劉知謙
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劉 知謙(りゅう ちけん、生年不詳 - 乾寧元年(894年)11月)は、唐の封州刺史。十国南漢の初代皇帝劉龑の父。字は徳光。遠祖はアラブ系という説もある[1][2]。
名前について
[編集]『旧五代史』『冊府元亀』『新五代史』『十国春秋』などは名を劉謙としており、『十国紀年』は「劉謙望、字は徳光、またの名を知謙、後に名を止めて謙とする」と記している。『南漢国史』の編者である陳欣は、これについて「彼の実名は劉知謙であり、劉謙というのは後世の史家が後漢の高祖劉知遠の名を憚ったものである」と考証している。しかし、劉謙の孫娘の清遠公主の墓誌には「祖は謙と言い、字は内光である」と記載された。930年、清遠公主は亡くなった時に、後漢はまだ建てられない。
生涯
[編集]青年時代は広州の牙将であった[3]が、嶺南東道節度使の韋宙に見出され、その姪の韋氏を娶った[4]。乾符5年(878年)に黄巣が広州に侵攻して嶺南の治安が乱れると、たびたび群盗を討伐して功績を挙げた。それにより中和3年(883年)に封州刺史・賀江鎮遏使に任じられ、梧州・桂州以西を管轄した。劉知謙は兵士と財を蓄え、数年後には精兵1万人と戦艦100余艘を得たとされる[3]。
乾寧元年(894年)11月に死去した。『南漢書』によれば、劉知謙は病床に息子たちを集め、「いま、五嶺(広東・広西)ではいたるところで盗賊が決起している。我には精鋭の兵士と武器がある。汝らは努めて功を建てよ。時機を逃してはならぬ」と言い残したという。南漢成立後に聖武皇帝の諡号[3]、代祖の廟号をもって追尊された。
宗室
[編集]父母
[編集]- 父:劉安仁 - 『新五代史』『十国春秋』などによると、汝南郡上蔡県出身で福建に移住し、南海商人として泉州で生涯を終えたという。また『旧五代史』『冊府元亀』『南漢書』などによれば潮州刺史で、後に番禺(現在の広州)に移住したという。南漢成立後に文皇帝[3]、太祖と追尊された。
妻妾
[編集]男子
[編集]出典
[編集]- ^ 藤田豊八「南漢劉氏の祖先につきて」『東洋学報 = The Toyo Gakuho 6(2)』、東洋文庫、1916年5月、247-257頁。
- ^ 陳寅恪 (1939年). “劉復愚遺文中年月及其不祀祖問題” (PDF). 歷史語言研究所集刊第八本第一分 (中央研究院歴史語言研究所). オリジナルの2022年2月23日時点におけるアーカイブ。 . "近年桑原騭藏教授《蒲壽庚事跡考》及藤田豐八教授《南漢劉氏祖先考》(見《東西交涉史之研究南海篇》),皆引朱彧《萍州可談》貳所載北宋元祐間廣州番坊劉姓人娶宗室女事,以證伊斯蘭教徒多姓劉者,其說誠是。但藤田氏以劉為伊斯蘭教徒習用名字之音譯,固不可信,而桑原氏以廣州通商回教徒之劉氏實南漢之賜姓,今若以復愚之例觀之,其說亦非是。鄙見劉與李俱漢唐兩朝之國姓,外國人之改華姓者,往往喜採用之,復愚及其它伊斯蘭教徒之多以劉為姓者,殆以此故歟? 關於復愚氏族疑非出自華夏一問題,尚可從其文章體制及論說主張諸方面推測,但以此類事證多不甚適切,故悉不置論,謹就其以劉為氏,而家世無九品之官,四海無強大之親,父子俱以儒學進仕至中書舍人禮部尚書,而不祭祀先祖,及籍貫紛歧,而俱賈胡(註:通商的胡人)僑寄之地三端,推證之如此。"
- ^ a b c d 『新五代史』巻六十五 南漢世家第五
- ^ 『旧五代史』巻一百三十五 僭偽列伝二 劉陟