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劉昶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

劉 昶(りゅう ちょう、元嘉13年(436年)- 太和21年4月27日497年6月12日))は、南朝宋皇族。義陽王。文帝劉義隆の九男。北魏に亡命して丹陽王、ついで宋王に封じられた。は休道。

経歴

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文帝と謝容華のあいだの子として生まれた。元嘉22年(445年)2月、義陽王に封じられた。元嘉27年(450年)、輔国将軍・南彭城下邳二郡太守となった。元嘉30年(453年)、兄である皇太子の劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、劉昶は散騎常侍の位を加えられた。孝武帝が即位すると、劉昶は太常に転じ、東中郎将・会稽郡太守として出向した。まもなく監会稽東陽臨海永嘉新安五郡諸軍事を加えられた。孝建元年(454年)7月、東揚州が立てられると、劉昶は東揚州刺史に任じられ、後将軍の号を受けた。

大明元年(457年)、召還されて秘書監となり、驍騎将軍の号を受け、散騎常侍の位を加えられた。大明2年(458年)2月、中軍将軍・南彭城下邳二郡太守に転じた。10月、都督江州郢州之西陽豫州之新蔡晋熙三郡諸軍事・前将軍・江州刺史として出向した。大明3年(459年)7月、召還されて護軍将軍の号を受けた。中書令に転じた。大明5年(461年)6月、中軍将軍の号を受けた。大明7年(463年)10月、開府儀同三司の位を加えられた。散騎常侍の位を受け、太常となった。孝武帝の南巡に従い、皇太后の龍舟を転覆させる失態を犯したため、開府の位を剥奪された。まもなく再び授与された。大明8年(464年)7月、使持節・都督徐兗南兗青冀幽六州豫州之梁郡諸軍事・征北将軍・徐州刺史として出向した。

永光元年(465年)9月、妾の呉氏や一党数十人を連れて北魏に亡命した。武邑公主を妻に迎え、侍中・征南将軍・駙馬都尉となり、丹陽王に封じられた。1年あまりして武邑公主が死去すると、建興長公主を妻に迎えた。

泰始3年(467年)、宋では晋熙王に改封された。泰始6年(470年)、劉燮が後を嗣いだ。

北魏の皇興年間、弟である南朝宋の明帝が員外郎の李豊を北魏に派遣すると、献文帝は劉昶と明帝のあいだで手紙のやりとりを許した。劉昶は外都坐大官に任じられた。建興長公主が死去し、さらに平陽長公主を妻に迎えた。

北魏の太和初年、内都坐大官に転じた。太和3年(479年)、の蕭道成が帝位につき、宋の順帝を殺害すると、劉昶は孝文帝による南征に参加した。雨が降りつづき行軍を妨げられたため、撤退の意見を上奏して容れられた。儀同三司の位を加えられ、儀曹尚書を兼ねた。孝文帝の命により蔣少遊とともに朝儀の改革を担当した。中書監となり、斉郡開国公に封じられ、宋王の号を加えられた。太和17年(493年)春、孝文帝が北魏の百官を経武殿に集めて、南征について議論させると、斉の蕭氏による簒奪に話が及んで、劉昶は悲泣してやまなかった。斉の雍州刺史の曹虎が偽って北魏に降伏を申し出ると、劉昶は義陽に出兵したが、得るところなく帰還した。

太和18年(494年)7月、使持節・都督呉越楚彭城諸軍事・大将軍に任じられた。孝文帝の南征に従軍し、斉の司州に進攻して、斉軍をたびたび撃破した。再び義陽に進出したが、勝利できず撤退した。

太和21年(497年)4月、彭城で死去。享年は62。仮黄鉞・太傅揚州刺史の位を追贈された。は明といった。

家族

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妻妾

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  • 正室:郗氏 - 南朝宋で本妻。劉昶は北魏に亡命し、生別した。
  • 正室:武邑公主、建興長公主、平陽長公主
  • 側室:呉氏

子女

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  • 劉思遠(南朝宋にて夭折)
  • 劉懐遠(南朝宋にて夭折、池陽県侯に追封)
  • 劉文遠(北魏の歩兵校尉・前将軍)
  • 劉承緒(北魏の駙馬都尉)
  • 劉氏(元詳の妻)

伝記資料

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