矢が楼を飛び交っていた[9]。昭宗は恐れ、暮れに莎城を出て、官民数十万人が従った[10]。谷口に至り、暑さで死ぬ者は13人に及び、夜は盗賊が表れ、鳴き声が山を震わせた[11]。その後、石門へと移動した[12]。李茂貞は、後難を恐れ、駱全瓘・劉景宣・閻珪を殺害して、昭宗を解放した[13]。昭宗は、京師へ帰還し、駱全瓘と劉景宣の後任の護軍中尉として、景務脩と宋道弼を立てたが、かれらは、すぐさま国政を専断した[14]。宰相崔胤は、これを憎んだが、徐彦若・王摶は、禍を恐れ、北軍をもって崔胤を抑えようとした[15]。崔胤はこれに怒り、王摶一派の宦官が不忠であり罷免すべきであるとし、まもなく賜死とした、すなわち、景務脩と宋道弼は流罪とされたが灞橋で死亡し、徐彦若は南海に放逐された[16]。その後、劉季述と王仲先が左右護軍中尉に任ぜられたが、かれらもまた崔胤を苦しめることとなった[17]。
光化3年(900年)11月[18][19]、昭宗が酒に溺れて左右の者を叱責することがあり、劉季述は、いよいよ自分たちの身に危険が迫っていると感じていた[20]。まず、王子が病に倒れた際、劉季述は医師の車譲・謝筠を宮中に引き入れたが、しばらく経っても出てこなかったため、劉季述は、宮中はみだりに人が所在する場所ではないと昭宗に告げた。[21]。しかし、昭宗はこれを聞き入れなかった[22]。そこで、劉季述は、昭宗が陰謀をめぐらせているのではないかと疑い、朱全忠と兄弟となることを約して、従子の劉希正[注釈 4]を派遣して、汴州邸吏の程岩に、昭宗を廃位することを謀議させた[23]。朱全忠が天平軍節度使の副使李振を京師に派遣したところ、程岩は、「昭宗が緊急事態であり、内外に恐怖が広がっていることから、左軍中尉(劉季述)は皇帝の廃立を欲している。どう思うか」と尋ねた[24]。李振が「百歳の家奴は三歳の主のために専念するのが常である。乱国は不義、廃君は不祥であるという話は、私は全く聞かない」と答えたところ、劉希正は大いに涙した[25]。昭宗が夜中に猟苑で侍女3人を酔って殺したことがあり、翌日には明らかとなったが、宮中の門が開かなかった[26]。劉季述は、崔胤と面会し、「宮中の状況は予測不可能である」と述べた[27]。そこで、劉季述と王仲先は、王彦範・薛斉偓・李師虔・徐彦回に衛士千人を率いさせ、宮中の門を破壊して侵入し、陰謀を実行に移したが、未だ、結果が定まらなかった[28]。この夜、宮監がひそかに太子李裕を連れ去って、劉季述らは、何皇后に強いて「車譲、謝筠は帝(昭宗)に殺人を勧め、災難を塞いで、皆大いに不道である。観軍容使は両名ともこれを知り、今、皇太子(李裕)を即位させて、社稷の主とすべきである」と言わしめた[29]。夜明けには、兵を宮廷に引き入れて並べ、崔胤に対し、「帝がしたことはかくのごとくであり、社稷の主にあらず、今、まさに太子を群臣にまみえさせるべきである」と述べた[30]。そこで、百官を召し出して上奏文に署名させようとしたところ、崔胤は反対することができなかった[31]。劉季述が太子李裕を護衛して紫廷院に至ると、左右軍と十の道の邸吏である兪潭や程岩らが思玄門に参じて上奏し、兵士は皆万歳の声を上げた[32]。思政殿に入ると、出会った者は殺された[33]。昭宗が乞巧楼に登るや、兵が入るのを目にし、驚愕して逃げ出そうとしたため、劉季述と王仲先は、杖で地面をなぞって昭宗を詰問して「某日某事にお前は私の言うことを聞かなかった、これが一つ目の罪である」などということを数十にのぼるまで続け、未だ止むことがなかった[34]。何皇后が出てくると、拝して、「帝を守り、怖がらせてはいけません。もし罪があれば、観軍容使において議するのみでよいではないですか」と言った[35]。劉季述が出てくると、百官は上奏して、「陛下は乱心しており、勤めに倦んでおられます。願わくは、太子を監国に封じ、陛下には東宮にて静養していただきたいのです」と述べた[36]。昭宗は、「昨日、汝らと飲酒したことは極めて楽しかった。なぜここに居るのか」と言った[37]。後に、「陛下は観軍容使が述べたとおりだ」と言われた[38]。宮監は昭宗を腕に抱えて思政殿を出たため、後に、「観軍容使は、一心に陛下を輔持しようとしており、陛下には静養していただく必要がある」との提案があった[39]。昭宗は、また、「朕は病を得て久しい。太子を監国とする」とも述べた[40]。程岩らは、皆万歳の声を上げた[41]。その後、伝国の宝を劉季述に授けると、昭宗の車は、左右の十余人とともに、少陽院に入り、軟禁された[42]。劉季述は、金を溶かして錠を塞ぎ、李師虔が兵を率いて監視した[43]。太子李裕は武徳殿で即位し、昭宗は太上皇と号し、何皇后は太上皇后とされ、天下に大赦が行われ、東宮官属は三品が爵一級を賜り、四品以下は一階を賜るなどし、群臣は爵位が加増され、秩禄が厚くなり、媚びることを欲して上下に付き従った[44]。東宮は、問安宮と改称された[45]。劉季述らは、皆、まず粛清に着手して威を示すこととし、夜な夜な笞打ち、死体が搬出されること車十両に及び、およそ昭宗の寵愛を受けた者はことごとく殺害された[46]。昭宗の弟である睦王李倚もまた殺害された[47]。李師虔はもっとも苛烈であり、左右の者が出入りして捜索し、昭宗の動静を劉季述に伝えた[48]。昭宗は、日中着た衣服を夜間に洗い、食事は穴から差し入れられたものを摂るという状況であり、筆・紙・銅・鉄に至るまで、詔書や兵器を作成するものと疑われる物品は、全て与えられなかった[49]。寒い日にあっても、公主や后妃に布団は支給されず、その切ない話は朝廷の外まで漏れ聞こえてきたという[50]。
崔胤は、この難を朱全忠に伝え、兵をもって君側の奸を除こうと考えたが、朱全忠は、崔胤の手紙に封をして、劉季述に与え、「崔胤には二心があるから、追及すべきである」と述べた[51]。劉季述が崔胤を詰問したところ、崔胤は、「人を欺く偽の手紙は、古来より存在するものであり、必ずこの罪によって一族が罰せられることとなるであろう」と述べた[52]。これによって劉季述は考えを改め、崔胤と盟約を結んだ[53]。崔胤は、朱全忠に謝罪し、「左軍(劉季述)との盟約は、互いに害さないというものであり、私の心は依然として公(朱全忠)に対して帰服しているため、二人の侍女をお送りいたします」と述べた[54]。朱全忠は、手紙を読んで憤り、「劉季述は私を裏表のある人間に仕立て上げようとしているのか」と述べた[55]。これより、距離を置くことが始まったのであった[56]。劉季述の子である劉希度は、汴州に至り、皇帝廃立の計画を伝え、また、李奉本を派遣して、太上皇昭宗の誥諭をもたらして示したところ、朱全忠は疑いを生じ、決断することができなかった[57]。その際、李振は、「(斉の桓公の死後、公子無詭を擁立した)宦官の豎刁の乱[58][59][60]や、(宋の平公に讒言して太子痤を廃した)宦官の恵墻伊戻の乱[61]は、覇者となろうとする者にとって好機でした。今、閹奴(宦官[62])が天子を軟禁しているというのに、公(朱全忠)がこれを討たないというのでは、どのようにして諸侯に号令をかけることができるのでしょうか」と述べた[63]。そこで、朱全忠は、劉希度と李奉本を捕らえ、李振を京師に派遣して崔胤と謀議をさせた[64]。この時、劉季述は、百官をことごとく誅殺し、昭宗を弑し、太子を擁して天下に号しようと考えていた[65]。京師の将の孫徳昭・董従実が金五千緡を盗んだところ、王仲先らは、これを侮辱し、その賠償を監督し、これに連なるものは甚だ多かった[66]。崔胤はその失敗を逆手に取り、「両中尉(劉季述と王仲先)を殺し、太上皇(昭宗)を迎え、大功を立てることができれば、小さな罪などどうして恥じる必要があろうか」と述べた[67]。また、孫徳昭に使者を派遣して、衣服の帯に忍ばせた秘密の手紙を渡して意を通じた[68]。孫徳昭は周承誨を誘い、12月の大晦日を期して、兵士を安福門に埋伏させて、夜明けを待った[69]。天復元年(901年)正月、王仲先が輿に乗って朝廷に参内すると、孫徳昭らはこれを襲撃し、東宮の門外で斬殺した後、少陽院の門を叩き、「逆賊を斬りました」と述べた[70]。しかし、昭宗はこれを信用しなかったので、何皇后は、「逆賊の首を献上すべし」と述べた[71]。孫徳昭が王仲先の首を放り投げて進むと、宮人が扉を壊したので、昭宗が長楽門から出ると、群臣がこれを祝賀した[72]。周承誨が左軍に入り、劉季述と王彦範を捕らえて楼前に至ると、崔胤は、京兆尹鄭元規に命じて数万人を集めて大きな木棍を持たせ、昭宗が劉季述を詰問したところ止むことはなく、木棍を持った者たちが進み出て、劉季述と王彦範は木棍で殴られて死んだ[73]。左右両軍の死者は数十人にのぼった[74]。中官(宦官)は太子を奉じて左軍に隠れ、伝国の璽を手中に収めた[75]。薛斉偓は、井戸に身を投げて死亡したが、その遺体は搬出されて斬られた[76]。朱全忠は程岩を檻に入れて京師に送り、市において斬首した[77]。劉季述らは、三族が誅殺された[78]。孫徳昭は、検校太保・静海軍節度使に任ぜられ、董従実は、検校司徒・容管節度使・同中書門下平章事に任ぜられ、両名とも国姓の「李」を賜姓され、孫徳昭は李継昭と、董従実は李彦弼と称した[79]。周承誨もまた、検校司徒・邕管節度使に任じられ、宰相の秩を与えられた[80]。これら3人は、皆、「扶傾済難忠烈功臣」と号し、凌煙閣には肖像画が掲げられ、宿衛に留めること10日にして辞去し、珍しい宝物はことごとく賜与された[81]。当時、これら3人は「三使相」と号し、人臣にしてこれに比すものはなかった[82]。
初め、延英殿[注釈 5]において宰相が上奏し、皇帝がこれを決裁し、枢密使が侍立して関与することができ、あるいは皇帝の命令を改変することなどがしばしばあった[83]。ここに至り、大中年間の故事(牛李の党争)のように詔書を発し、延英殿で上奏させ、左右護軍中尉を降格させ、枢密使を殿西に侍立させて勅命を待たせ、上奏された事項は全て宰相を経由させることとした[84]。李師虔は、屏風の後ろで宰相が上奏するのを記録させようとしたが、昭宗は、越権行為であるとしてこれを許さず、李師虔と徐彦回をともに誅殺した[85]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ Wikipedia中国語版では、西門君遂とされている。
- ^ 『資治通鑑』巻259「唐紀七十五」によれば、「八月,以嗣覃王嗣周為京西招討使,神策大將軍李鐬副之。……九月,……乙亥,覃王嗣周帥禁軍三萬送鳳翔節度使徐彦若赴鎮,軍於興平。」とされる。なお、Wikipedia中国語版の李嗣周、李玢及び李茂貞によれば、嗣覃王は李嗣周であるとされる。また、Wikipedia中国語版の李嗣周及び李玢によれば、李戒丕は嗣延王であるとされる。
- ^ 『資治通鑑』巻260「唐紀七十六」によれば、「右軍指揮使李継鵬,茂貞假子也,本姓名閻珪,與駱全瓘謀劫上幸鳳翔。中尉劉景宣與王行實知之,欲劫上幸邠州。」とされる。
- ^ 『旧五代史』巻18梁書十八列伝八「李振伝」では、「劉中尉命其侄希貞來計大事,欲上謁,願許之。」としている。
- ^ 延英殿における聴政については、松本保宣 (2020年). “五代後唐期の中興殿と延英殿:五代聴政制度初探”. 2022年6月26日閲覧。を参照。
出典
[編集]- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:劉季述者,本微單,稍顯於僖、昭間,擢累樞密使。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:楊復恭之斥,帝以西門重遂為右神策軍中尉、觀軍容使。
- ^ 『旧唐書』巻184列伝第一百三十四「楊復恭伝」:復恭之後,宦者西門重遂為右軍中尉。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:時李茂貞得興元,愈跋扈不軌,宰相杜讓能與內樞密使李周𧬤及重遂謀誅之,乃興師,以嗣覃王戒丕為京西招討使,神策大將軍李鐬副之。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:茂貞引兵迎壁盩厔,薄興平,王師潰。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:遂逼臨臯以陣,暴言讓能等罪,京師震恐,帝坐安福門,斬重遂、周𧬤以謝茂貞,更以駱全瓘、劉景宣代為兩中尉。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:乾寧二年,茂貞與王行瑜、韓建以兵入朝,李克用率師討茂貞,次渭北。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:同州節度使王行實奔京師,謂景宣等曰:「沙陀十萬至矣,請奉天子出幸避其鋒。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:景宣方與茂貞睦,故全瓘與鳳翔衛將閻珪共脅帝狩岐,王行實及景宣子継晟縱火剽東市,帝登承天門,矢著樓闔。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:帝懼,暮出莎城,士民從者數十萬。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:至谷口,人暍死十三,夜為盜掠,哭聲殷山。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:徙駐石門。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:茂貞恐,乃殺全瓘、景宣及珪自解。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:天子還京師,以景務脩、宋道弼代之,俄專國。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:宰相崔胤惡之,徐彦若、王摶懼禍不解,稍抑胤以和北軍。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:胤怒,劾摶黨宦豎,不忠,罷去,俄賜死;流道弼州,務脩愛州,並死灞橋;逐彦若於南海。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:乃以季述、王仲先為左右中尉,疾胤尤甚。
- ^ 『旧唐書』巻20本紀第二十上「昭宗本紀」
- ^ 『新唐書』巻10本紀第十「昭宗本紀」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:時帝嗜酒,怒責左右不常,季述等愈自危。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:先是,王子病,季述引內醫工車讓、謝筠,久不出,季述等共白帝,宮中不可妄處人。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:帝不納,詔著籍不禁。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:由是疑帝與有謀,乃外約朱全忠為兄弟,遣從子希正與汴邸官程巖謀廢帝。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:會全忠遣天平節度副使李振上計京師,巖因曰:「主上嚴急,內外惴恐,左軍中尉欲廢昏立明,若何?」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:振曰:「百歲奴事三歲郎主,常也。亂國不義,廢君不祥,非吾敢聞。」希正大沮。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:帝夜獵苑中,醉殺侍女三人,明日午漏上,門不啓。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:季述見胤曰:「宮中殆不測。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:與仲先率王彦範、薛齊偓、李師虔、徐彦回總衛士千人毀關入,謀所立,未決。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:是夜,宮監竊取太子以入,季述等因矯皇后令曰:「車讓、謝筠勸上殺人,禳塞災咎,皆大不道。兩軍軍容知之,今立皇太子,以主社稷。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:黎明,陳兵廷中,謂宰相曰:「上所為如此,非社稷主,今當以太子見群臣。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:即召百官署奏,胤不得對。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:季述衛皇太子至紫廷院,左右軍及十道邸官兪潭、程巖等詣思玄門請對,士皆呼萬歲。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:入思政殿,遇者輒殺。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:帝方坐乞巧樓,見兵入,驚墮於床,將走,季述、仲先持帝坐,以所持釦杖畫地責帝曰:「某日某事爾不從我,罪一也。」至數十未止。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:皇后出,遍拜曰:「護宅家,勿使怖,若有罪,惟軍容議。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:季述出百官奏,曰:「陛下瞀,倦於勤,願奉太子監國,陛下自頤東宮。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:帝曰:「昨與而等飲甚樂,何至是?」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:後曰:「陛下如軍容語。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:宮監掖帝出思政殿,後倡言曰:「軍容一心輔持,請上養疾。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:帝亦曰:「朕久疾,令太子監國。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:巖等皆呼萬歲。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:後以傳國寶授季述,就帝輦,左右十餘人,入囚少陽院。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:季述液金以完鐍,師虔以兵守。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:太子即位於武德殿,帝號太上皇,皇后為太上皇后,大赦天下,東宮官屬三品賜爵一級,四品以下一階,天下為父後者爵一級,群臣加爵秩厚賜,欲媚附上下。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:改東宮為問安宮。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:季述等皆先誅戮以立威,夜鞭笞,晝出屍十輦,凡有寵於帝,悉榜殺之。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:殺帝弟睦王。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:師虔尤苛察,左右出入搜索,天子動靜輒白季述。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:帝衣晝服夜浣,食自竇進,下至筆紙銅鐵,疑作詔書兵器,皆不與。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:方寒,公主嬪御無衾纊,哀聞外廷。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:胤告難於朱全忠,使以兵除君側,全忠封胤書與季述曰:「彼翻覆,宜圖之。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:季述以責胤,胤曰:「奸人偽書,從古有之,必以為罪,請誅不及族。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:季述易之,乃與盟。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:胤謝全忠曰:「左軍與胤盟,不相害,然僕歸心於公,並送二侍兒。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:全忠得書,恚曰:「季述使我為兩面人。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:自是始離。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:季述子希度至汴,言廢立本計,又遣李奉本齎示太上皇誥,全忠狐疑不決。
- ^ 『春秋左氏伝』「僖公十七年」:齊侯之夫人三,王姫、徐嬴、蔡姫,皆無子。齊侯好內,多內寵,內嬖如夫人者六人:長衛姫生武孟,少衛姫生惠公,鄭姫生孝公,葛嬴生昭公,密姫生懿公,宋華子生公子雍。公與管仲屬孝公於宋襄公,以為大子。雍巫有寵於衛共姫,因寺人貂以薦羞於公,亦有寵。公許之,立武孟。管仲卒,五公子皆求立。冬,十月,乙亥,齊桓公卒。易牙入,與寺人貂因內寵以殺群吏,而立公子無虧。孝公奔宋。十二月,乙亥,赴。辛巳,夜殯。
- ^ 『春秋左氏伝』「僖公十八年」:十八年春,宋襄公以諸侯伐齊。三月,齊人殺無虧。
- ^ 『春秋左氏伝』「僖公十八年」:齊人將立孝公,不勝四公子之徒,遂與宋人戰。夏,五月,宋敗齊師于甗,立孝公而還。秋,八月,葬齊桓公。
- ^ 『春秋左氏伝』「襄公二十六年」:初,宋芮司徒生女子,赤而毛,棄諸堤下,共姫之妾,取以入,名之曰棄,長而美,平公入夕,共姫與之食,公見棄也而視之尤,姫納諸御,嬖,生佐,惡而婉。大子痤美而狠,合左師畏而惡之。寺人惠牆伊戾,為大子內師,而無寵。秋,楚客聘於晋,過宋,大子知之,請野享之,公使往,伊戾請從之。公曰:夫不惡女乎。對曰:小人之事君子也,惡之不敢遠,好之不敢近,敬以待命,敢有貳心乎,縱有共其外,莫共其內,臣請往也,遣之,至則欿用牲,加書徴之,而騁告公曰:大子將為亂,既與楚客盟矣。公曰:為我子,又何求。對曰:欲速,公使視之,則信有焉,問諸夫人與左師,則皆曰固聞之。公囚大子,大子曰:唯佐也能免我,召而使請,曰日中不來,吾知死矣。左師聞之,聒而與之語,過期,乃縊而死,佐為大子。公徐聞其無罪也,乃亨伊戾,左師見夫人之歩馬者問之。對曰:君夫人氏也。左師曰:誰為君夫人,余胡弗知,圉人歸以告夫人,夫人使饋之錦與馬,先之以玉,曰:君之妾棄,使某獻。左師改命曰:君夫人,而後再拜稽首受之。
- ^ “閹奴”. コトバンク. 2022年6月25日閲覧。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:李振入見曰:「豎刁、伊戾之亂,以資霸者。今閹奴幽劫天子,公不討,無以令諸侯。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:乃囚希度、奉本,遣振至京師與胤謀。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:是時季述欲盡誅百官,乃弑帝,挾太子令天下。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:都將孫德昭、董從實盜沒錢五千緡,仲先眾辱之,督其償,株連甚眾。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:胤間其不逞,曰:「能殺兩中尉,迎太上皇,而立大功,何小罪足羞!」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:又遣客密告德昭,割帶內蜜丸通意。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:德昭邀別將周承誨,期十二月晦,伏士安福門待旦。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:仲先乘肩輿造朝,德昭等劫之,斬東宮門外,叩少陽院呼曰:「逆賊斬矣。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:帝疑未信,皇后曰:「可獻賊首。」
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:德昭擲仲先頭以進,宮人毀扉,出御長樂門,群臣稱賀。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:承誨馳入左軍,執季述、彦範至樓前,胤先戒京兆尹鄭元規集萬人持大梃,帝詰季述未已,萬梃皆進,二人同死梃下,遂屍之。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:兩軍支黨死者數十人。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:中官奉太子遁入左軍,收傳國璽。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:齊偓死井中,出其屍斬之。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:全忠檻送巖京師,斬於市。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:季述等夷三族。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:以德昭檢校太保、靜海軍節度使,從實檢校司徒、容管節度使,並同中書門下平章事,賜氏李,曰継昭,曰彦弼。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:承誨亦檢校司徒、邕管節度使,視宰相秩。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:皆號「扶傾濟難忠烈功臣」,圖形凌煙閣,留宿衛凡十日乃休,竭內庫珍寶賜之。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:當時號「三使相」,人臣無比。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:初,延英宰相奏事,帝平可否,樞密使立侍,得與聞,及出,或矯上旨謂未然,數改易橈權。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:至是,詔如大中故事,對延英,兩中尉先降,樞密使候旨殿西,宰相奏事已畢,案前受事。
- ^ 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」:師虔請於屏風後録宰相所奏,帝以侵官,不許,下詔與徐彦回同誅。
参考文献
[編集]- 『新唐書』巻208列伝第百三十三宦者下「劉季述伝」
- 小畑龍雄 (1959年10月). “神策軍の成立”. 2022年6月24日閲覧。
- 田中整治 (1964年8月). “唐末五代小史(I) : 特に秦・成・階・鳳4州の争奪を中心として”. 2022年6月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月24日閲覧。
- 松本保宣 (2020年). “五代後唐期の中興殿と延英殿:五代聴政制度初探”. 2022年6月26日閲覧。